2012年8月5日日曜日
高尾山古墳シンポジュウム「沼朝記事」
スルガの王、大いに塚を造る
高尾山古墳でシンポジウム
市教委は七月二十二日、「高尾山古墳シンポジウムースルガの王大いに塚を造るー」を市民文化センター小ホールで開催。約三百四十人が来場した。
築造年代や性格付けなど
専門家が自説を展開
高尾山古墳は、都市計画道路沼津南一色線の工事に伴う調査により東熊堂の高尾山穂見神社境内で発見された。当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、昨年六月に現在の名に改称された。四角形と台形を南北につなげた前方後方墳という形式で、南北の全長は約六二㍍。出土品の形状により、三世紀中ごろか、その少し前に築造されたと見られている。
シンポジウムでは、沼津市教委の池谷信之さんが司会を務め、池谷さんを含む同古墳発掘調査報告書の執筆者ら六人が、古墳について多角的に論じた。
池谷さん 古墳の概要 池谷さんが最初の発表者となり、古墳の概要について話し、はじめに当時の地理的状況を説明した。
それによると、古墳が建造された当時の沼津西部地域一帯には浮島沼が大きく広がり、現在の田子の浦付近で海とつながっていた。沼の周辺は強風や高潮などにより塩害が発生しやすいため、当時は沼から離れた内陸部に水田が広がっていた。古墳に葬られた人(被葬者)は農業地帯を支配した人であり、古墳は水田地帯を見渡せる場所に位置しているという。
また池谷さんは、古墳が築造される前の時代に当たる弥生時代後期には、愛鷹山麓に大きな集落があったことを説明。被葬者は、この集落の支配者の流れを引くのではないか、と推論した。
続いて、池谷さんは古墳の構造について説明。古墳は自然の地表を整地して地表を削り出し、その上に改めて土を盛ってつき固めてあった。この丘のような盛り上がりの頂上に「墓坑」と呼ばれる穴が掘られ、そこに死者や副葬品を納めた木棺が安置された。
池谷さんによると、この墓坑の位置は、周到な計算に基づいているという。その一例として、台形をしている前方部の斜辺を延長した線や古墳の中軸線などが交差する点は墓坑内にあり、しかも、この地点からは勾玉(まがたま)が発見されている。池谷さんは、勾玉の形は人間の心臓を模したものだという説を紹介し、古墳設計の基点となる場所で勾玉が見つかったことには、何らかの意味があるのではないか、とした。
このほか池谷さんは、高尾山古墳の築造年代について軽く触れ、大まかに言って西暦二三〇年代説と二五〇年代説があることを紹介。そして、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が葬られている可能性が高い箸墓古墳(奈良県桜井市)は二五〇年ごろの築造と見られていることを述べ、二三〇年代説と二五〇年代説が持つ意味について解説。
それによると、二三〇年代説の場合、ヤマト(奈良県)の地に中央政権が成立する以前から、地方で古墳が造られ始めたということであり、これは弥生時代から古墳時代への移り変わりが各地で同時多発的に起こったことになる。
一方、二五〇年代説の場合、古墳の築造はヤマトから地方へと普及していったことになり、新時代の訪れは、ヤマトを中心としたものであったことになる。
このため、高尾山古墳の築造年代は、弥生時代から古墳時代への移り変わりがどのように行われたかを考える上で、重要な意味を持つことになるという。
渡井英誉さん 出土土器 富士宮市教委の渡井英誉さんは、高尾山古墳から見つかった土器について話した。
それによると、古墳からは、三世紀から四世紀の百数十年間にわたる年代の土器が発見されているという。この時期は、弥生時代から古墳時代に当たる。
ま年代だけでなく、土器の産地も多岐にわたり、伊勢湾岸や近江(滋賀県)、北陸、関東などの土器が見つかっているほか、地元産である大廓式土器が見つかっている。
渡井さんによると、大廓式土器は狩野川沿岸で作られ、西は御前崎、東は相模川流域(神奈川県)、北は甲府盆地(山・梨県)に至る範囲の土地で使われていたと考えられている。そのため、渡井さんは「これは一つの勢力圏があったことを意味し、高尾山古墳の被葬者は、大廓式土器の生産に関わっていたのではないか」との見方を示した。
