2015年2月11日水曜日

蛇松線(上)(下) 奈木秀幸 沼朝投稿記事

蛇松線() 奈木秀幸

 昨年暮れ、東京駅が開業百周年を迎え、話題となった。だが、我が沼津駅(昔は沼津停車場と呼んだ)の開業は東京駅のそれを遡ること四半世紀、明治二十二年(一八八九)二月一日のことである。こちらの方が、ずっと古い。
 後に東海道本線と呼ばれることになるこの官設鉄道の建設は、当時の重要な国家プロジェクトであった。当初、中山道ルートが考えられていたが、難工事が予想されたため、工期が短縮できる東海道ルートに途中で変更された。
 その中で、箱根越えについては長大なトンネル工事の技術的難しさから御殿場経由(現御殿場線)の、勾配のきついルートをとらざるを得なかった。箱根の下を貫通する丹那トンネルの開通は、昭和九年(一九三四)まで待つこととなる。
 明治十九年(一八八六)十二月一日、既に廃城となっていた沼津城外濠の北側に沼津機関庫(後の機関区)が設置され、国府津ー沼津間の工事拠点となった。
 今のような陸上運搬手段など無い時代である。建設資材は横浜から海路汽船で内浦湾まで運び、ここで喫水の浅い平底の艀(はしけ)に乗せ換えて狩野川河口を遡り、蛇松(現在の港大橋の袂付近)まで運び、仮設された桟橋を使って陸揚げされた。機関車も解体して運ばれ、陸揚げ後、組み立てられた。
 翌明治二十年三月二十七日、沼津機関庫までの線路が出来、機関車(五号蒸気機関車)も組み立てられ、いよいよ試運転という時、まだ石炭が届いていなかったため、松薪を燃やして走った。これが静岡県内最初の鉄道「官設蛇松線」の誕生である。
 蛇松の桟橋には、初めての蒸気機関車を一目見ようと多くの人々が集まり、出店も軒を連ね、さながら、お祭り騒ぎのようだったという。
 蛇松線は当時の沼津の中心部を東に見ながらカーブを描いて、蛇松と沼津停車場設置場所間の約二・七㌔を単線で結んだ。沿線には、民家はまだ少なく、田畑が多かった。明治の沼津は、今からは想像もできないほどに実にコンパクトだった。
 明治二十二年二月一日、東海道の鉄道建設は国府津ー御殿場ー沼津ー静岡間が開通し、これと同時に沼津停車場も開業となる。そして蛇松線は当初の目的を達し、その使命を終えた。
 半ば放置され、無用の長物となりかけた明治三十一年(一八九八)、岳陽運送という会社が蛇松線を利用しての貨物輸送を願い出たため、逓信省鉄道作業局は審査の結果これを許可。翌明治三十二年六月十五日、蛇松線は運転が再開され、新たな使命を与えられることとなった。
 この日、蛇松駅が正式開業し、海路を経由して陸揚げされた石油、石炭、木材等が運ばれた。その後、終戦直後まで蛇松線に変わりはなく、貨物線としての役割を担い続けた。
 昭和八年(一九三三)十二月八日、新たな沼津港(現在の内港)の建設工事が始まる。それまでの港は狩野川右岸の魚町、仲町、宮町、下河原の辺りにかけてあったのだが、水深が浅く、大型船は接岸できなかった。そこで河口に新港を建設することとなったのである。
 港は昭和十二年(一九三七)五月三十一日に竣工したものの、周辺にはまだ何も出来ておらず、実際に機能するのは終戦後のことである。
 蛇松線沿線の千本緑町、常盤町、千本東町、千本中町、千本西町、千本港町等は耕地整理により直線的な道路が整備されることで、それまでの小字名を廃して昭和十二年から十七年(一九四二)にかけて、それぞれ成立。また、蛇松町、春日町、蓼原町等も町域が変わったが、以前の小字名を引き継いだうえで新たに成立した。(つづく)
(千本東町)
(沼朝平成27年2月10日号)

