2014年1月15日水曜日

岐路に立った旧幕臣

岐路に立った旧幕臣
 それぞれの明治
 江戸幕府の終焉とともに、いわば「失業」した幕臣たちは苦境にたたされる。そんな彼らが生き残りのために見つけ出した活路とは…。
国立歴史民俗博物館教授樋口雄彦(ひぐちたけひこ)

 幕府瓦解後の四つの選択肢
 慶応四年(一八六八)四月、江戸城が新政府軍に引き渡され、五月には徳川(とくがわ)家に駿河府中(するがふらゆう)(翌年静岡と改称)七十万石が与えられることが通達された。それにともない旧幕臣たちは、いわゆる三つの選択肢のなかから自らの身の振り方を決めることが迫られる。すなわち主家とともに駿河へ移住するか、朝臣(ちようしん)として新政府に所属するか、武士身分を捨て帰農・帰商するかという三つである。
 駿河への移住、つまり静岡藩士になったのは、明治四年(一八七一)八月時点で一万三千七百六十四名である(『静岡県史資料編16近現代一』)。もちろん、当主のみの人数である。一方、朝臣になったのは約五千名、帰農・帰商したのは約四千五百名(うち三千名以上がのちに静岡藩に帰籍)という数字があるが(原口清『明治前期地方政治史研究上』、一九七二年、塙書房)、時期によって変動も生じており、必ずしも正確ではないかもしれない。
 実際には前記の三つの選択肢以外にも別の行動があった。一般によく知られているのが、本誌の特集テーマにもなっている戊辰戦争(ぼしんせんそう)への参加、つまり関東・奥羽・北越・蝦夷地へ脱走して新政府軍との抗戦を続けるというものである。
 親子・兄弟、あるいは一族間で別々の道を選んだ例もある。父が新政府に仕え、息子は静岡藩で職を得た例、兄が沼津兵学校で教鞭をとり、弟が
箱館五稜郭(はこだてごりうかく)に立て籠(こ)もった例など、さまざまな組み合わせがある。成島柳北(なるしま・りゆうほく)の場合、白身は隠居して、いわば帰農・帰商した形をとり、家を継いだ養子は駿河に移住し静岡藩に籍を置いた。個人の意志を優先した選択もあったであろうし、どう転んでもよいようにと考えた、家の生き残り戦略だった例もあるだろう。

