2018年4月28日土曜日

あゆみ婦人学級開校式前の学習会


当日使用したスライド↑






沼津の戦後をたどる
あゆみ婦人学級が開校式前に学習会
 あゆみ婦人学級(坂井秀代委員長)は今年度の開講式を二十日、千本プラザで開いたが、これに先立ち、上本通り商店街振興組合の長谷川徹理事による講話「沼津商業界戦後二十年史」を聴いた。
 敗戦からアーケード完成まで
 郷土史研究家の長谷川徹さん講師に
 長谷川さんは自身が作成した資料をスライドで上映しながら昭和二十年代の沼津を振り返った。
 十九年の沼津の地図には太平洋戦争以前の計画である弾丸列車の線路敷予定地が示されている。この列車は東京から下関、朝鮮半島に渡り、インドネシアのスマトラ島まで線路を通すという一大国家プロジェクトだった。
 この弾丸列車の線路敷予定地は、現在の学園通り一角からリコー通りまでを斜めに走る道路として、今も形が残っている。
 その、すぐ南側に海軍工廠が出来たが、弾丸列車の線路敷予定地の影響で、工廠敷地北側は斜めになっていた。
 当時、国は大都市への空襲を恐れ、大都市部を走る列車は全て地下鉄を考えていて、弾丸列車も都内の出発点から神奈川県まで地下鉄で計画されていたという。
 戦後の間もない頃、沼津駅の南には闇市的なものがあり、長谷川さんは「当時は、ないないづくしの時代、沼津の漁ではイカがたくさん取れ、東北や関西方面から沼津の闇市にイカを求めて人が訪れていた」と説明。
 昭和二十一年になると、「何よりも市民に必要なのは娯楽だ」と映画館の建設ラッシュが始まる。
 「バラックだけど立派な映画館が出来た」と、当時誕生した映画館の一つを説明しながら、平和館、沼津松竹、沼津映画劇場、宝劇場、本町映画館、本道り沼津第一東宝館と続いた映画館の建設が旅館や呉服店などの跡地で行われたことを語った。
 また、杉崎町にあった不二家食品沼津工場では、戦時中は缶詰や乳製品など主に兵隊のための食べ物を作っていたが、この年、沼津工場の工員が練乳と水あめを混ぜてミルキーを開発、現在も販売される国民的な菓子になったことを説明した。
 長谷川さんは「これが元祖、沼津ブランド。(出かける際には)ミルキーを買って行き、『実は沼津の発祥のお菓子なんだよ』と話題にしていただきたい」と呼びかけた。
 同じ年の十一月三日、新憲法の公布は沼津港の開港日と重なった。昭和八年に着工され、十二年に、ほぼ出来上がったが軍管理となったことから、漁師は使っていたようだが正式な開港は戦後になったという。
 また、沼津駅から沼津港近くまで走っていたのが蛇松線。明治時代、東海道本線(当時は御殿場回り)の鉄道建設資材を運ぶために資材運搬用鉄路として敷設された。
 明治二十二年に東海道本線が開通してから使われていなかつたが、明治の後半になり、沼津港で水揚げされた海産物の輸送に使われるようになった。
 蛇松を起点としていた時代は蛇松線、戦後、沼津港を起点としてからは沼津港線と呼び名を変え、昭和四十九年まで使用された。引き込み線のため時刻表がなく、荷が出たら動かしていた。
 長谷川さんによれば、「人を運んだことはなかったが、運行最後の日のイベントで客車を付けて走った」という。
 二十三年には沼津市警察署が発足。それまでの警察は内務省の管轄だったが、アメリカの警察に倣って市警となり、しばらくしてから県警になった。
 二十四年には商工会議所の役員会で沼津駅北口の設置と片浜駅の新設請願が決まる。その活動によって沼津駅北口が出来、年月を経て片浜駅が実現した。
 長谷川さんは「沼津の経済の若い役員達が声を上げて運動を始めた」としながら、現在と比べた。
 この年には旧海軍工廠の跡地を巡り、金岡開拓組合と岳南組合との間で乱闘騒ぎが起きている。
 海軍工廠建設のため土地を無理やり接収された旧金岡村の農民達は、工廠廃止によって自分達の土地を返すように国に求めたが、当時、旧工廠内には菜園が作られているような状況で、旧金岡村住民が組織した開拓組合と菜園利用者による岳南組合との間で乱闘騒ぎにまで発展。当時の沼津警察の事件簿の中では、かなり大きな事件となった。
 二十五年には国道一号の改良工事が着手された。一小北側の国道沿いには駿東病院があって、当時は今のように広くなかったが、この工事で拡幅。
 また、同年には軍の施設だった給水施設(現在の泉水源地)が売りに出された。沼津市は、当時の清水村と一緒に買おうとしたか、結局、沼津市が単独で購入。香貫山にあった関連施設なども全て市が買い取った。
 当時は井戸が多く、「水道なんか関係ない」と思っていた人が多かったことも沼津市の単独購入に至った背景にあるようだ。
 長谷川さんは「(泉水源地は)ぬまづの宝100選に載っていないが、これこそ、沼津の最高の財産だ」とした。
 続いて二十七年には耐火建築促進法が出来て、市がアーケード建設に乗り出す。当時の市街地住民の意識は、そこまで進んでいなかったが、市の建設課長が中心となって、当時、市のメーン通りだった本町通りをアーケード化することを進めた。
 沼津の市街地は大正時代や太平洋戦争時の空襲、大門の大火と何度も大火事に見舞われていた。南北方向に延びたコンクリート製のアーケードは、東西のいずれの方向からの大火事も、食い止めることができるという構想があったという。ただ、結果的には、構想より短い区間のアーケードになったという。
 話の随所で長谷川さんは、図書館へ行って資料に当たり、自身で調べてみることも勧めた。
【沼朝平成30年4月28日(土)号】

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