2019年1月17日木曜日

フレツシュ150 匂坂信吾




フレツシュ150 匂坂信吾
 ー「沼津兵学校創立150周年記念式典」に向けてー
 平成二十八年六月、沼津史談会と沼津香陵ヲオンズクラブ、沼津医師会が中心となり、実行委員会を設立して、沼津兵学校創立150周年記念事業に取り組んできました。事業名が長いので「フレッシュ150」という略称を用い、この機会を生かして新しいまちづくりにつなげていこうとする狙いを込めてきました。
 来る二十日には、全国各地からの参加者を迎え、市民文化センターで記念式典を開催しますが、まちづくりについては確かな手ごたえを得ることができました。
 記念事業の柱は、兵学校ゆかりの「沼津病院・駿東病院跡」記念碑の建立、『沼津兵学校記念誌』の刊行、そして記念式典開催の三点でしたが、それぞれの事業の中に、当初の意図が十分反映されたと考えています。
 特に二十九年度の「沼津市民間支援まちづくりファンド事業」に採択されて取り組んだ「沼津まちなか歴史MAP」の作製は、城下町・宿場町の時代から沼津城二の丸御殿を校舎として開校した沼津兵学校があった明治初期にかけて、現在の駅南中心市街地の、どこに、どのような施設があったのかを示す画期的な成果だったと言えます。
 江戸時代末に沼津藩作事方役所の役人が、正確な測量を行って作製した巨大な「沼津城絵図」のおかげで、沼津には見えざる資産が数多くあることが分かり、この資産をデジタル手法により見えるようにしたのが、この歴史地図です。
 この地図による新たな発見を踏まえ、さらに独創的な発想と実行力を持つことができれば、歴史を生かしたまちづくりが始まることは間違いないと確信します。
 このMAPは昨年三月、国立歴史民俗博物館教授・樋口雄彦氏の監修を得て完成しました。その後も必要な見直しを続け、現在「街歩き仕様(しよう)」を作製しているところです。これはA3判フルカラーの両面印刷で、街歩きに便利な三つ折りの仕様となっていて、標準的な順路やチェックポイントも示されています。
 記念誌はA4判フルカラー百九十ページ、単価千円で、寄稿文や講演録、まんが「沼津兵学校物語」や歴史MAPなどが収録されていますが、これを購入された方には「街歩き仕様」を無料で提供します。
 この本は今月二十日()午後一時半開会の記念式典の受付で当、日の資料として発売します。受け付けの開始は零時半です。
 当日、兵学校を開設した徳川宗家の十八代当主・徳川恒孝氏の講演を予定していたところ、体調に不安があるとのことで、長男の家広氏が代理を務める可能性が高いのですが、同氏の講演は興味深く、楽しい内容が多いという評判です。
 一方、樋口氏は「沼津兵学校に学ぶべきもの」と題し、これまでの集大成とも言うべき講演を準備中ですので、大いにご期待下さい。
(実行委員会事務局長・沼津史談会会長、小諏訪)
【沼朝平成31117()「言いたいほうだい」】

2019年1月13日日曜日

兵学校創立150周年(沼朝平成31年1月13日(日)号記事)




兵学校創立150周年
 20日 徳川宗家当主も出席し記念式典
 「沼津兵学校創立150周年記念式典」が二十日午後一時半から三時まで市民文化センター小ホールで開かれる。主催は沼津兵学校創立150周年記念事業実行委員会(事務局=沼津郷土史研究談話会)
 沼津兵学校は、明治元年(一八六八)十二月、静岡藩によって沼津城の跡地に設立された。静岡藩は、明治維新により幕府将軍徳川家が駿河の地に移ったもので、七十万石の大名という扱いだった。
 兵学校には旧幕臣の子弟らが入学し、国内一流の講師陣の下で近代的な学科の授業が行われた。軍人養成のための学校だったが、兵学校や附属小学校の卒業生は近代日本の様々な分野で活躍した。
 式典は、記念講演を中心に行われる。講演は徳川宗家(旧将軍家)十八代当主の徳川恒孝氏による「沼津兵学校創立150周年に寄せて」と、国立歴史民俗博物館教授で元市教委学芸員の樋口雄彦氏の「沼津兵学校から学ぶべきもの」。
 入場無料、定員五百人(先着順)
 式典当日は「沼津兵学校記念誌」が頒布される。A4判約二百ぺージ。頒価千円。
【沼朝平成31113()号記事】