渡井さんの発表終了後、司会の池谷さんは「大廓式土器が、なぜこれほど広範囲で見つかっているのか疑問に思っていたが、高尾山古墳の発見により、土器普及の核となるものが見えてきたのではないか」と総括。
「様々な地域からの外来土器が見つかっているということは、地域勢力同士の連携や同盟のようなものがあったと見てもよいか」と質問し、渡井さんは「そう見てもよいのではないか」と答えた。
滝沢誠さん 駿河の古墳 筑波大教
授(前静岡大教授)の滝沢誠さんは、駿河(静岡県中東部)の初期古墳について話した。
滝沢さんは、駿河を西スルガ(静岡市、志太地域)と東スルガ(富士市、富士宮市、沼津市、三島市の一部)に分け、双方の古墳について解説。
それによると、西スルガでは、神明山古墳群や午王堂山古墳群、駿河最大の一一五㍍の柚木山神古墳などが発見されているのに対し、東スルガでは富士宮市で発見された丸ヶ谷戸遺跡の前方後方系周溝墓(古墳以前の大型墓)が特に古いものと見なされる一方、これに続く古墳は存在しないと思われていた。しかし、高尾山古墳の発見が、この見方を変えることになったという。
滝沢さんは、神明塚古墳(沼津市)が再調査により、築造年代が、当初考えられていたより古いものであると判明したことや、七〇㍍級の前方後円墳と見られる向山十六号墳(三島市)の発見と合わせ、丸ヶ谷戸ー高尾山ー神明塚ー向山と連続して古墳が造られ続けてきたことが明らかになりつつあることを説明した。
このことから滝沢さんは「スルガの拠点的地域が明確になってきた」とし、古代には静岡市清水区一帯を地盤にする勢力と、沼津市一帯を地盤とする勢力があったことを指摘。それぞれの勢力は後の時代に登場する地方有力者である盧原国造(いおはらのくにみやつこ)や駿河国造などにつながるのではないか、との見方を示しだ。また、かつて駿河国が伊豆半島も含んでいた時代の駿河の中心地は駿河郡駿河郷(沼津市)であったが、高尾山古墳の存在は、このことと無縁ではないとの考えも見せた。
赤塚次郎さん 東海系文化との関係
高尾山古墳築造時期について西暦二三〇年代説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎さんは、高尾山古墳と東海系文化の関係について話した。
まず、東海系文化の特長について言及し、三遠式銅鐸が発見されている範囲をその文化圏であるとし、濃尾地方一帯には邪馬台国と同時期の集落遺跡が次々に見つかっていることを紹介。続いて「三世紀ではなく二世紀が問題だ」とし、高尾山古墳が築造されたと見られる三世紀より前の時代について解説した。
それによると、木の年輪調査から、二世
紀前半の西暦一〇〇年から一五〇年の間のいずれかの年に大洪水が発生したことが判明するとともに、当時は数年おきに干ばつと洪水が繰り返し続く長周期変動があったことも分かったという。また、断層の調査から東海地方では二世紀前半に大きな地震があったことも明らかになっている。
こうした状況説明を踏まえて赤塚さんは、「環境の変動が社会を変え、弥生時代までの知識が通用しなくなった。東海系文化は、この変化を乗り越える知識を蓄え、英雄が登場した」と語り、三世紀は二世紀の環境変化を乗り切った東海系文化が北陸や関東へと広まった時代だと述べた。そして、高尾山古墳にも採用されている前方後方墳という形は、この東海系文化と関係が深いと指摘。
さらに赤塚さんは、沼津一帯の環境変化についても触れ、富士山の噴火が沼津一帯への東海系文化普及のきっかけになったのではないか、と推測した。
最後に赤塚さんは、いわゆる「魏志倭人伝」の記述を踏まえ、①巨大地震や洪水の発生、②倭国大乱、③東海系文化の普及、④邪馬台国と狗奴国(くなこく)の抗争、という時代の流れを描き、高尾山古墳の築造は③と④の間の出来事ではないか、と見通した。
発表終了後、東海系文化圏を魏志倭人伝に登場する狗奴国と見なす赤塚さんに対し、司会の池谷さんは会場を代表する形で「高尾山古墳の被葬者と狗奴国の関係についてどう思うか」と質問。
赤塚さんは「狗奴国の仲間の一つだったのではないか」と答えた。