蛇松線() 奈木秀幸
 昭和二十一年(一九四六)十一月二日、沼津港(現内港)開港祝賀式と臨港線開通式が行われた。
 臨港線とは、現在の蛇松緑道お祭り広場西側で分岐し、港まで新たに造られた路線のことである。分岐地点には線路を切り替える手動の、通称ダルマポイント(転轍器)があり、普段は南京錠で施錠されていた。
 翌二十二年三月一日、蛇松線は国鉄沼津港線と改称し、蛇松駅が内港東側に移転改称され、沼津港駅となった。移転前の駅も、引き続き構内側線として廃止時まで使用された。
 蛇松線から沼津港線に改称した後、沼津港からは鮮魚が京浜方面に向けて運ばれた。また、旧蛇松駅では石油や鉄屑等が運ばれた。
 昭和二十年代には宮町や下河原にあった多くの干物加工業者が沼津港周辺に移転してきた。西伊豆方面からの旅客が宿泊する旅館も何軒もできた。
 沼津港は沼津駅が陸の玄関口であるのに対して海の玄関口と呼ばれた。沿線では市街地の拡大に伴って次第に住宅も増え、交差する道路の交通量も増えていった。
 いつしか沼津の中心市街地を走ることとなってしまった沼津港線は平面交差の踏切ばかりで、自動車との事故も頻発するようになっていく。ことに旧国道一号や旧東海道と交差する踏切では機関車の方が一時停止して道を譲ったという。
 貨物輸送は鉄道輸送からトラック輸送主流の時代になっていく。昭和四十五年(一九七〇)には蒸気機関車からディーゼル機関車に替わった。次第に邪魔者扱いされることになっていく沼津港線は、ついに八十七年余の歴史を閉じることとなった。
 昭和四十九年(一九七四)八月三十一日、臨時列車が運行され、この日をもって国鉄沼津港線は廃止となった。この列車は「さよなら沼津港線」と書かれたヘッドマークを付け、開通以来、初めて客車(旧型二両)を連結し、DE11型ディーゼル機関車が牽引して地元の老人達を乗せて走った。記念切符(硬券)が発行され、記念品として手ぬぐいも配られた。
 名称変更後も、地元では沼津港線と呼ぶ人は誰もいない。廃線後は昭和五十一年(一九七六)、沼津市に払い下げられ、後に白銀町から狩野川河口の蛇松町までの約一・八㌔が遊歩道「蛇松緑道」として整備され、現在に至っている。
 春には桜が満開となる。今も沿線の地元自治会や町内会によって清掃が行われ、大切にされている。蛇松線は廃線から既に四十年が経過した。(おわり)
(千本東町)

(沼朝平成27年2月11日号)