 それ以外にもあった進路
 人数的には少ないが、以上述べた四つの進路とはまったく違う道を選んだ者たちもいた。まずは、一橋(ひとつばし)藩・田安(たやす)藩へ「貰切(もらいきり)」になった旧幕臣である。徳川将軍家の分家である御三卿(ごさんきよう)のうち、田徳川家と一橋徳川家は、維新後、新政府から藩としての独立を認められ、それぞれ十万石の田安藩・一橋藩となった。その際、宗家(旧将軍家)の家臣の一定数を自藩の藩士として引き取ったのである。
 田安徳川家では、五十名を宗家から引き取ったといい、蕃書調所蘭(ばんしょしらべしょらん)学句読教授(がくくとうきょうじゆ)をつとめた久間鉞四郎もそのひとりであり、五人扶持(ぶち)を給され、英語を教えたとのこと(「久間孝子覚え書き」『科学史研究』第一〇三号、一九七二年)。幕府陸軍の砲兵頭をつとめた山川熊蔵(やまだくまぞう)(純敏(すみとし)・三内(さんない))は、当初静岡移住予定者に加えられていたが、田安徳川家にスカウトされ、田安藩兵の大隊長となっている。田安、・一橋両家では、庶民から徴募(ちょうぼ)された旧幕府陸軍の兵卒も引き取ったようで、田安藩では練士隊(れんしたい)、一橋藩では匡衛隊(きょうえいたい)という部隊を編成した(矢島隆教「田安の市中取締」『日本及日本人』第七一四号、一九一七年)。
一橋徳川家には、吉川賢輔(よしだけんすけ)・小永井八郎(こながいはちろう)(小舟(しょうしゅう))・島霞谷(しまかこく)・林欽次(はやしきんじ) (正十郎(せいじゆうろう))・小林惟徳(鼎輔)・上田東作ら、名前の知られた洋学者たちを含め、明治三年時点で百四十九人ほどの元宗家家臣が貰切となっていた(茨城県立歴史館蔵・一橋徳川家文書)。蕃書調所や外国方(がいこくかた)につとめた英学者吉田賢輔の場合、明治元年十月二十日一橋徳川家に貰切となり、百五十俵を給され、一橋藩の儒者・洋学教授職・文学講官・文学督学試補などを歴任、同二年十二月二十七日地方官貫属(ちほうかんかんぞく)(版籍奉還(はんせきほうかん)で一橋藩が解消したため)、三年・三月二十九日東京府貫属といった経歴をたどっている(『吉田竹里吉田太古遺文集』)。
先祖代々の幕臣ではなく、幕末ににかに幕府に召し抱えられた者の場合、出身藩へ帰るという道があった。諸藩の出身者で、蕃書調所・開成所(かいせいじよ)の教官などに任命され、幕末の段階で幕府の機関で仕事をしていた人々は少なくなかった。出向の身分のまま、正規の幕臣に取り立てられていなかった場合、彼らが本来の出身藩に帰属するのは当然である。
 しかし、すでに直参(じきさん)の身分を与えられていた者は、維新後の去就に悩まされることとなった。津和野(つわの)藩出身の西周(にしあまね)、津山(つやま)藩出身の津田真道(つだまみち)長州藩出身の東条礼蔵らは静岡藩士となる道を選んだのに対し、同じ
直参であっても川本幸民(かわもとこうみん)・清次郎父子、入江文郎(いりえふみえ)、原田一道(はらだいちどう)らは、静岡藩にも新政府にも所属することなく、それぞれ出身の三田(さんだ)藩・松江(まつえ)藩・鴨方(かもがた)藩へと帰藩・復籍している。
 本家である大名家に吸収された旗本もあった。佐倉(さくら)藩士依田学海(よだがっかい)は、「知事公族人堀田孫輔、もと幕府にて二百俵を賜はりしか、一昨歳のことによりて藩に至りて士族に列す。家、貧困して母・妻を他家に出すに至る。不得巳して月給の金を賜はることに決しぬ」(『学海日録』第二巻、明治三年二月二十九日条)と記しているが、これは貧窮のため.元旗本堀田孫輔が本家である佐倉藩主堀田家を頼り、その家臣の列に加えてもらったという事実があったことを示している。帰農・帰商もせず、朝臣にも静岡藩士にもならないという、このような転身のし方もあったのである。大名が分知して生まれた旗本で、もともと知行所(ちぎょうしょ)に対する本藩の支配権が強かった場合などは、維新後に新政府がその家を本藩の所属とみなし、所領についても本藩に管轄させた例があったが(中村文『信濃国の明治維新』、二〇一年、名著刊行会)、堀田孫輔はそれとも違う。

