2016年1月28日木曜日

香貫用水の歴史たどる

香貫用水の歴史たどる
 郷土史講座「沼津あれこれ塾」
 NPO法人海風47は二十三日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」の第9回を商工会議所会議室で開催。市明治史料館の大庭晃さんが香貫用水の歴史について話した。
 元の内膳堀は江戸初期に
 用水の建設には様々な工夫
 植田内膳 香貫用水は、狩野川の水を香貫地区一帯に流すための水路で、江戸時代初期に造られて昭和後期まで農業用水として使用された。現在は水路の一部が排水路などとして残っている。
 香貫用水の建設年代については、詳細は不明となっている。度重なる水害や戦時中の空襲などによって史料が失われたからだという。
 残された史料によると、江戸時代中期の一七七七年(安永六)の記録には、香貫用水の元となった「内膳堀」という水路の記述がある。そして、内膳堀建設の中心人物だとされる植田内膳は、一六三六年(寛永十三)に死去したとの記録があることから、これより前に水路が建設されたと推測されている。
 内膳堀が建設される以前の香貫地区では、雨水を溜めて農業用の水を確保していた。そのため、香貫山の周辺には、いくつもの溜め池が造られていたという。
 香貫用水の構造用水の取水口は、黄瀬川と狩野川の合流点付近に造られた。川の水を取水口に取り入れやすくするために、川の流れの一部を止めて水流を導く堰(せき)が川の中に石を積んで造られた。
 最初の取水口は土砂が堆積しやすかったため、一〇〇㍍程離れた下流部に移転。この頃まで取水口は一つだったが、その後、二つとなり、上香貫村と下香貫村で二本の水路を使い分けた。
 用水の建設には様々な工夫が盛り込まれた。
 土砂が取水口に入りにくくするために、堰は直線ではなく曲線状に造られた「袋堰」という構造。水路の底には、水漏れを防ぐために灰を混ぜた粘土が敷かれていた。灰を用いる方法は植田内膳によって採用されたといい、「旅の僧に教わった」「たき火跡を見てひらめいた」などの伝説が残っている。
 用水の効果とその後用水の整備により、江戸時代の香貫地区は「香貫二千石」と俗称される米の収穫量を誇り、明治以降はキュウリやナスなどの野菜の産地としても知られるようになった。
 ただ、用水の水面は田畑の地表面よりも低かったため、足踏み式の水車を使って水を汲み上げる必要があったという。
 昭和二十二年に取水用のポンプが設置され、その翌年に堰や取水口の使用は停止された。同四十年代に狩野川の堤防建設工事が始まると、堰や取水口は撤去され、現在は黒瀬橋の近くにポンプ用の取水塔を見ることができる。
 香貫地区の宅地化が進一むにつれ、用水路も次々に埋められたり、地下化されて暗渠となったりした。本郷町の霊山寺付近は堀端の景観が残されていて、植田内膳の墓も近く、香貫用水流域を代表するような地区であり、景観保全を求める声もあったが、同六十年代の工事により用水路の地下化が行われた。
【沼朝平成28年1月28日(木)号】

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