2018年2月16日金曜日

沼津市地域にみる幕末の農兵:講師 樋口雄彦教授





↓当日配布資料



↓平成30年2月16日(金)沼朝記事



沼津市域に見る幕末の農兵
樋口雄彦氏新著出版記念し講演会
国立歴史民俗博物館教授で元市教委学芸員の樋口雄彦氏による郷土史講演会が十日、マルサン書店仲見世店で開かれ、約四十人が来場した。樋口氏の著書『幕末の農兵』が先月出版されたことを記念したもので、樋口氏は「沼津市域に見る幕末の農兵」と題して話した。
原宿の富裕層など入隊近代への扉開く存在に江戸時代以降に農民や町人などを集めて武装させた農兵の起源は、一般的には韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)による幕府への提言にさかのぼるとされている。しかし、樋口氏によると、国内では坦庵の提言以前に農兵制度を実施していた藩もあり、現在の岩手県盛岡市付近を支配していた南部藩は、北日本におけるロシア船出没への備えとして十八世紀から農兵制度を導入していた。
坦庵による農兵制度に画期的な点があるとすれば、それは農兵に西洋式の銃を装備させる点にあったという。坦庵式の農兵制度は、坦庵死後の一八六四年に本格運用された。現在の沼津市一帯では、韮山代官の管轄地である原の宿場町で農兵が集められた。
農兵として志願入隊した者は、帯笑園を造営したことで知られる植松家などの富裕層の若者が多かった。農兵は、一本差しではあるものの帯刀を許され、幹部となった者は名字を名乗ることを認められた。これらは一般庶民よりも高い身分となったことを意味する。
富裕層が農兵に志願した理由として樋口氏は、農民一揆が多発した当時の社会情勢を挙げた。一揆が起きると農村の富裕層も襲撃対象となる場合があったため、彼らは自衛のために剣術を学ぶようになっていた。富裕層子弟の剣術修行は全国的なブームで、後に新撰組の中心的メンバーとなった者達も、多摩地方の農村地帯の富裕層子弟だった。
このことから樋口氏は、農兵は富裕層の自衛意識と幕府の支配体制防衛が組み合わさった非常に保守的な性格を持つ集団である、としたが、それと同時に、農兵となった者達は地域社会における近代への扉を開いた革新的な存在であるとも指摘した。
農兵となった者は、幕府将軍の前で訓練を披露するなどの経験を通し、生まれ育った地域だけでなく国家全体を意識するようになり、それが近代的な国民の誕生につながった。また、農兵勤務の代償として身分の上昇を得たことは、義務と引き換えに権利を得るという近代的な権利意識を芽生えさせた。農兵参加者の中には、朋治の世になって自由民権運動に身を投じた者も確認されているという。
また樋口氏は、自身の母校である韮山高校と農兵のゆかりについても触れた。同校では江川坦庵を「学祖」として学校のルーツの一つと見なしているが、樋口氏は坦庵が運営した高島式砲術の塾よりも、坦庵死後に開設された農兵学校の方が同校のルーツとしてふさわしいと話した。
その理由として、坦庵の塾は全国諸藩の武士を対象としたものあるのに対し、農兵学校は農兵幹部を養成するために伊豆地方から若者を集めたものであり、現在の韮山高校と性格が近いと指摘した。
講演後、質問の時間が設けられ、江川式農兵の装備品についての質問があった。
樋口氏によると、農兵には、西洋式ではあるものの当時としては時代遅れになっていた旧式銃が配備された。制服はなかったが、韮山笠と呼ばれる円錐型の編み笠が支給されていた。農兵の姿を描いた絵や写真は発見されていないという。
【沼朝平成30年2月16日(金)号】

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