 朝臣化の諸相
 静岡藩での事蹟や箱館戦争に参加した旧幕臣のことは比較的よく知られているがここでは朝臣への道を選んだ人々について少し詳しく述べてみたい。
 新政府に所属した旧幕臣、すなわち朝臣は、中大夫(ちゅうたいふ)・下大夫(げだゆう)・上士(じょうし).鎮将府(ちんしょうふ)(のちに行政官・弁官)支配.鎮将府(のちに行政官・弁官)附といった、旧家格にもとつく新たな身分に再編された。
 朝臣になったのは、概して高禄の旗本に多かったとされる。地位や財産もある彼らは、時勢に逆らうことで失うものがあまりに多いと考えたからであろう。徳川家に対する忠誠心という意味では、高禄も微禄も関係ないように思えるが、やはり高禄者には独立指向が強かった。禄高の多寡(たか)とは別に、領地が西国にあったのか東国にあったのかの違いや、三河(みかわ)以来の譜代の家柄か、外様(とざま)系の旗本かといった違いも関係していよう。早い時期に新政府軍に押さえられた西国に所領があった旗本や外様大名の分家だった旗本などは、徳川家から離反するのに言い訳も立ち、さして抵抗もなかったはずである。
たとえば、戦国期の在地領主の系
譜を引き、美濃(みの)国でそれぞれ六百石ほどを領した同族の旗本坪内高國・昌寿は、もともと江戸ではなく知行所に居住していたこともあり、朝臣となって本領を安堵された後、いっしょに京都に移住している(『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒』一~五、一九九三~九七年、各務原市歴史民俗資料館)。
 アーネスト・サトウによれば、明治元年夏に会った川勝広道(かわかつひろみち)(近江守(おおみのかみ))は、駿府の町の混乱ぶりを嫌い朝臣になりたがっていたという。サトウはその理由を、「彼の家は元から徳川家に仕えていたものではなく、徳川氏以前からの旧い家柄であった」からだと推測しているが(『一外交官の見た明治維新(下)』、一九六〇年、岩波文庫)、確かに丹波(たんば)国で七百石を領した旗本川勝家は、もともと古代の渡来人(とらいじん)秦河勝(はたのかわかつ)の子孫と称した土豪で、足利将軍や信長・秀吉に仕え、その後に徳川家に臣従した由緒を持っていた。
川勝広道は、外国奉行・外国事務副総裁(がいこくじむふくそうさい)・開成所惣奉行(かいせいじょそうぶぎょう)などを歴任し幕府のために尽力した人だったが、幕府倒壊後は「先祖返り」したかのように、その心は急速に徳川家から離れていったのかもしれない。彼は希望通り、静岡藩に所属することなく新政府に仕え、旧幕府の横浜語学所を明治陸軍の兵学寮幼年学舎(へいがくりようようねんがくしや)へとつなげる役割を担った。
 遠江(とおとうみ)国で千五百五十石を領した高家大沢基寿(むおさわもととし)は、いち早く新政府に帰順(さじゆん)し、あろうことか一万石以上の所領があると虚偽の申告をして、大名としての独立を認められ堀江藩を名乗った。しかし、のちにその嘘が発覚し、華族(かぞく)の身分を剥奪され、厳しい処罰を受けることとなった。現状維持ばかりか、悲願の家格上昇を目指した旗本が、維新の混乱に乗じて極端なまでの行動に走った姿といえる。逆に静岡藩には、安房(あわ)国船形(ふながた)一万石の藩主だった平岡道弘のように、大名の地位を捨ててまで徳川家の一家臣として駿河に移住した者もいた。同じ高禄者であっても維新に際しての対応は人それぞれであったともいえる。
 一方、京都・大坂・箱館・長崎の奉行所など、地方の行政機構の多くは、組織ぐるみで新政府に移管されることとなり、そこに勤務していた与力・同心(よりきどうしん)といった幕吏はそのまま職務を継続し、横すべりで新政府の下級役人や兵士となった。しかし、彼らの役割は暫定的なものであり、やがて明治政府の官僚機構が整備されるなかで淘汰されていく。
新政府に逆らい軽挙妄動する者たちを「頑民(がんみん)」と呼び、「一万六千人之内」の自分がたったひとりの朝臣となっても彼らと戦う覚悟であるなどと木戸孝允(きどたかよし)あてに書き送った斎藤新太郎(さいとうしんたろう)のように(『木戸孝允関係文書4』所収、慶応四年七月二十七日付書簡)、受動的な姿勢ではなく、あるいは利害や保身のためだけではなく、自らの強い意志で朝臣になることを望んだ、積極的な勤王派旧幕臣は少数派だったように思える。

 静岡藩への出戻り
 基木的には三つ、もしくは四つの進路を選んだ旧幕臣たちであったが、時間の推移とともにその進路は変更された。一度分かれた流れが、先に行って合流するかのように、帰農・帰商した者や脱走・抗戦した者が結局は静岡藩に帰参する場合が少なくなかったのである。農業や商業に失敗し、困った挙げ句、静岡藩に泣きついて帰参を許してもらうというパターンである。奥羽や箱館で敗北、新政府に降伏した者たちも、赦免(しやめん)後は静岡藩に引き渡された。箱館戦争降伏人には、その後、静岡・沼津の藩校で教鞭をとったり、他藩への御貸人(かしびと)となるなど、静岡藩で有能さを発揮した者もあった。
 明治三年に静岡藩の静岡病院医師坪井信良(つぼいしんりぬう)がつくった「示帰参朝臣連」という題の漢詩がある(宮地正人『幕末維新風雲通信』、一九七八年、東京大学出版会)。本領安堵(ほんりょうあんど)
説を妄信し朝臣になって東京に留まったものの、新政府の方針変換によって禄を失い、家財を売り尽くし食うことにも困り果て、藩士への扶持米を増加したと聞いて、家族を引き連れ静岡藩への帰参を希望しているという元旗本たちの存在を皮肉った内容である。一度は徳川家を見限って白ら去ったものの、今度は旧主家にすり寄ってくるその白分勝手な態度を辛辣(しんらつ)に批判したものだった。同じ帰参者であっても、箱館戦争からの復員兵たちは好意をもって藩内に迎えられた一方、帰農・帰商や朝臣からの帰参者は白眼視されたに違いない。

