2018年8月3日金曜日

地図から見た沼津④「沖ノ島(狐島)と登り道」 加藤雅功





地図から見た沼津④「沖ノ島(狐島)と登り道」 加藤雅功
今回は天保6年(1835)の『本町野方(ほんちょうのがた)絵図面』や天保(てんぽう)8年(1837)の『沼津本町絵図』などを紹介したい。沖ノ島(狐島)と沼津新田かつて東間門(まかど)村は西間門村と同様に愛鷹(あしたか)山の百沢(ももざわ)のうち、東熊堂(くまんどう)地内を流下する谷戸沢(やとざわ)(現谷戸川)から用水を引いていた。灌漑用水路の草刈川(古くは草苅川)河畔に位置した旧字輪ノ内の「御座(ござま)松)」は西間門村との境を示す榜示(ぼうじ)の松と思われるが、その東側には谷戸沢の分水の中溝(なかみぞ)川が流れる。古代の条里水田の方格状の整然とした土地割を示す「中溝耕地」は一ノ堰(せき)で分水する中溝井組(いぐみ)からの呼称で、より東側は整然さを若干欠く中に、特異な島状の土手が東西2町余りにわたって延びていた。
『本町野方絵図面』では「沖之島」とあり、字東と字西に分れた土手状の微高地は「草刈場」と記されている。また、『沼津本町絵図』では「狐嶌」(きつねじま)とあり、
凡例は「草木」で、屋根を葺(ふ)く茅(かや)や飼料用の秣(まぐさ)(飼い葉)の採草地であった。沼川分岐点の又井(またい)から分水する草刈川は、入会(いりあい)地に多い葦(あし)や茅などの草木を刈る「草刈場」に因(ちな)む命名で、沖ノ島の西側の畑地は旧字「上八通り」(後の上中溝)の微高地である。
 明治5年(1872)の『駿河国駿東郡東問門村縮図』では、沼津本町との入会に東間門分として、東・西の表記がある島状の地があり、東側の高まりに独立樹の松が描かれている。島状の堤は丸子(まりこ)神社の真北、5町余の位置で、北側は「嶋外」(しまぞと)の入会地で、古くは「島外浸(ひたし)」の排水不良地で、変形の土手が囲繞(いによう)していた。より北側や西側は旧字「西阿原地(あわらち)」(後に阿原(あーら))、東側は後の字「ひたし」入会地で、ともにアーラ(芦原・荒原)の泥質・泥炭質や砂質の開墾地で、下々田(げげでん)が大半であった。なお、葦は刈り取られ、堆肥に利用された。用水掛りは黄瀬(きせ)川の牧堰(まきせぎ)からの本町溝(大溝)の「登道(のぼりみち)用水」(下流は子持川)で、西側の沼津本町分と
して、東西9町、南北4町ほどの広大な原野がかつて存在した。地形的には「馬の背」の微高地で、水掛(みずがか)りの悪い日損田(ひそんだ)と思われ、この西阿原と東阿原との中間に「沼津新田村」の集落があり、元禄以前に成立した新田開発の対象地であった。市道(いちみち)(五反田)と根方(ねがた)の東沢田方面とを結ぶ「新田道」(しんでんみち)が中央に通る沼津新田には「愛鷹神社」(村方持ち除地)があり、今は本字田町(現本田町)の「三神社」に合祀されている。
丸子神社のほぼ北に位置する沖ノ島(狐島)は、砂質土壌の土手の高まりから、原地区の男鹿塚(おがつか)・女鹿塚(めがつか) (雄ケ塚・雌ケ塚)の景観が浮かぶ。浮島ヶ原の沼沢(しょうたく)地とは異なる高燥地(黄瀬川扇状地)の中に孤立して、東海道から見ての沖の島で、草刈りの有用な地で、草木が生えて狐が棲息するような地形環境である。