兵学校創立百五十周年で ストリートギャラリーで記念展




兵学校創立百五十周年で
 ストリートギャラリーで記念展
 沼津信用金庫本店(大手町)のストリートギャラリーで「沼津兵学校創立百五十周年記念展」が二十四日まで開催されている=写真。
 一小が創立百五十周年を迎えるにあたり、同地区のコミュニティ推進委員有志らが、同地区コミュニティ地域活性化事業実行委員会として、同校の歴史をたどりながら、周辺地域の出来事と共に年表にまとめた。
 同展では沼津兵学校に関わる文書や、駿東病院跡地から見つかった薬瓶などの貴重な資料が並び、また、多くの写真や絵などから当時の様子をうかがい知ることができる。
 近代性を備えた教育を行った日本で最も古い学校とされる同校は、明治元年に旧幕臣の子弟の教育のために創立された「代戯館」が前身となっている。その後、「沼津兵学校附属小学校」として引き継がれ、時代ごとに名を変えながら今日の「第一小学校」に至っている。
 年表は同校の歴史だけでなく、町の歴史をたどることができ、興味深い。
 また、展示中央で目を引くのは「沼津費」の扁額。徳川慶喜の揮毫によるもので、同校が明治十一年「小学沼津学校」となった時に贈られた。
 展示を見ていた同地区に住む男性は「一小は自分も通い、今は孫が通っている。どの写真を見ても当時のことが思い出され、懐かしい」と話した。
 夜十時までライトアップされて鑑賞できる。
【沼朝平成31113()号】

「沼津病院 駿東病院跡」記念碑 千野慎一郎(沼朝寄稿文)




