2018年5月12日土曜日

『名門水野家の復活御曹司と婿養子が紡いだ100年』


沼津藩水野家の書籍が発刊
 新潮新書で初代と2代藩主描く
 江戸時代後半に沼津藩主を務めた水野家に関する書籍が、このほど出版された。書名は『名門水野家の復活御曹司と婿養子が紡いだ100年』=写真。著者は東京工菜大学准教授で幕府政治研究が専門の福留真紀氏。
 同書では、没落した水野家の復興をテーマに、初代藩主忠友と二代藩主忠成(ただあきら)の二人の生涯を解説している。
 水野家は、徳川家康の生母の実家に当たり、江戸時代になると名門の家柄とされ、信州松本藩七万石の大名となった。
 しかし、八代将軍吉宗の時代の享保十年(一七二五)、六代藩主の忠恒が江戸城松の廊下で長府藩主跡継ぎの毛利師就(もうり・もろなり)を斬りつけるという事件を起こし、水野家は七万石の大名から七千石の旗本に格下げされている。同じ場所で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった事件から二十四年後の出来事であった。
 忠恒事件の半世紀後に水野家の大名復帰を実現させたのが、忠恒の従兄弟に当たる忠友だった。忠友は幼少期に後の十代将軍家治の御伽役(おとぎやく=学友、側近)に抜擢され、以降、家治の側近として幕府内で頭角を現し、安永六年(一七七七)、四十七歳で沼津藩二万石の大名となった。
 忠友には娘しかおらず、分家から婿養子として迎えられたのが、二代藩主の忠成。忠成は父と同じく幕府首脳の老中に就任し、十一代将軍家斉(いえなり)の信任も厚かったことから、その権勢は絶大であった。一方で、人事などで賄賂を受け取ったため、当時の知識人からは非難を受けた。
 同書では、忠友と忠成の出世街道の様子や、その人柄、ライバル達の姿、さらに水野家と田沼意次(たぬま・おきつぐ)との関係などが紹介されている。また、忠成の右腕となり、その名が諸大名に知れ渡った家老、土方縫殿助(ひじかた・ぬいのすけ)の活躍と評価にも紙幅が割かれた。
 ただし、同書は幕府高官としての水野家当主の位置付けに焦点を当てているため、沼津藩主としての姿の記述は省かれている。
 同書は新潮新書シリーズの一冊。価格は七四〇円(税別)
【沼朝平成30512()号】


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