2012年5月19日土曜日
唐招提寺旧鴟尾 歓喜院聖天堂
唐招提寺旧鴟尾など国宝
金堂飾った"天平の甍"
文化審2件答申
文化審議会は18日、唐招提寺金堂(奈良市)の屋根を飾った"天平の甍(いらか)"として知られる「旧鴟尾(しび)」2個と、華麗な装飾が特徴の「歓喜院聖天堂(かんぎいんしょうでんどう)」(埼玉県熊谷市)の2件を国宝に指定するよう平野博文文部科学相に答申した。
また全長141㍍の階段状の流水施設「牛伏川本流水路」(長野県松本市)など7件を重要文化財に、日光東照宮に向かう街道沿いに発展した栃木県栃木市の嘉右衛門町など5地区を重要伝統的建造物群保存地区にするよう求めた。近く答申通り告示され、建造物分野の重要文化財は計2391件(うち国宝217件)、保存地区は98地区となる。
鴟尾は寺院などの屋根の両端に付けられた装飾。金堂の旧鴟尾の西側のものは形状から金堂が創建された奈良時代後期の製作と推定され、東側のものには鎌倉時代の銘があった。いずれも傷みが激しいため2000~09年の金堂修理の際に取り外され、唐招提寺内で保管。現在は新調した鴟尾を使っている。
江戸時代に民間の寄進で建立された聖天堂は、色漆や金箔(きんぱく)などの極彩色が施され、多彩な彫刻技法が駆使されている。
牛伏川本流水路は、長野県中部にある筑摩山地の治山のため大正時代に造られた。高低差がある地形に合わせ19段の段差がつけられ、技術的価値が高い。嘉右衛門町は瓦ぶきの切り妻屋根など、江戸時代の商家や土蔵の街並みを残している。
(静新平成24年5月19日朝刊)
2012年5月13日日曜日
高尾山古墳発掘の調査報告書
高尾山古墳発掘の調査報告書
7章にわたり詳細分析
今月以降一般頒布を予定
築造年代めぐり2説 最古級性に興味引かれる論争
市教委は「高尾山古墳発掘調査報告書」を三月三十日に刊行。今月以降に一般への頒布が予定されている。市教委では五百部を印刷し、三百部は研究機関や図書館などに送られ、二百部が一般頒布用となる。また、頒布に合わせ市立図書館の郷土史コーナーで閲覧できるようになる。
市教委では、七月二十二日に高尾山古墳に関するシンポジウムを市民文化センターで開催する予定だが、このシンポジウム用に報告書の要約版も作成する。
報告書は七章で構成され、本文だけで二百ページを超える。巻末には、調査時の様子や出土品、遺構などの写真が約八十ページにわたって掲載されている。
【古代の地理】本文第一章では、沼津の古地形と高尾山古墳との関係について解説している。
かつて沼津市域一帯では、西部には海とつながった浮島沼が広がり、東部には「古狩野湾」と呼ばれる海が広がっていた。
その後、古狩野湾では、黄瀬川がもたらす土砂により黄瀬川扇状地が形成され、縄文時代の終わりごろ以降から陸地化していった。このため、縄文時代以前の人々は愛鷹山一帯に暮らし、多くの遺跡が愛鷹山麓から見つかっている。弥生時代以降には、黄瀬川扇状地にも人が住むようになり、当時の遺跡が存在する。
高尾山古墳は、古くから人々が暮らした愛鷹山一帯と、居住地として新たに発展していった黄瀬川扇状地とを結ぶ地点に位置している。また、古墳築造当時には浮島沼が残っていて、その東端は古墳の近くにあり、古墳付近まで、海から舟が入り込むことが可能だったと見られている。
【古墳の形状と出土品】二章から五章までは発掘内容の詳細報告。遺構の写真や実測データ、出土品の一覧などが記載されている。
古墳は全長六二・一七八㍍。二つの四角形がつながった前方後方墳と呼ばれる形式で、前方部は三〇・七六八㍍、後方部は三一・四一〇㍍。古墳を囲む幅八~九㍍の溝(周溝)も見つかっている。後方部から木製の棺が発見されている。
また、無数の土器のほかに、銅鏡一点、勾玉一点、鉄槍二点、鉄鏃(ぞく=やじり、矢の先端)三十二点、やりがんな(工異)一点が出土。銅鏡以下の品は棺の中に納められていた。
土器のうち、周溝の一画から出土した高杯(たかつき)は廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる型式で、西暦二三〇年代の物と見られている。