寺沢薫さん 前方後方蹟の意味 一方、築造時期を西暦二五〇年代だとする見方に立つ桜井市纏向(まきむく)学研究センターの寺沢薫さんは、ヤマト地方(奈良県)の前方後円墳と前方後方墳の関係について論じた。
はじめに寺沢さんは高尾山古墳の築造年代について触れ、「副葬品の状況を見ると、三世紀中ごろ以降。しかし、土器はそれより古いものだと思う。このギャップをどう考えるか」と述べ、古い時期の土器が古墳周囲の溝から発見されているとから、これらは古墳に紛れ込んだものではないか、と指摘。また、古墳の形状についても「前方部が長く発達していろ。これは、それほど古いものではないだろう」との見方を示した。
続いて古墳の規格の話となり、奈良県桜井市で見つかった纒向遺跡の古墳群の形状を説明。
これらの古墳は、前方後円墳で、後円部が盛り土で高くなっているのに対し、前方部は低くなっている。また、古墳全長と後円部直径、前方部長さの比率などの特徴について話した。
そして、寺沢さんは、纏向遺跡の前方後円墳のこうした特徴は、多くの前方後方墳にも含まれていると指摘。前方後方墳と前方後円墳は対等に存在するものではなく、前方後方墳は前方後円墳の影響を受けて形が決まる関係にあった、と推論。また、こうした上下関係を江戸時代になぞらえ、前方後円墳の被葬者はヤマト地方の中央集権的な政治勢力にとって譜代大名のような立場であり、前方後方墳の被葬者は外様大名のような立場だったのではないか、とした。
そして、この上下関係から、高尾山古墳の位置付けについても触れ、高尾山古墳は三世紀中ごろ(西暦二五〇年ごろ)に築造された纏向遺跡の箸墓古墳などと同じか、少し後の時期に築かれたのではないか、との見解を示した。
そして、高尾山古墳にもヤマト地方の影響があったのではないか、と語り、「高尾山古墳とは、西暦二五〇年ごろにスルガがヤマトの王権とのパイプを模索していたことの証であり、これこそがこの古墳が持つ歴史的価値ではないか」と結論付けた。
総括 最後に明治犬名誉教授の大塚初重さんが総括。
はじめに、大塚さんは高尾山古墳の第一印象について、「大廓式土器が出てきたと聞いて、かなり古いなと思った」と回想。また他の土器の出土状況からも、三世紀前半の築造ではないか、と思っていることを述べた。そして、古墳とは、ある地域からある地域へと波及していくのではなく、どの地域でも一定の状況まで発展成長すると古墳が登場してくるのではないか、との考えを述べた。
また、前方後円墳と前方後方墳とは被葬者の地位の違いによるものではなく、各地域の墓や葬儀の制度の違いではないか、とした。
すべての発表終了後、質疑。
来場者の一人は赤塚さんに対し、「東海に狗奴国があるとするならば、邪馬台国はどこにあると思うか」と質問。赤塚さんは「河内(大阪府南部)だと思う」と答えた。
また別の質問者は「高尾山古墳に関連すると思われるような貝塚は見つかっているのか」と質問.これには池谷さんが「見つかっていない。しかし沼津市内の雌鹿塚遺跡からは釣り針が見つかっている」と答えた。
このシンポジウムは、高尾山古墳について沼津市民が理解を深める機会を提供するために開催された。
このため、市教委ではシンポジウムの開催を県外に向けては特に告知しなかったことから県外の研究者等から開催について多くの問い合わせがあったという。
(沼朝平成24年8月5日号)
シンポジュウム当日資料クリック
2012年7月27日金曜日
沼津「御成橋」あす開通100年
戦前のにぎわい刻み、戦火くぐる
沼津「御成橋」あす開通100年
「町の宝」市民感慨
沼津市中心部を流れる狩野川に架かる御成橋。県東部初の鉄橋として、明治時代に完成した。名称は、皇族が沼津御用邸(現沼津御用邸記念公園)に向かわれる際、通り道になったことに由来する。市民が誇りにする橋は28日、開通100年を迎える。
御成橋は、前身の港橋(木製)を改築し明治45年(1912年)7月28日に竣工した。当時としては珍しい3連アーチ式だった。交通量の増加や河川改修に伴い、1937年に当時の約35万円を投じて架け替えた。
2代目は今も現役で、全長130㍍。幅9㍍の車道と両側に歩道がある。アーチ型は初代から引き継いだ。
御成橋の西側に位置する上土商店街。ここで生まれ育った市川久枝さん(86)、中山文江さん(86)、前山文子さん(87)の同級生は、橋の歴史を知る数少ない人たちだ。
