2014年1月3日金曜日

昭和黄金時代の沼津商店街:沼津駅前商店街(現在主に大手町商店街)沼朝元旦特別記事より

 昭和黄金時代の沼津商店街
 第四回「沼津駅前商店街」 仙石 規
 一、「チンチン電車」が走っていた街

 「チン、チーン」と警鐘を可愛らしく鳴らしながら、沼津駅と三島広小路間を行き来していた路面電車に乗った記憶のある人たちも、今や少なくなってしまったようです。
 明治三十九年に開通した静岡県初の民営電気鉄道「駿豆電気鉄道(後に伊豆箱根鉄道が吸収)」は、「チンチン電車」の愛称で親しまれ、井上靖も大正十一年から数年、三島の下宿先から旧制沼津中学(現沼津東高)への通学に使っていたのです。
 父と乗った記憶は昭和三十六年春の頃、まだ僕が四歳の時だったので、レールの軋る音や車掌さんが切符に挟みを入れたことなどが、霧の彼方の景色のようにポーッと思い出されるだけです。この年六月の豪雨で、電車の通る黄瀬川橋が流され、その後は自動車交通量増加などの理由で同三十八年に全線廃線となり、チンチン電車が沼津駅を発車することは二度となくなってしまったのです。
 電車乗り場は、現在の「南口再開発ビル」東前にあるバス停付近にありました。沼津駅前から発車した電車は駅前通りを南下、大手町交差点を左折し、旧国道一号線に入り三島に向かっていました。
 沼津停車場は、明治二十二年に開設されました。昭和九年に「丹那トンネル」が開通するまで、東海道本線は現在の御殿場線を経由していたので、大きな機関区が構内にあり、特急列車もすべて停車し、機関車の取り換えなども行われていた大ステーションだったのです。
 戦前まで、沼津駅には一般の玄関の外、西側に皇室専用の玄関もあり、お召し列車で到着した皇族方は、馬車・自動車などで「御成橋」を渡って「沼津御用邸」にと向かわれたのです。
 さあ、六年前に南口再開発ビルが出来て消え去ってしまった区域の紹介から、思い出散歩を始めましょう。
 チンチン電車停留所西には「日興証券」の大きなネオンサインを屋上に輝かせていた背の高い「タカラビル」、その南には、グリル・スズタケ(ちょっとお洒落な駅前食堂で、地下「長崎飯店」のチャンポンも名物でした)が入っていたビルが建っていました。
 西に向かうと、その名も上品な喫茶店「プリンス」「クローバー洋服店」、「つたや洋品店」「イソヤ果実店」「大川自転車」「CBカレースタンド」と小さな店が並んでいました。CBカレーは、いつもお腹が空いていた高校時代、よく立ち寄った店でした。
 この一画に近づくとカレーの匂いに釣られて店の中に吸い込まれてしまうのでした。店は再開発ビルが出来た後、南側に移っていましたが、一昨年、移転してしまいました。この店の東隣には「タイピスト・スクール」への階段がありました。パソコンの台頭でタイプライターも無くなってしまった現代です。美しい指でキーを打っていた花形BGさん(OLのことです)は、昔の映画の中でしか、お目にかかれなくなってしまいました。
 二、ネオンサインが夜の街を照らし、「丸井」と心躍らせる喫茶店があった頃
 沼津駅前通り入口西角は、「明治チョコレート」のネオンが屋上に輝いていた「小島ビル」から始まります。「小島屋タバコ店」は「駿河銀行駅前支店」と共に健在ですが、二階にあった「喫茶力ーネギー」は昨年、閉店してしまいました。ビルの南隣は「パチンコ丸星」、お茶の「小松園」(最近は靴屋さんが入っていましたが現在は空き店舗)、ラーメンや丼物などが人気だった「丸新食堂」(現在はSMBC日興証券)と続いていました。そして今も釜飯で盛業の「蒲焼とり宇」、沼津土産定番「小田原屋干物店」が並びます。
 干物屋さんの店先で、子どもの頃、見るのが楽しみだったのは、蝿よけの扇風機が五色の紙リボンをなびかせていた光景です。続く角地には、「千円饅頭」で有名だった「松屋菓子店」がありました(現在は「Rui洋服店」)。