また棺の周辺からは、同年代ごろの型式と見られるパレススタイル壺が発見されている。
【出土土器】六章以降は、発掘調査結果について研究者による考察が続く。
出土土器に関しては、幅広い年代の土器が見つかっていることから、古墳築造後も長期間にわたって祭祀(宗教的儀式)が行われていたと推測されている。
また、土器は地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかっているが、畿内(奈良県)の物は見つかっていない。
昨年、清水町の恵ヶ後(えがうしろ)遺跡の発掘調査で大規模住居趾が発見されたことから、同遺跡と高尾山古墳との関連性が指摘されたが、同遺跡からは畿内系の土器が見つかっている。このため報告書は、高尾山古墳と同遺跡は「単純に関連付けられるものではない」との見方を示す。
【副葬品】銅鏡や鉄槍、鉄鏃は古墳に葬られた人の副葬品と見られている。
このうち、銅鏡は上方作系浮彫式獣帯鏡と呼ばれる型式で、「上」「竟」「宜」といった文字が入っていることが確認されているが、他所で見つかっている同種の鏡から推測すると、本来は「上方作竟 長宜子孫」という字句であったと見られる。
この種の鏡は中国山東省の遺跡からも見つかっており、その遺跡と同時期の遺跡からは「永康元年」と記された出土品が発見されている。永康元年は西暦一六七年で後漢王朝後期。このため、高尾山古墳の銅鏡も同時期の二世紀(西暦一〇一年~二〇〇年)後半に当時の中国で作られたものではないかという。
また、高尾山古墳から出土した銅鏡の特徴として割れていることが挙げられる。こうした鏡は「破砕鏡」と呼ばれ、宗教行事の一環として、わざと割られたと見られる。破砕鏡は、三世紀(西暦二〇一年~三〇〇年)後半以降に築かれた古墳からは姿を消しているという。
鉄槍は、その一つが弥生時代の形の特徴を持っており、弥生時代に作られ、その後も使われ続けた品である可能性が指摘されている。また、もともとは剣として作られたが、後に槍の穂先として転用された、との見方もある。槍の柄は木製だったため朽ちて、現存していない。
鉄鏃の一部は、その形状を分析すると、ホケノ山古墳(奈良県)や弘法山古墳(長野県)で出土した鉄鏃よりも後の時代の形状をしていることが判明している(ホケノ山古墳は西暦二五〇年の少し前ごろ、弘法山古墳は二五〇年以降に築かれたと考えられている)。
【築造年代】報告書では、高尾山古墳の築造年代について二つの見方を示している。
第一説は、周溝から発見された高杯の型式などから見て三世紀前半とするもの。
第二説は、鉄鏃の型式などから見て、第一説よりも後の時代だというもの。この場合、周溝の高杯は古墳築造以前に存在した集落のもので、古墳に直接関連するものではない、と見なされる。
第一説の場合、具体的には西暦二三〇年ごろと推定され、第二説では二五〇年ごろとなる。
邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする説がある箸墓古墳(奈良県)は二五〇年ごろの築造であるとされる。このため、二三〇年説の場合、高尾山古墳は、それよりも古いことになる。
二三〇年説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、いわゆる「魏志倭人伝」に登場する、邪馬台国に対抗した句奴(くな)国が東海地方にあった、と提唱し、今回の報告書の中でも高尾山古墳と、この東海地方の勢力との関係を強調している。
また赤塚氏は、気候変動や河川が運ぶ土砂などによって、当時は人間が利用可能な土地が広がっていったことを指摘。高尾山古墳に葬られた人物は、伊勢湾岸の先進地域から伝わった新しい文化や技術を利用して「スルガの地」で新たな土地を開発し、愛鷹山麓に暮らす「山の民」と浮島沼周辺に暮らす「浜の民」を統合した「偉大な英雄」であった、と推理する。
