2023年11月13日月曜日

貴重な沼津史談ニュースを頂く 興味ある座座談会記事を読む 

 



 座談会

 古老風間缶南氏を囲んで

とき 昭和43218

ところ 沼津市文化会館

鈴川副会長挨拶

(大野会長病気のため代理)本年は明治百年にあたりまして、史談会の行事にもそれを折込んでまいりたいと思います。昨年から皆さんの原稿を頂いておりました会誌第六号も辻さんのお骨折でそれも殆んど徹夜して頂いて本日の会合に間に合うように取敢えず五十部刷らしたので皆様にお配り出来た次第です。

 それでは行事次第に従って風間先生の紹介を山田副会長にお願い致します。山田副会長では風間岳南さんについて私の知れることを申上げます。先生は岡宮の生れで根っからの沼津っ子で満七十三才、日路戦争も知っている古老で金岡から沼津へは始終出て来られ郷土史の方も深く研究されて、江原素六先生のことも精しく、金岡の浅間神社とも関係ありますので、古い事をいろいろ伺いたいと思います。又俳句はこの土地では古くから有名でご座居ます。農業の方は息子さんにまかせて悠悠自適の生活をされて居ります。只今から先生のお話をして頂きたいと思います簡単に紹介申上げます。

風間岳南氏談

 只今ご紹介を頂きました風間です。此の度こちらでこの様な催をして頂きましたが、実は今日小田原の梅見の句会に出席する予定でしたが、山田梅軒先生から役員会で決めたことだと云われましたので、小田原の方を断ってお邪魔致した次第です。沼津と云っても今はパスで十分で来られますが以前は三十分も四十分もかかって、駅まで出た次第です。町で生れた人で私を存じている人は沢山あると思いますが、岡宮から出て来るには高田を通って、平町へ出る道ですが子供の時には他村を通る時は、何とか気がひけるので必ず裏道を通って来て、今でも市立高校の東横を通る細い道があり、自由ケ丘から高田の裏へ入り、今の精華高校のうらに親子松と云うのがあって、そこから下って三つ目ガードの所へ出る、昔からあすこはガードと云って子供の時に歩いた道です。沼津で私の知る範囲では日露戦争のことですがその前に私の一番よく覚えているのは、山王さんのお祭の時にお姿さんに聞いた話ですが、その頃祭の当番で大変にもめて、いよいよお祭になる時志多町から火事が出ました。

 私が親をはなれてお姿さんに連られて、志多町の叔父のところへ泊ったその晩でした。鉄砲町と云う堀ばたの小笹の間の道を歩かされて、そこへ荷物を出して、その脇に置かされて火事を見ていたのが沼津に関する最初の印象で覚えて居りました。次の日家から迎えに来てくれて帰ったと田心います明治三十三年頃でした。その当時私の記憶ですと山王さんから平新道、今の横宿で市立病院の所へ出ますが、あの一帯を"ごせ野"と云います。

 (次号へつづく)

 古老風間缶南氏を囲んでその2 

 とき・昭和四十三年二月十八日

 ところ・沼津市文化会館

 そこには沼津藩水野の殿さんの妾で、目が悪くなった人で遊芸の出来た人が、女の盲人を集めて音曲を習わしたので「ごせ野」と云って、その「ごせ」か私の子供の頃村へ来て、うちのお婆さんが人の面倒を見るので家へ泊めて、百姓屋の土間で「ごせ」の安珍清姫をやったのを覚えて居ります。その頃は二人組で来たがお金をやる人は無く、お米だと云へば米の袋を出し、麦だと云へば麦の袋を出す。自分だけでなく家の方には何人かいるからそれの分まで欲しいなど云うので、下世話に自分以外の分を欲しがるのを「ごぜ」のようだと云った。狢川を渡り駅の方へ行く道が坂で、車は一人で引けないような坂であった。堀はだんだん埋められ、片端の所は駅から出るアス殼で埋められ、よく石炭の然えがらを拾っている人かいた。魚文は今の所にあって裏に町役場があった。松菱の所に井戸があって、大きい門があったと云われます、志多町から喰違(和多仁商店裏)の坂を上って今の森田さんのカレッヂのある所に沼津の西洋館で一番早く出来た家があって中村六三郎弁護士が住んで、志多町から商く見えた。当時鉄砲町には堀が残って高野会計事務所の所が城の角になっていて、大きな松の木が残っていた。沼津の街がひどく変ったのは大正二年大火以後で、狩野川畔の水神さんのお祭りも、その当時は夏祭りの初めでモロコシ売りが出ていた。船も平町の杉山肥料店の所まで行ったかが、あとで丸京の所になった。川の向側には仲町から中瀬の水車まで米を運ぶ舟がゆき来していた。上土通りも商店が焼ける度に変って、当時鈴川さんの大坂屋薬店・あみや・阿波屋・日野屋・布沢・若松屋・片岡・鍛冶屋・角の大坂屋文房具店・通横町にはマルサンの東隣に茶飯屋の一膳飯のノレソがかかっていた、今の西島屋だった。今.静岡へ行って城の西側の堀を見ると当時の沼津の城趾の堀と何も変らなかった。石垣の上に松も植えてあった。

