2016年6月5日日曜日

三枚橋城と4人の武将:沼朝記事

 三枚橋城と4人の武将
城の歴史と武将の生涯に迫る
NPO法人海風47による郷土学習講座「沼津あれこれ塾」の第12回が先月、市立図書館講座室で開かれた。市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城主列伝」と題し、現在の大手町にあった三枚橋城の歴史と、城を治めた四人の武将の生涯について話した。
城誕生と上杉謙信 三枚橋城は、戦国時代末期の天正七年(一五七九)に武田信玄の子の武田勝頼によって築かれた。それまで城のなかった地に新たに城が築かれた背景には、上杉謙信の死が大きく関わっているという。
天正六年(一五七八)三月、越後(新潟県)の上杉謙信が病死すると、景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)という二人の養子による跡目争いが発生した。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの争いには、武田氏と小田原の戦国大名北条氏が介入し激しく対立。
争いは武田氏が支援した景勝派の勝利に終わったが、それまで同盟関係にあった武田氏と北条氏の仲は破綻し、一転して緊張関係となった。
当時、駿東地方では、黄瀬川を境界として武田領と北条領が隣り合っていた。勝頼は北条側への備えとして国境近くの地に三枚橋城を築いた。当時の常識では、国境近くに城を築くことは敵対宣言と見なされていたことから、武田氏と北条氏は戦闘状態に入った。北条氏は三枚橋城に対抗するため、現在の内浦地区に長浜城を築いた。
①春日信達 完成した三枚橋城の指揮官に選ばれたのが春日信達だった。高坂源五郎という別名でも知られる信達は、信玄家臣の名将として知られる高坂昌信の子で、兄の昌澄が長篠の合戦で戦死したため、後を継いでいた。
春日氏(高坂氏)の一族は、川中島の戦い以来の宿敵である越後の上杉氏への備えとして信濃(長野県)北部の海津城(長野市)を守っていた。しかし、御館の乱で武田氏が支援した景勝が当主となり両者は和解。信達は新たな敵となった北条氏への備えとして三枚橋城に派遣された。
駿東地方における武田と北条の戦いは、北条側の戸倉城(清水町徳倉)が城ごと武田側に寝返るなど、武田側の優勢で推移していたが、天正十年(一五八二)二月に織田信長が武田氏への攻撃を開始すると、状況は一変する。
信達は三枚橋城を放棄して甲府の勝頼のもとへ向かうが、疑われて合流を拒否されたため、かつての本拠地だった海津城へと退去した。勝頼が自害して武田氏が滅亡すると、旧武田領は織田氏や徳川氏によって分割され、海津城周辺の地は織田家臣の森長可(もり・ながよし)の領地となった。
信達は長可の家臣となるが、ここで再び状況が一変する。数カ月後の同年六月に本能寺の変が起きて織田信長が急死すると、旧武田領の織田氏の勢力は後ろ盾を失って大混乱となった。長可も本拠地の美濃(岐阜県)への避難を決意し、信達のような旧武田氏系勢力による報復を恐れて人質を取りながら美濃へと回かった。この時、信達など春日一族や他の旧武田家臣らは一斉に立ち上がって長可の帰国を妨害し、長可は戦いながら帰国を果たして人質を処刑した。信達の子は、この時に殺されている。
織田氏の勢力が信濃から消滅すると、北から上杉氏、東から北条氏が侵攻を始めた。信達は上杉氏の家臣となるが、上杉と北条との戦いの際に、北条側にいた真田昌幸の弟信尹(のぶただ)の誘いを受けて北条に寝返ろうとした。しかし、この企みは失敗し、信達は処刑された。
この信達の晩年の日々は、二月二十八日に放映されたNHKの大河ドラマ「真田丸」の第八回で大きく取り上げられている。
後に森長可の弟の忠政は信濃に領地を持つ大名となった。忠政は信濃に移ると、かつて兄を妨害した春日一族への報復を行い、一族を皆殺しにしたという。
②松井忠次 武田氏が滅亡すると駿河は徳川氏の領土となった。徳川家康は四男の松平忠吉を三枚橋城主に任命した。
しかし、当時の忠吉は一歳児であったため、後見人の松井忠次が忠吉の領地である河東二郡(富士川の東にある富士郡と駿東郡)を代理として治め三枚橋城を守った。
忠次は三枚橋城に入ってから一年余りで死去し、子の康重が後を継いだ。忠次の墓は市内の乗運寺にある。