 周縁の人びとのその後
 幕臣といっても大身の旗本から微禄の御家人までピンからキリまである。下級の旗本や御家人は核家族といってもよかったであろうが、大きな知行地を持つ領主としての旗本の場合、当主とその家族のみならず、家臣・奉公人を多数抱えており、小さな藩と同じだった。知行所の維持・経営が不要となった静岡藩士は、移住前に家臣を解雇し、身軽になった。
 五千石を領した蜷川親賢は、数十人いた家臣たちに暇を出し、家族のほか、家来二名と下男・下女数名、合わせて二十数名で移住した。駿河国では大変な住宅難が引き起こされていたが、蜷川家は庵原(いはら)郡の農家で住居を借りることができた。それは江戸の家財を整理し多額の現金を有していたから可能だったことらしい。明治五年時点の戸籍には、家族六名、家臣とその家族八名(二家分)が記されていたというので(坂井誠一『遍歴の武家』、一九六三年、吉川弘文館)、廃藩にいたるまで家臣を雇っていた。
 いち早く新政府に帰順した元旗本には、家臣たちからなる兵隊を「官軍」に参加させ関東・奥羽に出兵したり、江戸市中の警備を担当させたりした者もあった。朝臣となった彼らは、本領を安堵されたこともあり、しばらくは家臣を雇用し続けることができたのであるが、明治二年十二月の禄制改革によって家禄(かろく)が蔵米(くらまい)で支給されるようになると、所領とともに家臣たちをも手離していった。静岡に移住した者と朝臣になった者の「喪失」の時問差は、わずか一年ほどにすぎなかった。
 旗本の家臣、すなわち陪臣(ばいしん)たちのその後も、すぐに解雇された者ばかりではなく、主家とともに静岡へ移住したり、主人とともに官軍・賊軍として戦ったりと、さまざまであった。江戸に進駐した新政府軍の指揮下に入り、市中取締隊長の任にあたったほか、下野での戦闘や上野戦争にも参加した経歴を持つ、旗本大久保与七郎の家来、匝瑳胤常(そうさたねつね)(郷輔・六郎)という人物は、その後、東京府の府兵局掛、権典事(ごんみてんじ)などをつとめ(『市中取締沿革』、一九五四年、東京都)、官吏として生き、士族の身分も得たらしいが、報いられるところが少ないことに不満を抱いていたのだろう、明治三十一年、陳情書を政府に提出、戊辰時の功績を根拠に持ち出して叙位を求めている(国立公文書館蔵)。
 旗本小出家の家臣である大島貞薫(おおしまよさだか)・貞恭父子が洋学者としての能力を買われ陸軍兵学寮(りくぐんへいがくりよう)で地位を得たように、新政府のなかで活躍した者は極めて少なかった印象である。主家の零落とともに職を失ったその他多くの旗本家臣たちは、その後どのようになったのだろうか。
 徳川幕府という巨大な組織に身を置いたのは、正規の旗本・御家人だけではない。士分とはされない、代官手代(だいかんてだい)のような本来庶民身分の者もいたし、幕末に加わった陸軍の兵卒や海軍の水夫たちも膨大に存在した。能役者・絵師・碁将棋士など幕府から禄をもらっていた御用達町人(ごようたしちょうにん)も一時は朝臣に組み入れられたが(静岡に移住した者もあり)、のちに平民籍とされた。
 その後を生きた旧幕臣たちの背後には、周縁にいた者たちの後の人生も多様な形で広がっていたのである。
《歴史読本2013年3月号「幕末戊辰戦争全史:特集論考:岐路に立った旧幕臣・樋口雄彦」》

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