商店街は戦前、料亭などが軒を連ねにぎやかだったという。生家のわさび漬け専門店を営む中山さんは「皇族のおつきの方がよく買いに来られた」と懐かしむ。
アーチを支える鉄柱には所々、へこみがみられる。市明治史料館によると、死傷者53人を出した45年4月の米軍の空襲でできた跡。爆撃は8月まで続いた。前山さんは「御成橋を渡って対岸に逃げた。街は焼け野原になったが、御成橋だけは残った」。
御成橋は、58年の狩野川台風も耐え抜いた。現在、橋の上は日中、車が激しく行き交う。夜には青い光が、宵闇にアーチを浮かび上がらせる。夜景を眺めながら散策する人も多い。
「華やかな時代も悲惨な時代も私たちを見守ってくれた。御成橋は沼津の宝だと、つくづく思う」。老舗時計店の店頭に立つ市川さんは感慨深げに話した。
〈 メモ〉港橋は朋治33年ごろまで民間人が管理し、橋を渡る際は賃料が取られていた。初代御成橋は市史などで長年、「大正2年の沼津大火で港橋が焼失し架け替えた」とされてきた。地元の郷土史家が2007年、誤りを発見した。
(静新平成24年7月27日朝刊)
2012年7月23日月曜日
2012年7月14日土曜日
高尾山古墳でシンポ
高尾山古墳でシンポ
沼津22日 きょうからパネル展も
東日本最古級の前方後方墳といわれている沼津市東熊堂の高尾山古墳の歴史的価値を考えるシンポジウムが22日午後1時から、同市御幸町の市民又化センターで開かれる。入場無料。申し込み不要。
市の学芸員と同古墳発掘調査報告書を執筆した専門家らが出土品などを元に、古墳の成立年代や当時の勢力図などを解説する。調査の成果を写真やイラストで紹介する「高尾山古墳ガイドブック~スルガの王、大いに塚を造る~」を1部100円で販売する。
同古墳は西暦230年頃に成立したとの説があり、卑弥呼の墓よりも古いとみる専門家もいる。ただ、国道1号と同246号を結ぶ市道建設予定地にあるため、保存するか撤去して道路を建設するかで揺れている。市教委は「古墳の価値をしっかり認識した上で、市民同士の議論を深めてほしい」としている。
14~23日は、同センターで「高尾山古墳パネル展」も開催する。問い合わせは市文化振興課文化財調査係〈電055(952)0844〉へ。
(静新平成24年7月14日朝刊)
2012年5月19日土曜日
唐招提寺旧鴟尾 歓喜院聖天堂
唐招提寺旧鴟尾など国宝
金堂飾った"天平の甍"
文化審2件答申
文化審議会は18日、唐招提寺金堂(奈良市)の屋根を飾った"天平の甍(いらか)"として知られる「旧鴟尾(しび)」2個と、華麗な装飾が特徴の「歓喜院聖天堂(かんぎいんしょうでんどう)」(埼玉県熊谷市)の2件を国宝に指定するよう平野博文文部科学相に答申した。
また全長141㍍の階段状の流水施設「牛伏川本流水路」(長野県松本市)など7件を重要文化財に、日光東照宮に向かう街道沿いに発展した栃木県栃木市の嘉右衛門町など5地区を重要伝統的建造物群保存地区にするよう求めた。近く答申通り告示され、建造物分野の重要文化財は計2391件(うち国宝217件)、保存地区は98地区となる。
鴟尾は寺院などの屋根の両端に付けられた装飾。金堂の旧鴟尾の西側のものは形状から金堂が創建された奈良時代後期の製作と推定され、東側のものには鎌倉時代の銘があった。いずれも傷みが激しいため2000~09年の金堂修理の際に取り外され、唐招提寺内で保管。現在は新調した鴟尾を使っている。
江戸時代に民間の寄進で建立された聖天堂は、色漆や金箔(きんぱく)などの極彩色が施され、多彩な彫刻技法が駆使されている。
牛伏川本流水路は、長野県中部にある筑摩山地の治山のため大正時代に造られた。高低差がある地形に合わせ19段の段差がつけられ、技術的価値が高い。嘉右衛門町は瓦ぶきの切り妻屋根など、江戸時代の商家や土蔵の街並みを残している。
(静新平成24年5月19日朝刊)
2012年5月13日日曜日
高尾山古墳発掘の調査報告書
高尾山古墳発掘の調査報告書
7章にわたり詳細分析
今月以降一般頒布を予定
築造年代めぐり2説 最古級性に興味引かれる論争