2015年1月30日金曜日

芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5 父常春と楊原村 芹沢守

芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5
父常春と楊原村 芹沢守
 『人間の運命』は芹沢光治良の代表作であり、その第一巻「父と子」は昭和三十七年に出版された。
 明治から昭和までの日本の歩いた道を感じさせる大河小説の主人公は森次郎、その歩みは芹沢光治良の実体験に基づく創作である。
 「その昔、この地方に定住していたアイヌ族が、…この世の天国だとうたったために、ここを駿河の国ーアイヌ語で天国と、呼ぶのだと」と作品は書き出され、「甲斐や相模の山岳地帯に割拠した武士が、初めてこの地方に侵入した時、風光は明媚、気候は温暖、天産は豊富、住人は温和だから、この地は天国だと感じて、武将の家臣が武器をすてて、この土地に土着したのかもしれない」と歴史の先生に語らせている。
 芹沢光治良は明治二十九年五月四日、駿東郡楊原村我入道に生まれた。家は沼津の海岸に一定の縄張りを持つ津元で、代々一族で漁業を営んできた網元の家長が祖父常吉である。
 屋敷が村の入り口東一番地にあったので家号を「ハズレ」と言い、常吉の長男として明治五年二月に父親常晴が生まれた。常晴は裕福に育てられ、五歳で駿東郡第五学区楊原村立小学道生舎に入学し、八年間学んで明治十七年に卒業した。常晴は網元の後継者で、楊原村役場に勤めた。
 明治二十二年、祖父常吉がリウマチを患い病んでいたので、駿東郡大岡村から評判になっていた神様の話を聴き、岳東講元の鈴木半次郎師に祈願して救(たす)けてもらったのが契機で、芹沢家の一族は明治二十三年、天理教に入信した。
 若い常晴は新しい教えを熱心に学び、しばらくすると鈴木購元宅に住み込んで病人たすけの弟子入りをした。
 他方、光治良の母親はるは、明治九年四月二日近藤精一郎の三女として大岡村下石田に生まれたが、同村の有馬忠七の養女として育てられた。はる女十四歳の冬の頃より養母に連れられて鈴木講元の所へ通い、天理教の教えを聞いて熱心に信仰した。
 明治二十五年の春に鈴木講元の勧めで、常晴二十一歳、はる十六歳は結婚し、岳東教会の事務所に住み込み、生活を始めた。翌年十月に常晴は悪性皮癬(ひぜん)の病気にかかったので実家の我入道へ帰って養生し、常晴の生涯を神様のご用に捧げることを家族一同が心定めて鈴木講元に祈願してもらい、命が救かった。
 明治二十七年には長男真一が生まれ、神様との約束により翌年三月に芹沢家の屋敷内南側に楊原出張所が設立、常晴が初代担任となった。明治二十九年五月に二男光治良が誕生。この頃「ハズレ」の芹沢家は親族二十人程に加えて、常晴に助けられて信仰する人達も二~三十人集まって賑やかに振る舞う教会だった。
 明治三十三年の春から沼津町城内片端
(通称五藤松=現在の沼津駅南口前、桃中軒周辺)の土地を借りて、我入道から神殿建物を移築し沼津出張所を設置。芹沢常晴一家五人も移り住み、他の六軒の布教師家族と共に紙漉()きの内職をして赤貧の生活を送ることとなった。
 この時、四歳の光治良少年は我入道の祖父母の家に預けられて育てられたことが、人間の運命の始まりである。
 我入道は大正十三年二月冬の夜、火災が発生し、西風によって村の大半が焼失した。村の復興に際し、道路が碁盤の目様に整理され、「ハズレ」の屋敷も分離されたが、芹沢光治良生誕の碑が建つ土地に大正十三年に建てられた楊原分教会の古い写真=右=が残っている。

(芹沢光治良兄弟の孫、天理教楊原分教会会長、我入道)

(沼朝平成27年1月30日号)