 南の小路を渡ったところには、「丸井沼津店」が、昭和四十一年から平成十六年まで営業していました。「月賦屋が出来た」と、沼津の人々は開店当時に囁きました。月賦販売のデパートは珍しく、低い視線で見られていた時代でした。
 「丸井」は、その後、お洒落なデパートに変身し、沼津店もまずまず賑わって来たのですが、狭い建物の老朽化もあり、撤退してしまいました。建物南には、地下に通じる階段があり、「アート・コーヒー」「うしほや酒場」などが営業していました。
 明治生まれの祖父はコーヒーが大好きで、アート・コーヒーで豆を買い求め自宅で挽いておりました。豆を買いに行く時には、お伴に僕を連れて行き、ホット・ドックをご馳走して貰ったことも懐かしい思い出です。
 丸井の南隣はワシントン靴店支店で、鞄専門店だった時期もありました(現リーガル・シューズ)。続く「鮪小屋」の場所は、「太陽堂カメラ店」で、上土の「大阪屋カメラ店」と共に沼津を代表する写真屋さんでした。経営者は、松崎町生まれで写真師として活躍した鈴木忠視のお孫さんだったのですよ。
 次は「アメリカ屋靴店」でしたが、現在は制服店「しらゆり」です。その南隣「名取ビル」地下の階段を下りると、青春時代最愛の喫茶店「シネマ・ハウス」がありました。映画マニアの高校生時代、この店が出来た時には、嬉しくて踊り出したい気持ちでした。メニューの品名はすべてが「ある愛の詩」「ライム・ライト」といったように、洋画のタイトルだったのです。奥にあったジューク・ボックスの中は、映画音楽レコードだけといった凝りようでした。「今宵シネマ・ハウスで」という題名で、初めての短編小説を四十年前に書いたことも甘酸っぱく想い出されます。
 「沼津駅前・大手町、靴ならやっぱりワシントン♪」このコマーシャルソングを流しながら沼津市内を回っていた宣伝力ーも、懐かしい想い出になりました。
 このブロック角の「ワシントン靴店」は、市内屈指の靴専門店です。「シカゴ」「アメリカ屋」に「ワシントン」、なぜ靴店は米国所縁の名前が多いのでしょうね?建物上には「ナショナルラジオ」のネオンサインが、遅くまで賑わいが絶えなかった沼津の夜を明るく照らしていました。
 三、『クマさん応援団長」がいたオモチャ屋さん、名カメラマンが店主だった肉屋さん
 三つ目のブロック角は「丸天ビル」です。ビルのオーナーが、「丸天」という名の蕎麦屋さんを昭和四十年代の初め頃まで開いていました。このビルの西地下には青春のシンボルとも言えるスパゲッティ屋「ボルカノ」が一昨年まで入っていました。
 蕎麦屋さんが店をやめた後、ビルの地下から二階までは、戦前に沼津の絵葉書を多く発行していた老舗書店「蘭契社」が昭和五十年代まで入っていて、本の虫だった僕も「マルサン」と並んで通い詰めた日々でした。ビル四階にあった和紙の人形作り教室には、明治生まれだった祖母も通っていました。
 続く店は「エビスヤ玩具店」。店先には「トントントン、ピッピッピー」と、笛と太鼓を鳴らすクマさん応援団長の人形が子ども達の眼を釘づけにし、暑い沼津の夏が訪れると、水鉄砲や鮮やかな色のビニール・プールが並んだものでした。今は、お洒落なギャラリーとカフェにその名を残します。
 続いて松浦酒店、おくむら果実店、都寿司が並んでいた一画は「三井住友信託銀行」になっています。南隣の「川村酒蔵」は健在で、続く「富士食堂」は、現在は「イコシ」です。「富士食堂」が奥地に移動して「天心画廊」が開いていた時代もありました。沼津にも、まだ文化の香りが漂っていたのでした。画廊の場所に昨年、呉服屋「かのう」が開店しました。その南には「中野精肉店」がありました。店主の中野勇夫さんは、沼津屈指のアマチュア・カメラマンで、僕が愛する「御成橋」戦前の勇姿など、貴重な記録を残されました。花街でもあった「本町」に雨が煙る光景を写した一枚は、しっとりとした、良き時代の沼津を偲ばせる名作品です。