一方、二五〇年説に立つ纏向学研究センターの寺澤薫氏は、高尾山古墳の全長と各部の長さの比といったサイズバランスが、奈良の纏向(まきむく)古墳群の比と同じ点を指摘。高尾山古墳は、纏向古墳群を持つヤマト地方の勢力の影響を受けている、との見方をし、高尾山古墳の築造は、ヤマトを中心とする勢力が関東など東国に勢力を伸ばす動きの中の出来事、と見なしている。
【科学的分析】第七章では、出土品に対する自然科学的分析の結果が述べられている。
このうち、出土土器の産地に関する分析では、蛍光X線分析により、高杯には東海地方西部で作られたものと、それを模倣して静岡県東部で作られたものとが混在することが判明している。
(沼朝平成24年5月13日号)
2012年4月11日水曜日
沼津・高尾山古墳

国内最古級説も 沼津・高尾山古墳
市教委 調査報告書が完成
沼津市東熊堂の高尾山古墳の発掘調査を行っていた沼津市教委は10日、市議会文教消防委員会で古墳の調査報告書の完成を報告した。前方後方墳の同古墳は、西暦230年ごろに成立したとの説があり、市教委は「古墳時代成立の過程を解き明かす鍵になる極めて重要な古墳」としている。
同古墳は、市教委が2008年に発掘調査を開始し、09年には国内最古級の230年ごろに作られた高坏(たかつき)が見つかった。ただ、副葬品の鉄製の鏃(やじり)などがそこまで古くないため、同古墳が250年ごろにできたと唱える研究者もいる。
国内の代表的な前方後方墳は、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳。成立年代は250年ごろとみられる。仮に高尾山古墳が230年ごろにできたとすると、東海地方でも独自に古墳文化が進行していたことになる。
市教委の担当者は「今後さらに研究が進められていくと思うが、決着には時間がかかりそう」と話している。市教委は近く、希望者に調査報告書を販売する予定。また、5月上旬から市文化財センター(同市大諏訪)で高尾山古墳の出土品を展示する。7月下旬には同古墳にまつわるシンポジウムを市民文化センターで開く予定。
(静新平成24年4月11日朝刊)
2012年2月23日木曜日
中世前期の庭園池跡 牧之原・宮下遺跡

中世前期の庭園池跡 牧之原・宮下遺跡
県内最大級、土器も出土
牧之原市坂部の市指定文化財「宮下遺跡」(6513平方㍍)で、中世前期(11世紀末~12世紀前半)の園池(庭園池)が発見され、発掘調査を進めている市教育委員会が22日、発表した。市教委によると、中島のある園池の発掘例は全国的にも非常に珍しく、規模は県内最大という。
園池は昨年発見された柱穴内礎石建物跡の付近で見つかり、だ円形で大きさは南北約35㍍、東西20㍍以上、最大深さ約1・7㍍。園池の中から「福万(よろずにふくきたり)」「寿」とめでたい言葉が墨書された珍しい祭祀(さいし)色が強い土器の完形品のほか、建物火災で焼失した多量の礎石も出土した。
現地を視察した日本庭園学会の大沢伸啓理事は「建物と園池の配置、南北に長く中島が大きい形態は、国指定史跡の岩手県平泉町柳之御所遺跡と類似する。盛行する年代もほぼ同時期で中世前期の地域支配の在り方を考える上で重要な遺跡」とコメントした。市教委は今後、牧之原台地をめぐる中世豪族との関連性を調査する方針。
市教委は一般向けの現地説明会を25日午前10時半からと、午後1時半からの2回実施する。参加無料で、希望者は直接現地に集合する。場所は同市坂部のJAハイナン坂部支店南隣。雨天時は出土品の展示のみ実施する。 問い合わせは市文化振興課〈電0548(52)5544〉へ。
仏教的要素高い
小野正敏人間文化研究機構(中世考古学専門)理事の話 宮下遺跡は武士の居館とは異なる池を伴った仏教的要素の高い特殊空間施設と考えられ、非常に興味深い。周辺遺跡との関連性からも、新たな地域社会の中世像が見えてくるだろう。
【宮下遺跡 牧之原台地南部丘陵の坂口谷川中流西側の標高10㍍ほどに位置する。市教委が2010年7月から本格的な発掘調査を続けている。中世前期の県内最大規模の柱穴内礎石建物跡が発見されたほか、日本最古とみられる梵字等の墨書がある六角形状の卒塔婆も出土し、県内では希少な事例がみられる。】