2014年12月13日土曜日

佳境の「ふるさとづくり」匂坂信吾

 佳境の「ふるさとづくり」匂坂信吾

 平成二十五年六月に三年計画で始まった沼津史談会主催の「沼津ふるさとづくり塾」は、既に十七回の講座(一回は史跡探訪旅行会での現地講座)を終え、来年三月には二十回を数えることになります。
 この間、毎回新しい聴講者の方々をお迎えし、延べ一千三百二十六人の皆様の参加をいただくことができました。一回当たり平均では七十八人になります。また、参加者名簿に登録された方は十一月までに四百七十人となりました。
 そして何人かの皆様から、「最近、講座の中身がつながるようになったよ」とか「江戸から昭和までの沼津の歴史が分かるようになった」「だんだん面白くなってきた」といった感想が寄せられるようになってきました。
 現在は市史講座、地域講座の二本立てで運営していますが、沼津市史の近世から近代にかけての歴史の流れが、自然に理解できるようになってきたものと考えられます。
 特に、今年は戦国期から江戸時代の初めにかけての講座が、四月の一回目が平山優氏の「長篠の合戦と沼津ゆかりの大久保兄弟の活躍」で、五月の二回目が久保田富氏の「大久保忠佐と天野康景」で始まった点が理解しやすさにつながったように思います。
 また、明治から昭和にかけての近代の講座では、六月の第三回が荒川章二氏の「戦時下の沼津-海軍工廠と海軍技研など」で、八月の第五回が湯川次義氏の「近代沼津の教育-岳陽少年団の成立と展開」、さらに十月の第七回が寺村泰氏の「沼津繭市場の発展と繊維工場の進出」というように、近代沼津の発展に直接結び付く内容となり、参加者にとって身近で、受け入れやすくなったのではないでしょうか。
 次回開催の十二月二十日()は第九回となりますが、専修大学教授で経済史が専門の永江雅和氏が、特に希望されて「沼津海軍工廠跡地の開拓」というテーマで話されます。
 跡地の開拓を巡る住民同士の紛争を取り上げる企画ですが、この話は第三回の「海軍工廠」とも関連し、第七回の「繭市場や繊維工場誘致」、そして石橋湛山総理大臣の沼津選出の立役者である名取栄一・元沼津市長が進めた金岡、大岡、片浜、静浦の各村と沼津市との合併問題が背景にあります。
 全国各地の軍関係の施設が終戦後、同様な問題を抱えて紛争に至った例は多いようですが、わが沼津でも同じことが起こったわけです。一八〇㌶という、沼津駅の北から金岡にかけての広大な土地(東京ドーム三十八個に相当)が急に海軍の手から離れた中で、食糧難の時代に身につまされるような話が多かったと思われます。
 当日は午後一時三十分から市立図書館四階の視聴覚ホールで講座を開きます。資料代五百円(会員は二百円)が必要です。
 なお、平成二十七年一月十七日()に予定していた樋口雄彦氏の「沼津での文明開花期の諸相」は、講師の都合で中止します。その分は、同年四月十九日()午後二時三十分から、市立図書館四階の視聴覚ホールで、テーマを改め、「箱館戦争と榎本武揚-静岡藩・沼津兵学校との関連を中心に」となります。
 これは現在、明治史料館で開催中の開館三十周年記念特別展「沼津兵学校とその時代」の中で行われる次の歴史講座と連動するものです。
 ▽平成二十七年一月二十四日()講師日浅川・道夫氏(日本大学国際関係学部教授)「幕末維新期の兵制と士官教育-幕府陸軍の遺産と日本陸軍の創設」▽同二月十四日()講師=樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館教授)「沼津兵学校とその時代」いずれも時間は午後一時三十分から四時、会場は明治史料館です。
 また、本会が第十一回「沼津ふるさとづくり塾」として平成二十七年二月二十一日に開催を予定している平山優氏「興国寺城と武田一族」は、同氏が山梨県でも雪深い地域に住んでいるため、今年二月のような大雪になると交通が遮断され、中止となる可能性があります。当日近くの天候によっては、次の問い合わせ先まで連絡をお願いします。
 問い合わせは、沼津史談会の匂坂信吾(電話〇九〇ー七六八六-八六一二)、または根木谷信一(電話〇九〇ー八五四八ー七九〇九)まで。(沼津史談会副会長、小諏訪)

(沼朝平成261213日号)