 一時期は二階で、ステーキ・ハンバーグが評判だった食堂も営業し、繁盛していました。ウインナー・ソーセージを買いに、子どもの頃、お使いでよく訪れたものです。「ウインナー二百㌘お願いします」と注文すると、秤に載せた後、繋ぎの紐を鋏で切って紙に包み、渡してくれたことも思い出されます。
 「ナカノ・ビル」は、その後「コマキ・ビル」になり、一階には「近畿日本ツーリスト」が入っていました。一昨年からその場所に、スパゲッティ屋「ボルカノ」が「丸天ビル」地下より移転して来ました。地下のレトロな旧店舗から、モダンで明るい店に変身しましたが、相変わらずの人気を誇っております。
 南隣には「大平屋玩具店」があり、「エビスヤ」と共に店頭に座り込む子どもの姿が絶えませんでした。現在は一階に、イタリア料理「イル・パリオ」(ホテルアリアから移転)が入る「ワールドビューティ・ビル」が建っています(「イル・パリオ」の前は、軽食屋さん、その前には「ジャーマン・ドッグ・ハウス」が入っていました)。南に「スミ洋装店」「加藤靴店一(昨年閉店)と老舗が続き、角地は「石井カバン店」でしたが、現在は駐車場になっています。
 四、試験管とビーカーが並んでいた「理化学店」、消えたデパート「長崎屋」
 駅前通り西側最終ブロックの北角には、「真田理化学店」がありました。亡き父は、根っからの理数系の頭脳を持っていて、この店で化学薬品、試験管、ビーカーなどを求めては、化学実験を行っていました。幼い僕にも興味を持つようにと、目の前で白煙が立つ実験をして見せたのですが、文系にしか興味を持っていなかった僕を変えることはできませんでした。この「真田ビル」一階には昨年、新しく婦人服店「ラ・クルール」が入りました。
 南隣には「甲州屋履物店」が佇んでいましたが、現在は「AQUAビル」になっています。続く和菓子屋「村上屋」さんは手堅く商売を続けていて、あんみつなどが人気です。
 次の場所は「磯辺靴店」「カギヤマ洋服店」でした。その後、この区画にビルが建ち、数年前までアニメ専門店が入っていましたが、空きビルとなってしまいました。その南には「森田歯科医院」が開業していましたが、今は「森田ビル」となり、「メガネスーパー」が一階で営業しています。
 旧国道一号線前の角地は、昭和三十年代前半には、映画の看板がずらりと並び、競輪の場外売り場が存在していた頃もありました。その後、「東海銀行沼津支店」が建ちましたが、銀行の統廃合で、今は駐車場になっています。
 さあ、駅前商店街東側区域に移りましょう。南角地には「エッソ」のガソリンスタンドが営業していました。
 大好きだったミュージカル映画「シェルブールの雨傘」の、雪が降りしきるガソリンスタンドで元恋人同士が再会するラストシーンの背景に「エッソ」の看板が大きく登場するので、おませな映画少年だった僕は、このスタンドに来るたびにロマンティックな空想に酔いしれていました。
 北隣は「高村洋服店」(その後、角地に移動)、そして「松浦酒店」でした。続く区画に昭和四十年代初期に開業したデパート「長崎屋沼津店」も、今や懐かしい存在です。小規模なデパートでしたが、食堂のランチが安かったので、よく通いました。館内に入っていた「東京堂菓子店」と傘や帽子を扱っていた「フジカワ傘店」は、前からこの場所で営んでいた商店でした。
 この一画には、平成十八年に大きなマンションが建ち、風景は一変してしまいました。マンション一階には、「松浦酒店」とブライダル衣裳店が入り、角にはマンション完成後に大手コンビニエンス・ストアがしばらくの間入っておりましたが、この数年は空き店舗になったままで、寂しい状態が続いています。大きなマンションやビジネス・ビルが商店街に建ってしまうと、「店の顔」が消えてしまうことが残念です。
 五、空襲をくぐり抜けた「郵便局本局」、「シースルーシヨップ・横濱屋」とは?