 明治六年、長窪のお長屋の士族が牧場をやって牛乳の店を添地に出した。東京へも出して牛乳屋として一番最初であった。明治十年の東京博覧会に乳製品も沢山出品した。長窪ではモン沢石も有名で、東京の電車の敷石にした四角い平たい石は、あすこから出て本当は桃沢石だが江原先生がいろいろ骨折って出一したものであった。その他この地方の産業で先生が創めたものが多かったが、失敗したものも多かった。先覚者で時期が早過ぎた為だった。明治三十年代に今の道より広い道を作ったが今でも一部は残っている。当時失敗した牧畜、茶莱等も現在残っていて重要な産業となっている。

 只今お目にかける写真は大正十一年の沼津駅の写真ですが、この自動車はパスで、ハイヤーでもパスでも、馬車も金岡の人が始めたもので、馬車は山田と云う人がブラジルから帰ってきて始めた。ハイヤーは昭和タクシーが東沢田の渡辺で、バスは土屋米吉、最初は駅より熊堂下土狩までやった。戦後の国民車は平松と云う人で西沢田への引揚げ者であった。お茶で有名たったのは上土の坂さんで、茶の吟味する人で、朝早く狩野川の水を使った。狩野川の東側と西側の水を味の見分けした。

 日露戦争の後、西のカードが広場になっていて子洪の頃捕虜の露西亜兵を見に行った。

 愛鷹山の旧競馬場の東側に蓮華往.生した人の骨を埋めた祉というのかあって、開墾で掘起した人の手がしびれたと云った。通称寺山一番高い所が高山で、鐘撞堂址の石があると伝へられている。先程云い忘れたが、沼津駅の建物は梅田駅の建物を移築したものと云われています。鈴川…風間先生のお話はこれで一服して自由の質問に致します。先程の「ごぜ」というのは瞽女という字を書くのですね。ごぜは幕府の命を受けて穏密のような役をしていたそうです。それで文化年間に狩野川の洪水に特別にお助け米を出すような記録があります。

風間…岡宮の古文RHにも座頭何人ごぜ御座無く候とあります。問……五東松附近は石垣は無かったかと思いますがどうでした。風間,.,石垣はあったかどうか、名取商会の出来た時に堀はありました。高野…石は何も残っていなかった。上の残りで蓮の生えていた所を埋めたが、石は残っていませんでした。鈴川…香貫の中埜分店の隣の金チに沼津城の米倉があったが、狩野川改修の時に取こわした。風間…西沢田の平松さんに城の鬼瓦があって、瓦の一枚一枚に焼いた人の刻印がしてあった。山田…江原先生に会ったことがありますか?風間…若い時に何回も会って、亡くなる前にもお目にかかった。山田…会った感じはどんな人でした? 風間…昨年新聞社で来て生前に会った人の印象は、と聞かれたが、本当におだやかな温厚な人で、私達小学校時代教室に来られて話をしましたが低い声ですが教室の偶々まで通って、人格というのか、咳一する人もありません。贅沢なことをする人でなく本当に質素でした。

葬式の時行きましたが、棺は檜の一寸厚の板を使って、当時に珍らしく顔の部分に硝子がはまって、村の人達がお別れに顔を見ました。ことによるとミイラになっているかも知れません。無慾な人で殆んど無一物だから選挙の時に有力者が一時.自分の財産を江原さんの持物にして、選挙権のあるようにして衆議院に押出しました。

(「沼津史談ニュース№⒁ 昭和44210日発行・№⒂ 昭和44320日発行」)



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