2014年10月19日日曜日

141018沼津繭市場の発展と繊維工場の進出:講師寺村泰教授





















当日画像資料

工業進出で人口が増加
 沼津の経済発展過程を学ぶ
 沼津史談会(菅沼基臣会長)は、第7回沼津ふるさとづくり塾を、このほど市立図書館視聴覚ホールで開き、約六十人が受講。講師を務めた静岡大学人文社会科学部の寺村泰教授が「沼津繭(まゆ)市場の発展と繊維工場の進出-沼津の経済発展過程を捉えるー」と題し、明治から昭和初期までの沼津の経済と人口の歴史について、様々な統計資料に基づいて述べた。
 変化のきっかけは繭市場開設
 史談会ふるさとづくり塾
 寺村泰静大教授が講義
 戦前沼津の人口変動明治十八年(一八八五)から大正三年(一九一四)の間に、静岡県全体では人口が約一・五倍に増えた。これに対し、旧沼津町の人口の伸びは約一・二倍で、県内平均よりも低い伸び率だった。
 一方で、大正三年から十二年の間は、県内人口が一・一倍になったのに対し、沼津の人口は約一・五倍になった(この時の「沼津」は旧沼津町と旧楊原村を合わせたもの)
 大正時代において沼津の人口が県内平均以上に増加したのは、繊維工場の進出により沼津が商業都市から軽工業都市に変貌したことによるもので、外部から労働者人口が流入した。
 昭和になり、太平洋戦争が始まると、海軍工廠や東芝機械などの軍需工場が進出して沼津は重工業都市となり、これに合わせて人口が急増。太平洋戦争前後の昭和十五年と二十二年を比較すると、静岡市や浜松市では人口が減少したが、沼津市は人口が増え、戦争によって増えた人口は、戦後も維持された。
 これは軍需工場が民需工場に転換したことや海軍工廠跡地が新たな工業用地となって沼津の工業化を維持したことが大きい。
 明治大正期の経済 我が国の統計学研究の草分け的存在である杉亨二(すぎ・こうじ)は江戸幕府に仕え、明治維新後は静岡藩に仕えた。その際、藩内で人口調査を行い、旧沼津町や旧原町に相当する地域の人口資料を残している。
 それによると、明治二年(一八六九)の旧沼津町民の職業構成は、約五割が商業やサービス業で、工業や農業は一割ずつに過ぎない。当時の沼津は商業が中心となった都市だった。
 これに変化を与えるきっかけは、大正五年(一九一六)の沼津繭市場の開設だった。繭市場の開設により、蚕の繭から生糸を作る大規模製糸工場が現在の高島町周辺に進出。繭確保が容易であることや、豊富な水資源、輸出港である横浜と東海道線により直結していること、などが理田だった。また、工場誘致のために旧沼津町当局も積極的な誘致活動を行っていた。
 第一次大戦後の大正九年(一九二〇)に世界恐慌が起きても沼津の繊維工業は好調で、人手不足の事態さえ生じた。沼津の工場は最新鋭の設備を有していたので、企業経営者が他地域よりも沼津の工場を優先して操業を続けさせたのが、その理由だという。人口が増加し、経済が発展する中で、沼津は大正十二年(一九二三)に市制施行を果た
した。
 沼津繭市場 沼津の工業化と人口増加に大きな影響を与えた繭市場は、山梨県の繭仲買人の家に生まれた名取栄一(一八七三~一九五八)によって設立された。
 当時、静岡県東部では国策による補助金行政もあり養蚕が盛んだった。県東部で生産された繭は長野県の製糸工場群に運ばれ、生糸の原料になった。かねてより長野系の製糸企業とつながりのあった名取は、県東部産繭の一手買い入れを狙い、繭市場を創設して他の繭取引業者と激しく争った。
 その後、独占買い付けによる繭の買い叩きから農民を保護しようとする政府の動きに合わせ、昭和十二年(一九三七)、繭市場は廃止された。廃止後の昭和十五年(一九四〇)、名取は沼津市長になっている。
 重工業へ一九三〇年代の昭和恐慌により製糸業は打撃を受け、繊維工場の閉鎖が始まり、繭価格低迷により養蚕農家も減少した。代わって重工業系の工場が沼津に進出。兵器部品を生産する富士製作所や国産電機、芝浦機械などの工場が建設された。
 昭和十八年(一九四三)の海軍工廠設置により沼津の軍需工業は発展し、太平洋戦争末期に最盛期を迎えた。
 終わりに 明治から太平洋戦争終戦までの沼津の経済と人口について解説した寺村氏は、沼津の経済の特徴として、①工場誘致が経済発展を大きく左右した、②名取栄一のように沼津の外部からの人間や資本によって工業化が進められた、③工場誘致において行政当局が積極的に関わった、の三点を挙げた。
 また、余談として戦後のコンビナート誘致と反対運動について経済史の観点から述べ、「沼津へのコンビナート進出失敗は公害反対運動のみによるものか」と問いかけながら、当時の沼津市内は失業率が極めて低くてコンビナート建設による雇用創出を求める機運が市民間に生まれなかった、コンビナートの工場は三島市や清水町に建設される予定で沼津市には税収面のメリットが期待できず沼津市当局も誘致には消極的だった、などといった当時の状況を解説した。