 さあ、沼津駅に向かって北へと戻りましょう。次のブロック南には「ニチイ学館」が一階に入った大きな「ニッセイ・スタービル」が建っていますが、昭和四十年代初めまでは、ここに「沼津郵便局本局」があったことを覚えている方々も多いでしょう。
 大正時代まで、本局は旧国道一号線東南角にあったのですが、大正十五年十二月十日に発生した「第二次沼津大火」で焼失してしまったのです。昭和四年に位置を変えて鉄筋コンクリート造りで竣工した本局は、昭和二十年七月の「沼津大空襲」にも耐えた数少ない沼津中枢部の建物の一つでした(周辺では旧沼津商工会議と旧警察署が焼け残りました)。
 郵便局は二階建てで、大きなファサードを持ち、天井が高く、エキゾティックな雰囲気が漂うモダンな建物でした。まるでアメリカ映画に登場する建物に来たような、わくわくした感じを味わえました。「沼津郵便局本局」は、その後、昭和四十四年に市場町に移転し、平成二年に寿町に再移転しました。
 その北隣「清水銀行沼津支店」の一角は、かつて「駿東郡役所」が建っていた由緒ある場所です。大正十二年七月一日に沼津町と楊原村が合併して市制となった後も、郡役所の建物は、「第二次沼津大火」で焼失するまで存在していました。大正時代の絵葉書などに、柵に囲まれた中庭があるお洒落な洋風建築であった郡役所の写真が残されています。
 このブロック北角には現在、「みずほ証券」が入っているビルが建っていますが、昭和時代は「横濱屋」という大きな家貝屋さんでした。
 「横濱屋」には、懐かしくも恥ずかしい思い出があります。僕が中学一年生だった昭和四十四年夏、「シースルー・ルック」という、肌が透けて見えるセクシーなファツションが話題になった時期がありました。日本では「スケスケ・ルック」などと呼ばれていましたが、沼津では、そんな大胆な服を着る女性はいませんでした。
 そんな時、当時の沼津タウン誌「狩野川」の広告に「話題のシースルーショップ横濱屋」の文字を見付けた自分は、早熟な心を躍らせました。「シースルー・ルックを着た店員さんが店内で客を待っているのだ」と思い込み、私服(制服だと補導されるかもしれないと思ったので)で、こっそりと店に向かいました。ドキドキしながら店内を見回ましたが、店員さんは普通の服を着ているだけでした。
 店の入り口やショー・ウィンドウをガラス張りにして、外から見えやすく改装しただけだったことが、「シースルーショップ」の正体だったことを後に知りました。
 六、駅前旅館があった頃、賑わう蕎麦屋さんにメルヘン溢れるお菓子屋さん
 駅前通りには、旅館が必ずあった昭和時代です。沼津駅前には、「沼津西武本館」があった場所には、戦前まで「山本旅館」という大きな旅館がありました。経営者は旅館廃業の後、駅前東にレストラン・ビル「沼津軒」を開業していましたが、七年前に閉店してしまいました。
 駅前通り東第二ブロック南には「大平館」という名の立派な旅館が開業しておりました。平成三年「大手町町制百周年」記念事業として、旅館東裏の「城岡神社」が改築され、大きな「マイロード駐車場」と「さんさんホール」が旅館跡地に建設されました。
 旅館の北隣は「柴田薬局」で、店の前には薬品会社のゾウのマスコットが置かれ、子どもが鼻を触って揺すらせていたものです。三年前、薬局は消え去り、「日専連ソニックビル」が建てられました。一階は「りぐる」という和物を扱う店になっています。
 その北は、かつては洋品店があり、その後、書店「蘭契社支店」が一時入っていましたが、昭和五十年代から「ランチショップ・アイアイ」が営業していました。三年前に「アイアイ」は東の小路に移転し、居酒屋「串ざる」になりました。北に続く「アカシヤ洋傘店」(今はバッグ店)「愛光堂時計店」は地道に商いを続けられています。その隣には「ダブル洋品店」「マトバ・スポーツショップ」と二軒が並んでいましたが、平成に取り壊され、大きな宝石店「安心堂沼津店」になりました。それも沼津南口商店街衰退のためか宝石店は移転し、数年前に居酒屋チェーン「和民」に変身しました。