市教委は「高尾山古墳発掘調査報告書」を三月三十日に刊行。今月以降に一般への頒布が予定されている。市教委では五百部を印刷し、三百部は研究機関や図書館などに送られ、二百部が一般頒布用となる。また、頒布に合わせ市立図書館の郷土史コーナーで閲覧できるようになる。
市教委では、七月二十二日に高尾山古墳に関するシンポジウムを市民文化センターで開催する予定だが、このシンポジウム用に報告書の要約版も作成する。
報告書は七章で構成され、本文だけで二百ページを超える。巻末には、調査時の様子や出土品、遺構などの写真が約八十ページにわたって掲載されている。
【古代の地理】本文第一章では、沼津の古地形と高尾山古墳との関係について解説している。
かつて沼津市域一帯では、西部には海とつながった浮島沼が広がり、東部には「古狩野湾」と呼ばれる海が広がっていた。
その後、古狩野湾では、黄瀬川がもたらす土砂により黄瀬川扇状地が形成され、縄文時代の終わりごろ以降から陸地化していった。このため、縄文時代以前の人々は愛鷹山一帯に暮らし、多くの遺跡が愛鷹山麓から見つかっている。弥生時代以降には、黄瀬川扇状地にも人が住むようになり、当時の遺跡が存在する。
高尾山古墳は、古くから人々が暮らした愛鷹山一帯と、居住地として新たに発展していった黄瀬川扇状地とを結ぶ地点に位置している。また、古墳築造当時には浮島沼が残っていて、その東端は古墳の近くにあり、古墳付近まで、海から舟が入り込むことが可能だったと見られている。
【古墳の形状と出土品】二章から五章までは発掘内容の詳細報告。遺構の写真や実測データ、出土品の一覧などが記載されている。
古墳は全長六二・一七八㍍。二つの四角形がつながった前方後方墳と呼ばれる形式で、前方部は三〇・七六八㍍、後方部は三一・四一〇㍍。古墳を囲む幅八~九㍍の溝(周溝)も見つかっている。後方部から木製の棺が発見されている。
また、無数の土器のほかに、銅鏡一点、勾玉一点、鉄槍二点、鉄鏃(ぞく=やじり、矢の先端)三十二点、やりがんな(工異)一点が出土。銅鏡以下の品は棺の中に納められていた。
土器のうち、周溝の一画から出土した高杯(たかつき)は廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる型式で、西暦二三〇年代の物と見られている。
また棺の周辺からは、同年代ごろの型式と見られるパレススタイル壺が発見されている。
【出土土器】六章以降は、発掘調査結果について研究者による考察が続く。
出土土器に関しては、幅広い年代の土器が見つかっていることから、古墳築造後も長期間にわたって祭祀(宗教的儀式)が行われていたと推測されている。
また、土器は地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかっているが、畿内(奈良県)の物は見つかっていない。
昨年、清水町の恵ヶ後(えがうしろ)遺跡の発掘調査で大規模住居趾が発見されたことから、同遺跡と高尾山古墳との関連性が指摘されたが、同遺跡からは畿内系の土器が見つかっている。このため報告書は、高尾山古墳と同遺跡は「単純に関連付けられるものではない」との見方を示す。
【副葬品】銅鏡や鉄槍、鉄鏃は古墳に葬られた人の副葬品と見られている。
このうち、銅鏡は上方作系浮彫式獣帯鏡と呼ばれる型式で、「上」「竟」「宜」といった文字が入っていることが確認されているが、他所で見つかっている同種の鏡から推測すると、本来は「上方作竟 長宜子孫」という字句であったと見られる。
この種の鏡は中国山東省の遺跡からも見つかっており、その遺跡と同時期の遺跡からは「永康元年」と記された出土品が発見されている。永康元年は西暦一六七年で後漢王朝後期。このため、高尾山古墳の銅鏡も同時期の二世紀(西暦一〇一年~二〇〇年)後半に当時の中国で作られたものではないかという。
また、高尾山古墳から出土した銅鏡の特徴として割れていることが挙げられる。こうした鏡は「破砕鏡」と呼ばれ、宗教行事の一環として、わざと割られたと見られる。破砕鏡は、三世紀(西暦二〇一年~三〇〇年)後半以降に築かれた古墳からは姿を消しているという。
