2018年11月10日土曜日

よみがえる豊臣の駿府城


よみがえる豊臣の駿府城
天守台から見える戦略 
徳川抑えるランドマーク
 平成最後の年に突如、「豊臣の駿府城の天守台」が地上に姿を現した。予想もしなかった展開に、多くの人が度肝を抜かれたことだろう。そこで発掘調査でこれまでに分かった事実から、豊臣の城の真の姿について考察してみたい。
 天守台は石垣の特徴や遺構とともに出土した金箔(きんぱく)瓦から、1590(天正18)年に秀吉から駿府支配を託された中村一氏時代が確実だ。従って、一氏が城主であった同年から転封する1600(慶長5)年の間に造られたことになる。諸記録や周辺の状況から完成は文禄年間(15931596)中と言える。
 改めて、調査で確認できた規模を検証しよう。南北約37㍍×東西約33㍍だが、上部数㍍が破壊されていた。石垣の高さは地下に埋まった部分を含め1015㍍が想定される。関ケ原合戦前の石垣で最も高いのは岡山城本丸の約16㍍で、毛利輝元の広島城天守台が約12㍍だった。そう考えれば破壊を受けた石垣の高さは最大でも5㍍程度になる。それによって天守台も若干狭まり、1階部分の平面は南北35㍍×東西30㍍ほどと見るのが妥当だろう。
 ちなみにわが国最大規模の床面積を誇る城は3代将軍徳川家光が築いた江戸城で約38㍍×34㍍。次いで名古屋城の約37㍍×33㍍になる。現存する天守台では姫路城の約27㍍×20㍍が最大だ。

 同様に、豊臣政権下の代表的天守台を見ておこう。秀吉が築いた大坂城天守台は幕府大工頭を務めた中井家が所有する「本丸図」から約30㍍×28㍍と判明している。伏見城は「諸国古城之図」の記録に約36㍍×32㍍とある。秀吉の弟・秀長が築いた大和郡山城の天守台は約18㍍×16㍍、120万石の太守、毛利輝元築城の広島城でも約24㍍×18㍍でしかなかった。これらと比べると「豊臣駿府城」天守台の巨大さが際立つ。一氏はわずか14万石。大大名に遠く及ばない石高で広島城より巨大な天守台を築けるはずがない。豊臣政権が領国の東端と、関東に移した徳川家康を抑える目的で総力を結集し、豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な駿府城を完成させたとしか思えないのだ。規模は伏見城に及ばないものの、100万石の大大名の天守を凌駕し、わが国5指に入るほどの規模を誇っていた。
 関東の(のど)元を押さえる駿府に築かれた巨大天守は、徳川家に敵対行為の無謀なことを知らしめるランドマークだったのだ。
(加藤理文・日本城郭協会理事)

 ※かとう・まさふみ1958年、浜松市生まれ。博士(文学)。袋井市立浅羽中学校教諭。20168月に始まった駿府城発掘調査に関する専門家による視察及び意見交換メンバーの一人。袋井市在住。
【静新平成30119()夕刊】

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