沼津病院 駿東病院跡」記念碑
 千野慎一郎
 「沼津兵学校創立150周年記念式典」が行われる二十日()が近づきました。
 この紙面においても先日、お知らせの投稿がありましたが、当日の式典後に「沼津病院駿東病院跡」の記念碑が除幕披露されます。
 そこで、沼津兵学校創立150周年記念事業(略称・フレッシュ150)の柱の一つでもある記念碑建立の経緯を紹介したいと思います。
 平成二十八年六月に実行委員会が設立され記念碑担当チームにより調査研究が行われました。
 昭和十七年に沼津兵学校附属「沼津病院遺蹟」の記念碑計画があり、旧幕臣の子孫で郷土史家の大野虎雄氏が沼津病院の顕彰を目指し、当時の駿東病院前に建立の予定でした。
 碑文の揮毫は、沼津病院頭取杉田玄端の六男杉田六蔵氏に依頼しましたが、戦争の激化などの影響により記念碑は建つことはありませんでした。近年、大野家から六蔵の墨書が発見されて計画の存在が明らかになりました。
 当初は、沼津病院記念碑の建立が記念事業の趣旨でしたので、戦前の記念碑計画の復活を検討していました。そして、明治史料館に保管されていた墨書を写させていただき、幅六〇㌢、高さ一八〇㌢の御影石製の第一案を作成しました。
 次に、設置場所が問題となり、いくつかの候補地が上がりました。病院跡地上を東西に走る県道(旧国道一号)沿いの歩道や東側に接する市道沿いの歩道、さらに近くの西条公園や第一小学校内の道喜塚周辺も検討され現地調査も行いました。
 まず、歩道設置は大きさ的に第一案では難しく、西条公園は住宅地内で奥まり過ぎていること、一小案は学校管理地で出入りに課題があるなど場所選びは難航しました。
 そんな中で、少し離れるが直線で見通すことができる大手町の中央公園内はどうかという提案がありました。環境的には申し分なく早速、沼津市に相談に伺いました。すると、公園は東海財務局の所有地で財務局の許可が必要だと分かり、市の文化振興課を通して打診していただいていましたが、設置条件も厳しく回答を得られない状態が続きました。
 そうこうしているうちに事業が二年目に入り、各事業が具体的になると予算の見直しも必要となり、記念碑の予算も減額する方向で大幅に計画を変更することになりました。
 まず、かつての計画案にとらわれることなく、新たに碑の材料や歩道上でも設置可能な高さが低く横長のデザインを検討しました。その結果、コンクリートのベンチに御影石を組み込んだイメージの第二案が出来上がりました。
 そのような折、徳川宗家十八代当主徳川恒孝様とのご縁をいただき、趣旨に賛同して記念碑の碑文の題字を揮毫していただける話が急展開で進みました。
 また、碑の名称についても、沼津病院は沼津兵学校附属の陸軍医局に始まり、その後、駿東病院と名を変え、経営母体は変わりながらも昭和二十年まで七十六年間存続し、医学教育や地域医療に大きく貢献したことに鑑み、沼津兵学校ゆかりの「沼津病院駿東病院跡」と決めたのでした。
 設置場所は駿東病院の敷地内に当たる県道(旧国一)の歩道が適所と考え、道路管理者の県の沼津土木事務所に相談しました。
 原則的には無理ということでしたが、趣旨を理解していただき、交通障害にならないという条件で、現場での立ち会い指導により既存植栽桝の中で許可をいただくことができました。
 碑の製作は歩道上の作業を少なくするために、コンクリート製の基壇を作業所で三つに分けて製作し、現場で組み立て、縦五〇㌢、横一六〇㌢、重さ一〇〇㌔のインド産黒御影石の銘板を取り付けます。題字脇には駿東病院の写真と説明文をステンレス板にフィルム貼りし、両袖のコンクリート側面にも、東面には当初計画の杉田六蔵揮毫の縮小版を、西面には病院の沿革をステンレスプレートにフィルム貼りしてあります。
 二十日の除幕式当日は市民文化センター小ホールでの式典後、西粂町の会場で徳川様や沼津病院関係者子孫の代表、沼津市長ほかにより除幕式が行われます。その場で、碑は実行委員会から市に寄贈され、市に維持管理をお願いすることになります。また、碑の足元の植栽桝には、先にご案内の沼津市花の会と市民有志により花を植えていただけることにもなっています。
 市民の皆様には近くにおいでの折にご覧いただければ幸いです。
 最後に、記念碑建立に理解と協力をいただいた皆様に衷心より感謝、御礼申し上げます。
(フレッシニ150副委員長・記念碑担当、宮本)
【沼朝平成31113()寄稿文】