 この辺りに来ると、お腹を鳴らせる良い匂いが漂って来ます。沼津屈指の老舗蕎麦屋さん「幅田屋」の匂いです。亡き父や祖母も、ここの蕎麦が大好物で、家族でよく訪れて、熱々の天婦羅そばなどをすすったものです。大晦日には、年越し蕎麦の持ち帰りで店頭が賑わうのも年の瀬の風物詩です。
 北角地の「ドルセ」は、永く人気を誇る洋菓子店です。通りを見渡せる二階の喫茶部でケーキと紅茶を楽しんだ思い出があるカップルも多いことでしょう。ショー・ウィンドウの飾りもクリスマスやハロウィーンが近づくと凝ったものとなり、季節を感じさせてくれる店です。「ドルセ」になる前は、「フクヤ洋菓子店」という名前だったことを覚えている方は少ないでしょうね。
 七、食べ物屋横丁とお土産物屋さんがあった「沼津西武新館」誕生前
 駅前商店街東第一ブロックの南角地には、「野村証券沼津支店」のビルが建っています。昭和四十年代、この区画には「フジワラ時計店」「沼津電化社」「えぞや」(その前は「平松玩具店」)などが並んでいました。南の「和光アクセサリー」は、今でも営業を続けています。
 昭和四十六年、北東角地に「沼津西武新館」が開業しました。この区画北側には、ラーメンと餃子の店「崑崙」「大黒寿司」「桜寿司」などが並ぶ食べ物屋横丁があったのです。
 小学生の頃、家族と「大黒寿司」で食事をした際、「サビ抜きにしないでください」と言ったら、イガグリ頭の主人が「坊や、通だね」と笑ったことが思い出されます。「大黒寿司」と「崑崙」は、その後、西武新館の食堂街フロアに移って賑わっていました。「崑崙」の、塩味がきついけれど美昧しかったタンメンやパリッと焼かれた餃子の味は忘れられません。
 このブロックの角には、「太田製菓」「大橋屋土産物店」「中川土産物店」が並んでいました。
 土産物屋さんの店頭には、紙で出来た電車車掌さんのカバンの玩具(中には、切符切りや切符などが入っていて、電車ごっこに欠かせないものでした)、特大ミルキーの箱、形だけのカメラや八ミリ映写機の玩具など、子どもが欲しがるようなものが、ずらりと吊るしてありました。
 その下には、山葵漬や干物・ペナントに絵葉書といった土産物も並んでいました。まだ沼津も立派な観光地だったのですね。これらの一角と八億パチンコの区域が、「沼津西武新館」に生まれ変わったのです。
 中学~高校時代には、何度も西武新館に通いつめました。他のデパートより冷房の効きも良く、エスカレーターも上下共にあり、若くて綺麗な女店員さんも大勢いました。食堂フロアに出来た「トレビ」という喫茶・軽食店で、アイスクリームを注文すると、花火がキラキラと点火された状態で、アイスに刺し込まれて運ばれて来てびっくりした体験、屋上にあったビア・ガーデンで、父母とハワイアンを聴きながら食事をした夏のタベの想い出。すべてが彼方に遠ざかってしまった「沼津の青春」の記憶です。
 「青春」という言葉は、学生時代の僕には、気恥ずかしく感じられて大嫌いでした。もはや二度とそこには戻れないと判って、この言葉の切なさを感じるこの頃です。
 西武本館の屋上に行くと、文鳥におみくじを取りに行かせる「文鳥くじ」のおじさんがいたこと、大食堂でソフトクリームを頬張った夏の日、一階にあった「お菓子のベルトコンベアー」からスコップで菓子をすくい取った想い出、玄関横にあった「ジュース自動販売機」に十円を入れて、鮮やかな色のジュースを飲むことも楽しみだったこと、すべてが「夢の城」と感じた子ども時代の「沼津西武」での想い出です。
 「夢の城」は、僕が東京から戻ってきた二十五年前には、かなり色褪せた城になっていて、昨年一月、「砂の城」のようにすべてか追憶の彼方に流れ去ってしまいました。
 駅前商店街は、その街の顔です。物心がついてから、こんなに表情と夢を失ってしまった「沼津の顔」を見ることになるとは、思いもよりませんでした。
 明日は初夢にて、「明るい沼津の夢」を見たいと念じます。賑わう駅前、子どもからお年寄りまでが、美味しいものを食べられ、欲しいものを買えるようなデパートも再び現れるような楽しい夢を。
(絵地図のイラストと文字は「石山コンビ」が描いてくださいました)

(郷土史家 医師、市場町)
《沼朝平成26年1月元旦号》

0 件のコメント:

コメントを投稿