( 沼朝平成26117日号)

第7回「沼津ふるさとづくり塾「沼津繭市場の発展と繊維工場の進出」




沼津繭市場の発展と繊維工場の進出
講師:寺村泰教授




















当日画像資料集

2014年10月5日日曜日

沼津に武田の隠れた名将「曽根下野守昌世」

沼津に武田の隠れた名将「曽根下野守昌世」 
 興国寺城の城代務めた一時期も

 市教委は先月、二十六年度歴民講座「甲斐武田氏と沼津~興国寺城将曽根下野守昌世を追って~」を市立図書館視聴覚ホールで開催。約二百人が聴講した。講師は、歴史学者で戦国大名武田氏研究の第一人者、平山優氏が務めた。平山氏は、これまでにも二回、同講座で講師を務めている。


 曽根下野守昌世 信玄をして「両眼の一方」
 今回のテーマとなった「曽根昌世(そね・まさただ)」は、武田信玄と勝頼の二代に仕えた戦国武将で、市内根古屋の興国寺城が武田領になると、同城に駐在した。武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて旧武田勢力を徳川派に迎えるために活躍したが、家康によって追放処分となり、最終的には豊臣系の大名である蒲生氏郷(がもう・うじさと)の家臣となった。
 真田昌幸(*)と共に、信玄によって「我が両眼」と評価されるほどの才能の持ち主だったが、真田氏とは違い、その子孫は大名になることもなく途絶えてしまった。現在も、昌世に関する研究は、ほとんど行われていない状況だという。
 曽根家 曽根家は武田家十四代当主の信重(のぶしげ)の子孫に当たる。信重の長男信守は武田本家を継ぎ、信玄は、その子孫。信守の弟達は分家して曽根家と下曽根家の初代となった。「曽根」の名は、甲府市南西の曽根丘陵に由来するといい、同丘陵には曽根氏の館があったという伝承がある。曽根も下曽根も、武田本家の家臣という立場だったが、武田一族として格の高い家臣と見なされていた。
 曽根家と昌世 平山氏によると、昌世は曽根家の本家出身ではない可能性があるという。武田一族の家系の嫡流は、名前に「信」の字が付く慣習があることから、このような推測ができるという。
 昌世は曽根家の嫡流ではなかったが、信玄の側近として活躍し多くの史料に存在が記されている。一方で曽根家嫡流の人物については、史料上に明確な記述はない。ただし、三枚橋城の城将を務めた曽根河内守のように、曽根家嫡流である可能性が指摘される人物は存在している。
 平山氏は、昌世が本家筋の人物よりも史料が豊富な点について、信玄は家臣の次男、三男を取り立てて自分の側近としていたことを話し、嫡流の人物は本家を守るために地元に残ったので信玄家臣として活躍する機会も少なかったのだろう、と推測する。
 失脚と駿河 昌世は信玄の側近として活躍する前に、失脚を経験している。一五六〇年に桶狭間の合戦で駿河の今川義元が死亡すると、信玄は駿河侵攻を考えるようになった。信玄は外交方針を転換し、それまで親密だった今川を攻めるために今川の宿敵である織田信長との同盟を計画。信長の養女と自分の四男勝頼との政略結婚を考えた。これに反対したのが、信玄の長男で義元の娘を妻にしていた義信だった。
 こうして信玄と義信の親子の間には、今川を巡る外交方針の対立が起こった。これは義信の幽閉と死という結果で終わり、義信の側近達も死罪や自害に追い込まれた。曽根一族も義信派であったため、昌世らは所領を信玄に返還して甲斐を去ることになった。
 この時、昌世は駿河で暮らしたといい、この駿河での生活について平山氏は、曽根丘陵と駿河とは陸路で通じていることを説明し、曽根一族と駿河との関係の近さを指摘するとともに、後に昌世が興国寺城に派遣されたのも、こうした駿河との関係によるものだったのではないかと推測した。