鉄槍は、その一つが弥生時代の形の特徴を持っており、弥生時代に作られ、その後も使われ続けた品である可能性が指摘されている。また、もともとは剣として作られたが、後に槍の穂先として転用された、との見方もある。槍の柄は木製だったため朽ちて、現存していない。
鉄鏃の一部は、その形状を分析すると、ホケノ山古墳(奈良県)や弘法山古墳(長野県)で出土した鉄鏃よりも後の時代の形状をしていることが判明している(ホケノ山古墳は西暦二五〇年の少し前ごろ、弘法山古墳は二五〇年以降に築かれたと考えられている)。
【築造年代】報告書では、高尾山古墳の築造年代について二つの見方を示している。
第一説は、周溝から発見された高杯の型式などから見て三世紀前半とするもの。
第二説は、鉄鏃の型式などから見て、第一説よりも後の時代だというもの。この場合、周溝の高杯は古墳築造以前に存在した集落のもので、古墳に直接関連するものではない、と見なされる。
第一説の場合、具体的には西暦二三〇年ごろと推定され、第二説では二五〇年ごろとなる。
邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする説がある箸墓古墳(奈良県)は二五〇年ごろの築造であるとされる。このため、二三〇年説の場合、高尾山古墳は、それよりも古いことになる。
二三〇年説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、いわゆる「魏志倭人伝」に登場する、邪馬台国に対抗した句奴(くな)国が東海地方にあった、と提唱し、今回の報告書の中でも高尾山古墳と、この東海地方の勢力との関係を強調している。
また赤塚氏は、気候変動や河川が運ぶ土砂などによって、当時は人間が利用可能な土地が広がっていったことを指摘。高尾山古墳に葬られた人物は、伊勢湾岸の先進地域から伝わった新しい文化や技術を利用して「スルガの地」で新たな土地を開発し、愛鷹山麓に暮らす「山の民」と浮島沼周辺に暮らす「浜の民」を統合した「偉大な英雄」であった、と推理する。
一方、二五〇年説に立つ纏向学研究センターの寺澤薫氏は、高尾山古墳の全長と各部の長さの比といったサイズバランスが、奈良の纏向(まきむく)古墳群の比と同じ点を指摘。高尾山古墳は、纏向古墳群を持つヤマト地方の勢力の影響を受けている、との見方をし、高尾山古墳の築造は、ヤマトを中心とする勢力が関東など東国に勢力を伸ばす動きの中の出来事、と見なしている。
【科学的分析】第七章では、出土品に対する自然科学的分析の結果が述べられている。
このうち、出土土器の産地に関する分析では、蛍光X線分析により、高杯には東海地方西部で作られたものと、それを模倣して静岡県東部で作られたものとが混在することが判明している。
(沼朝平成24年5月13日号)
2012年4月11日水曜日
沼津・高尾山古墳

国内最古級説も 沼津・高尾山古墳
市教委 調査報告書が完成
沼津市東熊堂の高尾山古墳の発掘調査を行っていた沼津市教委は10日、市議会文教消防委員会で古墳の調査報告書の完成を報告した。前方後方墳の同古墳は、西暦230年ごろに成立したとの説があり、市教委は「古墳時代成立の過程を解き明かす鍵になる極めて重要な古墳」としている。
同古墳は、市教委が2008年に発掘調査を開始し、09年には国内最古級の230年ごろに作られた高坏(たかつき)が見つかった。ただ、副葬品の鉄製の鏃(やじり)などがそこまで古くないため、同古墳が250年ごろにできたと唱える研究者もいる。
国内の代表的な前方後方墳は、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳。成立年代は250年ごろとみられる。仮に高尾山古墳が230年ごろにできたとすると、東海地方でも独自に古墳文化が進行していたことになる。
市教委の担当者は「今後さらに研究が進められていくと思うが、決着には時間がかかりそう」と話している。市教委は近く、希望者に調査報告書を販売する予定。また、5月上旬から市文化財センター(同市大諏訪)で高尾山古墳の出土品を展示する。7月下旬には同古墳にまつわるシンポジウムを市民文化センターで開く予定。
(静新平成24年4月11日朝刊)
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