2016年1月22日金曜日

牧水に捧ぐ杯の輪

牧水に捧ぐ杯の輪
◇終焉の地、静岡・沼津で顕彰の宴文化発信の舞台に◇ 林茂樹
旅を愛し自然を愛した歌人の若山牧水(1885~1928年)は、またこよなく酒を愛した。遺品として残る盃(さかずさ)は意外なほど小さいが、これこせが本当の酒好きの証し。ちびりちびりとやり、一日の量が1升を超えるのはザラ。朝起きると2合ほどの清酒で喉を潤し、自宅近くの松林の中へ散策に出るのが日課であった。
千本松原に歌碑第1号
宮崎県旧東郷町(現日向市)の山間に生まれた牧水の終焉(しゅうえん)の地は、静岡県沼津。東京での煩瑣(はんさ)な暮らしを避け、1920年(大正9年)に1、2年の静養のつもりで転居する。駿河湾に臨み富士の山を眼前に仰ぐ風光は、牧水をたいそう喜ばせ、いつの間にか5年の月日。ついには永住の気持ちに変わり、景勝地「千本松原」に隣接する土地を購入して、編集室付きの自宅を構えるのである。
その千本松原に立つ歌碑は、全国に300余あるといわれる牧水歌碑の第1号。刻まれている歌は名高い、
幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく
この歌碑は、牧水の門弟・鈴木秋灯いわく、牧水が座る姿そっくりの石の歌碑。牧水が亡くなった翌年、秋灯ら弟子たちによって建てられた。爾来(じらい)、沼津での顕彰の動きは途切れていない。
牧水を顕彰する会「沼津牧水会」の設立は54年(昭和29年)。設立以来続く催しがふ毎年秋に行われる歌碑の前での「沼津牧水祭・碑前祭」である。碑前祭では牧水の歌の合唱や舞踊などのほか、酒を愛した牧水にふさわしく歌碑に清酒を注ぐ。ちなみに、牧水の旅の足跡は全国に及び、各地に歌碑が建ち顕彰会も存在するが、歌碑への献酒は碑前の定番である。
74年の碑前祭から加わった「芝酒盛」(さかもり)は、その名の通り、芝の上での酒盛りである。沼津牧水会が二斗樽などの清酒を用意し、沼津名物のあじ鮨や干物を無料で振る舞う。毎年500人ほど集まる参加者は、碑前の芝に敷かれたゴザの上で車座に。沼津の文化や将来のこと、はたまた政治の悪口をつまみに酒を飲む。出し物としては詩吟あり合唱あり太鼓あり。無礼講の酒盛りを牧水に献ずるのである。
菩提寺の縁で活動40年
同じく毎年開催するのが「短歌大会」。第一線の歌人による講演と一般に広く募集した短歌の選が行われる。終わったら酒席となるが、歌人との酒はとにかく楽しい。佐佐木幸綱さんや伊藤一彦さんは酒豪。馬場あき子さんも本当に楽しくお酒を飲まれる方で、「林さんと飲むと楽しい」なんてお世辞も飛び出す。天上の牧水はさぞ喜んでいることだろう。
とはいえ、私自身は歌人ではないし、牧水の歌について語る術は持たない。それでも牧水を敬愛し、40年にわたって顕彰活動を続けるのは、私が牧水の菩提寺、乗運寺の住職であることに関わりがある。
牧水が沼津の地で何よりほれ込んだのが、曲がりくねらず「矗々(ちくちく)と」そびえる千本松原の景観であった。皇室の御料林だった松原は26年(大正15年)、静岡県の所有となったとたん、財政難から一部を伐採する計画が持ち上がる。そこで敢然と立ち上がったのが、牧水。当時の新聞「時事新報」及び「沼津日日新聞」に伐採反対の檄文を投稿し、演説会で弁舌を振るう。この時、反対運動を共に展開したのが私の祖父、当時の乗運寺住職・林彦明である。
自然保護のさきがけとも言えるこの運動は盛り上がり、計画は中止に。古く潮風から人や農作物穿守った松原は沼津の宝。宝を守ってくれた恩人の顕彰は、住職である私の務めだと考えている。
酒盛りから記念館構想
87年、千本松原の地に開館した沼津市若山牧水記念館は、遺墨や遺品など数千点を収蔵。牧水にゆかりのある短歌や俳句、書道の講座のほか、音楽コンサートを開くなど文化の拠点となっている。この記念館の設立も、実は芝酒盛がきっかけ。車座での、遺墨などを収める施設があればいいねという話から始まり、市への建設誓願運動へと展開。仲間たちと寄付金集めに走り、沼津ゆかりの作家、芹沢光治良や井上靖に競売用の色紙を書いてもらう、ということもした。支援の手は、数限りなかった。
牧水は人間が大好きだった。そして人間のよい面を見いだそうとした。牧水にほれ込み顕彰に関わる人たちを見て、そう思うようになった。いなくなっても人を結び、楽しい酒を促す。そんな歌人はめったにいないだろう。(はやし・しげき= 沼津牧水会理事長)
【日経平成28年1月14日(水)「文化」】

0 件のコメント:

コメントを投稿