松井氏は家康実家の名字である松平氏を名乗ることを許されたため、子は松平康重の名で知られる。豊臣秀吉による北条攻めでは、康重は豊臣軍に参加した徳川軍の先鋒を務めて箱根の間道を進んで小田原に向かった。
その後、北条氏が滅びて徳川氏が旧北条領の関東地方に移ると、康重も三枚橋城から武蔵騎西城(埼玉県加須市)に移された。江戸幕府成立後も康重は領地が移り、篠山(兵庫県篠山市)や岸和田(大阪府岸和田市)の藩主となった。このため、松井系松平氏の墓所は各地にあるという。
③中村一栄北条氏が滅亡して徳川氏が関東に移ると、駿河は秀吉家臣の中村一氏の領地となった。一氏は北条攻めの際に山中城の戦いで活躍している。
駿府(静岡市)を本拠とした一氏は、弟の一栄(かずひで)を三枚橋城主とした。
一栄は、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川(くいぜがわ)の戦いで負けた武将として知られている。
慶長五年(一六〇〇)、一氏は東軍に参加することを決めるが、病気のため軍勢を率いることができず、代わりに一栄を派遣した。
江戸を出発して美濃にたどりついた東軍は西軍とにらみ合いとなった。この時、西軍の中心人物だった石田三成に島左近(しま・さごん)という重臣がいて、左近は東軍を誘い出して待ち伏せ攻撃を行うことにした。これに誘い出されたのが一栄の部隊で、待ち伏せを受けて大敗。
しかし、翌日の関ヶ原の戦いでは東軍が勝利したため、東軍に参加した中村氏は領地を増やされて米子(鳥取県米子市)に移った。当主の一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去したため、子の一忠が後を継いだ。一忠は叔父の一栄を八橋(やばせ)城(鳥取県琴浦町)の城主とした。一栄は幼い一忠を補佐したが、まもなく死去した。
その後、大名としての中村氏は、一忠が跡継ぎを残さず早世したため、改易されている。
④大久保忠佐 中村氏が米子に移ると、家康家臣の大久保忠佐が三枚橋城主となり、沼津藩主となった。
忠佐は勇猛果敢な武将で、元亀元年(一五七〇)の姉川の戦いや、天正三年(一五七五)の長篠の戦いで活躍。姉川では松井忠次や、忠佐と同時期に興国寺城主だった天野康景も揃って活躍してる。長篠では、兄の忠世と共に鉄砲隊を指揮し、その戦いぶりは織田信長に高く評価された。
慶長六年(一六〇一)に沼津へやってきた忠佐は、政治家としても手腕を発揮し、牧堰を建設して水不足に苦しむ大岡地区一帯に農業用水を供給した。
忠佐は慶長十八年二六一三)に七十七歳で死去し、子の忠兼(ただかね)は先に死んでいたため跡継ぎがなく、大久保氏の沼津藩は改易された。市内の妙伝寺に墓があるほか、一小校庭の一角には忠佐を祭る道喜塚が建っている。
忠兼の墓は現在確認されていないが、市内の寺に葬られたという記録があることから、今後、市内で発見される可能性もあるという。
その後の三枚橋城主を失った三枚橋城は、慶長十九年(一六一四)に破壊された。この直前、忠佐の兄の子の小田原藩主大久保思隣(ただちか)が幕府内の権力争いに敗れて失脚していることから、「大久保一族への制裁の一環として三枚橋城も破壊されたのだろう」と鈴木館長は指摘する。
三枚橋城からは、歴史上の有名人も登場している。江戸時代初期のシャム(タイ)で軍人や政治家として活躍した山田長政は、大久保忠佐の六尺(駕籠を担ぐ係)をして
いたという記録が残されていて、沼津藩改易による失職が海外雄飛のきっかけとなったと考えられている。
おわりに 三枚橋城の歴史と四人の武将の生涯を解説した鈴木館長は、同城の特徴として、①国境の城であり最前線を守るために武闘派の要人が配置された、②城内に
町屋を取り込むなど城下町を持つ近世的な城の性格を持っていたが、軍事的な役割の城と見なされて行政の中心地として長続きできなかった、などの点を指摘した。
そして、「後に三枚橋城の跡地には沼津城が築かれたが、新たな藩主となった水野氏は、ほとんど江戸にいて沼津には不在だった。それに対して三枚橋城は城主が長らく住んだ城で、沼津の地と城主が身近だった時代の城。もっと市民に知ってもらい、顕彰の機会が増えていけば」と話して講演を終えた。
(沼朝平成28年6月5日号記事)

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