2019年1月12日土曜日

歴民講座「江戸時代初期の徳川権力との沼津」講師:歴史学者 柴裕之





当日配布資料↓


室町から江戸初期の沼津の変遷
歴史学者の柴裕之氏が解説

 市歴史民俗資料館による郷土史講座「歴民講座」が先月、市立図書館視聴覚ホールで開かれた。歴史学者で徳川家臣団の研究が専門の柴裕之氏が「江戸時代初期の徳川権力と沼津」と題して話した。これまでのおさらいはじめに柴氏は、これまでの歴民講座で柴氏や平山優氏(武田氏研究の専門家)によって解説された戦国時代前後の沼津について触れた。
 室町時代の沼津は、室町幕府と鎌倉府の勢力圏の境界に位置した。鎌倉府は東北地方や関東地方を管轄するために設けられた役所で、足利氏の一族がトップとして派遣されていたが、京都の幕府と対立関係にあった。戦国時代になると、今川、武田、北条という有力大名の勢力圏の境目となった。さらに沼津を含む駿東郡には国衆の葛山氏がいた。
 国衆はミニ大名のような存在で、他の大名に従属することもあった。葛山氏は、はじめは今川氏に従い、武田氏が駿河に侵攻すると、武田氏に従うようになった。
 しかし、葛山氏は北条氏ともつながりを持つており、北条氏と対立した武田信玄は、駿東郡の安定確保のために息子を養子に出して葛山氏の当主にし、元の当主を死に追いやった。そして、葛山領は武田領に組み込まれ、興国寺城が駿東郡や富士郡の行政の中心地となった。
 信玄の死後、武田軍を率いた勝頼は、北条氏への備えとして三枚橋城を築いた。
 武田氏が滅亡すると、駿河は徳川領となった。家康は北条領との境目となる沼津の地を重視し、松井忠次を派遣。忠次は三枚橋城を本拠とし、駿東郡と富士郡の軍事と行政を管轄した。
 さらに家康は、軍事面で忠次を支援させるため、松平清宗を興国寺城に、牧野康成を長久保城(長泉町)に配置した。
 北条氏が滅亡すると、豊臣政権で関東・東北問題を担当していた家康が関東に移り、駿河には豊臣系の武将である中村一氏が入った。一氏は弟の氏次を三枚橋城に派遣した。豊臣秀吉にとって一氏は東の徳川への備えと見なされ、その一氏は氏次を東の備えとしていた。
 秀吉の死後、秀吉の妹の夫であった家康は、豊臣家の親族として政治の中枢を担った。これへの反発から関ヶ原の戦いが起き、戦いに勝利した家康は、現在の福島県南部から近畿地方に及ぶ広大な範囲を領地とする大名になった。
 さらに幕府を開いて公的に国政を握ることになった家康は、国政運営は自分が担当し、関東の領地管理は息子の秀忠に任せるという分担方式を採用した。
 この分担によって、京都の伏見城を中心とする家康の勢力圏と、江戸城を中心とする秀忠の勢力圏の二つが誕生し、沼津は、その境目となった。この結果、興国寺城には家康側近の天野康景が配置されて大名となり、三枚橋城には秀忠側近の大久保忠隣の叔父である大久保忠佐が入って大名となった。
 一六〇七年に天野康景の興国寺藩が取りつぶしとなると、その領地は家康のものとなった。家康は十男の頼官(よりのぶ)を駿府藩主にし、旧興国寺領は駿府藩に編入された。
 一六一三年に大久保忠佐が跡継ぎのいないまま死去し、さらに直後に甥の忠隣が政変で失脚すると、沼津城は破壊され、周辺領地は駿府藩に編入された。
 新旧駿府藩 頼宣の駿府藩が誕生した時、頼宣は幼く、また家康が伏見城から駿府城に転居したため、頼宣が藩政に携わることはなかった。
 家康は、頼宣の駿府藩を、九男義直の尾張藩と合わせて、江戸を守る西の抑えと見なしていた。
 しかし、家康が死去して秀忠が実権を握ると、秀忠は近畿地方の警備のため、一六一九年に頼宣を紀伊(和歌山県)に移す。駿府藩領は幕府直轄地となり、代官が派遣された。
 そして一六二五年、江戸の西の守りを考えていた秀忠は、自身の三男、忠長を駿府藩主とした。忠長は五十五万石の大名となり、大納言の位を与えられた。後に御三家と呼ばれる尾張藩主義直や紀伊藩主頼宣に匹敵する待遇だった。
 しかし、忠長は痴蹟(かんしゃく)を起こして周囲の人を殺すなどの異常行動を繰り返しており、身柄を甲府に移され幽閉された。
 忠長の不在によって駿府藩は機能不全に陥ったことから、江戸の防備のために稲葉正勝が小田原城に入り、小田原藩が置かれた。正勝は、三代将軍家光の側近。
 忠長の行状に激怒する秀忠に対し、兄の家光は同情的で、忠長の行状回復を望んでいた。忠長の甲府移送後も駿府藩は存続していたが、行状は回復しなかったため、一六三二年、忠長は高崎(群馬県高崎市)に移され、駿府藩も改易となった。
 その翌年、家光が跡継ぎのないまま病気になると、忠長の存在による政治的混乱を防止するため、忠長は自害に追い込まれている
 忠長の駿府藩の改易後、沼津近辺の土地は幕府領や小田原藩領旗本領などとなった。
 終わりに室町時代から江戸時代初期までの沼津の支配者の変遷を解説した柴氏は、当初は関東から西を守るための防備の地であった沼津が、江戸時代以降は西から関東を守るための防備の地になったと総括した。
 さらに頼宣の駿府藩以降は、駿河国全体が江戸を守る西の境となり、沼津はそれ以前の自立した性質を持つ地から、駿河の一部を構成する地へと変容していったと指摘した。
【沼朝平成31年2月17日(日)号】

