2019年3月2日土曜日

国内最古、弥生期の坑道

 


国内最古、弥生期の坑道
土器出土、朱を採掘徳島


 徳島県阿南市の若杉山遺跡で、赤色顔料である水銀朱の原料「辰砂(しんしゃ)」を採掘していたとみられる坑道跡から、弥生時代後期(23世紀)の土器片5点が見つかり、市が1日発表した。坑道が掘られた時期は不明だったが、土器から弥生時代後期と推測でき、市は「日本最古の坑道」としている。
 これまで最古とされた坑道は、奈良時代(8世紀)に始まった長登銅山(山口県美祢市)という。
 若杉山遺跡はこれまでに辰砂原石や精製用の石臼、勾玉(まがたま)などが出土している。阿南市によると、坑道は人為的に掘られた形跡があり、坑道内では石きねも見つかっている。坑道の高さは約1㍍、奥行きは約13㍍で、三つに分岐して掘り進められたとみられる。
 弥生土器片は、入り口から3㍍の地点で見つかった。中世の土器片も見つかり、市は「中世段階で、坑道が改変された可能性はある」とみている。
 徳島県教育委員会の調査で、坑道のほかに、弥生後期ー古墳時代に辰砂を露天掘りした痕跡も見つかった。
 大久保徹也徳島文理大教授(考古学)は「農耕作が中心と考えられていた弥生時代だが、坑道を掘る技術をどうやって得たのか。また、坑道を掘る必要があるほどに辰砂の需要が高まっていたと考えられる点も興味深い」としている。
 近くにある加茂宮ノ前遺跡では水銀朱を生産したとみられる縄文時代後期(4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上が出土している。
 坑道は、旧加茂谷村(現阿南市)の村誌(1954)で存在が指摘されていたが場所が分からず2017年に再発見された。
 23日午後1時半から阿南市冨岡町の阿南ひまわり会館で報告会を開く。
【静新平成3132()朝刊】

2019年2月28日木曜日

日本統計学の祖「杉亨二(すぎこうじ)」杉亨二伝駿河国時代の一部






杉 亨二 こうじ (沼津兵学校員外教授方)

文政11年長崎に生まれる。初名純道。大坂の緒方洪庵や江戸の杉田成卿の門に入り蘭学を学ぶ。勝海舟の知遇を得、その推薦で老中阿部正弘に仕える。やがて蕃書調所に出仕し、その教授をつとめた。維新後は駿府に移住し、藩首脳に政表(統計)調査の必要を訴え、明治2年に沼津と原で我が国最初の近代的な戸口調査を実施した。また静岡学問所でも教鞭をとったが、明治2年末には沼津兵学校員外教授方に転じ、やがて二等教授方となった。明治4年に政府に出仕、以後左院・太政官・統計院などで統計調査・戸籍調査を推進した。明治15年には共立統計学校を設立して、一層の統計学普及につとめた。また、明治初期には明六社のメンバーとしても活躍している。大正6年没。我が国統計学の始祖、国勢調査の先唱者として知られる。




↓杉亨二伝駿河国時代の一部


明治史料館で企画展振り返る企画展


明治史料館で企画展振り返る企画展
開館35周年記念し324日まで
 市明治史料館で、企画展「史料館のキセキⅡ」が三月二十四日まで開かれている。
 同館は一九八四年十月に開館。今年で開館三十五周年となることにちなみ、これまでの企画展七一回を振り返る。同様の回顧展は二十五周年の二〇〇九年にも開かれており、今回で二回目。
 展示会場の四階には、第一回の「間宮喜十郎展」から第七一回の「御一新!?」までの各企画展のあらましや、史料館の様々な行事などを紹介する展示が行われている=写真。その中には、二〇〇七年に五日間だけ開かれた山本勘助(*)史料の展示も含まれている。
 また、「企画展総選挙」と題し、歴代企画展の人気投票を受け付けている。見学者は入館時に投票シール三枚を受け取り、展示中の企画展ポスターの中で気に入ったものに貼ることができる。
 開館時間は午前九時から午後四時半。月曜と月末の平日は休館。入館料は、一般二百円、中学生以下百円(市内の小中学生は無料)
 問い合わせは電話九二三の三三三五。
 (*)武田信玄に仕えた戦国武将。長らく架空の人物と考えられてきたが、近年の研究では実在が証明されている。その子孫は、明治期に沼津に移住している。
【沼朝平成31228()号】