 信玄の両眼 一五六八年、信玄が駿河今川領への侵攻を開始したころ、昌世は信玄の家臣として復帰し軍中で活躍。一五六九年に今川を支援する北条軍と武田軍が三増峠(神奈川県西北部)で戦った際、昌世は浅利信種という重臣の軍勢に監視役として従軍していた。
 この時、信種は銃撃を受けて戦死し、浅利隊は大混乱に陥ったが、昌世は、すぐに指揮官代理となって混乱を鎮め、そのまま敵軍に反撃を開始して勝利。一五七〇年の花沢城(焼津市)の戦いでは、共に信玄の奥近習(秘書)として同僚だった真田昌幸と軍の先頭に立って真っ先に敵城に乗り込んでいる。
 同年、現在の三島市周辺で北条と武田の両軍が戦った際、信玄の重臣が「偵察をして周辺の地形を調べるべきだ」と提室すると、信玄は「すでに私の両眼のような者達を派遣しているから、心配はいらない」と答え、家臣達が「信玄様がそれほど信頼している者達とは何者だろう」と噂し合っていると、昌幸と昌世が偵察から帰って来た。これ以後、多くの人が昌世達の才能を認めるようになったという。
 足軽大将 このころの昌世は「足軽大将」という身分だった。この場合の足軽とは、金銭で雇われてパート労働者的に従軍する傭兵(ようへい)などの職業軍人のこと。足軽大将は、こうした兵士達を率いていた。足軽の部隊は即座に招集でき、戦場へも派遣しやすいので、手柄を立てやすい立場にあった。昌世も足軽大将から出世して侍大将になり、さらに城代という出世コースを歩いた。
 城主・城代・城将 城の責任者を何と呼ぶかについて、平山氏は歴史研究者による三種類の定義を紹介した。「城主」とは、城の元からの所有者を指す。「城代」とは、大名から城を任されて、城の周辺の土地を統治する「郡司(ぐんじ)」の権限も持つ者。「城将」は、大名から城を任されているものの、城の守備など軍事に関する権限のみを与えられた者。
 興国寺城に派遣された昌世は、この三つのうちの城代として駐在し、税金徴収や関所の監督、労働者動員、裁判事務などの職務も行っていたという。なお、興国寺城と同じく、当時の沼津市内にあった三枚橋城は、城代ではなく城将が駐在する城だった。
 興国寺城 戦国時代初期に活躍した北条早雲の旗揚げの城として知られる興国寺城は、北条氏が関東に勢力を伸ばした後は今川氏に奪われた。武田氏が今川氏を攻めて駿河に侵攻すると、北条軍は今川氏を支援して駿河東部に進出し、興国寺城もこの際に北条氏の支配下に入った。この時の武田氏と北条氏の戦いは武田の優勢な状態が続き、逆転の機会を得られなかった北条氏は、武田氏が駿河を領有することを認めて和平を結んだ。
 こうして一五七二年、興国寺城は武田氏の支配下に入り、数人の前任者を経て昌世が城代となった。任命の時期は不明だが、昌世が城代として発行した天正六年(一五七八)の日付入りの命令書が確認されている。
 天正壬午の乱 興国寺城代となった昌世は、一族にして三枚橋城将の曽根河内守に協力し、北条側の戸倉城(清水町)を武田側に寝返らせるなどの活躍をしたが、武田氏は一五八二年に織田信長に攻められて滅亡。昌世は以前から信長に手紙を出すなどの裏工作をしていたことから生き残ることに成功し、信長の家臣として興国寺城を支配することを認められた。
 しかし、この年に本能寺の変が起きて信長が急死すると、その混乱を利用して領土を広げるために北条軍が箱根を越えて駿河に攻め寄せる気配を示した。このため、昌世は駿河の武士達を統率して徳川家康に協力し、北条軍とにらみ合った。