明治27年9月城岡神社境内建立「沼津兵学校記念碑」書き下し文





沼津兵学校記念碑書下し文
 富岳(ふがく)(よう)()(すい)(狩野川)のほとりに名区(めいく)(景色のよい所)あり、曰く沼津と。往時城あり、青松(せいしょう)白壁(はくへき)江山(こうざん)掩映(えんえい)し、その名特(あら)はる。明治紀元、東方(とうほう)(はじ)めて定まり朝廷我が徳川公をして駿河遠江に封じて静岡を治めしむ。これを以て沼津は遂に静岡の都城となる。公(徳川公)の封に就くや、その従う者市に帰するが如し。乃ち有司(ゆうし)(役人)に命じて所在を安撫(あんぶ)(民を安心させる)し、別に水陸軍人及び子弟の俊秀(しゅんしゅう)なる者をこの地に(あつ)め、城を以て充て以て兵を講ず。所説の課業には数目あり。曰く漢学、曰く洋学、曰く数理、曰く図画、曰く体操練兵、曰く騎、曰く(しゅう)(水泳)と、これを修むること一・二年その人、彬々(ひんひん)として用うらるべし。故を以て列国の行人(役人)の静岡に使する者必ず請うひて來觀す。或いは、その藩人を遣はして就きて学ばしむ。鹿児島、徳島の如きは、特に我が学官を(へい)して以て士卒を訓練巣す。(けだ)し維新の始めを以て、列国の學制いまだ(そなは)らず。沼津兵學これが率先(そっせん)をなす。(明治)四年、朝廷、藩を徹して県となし、学館を以て陸軍兵学寮に合す。(ここ)において、在学の諸子、半ば朝に(のぼ)り(上京して)半ば去りて業を改む。歳月(さいげつ)()たるに及び、或いは陸海軍の将校となり、或いは院省の名官となり、商となり、農となり、衆議院議員となり、銀行公司の長となり、博士となり、学士となり、大小学校の教官となる。その朝に在ると否と(官庁や民間に係わらず)みな力を国家に()さざるはなし(尽くさない者はない)当世知名の者、即ち昔日の苦学の功ここに至って始めて(あら)はれ、公の皇国に忠ならんと欲するの志また(むく)はれり。学館の廢するより、今は二十余年の人、歳時相会(さいじあいかい)し、往時を語る毎に、(すこぶ)る今昔の(がい)あり。つねに言う沼津は即ち我輩の()(しん)の地なりと。学館廢してすでに(ひさ)しといへども、何ぞよく眷々(けんけん)として(なつ)かしきこと()けんや。このごろ相議(あいは)かり、石をその旧跡に立て、公(徳川(いえ)(さと))に()て額を(てん)し、(しゅく)(選文者)にこれを()せしめ(もっ)て永く後に伝え祀せんとす。意はその本を忘れざるにあるのみ。()に敢えてその多材(たざい)誇ると言わんや(碑建立の真意は、兵学校の存在を後世に伝え祭祀(さいし)せんで、その本質を忘れまいとするのみで、我々の人材の豊かさを誇ろうとしているいではない)
(沼津市明治史料館資料)