2019年2月24日日曜日

駿府城跡 秀吉の城興味津々 見学会盛況 堀の底で遺構


駿府城跡 秀吉の城興味津々
見学会盛況 堀の底で遺構
 静岡市は23日、同市葵区の駿府城跡天守台発掘現場で、2018年度の調査成果を紹介する見学会を開いた。来場者が多く詰めかけ、初めて見つかった本丸の出入り口や豊臣秀吉が家臣に築かせた"秀吉の城"の遺構など、貴重な発見に目を輝かせた。
 18年度の調査では、家康と秀吉が関わった二つの天守台が同じ場所に現存していたと確認▽三つある本丸への出入り口のうち「升形」と呼ばれる構造の出入り口を初めて発見▽天守台の基礎に当時一般的だった木材ではなく巨石が使われていたと判明ーなどの成果があった。来場者は普段立ち入ることができない堀の底に下りて遺構を見学し、天守台の迫力に驚いていた。
 駿府城跡天守台は天守や門などの建物が既にないため、発掘調査により、天守台自体の構造を調べることが可能になっている。秀吉と家康、二つの時代の天守台が同時に存在することで、築城技術の変遷も確認できる。調査員は「全国にいろいろな城はあるが、巨大城郭の築城過程を知ることができるのはここだけ」と駿府城の価値を来場者に説明した。
 発掘調査は19年度が最終年度で、駿府城築城以前の今川期の遺構を確認する。
【静新平成31224()朝刊】

正午知らせた午砲の銘板


正午知らせた午砲の銘板
 明治期沼津のよすが 半世紀ぶりに公開
 旧沼津町時代に正午の時報として使われていた大砲「午砲」のネームプレートが、昨年末から西熊堂の明治史料館敷地内の噴水脇に置かれている。一般に公開されるのは、約半世紀ぶり。
 午砲は日露戦争(一九〇四~〇五)の戦勝記念として千本の長谷寺裏に設置され、一九一一年(明治四十四)六月十八日に落成式が開かれた。正午に空砲を発射し、その爆音を時報とした。
 一九二三年(大正十二)に沼津町と楊原村が合併して沼津市が誕生すると、市域全域に砲音が届かないため午砲は廃止となり、市場町の八幡神社で打ち上げる花火が新たな時報となった。午砲に使われた大砲は戦時中に供出されたと見られる。
 ネームプレートは、午砲を設置した台に添えられていたもので、「明治三十七八年戦役記念」と記されている。この文字は、静岡藩主も務めた徳川家達(とくがわ・いえさと)公爵の揮毫によるものだという。表面積は一八六㌢×九二㌢、重さは約ニトン。花崗岩製。
 ネームプレートは、午砲廃止後に千本公園八角池の脇に移され、一九六八年(昭和四十三)に始まった千本浜公園整備事業で同公園入り口付近の市有施設(旧沼津文庫)近くに移された。その後、人目に触れることもないまま、約半世紀にわたって同所に置かれ続けてきた。
 昨年が明治一五〇年に当たることから、明治期沼津の遺物として広く公開するために、明治史料館敷地に移設された。
【沼朝平成31224()号】

2019年2月22日金曜日

駿府城本丸入り口発見




駿府城本丸入り口発見
あす見学会 升形虎口石垣の一部
 静岡市が同市葵区の駿府城公園で行つている2018年度の発掘調査で、徳川家康が築いた駿府城本丸の入り□の建造物である天守下門(したもん)を含む升形虎口(ますがた
こぐち)の石垣が見つかったことが21日、関係者への取材で分かった。市は23日に市民向けの現場見学会を開いて解説する。
 発掘された遺構は天守台の石垣とは石の積み方が異なり、角度がより垂直に近い。天守台東側の石垣と接続した状態で見つかった。
 現存する駿府城の絵図から、本丸には三つの入り口があったとされ、発見されたのはその一つとみられる。本丸入り口の遺構が見つかったのは初めて。石垣から分かる構造や大きさは、絵図から推察される虎口とほぼ一致するという。
 市歴史文化課は「城を守るための構造がしっかり造られていたことが分かる発見」と指摘している。18年度の発掘調査では、このほか豊臣秀吉が家臣に築かせたとみられる天守台跡や金箔(きんぱく)瓦が見つかっている。
 23日の見学会は、普段、立ち入れない北東の堀の底から天守台と升形虎口の石垣を見比べ、発掘調査員の解説を聞く。解説の開始時間は午前9時半、11時、午後1時半、3時の計4回で各回約30分。参加無料。小雨決行。
 問い合わせは市歴史文化課〈電054(221)1085>へ。雨天時の開催可否は発掘現場事務所〈電054(255)5866(23日のみ)へ。(政治部・内田圭美)
【静新平成31222()朝刊】