 上野(こうずけ=群馬県)から田斐、信濃といった旧武田領を巡って徳川氏と北条氏と上杉氏が争い、「天正壬午の乱」と呼ばれる戦いが始まると、昌世は徳川軍に従軍して甲斐へと向かった。昌世は、同じく元武田家臣の岡部正綱と共に甲斐の平定に尽力し、甲斐北部の大野砦(山梨県山梨市)の城将となった。
 その後は信濃に向かって上田城の戦いに参加。この時の敵となった上田城の城主は、かつての同僚、真田昌幸だった。
 追放と晩年家康が甲信地方を手に入れるのに貢献した昌世だったが、一五八四年の小牧長久手の戦いの後に家康の命令で追放される。かつて自分が生き残るために武田氏を見捨てたことが、卑怯な振る舞いとして家康に嫌われたという。
 浪人となった昌世は、後に蒲生氏郷に仕えた。氏郷は豊臣秀吉の部下で、秀吉の天下統一後は会津若松(福島県)を支配した。
 蒲生家臣となった昌世は会津若松城の設計に携わったほか、同じく蒲生家臣となった真田隠岐守(昌幸の弟)と共に蒲生軍の幹部を務めたという。昌世のその後については、史料がないため不明となっている。
 終わりに 講演のまとめとして平山氏は「昌世は地元沼津でも、ほとんど知られていない存在だろう。しかし、武田氏の重臣で有能な人物でもあった。今回、この講演のために昌世について一から調べた。今後は、この研究内容を論文にまとめたい」と話して講演を終えた。
 ◇
 今回の講演会を企画した市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長は、昌世について「武田家臣団を描いた『武田二十四将図』では、昌世は有名武将である真田昌幸と対になって描かれることが多く、本来は重要な立場の人物だったはずだが、現在の知名度はそれほどでもない。武田家臣のイメージ形成に大きな役割を果たした書物『甲陽軍鑑』では、昌世が勝頼を見捨てて裏切ったことが強調されており、昌世が家康に追放されたのも、これが理由になっている。しかし、家康に仕えた者の中には武田を裏切って徳川に乗り換えた者も多いのに、昌世だけが批判的に記述されるのは不可解な部分もある。蒲生家に移った昌世は、武田流軍学の継承者として会津若松城の築城に携わった。その一方で、『甲陽軍鑑』の編さんに深く関与した小幡景憲も武田流の軍学の元締め的存在であったから、武田流の継承者の座を巡って、景憲は昌世に対して何らかの思いを抱いていた可能性もあるだろう。だとしたら、昌世には『甲陽軍鑑』の被害者としての側面があるのかもしれない」と話す。

 (*)真田昌幸 曽根昌世と浅からぬ縁を持つ真田昌幸(一五四七~一六一一)は、信濃北部の豪族出身で、昌世と同じく武田信玄と勝頼の二代に仕えた。「真田十勇士」などの物語で有名な真田幸村(信繁)の父で、昌幸自身も名将として知られている。
 武田氏滅亡後の混乱では、わずかな兵力で敵の大軍を撃退する軍事的手腕を発揮したほか、外交にも優れ、上杉、北条、徳川といった大大名達の下を巧みに立ち回り、最終的には大名として独立を勝ち取った。
 関ヶ原の戦いの際には、東軍と西軍のどちらが勝 関ヶ原の戦いの際には、東軍と西軍のどちらが勝利しても真田氏が生き延びられるよう、長男信之を東軍に参加させ、自分は次男幸村と共に西軍に加わった。東軍の勝利により昌幸、幸村親子は領地から追放されたが、信之は大名として生き残り、大名としての真田家は幕末まで続いた。
 再来年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、幸村が主人公で、その家族とのつながりが中心に描かれるという。昌幸が劇中で重要な役回りを果たすことが予想される。

(沼朝平成26年10月5日号)