2017年8月20日日曜日

「沼津ふるさと講座」大久保忠左と岡崎:講師市橋章男氏





当日資料

平成29年7月9日(日)
『沼津ふるさと講座』
大久保忠佐と岡崎
一大久保氏発祥の足跡と忠世、忠佐兄弟のいた風景
講師 おかざき塾歴史教室主宰 市橋章男

沼津史談会歴史講座
2017,7,9おかざき塾歴史教室 市橋章男
『大久保忠佐と岡崎』
~大久保氏発祥の足跡と忠世、忠佐兄弟のいた風景~
1はじめに
遊撃隊と岡崎脱藩藩士たち
2大久保一族
(1)大久保一族のルーツ
・下野国宇都宮氏庶流武茂氏(寛政諸家譜)
・宇都宮(武茂)泰藤
一南北朝の争乱で新田義貞に従い、敗戦後に岡崎上和田に。
・妙国寺(法華宗/岡崎市宮地町)を菩提寺とする
・宇都宮から宇津(うど)氏に改姓
・宇津忠茂の時に大久保に改姓
・一家康の祖父、松平清康に仕える(山中城調略)
「岡崎開市」の功労者
・長福寺(法華宗/岡崎市竜泉寺町)を菩提寺とする
大久保忠教の墓は遺言により長福寺に
(2)徳川創業期の功臣一「徳川十六将図」の三河武士たちと大久保兄弟
・大久保忠世、忠佐兄弟の活躍
「三河一向一揆」と大久保一族
※「三河一向一揆」について
三河地方に勢力を拡大した真宗本願寺派と、領主である松平家康との間に起きた「領主権争い」と考えて良い。宗派間の宗教戦争的な意味合いはほとんどない。
家臣団には真宗門徒が多く、家康側と一揆側に二分してしまった。大久保党は法華宗であったことから、家臣分裂の危機は免れた。
・大久保党として「上和田城」で一揆方と戦う。激戦となり、大久保忠勝と忠世が目を負傷する(「三河物語」)。
・家康が救援に駆け付けた際、忠世の妻が焼味噌を添えて湯漬けを差し出し、それを大変喜んだというくだりが見られる(「大久保家伝」)。
・大久保忠佐の発願で、蜂屋貞次を伴い和議に及ぶ(「三河物語」)長老である大久保忠俊の家康への諌言一「御手ヲ広クナラセラレ給ババー」
3大久保忠佐の活躍と「旗本」の地位
(1)徳川家康が野戦に強かった理由
・三河一向一揆後の軍制再編 東西三河旗頭を中心に、命令系統を整備。松平一門衆などの内部分裂を防ぐ。
「旗本先手役」の創設。一人に50騎ほどの与力。自由に動く機動部隊。「旗本」のルーツ。後には大久保忠佐や井伊直政も加わる。徳川創業期の功臣たちが顔を並べる。
(2)内政の充実
「仏高力、鬼作左、どちへんなし(偏らない)の天野三兵」
(3)「長篠の髭」一信長の評価
天正三年長篠に軍を出したまふの時、仰によりて兄忠世と列して両手にわかれ、鷹下の鉄砲をつかさどり、かはるがはるこれを発して大に勝頼が軍を破る。
このとき織田右府(信長)忠佐が進退衆にすぐれたるを見て、髭多き武者は誰たるやととはしむ。三河の士大久保治右衛門忠佐とこたふ。
右府その勇武を歎美す。のち東照宮右府の軍に会したまふごとに、長篠の髭はしたがひたてまつるやいなやととはる(『寛政譜』)
(平成29年7月9日 『沼津ふるさと講座』当日配布資料より)


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