2015年8月7日金曜日

木簡にみる古代地名

木簡にみる古代地名
沼津あれこれ塾で変遷たどる
 NPO法人海風47による郷土史連続講座「沼津あれこれ塾」の第3回講座が、このほど商工会議所会議室で開かれた。元市教委学芸員で日本考古学協会会員の瀬川裕市郎さんが「堅魚(カツオ)木簡からの情報カツオ製品づくりと沼津周辺の古代地名」と題して話した。
 内浦のカツオ、税で都へ
 納税者の住所など解読
 奈良時代、全国各地から特産品が税として平城京の都に運ばれていた。これらの品々には荷札として木簡(木札に字を書いたもの)が添えられていた。こうした木簡が平城京の跡地などから多く見つかっていて、それらには現在の沼津市南部一帯から運ばれたカツオの加工品に関するものも含まれている。
 かつて内浦周辺では、入り江の入口を網で封鎖してマグロやカツオなどを捕える「建ち切り網漁」が行われていた。捕えたカツオは、煮たり、火であぶったりして加工し、「荒堅魚」や「煎」という品目で都へと運ばれた。「煎」とは、カツオを煮た汁から作られる煮こごりのようなものだと考えられている。
 都への税の木簡には納税者の氏名や住所が記されていて、カツオ木簡には駿河国駿河郡宇良郷の「榎浦里」「菅浦里」、伊豆国田方郡棄妾郷の「瀬埼里」「御津里」「許保里」などの地名があったことが確認されている。
 瀬川さんは、これらの地名を現在のものと照合させた結果について、「榎浦」は江浦、「菅浦」は志下、「瀬埼」は大瀬、「御津」は三津、「許保(こほ)」は古宇(こう)に相当する、と説明。また、「田方郡棄妾「(きしょう)郷」については、現在の西浦地区には木負(きしょう)という地名があり、棄妾郷が木負の由来になっているとの説に言及する一方、当時の棄妾郷は現在の内浦地区と西浦地区を含む広い地域一帯の名称であることから、西浦の一部地域の地名である現在の木負と棄妾は一致しないとする説もあることを話した。
 そして、後者の説の場合、木負という地名は古代の行政単位である「保(ほ)」と関係していると話し、同じ西浦地区の古宇が、かつては「許保」であったことから、木負もかつては「○○保」という地名だったのではないかとする説を紹介し、同じ西浦の久料(くりょう)も同様であった可能性についても触れた。
 これらを踏まえた上で、かつて西浦の地には「きし保」や「くり保」と発音される地名があり、これらがなまって「きしょう」や「くりょう」となったのではないか、という仮説があることを述べた。
 木簡に残された記述から地名の変遷についての解説を終えた瀬川さんは、講座の最後に「地名は変わってしまうことが多い。現代でも区画整理などによって新たな地名が誕生しているが、地名が変わってしまうと、かつての地名は失われ、そこに込められていた意味も忘れられてしまう。これは古墳も同じことで、古墳は一度その場所から失われると、その存在までもが忘れ去られてしまう恐れがある」と指摘した。
 次回の講座は二十九日午後二時から同会場で。市教委学芸員が「沼津城と三枚橋城」をテーマに話す。
 参加費は資料代として五百円。
 申し込みは、田村寿男さん(電話〇九〇ー三三八九ー〇五六七)、または瀬川さん(電話〇九〇ー四七九三ー○七九七)。
【沼朝平成27年8月7日号】

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