 ランドマーク(陸標)の「土手の古松」は、境界に絡む榜示(ほうじ)の松と推定される。明治5年(1872)の地図では沖ノ島に古い、大きな枝振りの良い松があった。この場所はその後、東京人絹(じんけん)沼津工場(後にフジクラ沼津事業所)の敷地内となり、削平されてしまった。同様な一本松は沼津新田(現本田町)の北側、字中ノ坪(東沢田分)と字塚田(中沢田分)間の境界部、新田道の1町西側寄りに、かつて榜示の松があった。
「古道」と「登り道」東間門の「御座松」は高貴な人に関わるか、御座の重ね合わせた形状に因むかと思われる。古道(こどう)近くのより西側に位置する、西間門の字神明(しんめい)や字北島付近は古い集落跡とされる。東海道以前の中世の古道が推定され、字神明には古く神明神社があり、かつて榎の古木があった。西寄りの旧松長村の「松長新田」も同様な中世の集落跡として、両方を結んで古道とする説がある。しかし、低湿地側に隣接する位置に加えて、近世の新田開発が関わり、地形環境のほかに居住の永続性やルート面で無理が生じる。
 また、『沼津本町絵図』に描かれた独立樹の大松から、丸子神社の前と脇を通る点より、古道沿いの一里塚と推定する人さえいた「御座松」も伝承が残らない。絵図に描かれていた松は、その後の明治5年の地図では格段に松が小さく、塚も描かれていない点から一里塚の対象から外した。
一方、沼津の浅間神社へ明治10年(1877)に遷座した旧丸子神社も、東海道から離れている。『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(しんめいちよう)記載の式内社(しきないしゃ)に比定されている古社の丸子神社は祭神として金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀り、東間門の旧村社であった金山神社も祭神が金山彦命で、同じ信仰圏にあった。その後、丸子神社は国常立命(くにとこたちのみこと)を合祀している。
 丸子神社の北西寄りで、中溝川沿いに沼津本町分の字下道(古くは二十四通)があり、中沢田側から東間門への南北にわたる「下り道」(くだりみち)を指す。東側の道を「上り道」(のぼりみち)とも表記した結果-二次的に発生した。2つの道の間が「登道(のぼりみち)耕地」で登道用水の灌漑による条里水田の方格状の整然とした土地割を示す。
なお、沼津新田への道は「登り道」(のぼりみち)ではなく、元々「新田道」(しんでんみち)と呼んでいた。西側には「登堂之坪」(後の中登り道)、東側には「登堂坪」(後の白銀(しろがね))があった。
「幟所(のぼりど)」、「幟道(のぼりどう)」の字も当てられ、「登り堂」が「幟所」や「幟道」へ、さらに「登り道」と転化した。本来は幟の立てられたお堂に起源の可能性が高い。通りの西側の字塚田には細長い塚を、字法性寺(ほっしょうじ)には小さな稲荷を、天保の絵図に見るが不祥である。
愛鷹山麓の「根方」の集落とを結ぶ南北の道は、ほかに大字上土(あげつち)・三枚橋の境界部の延長で、東熊堂分に字中道(なかみち)があり、かつて「中道」と呼んだ可能性がある。東側の大字高田・三枚橋・日吉との境界部には字造り道があり、岡宮の浅間神社と平町の日枝(ひえ)神社(山王(さんのう)社)とを結ぶ「山道」で、成立が新しい故か「造り道」の字名(あざな)が残る。西側の大字上土・本町から西熊堂・東沢田の境界部は「根方道」と呼ばれ、七反田から東熊堂・西熊堂の大字境、熊野神社横を結ぶ県道162号の前身の道も「根方道」と呼ばれた主要道であった。
 沼津市歴史民俗資料館だより
2018,3.25発行Vo142No,4(通巻217号)
編集・発行〒41O一O822沼津市下香貫島郷2802-1
沼津御用邸記念公園内
沼津市歴史民俗資料館TELO55-932-6266
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