(静新平成24年2月23日朝刊)
2012年2月21日火曜日
長浜城跡の整備が進展


長浜城跡の整備が進展
家屋跡や見学路に城らしさ演出
今後植栽管理や崩落防止策
当時の軍船平面展示の計画も
内浦長浜と重須の間で内浦湾に半島状に突き出た小山にある国指定史跡、長浜城跡の整備事業が進んでいる。城跡本体の構造物整備は年度内に終了。新年度からは環境整備などに移る。
長浜城は、小田原を本拠とする戦国大名、北条氏(後北条氏)の城として戦国時代の後期、天正七年(一五七九)から同十八年(一五九〇)にかけて存在していたと見られている。
北条氏の水軍拠点であった内浦重須の港を守備する役割を担い、甲斐(山梨県)の武田氏が駿河を支配して北条氏と対立すると、同城は武田軍に対する最前線の城の一つとなった。
根古屋の興国寺城が、北条氏が戦国大名としての地位を確立するきっかけとなった城なら、長浜城は、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅びた北条氏と運命を共にした城。いわば北条氏五代百年の勃興と終焉にまつわる城が沼津にあったことになる。長浜城跡は昭和六十三年、国史跡に指定され、平成十四年には周辺部が追加指定された。
市では、平成二十年度から五力年計画で史跡公園として同城跡整備を進め、これまでに城や北条氏の歴史を説明する展示コーナーを設け、二十一年度工事で見学者用公衆トイレを設置したのに続き、二十二、二十三年度で、城跡本体や見学路の整備を実施。
城本体の整備では、家屋の柱跡が発見された場所に低い柱を建て、かつての建物の位置を見学者が視覚的に理解できるようにした。また、中世の城の櫓(やぐら)を模した櫓式階段を高低差のある場所に設置。城跡らしい雰囲気を演出している。このほか、城域一帯を巡る手すりつき見学路を整備した。
二十四年度以降は、環境整備に重点が置かれ、城跡に茂る木々などの植栽管理や、斜面崩落防止のための補強工事などが続けられる。見学者向けの説明板の設置も行われるほか、戦国時代に使用された軍船である安宅船(あたけぶね=大型船)や、小早(こはや=小型の快速船)の大きさを体感できる平面展示を城の麓に施す予定。これは軍船の木製甲板を実物大で模したものになる。
今回の整備事業では、城跡からの見晴らしを重視しているのが特徴の一つで、展望の妨げとなる樹木を撤去した。これは大風などによる倒木で整備済み個所が損壊するのを防ぐ安全策にもなっている。
現在、城の最高地点である第一曲輪(くるわ)から北の方角を眺めると、右手に淡島、左手に長井崎が見える。その中央の海を越えた向こうには、沼津市街と天候に恵まれれば富士山を望むことができる。
その沼津市街には東京電力沼津営業センターの紅白の鉄塔が見えるが、その一帯は、かつて三枚橋城が位置した場所に当たる。長浜城は武田氏の拠点である三枚橋城に対抗するために築城されており、第一曲輪からの眺めは、まさに武田軍の動きを監視するためのもの。この眺めを通して見学者は当時の長浜城の戦略的価値を実感することができそうだ。
整備事業の総予算は約八億五千万円。このうち五〇%が国の補助。また約百六十七万円が県から補助される。
(沼朝平成24年2月21日号)
2012年2月3日金曜日
鬼描いた土器

「鬼」描いた平安の土器 奈良・橿原の遺跡で見つかる
2012/02/02 20:55(イザ版ニュース)
「鬼」の顔を墨で描いた平安時代後期(12世紀初め)の土器が奈良県橿原市の新堂遺跡で見つかり、市教委が2日、発表した。同時期の出土例は極めて珍しいといい、市教委は「鬼を土中に封じ込める祭祀(さいし)に使われた可能性もある」としている。3日は「節分」。
市教委によると、鬼の顔は、割れた土器の底の部分に直径10センチほどの大きさで描かれていた。角はないが、「へ」の字口や上向きの牙、太い眉毛、丸い目などの特徴が表現されている。
木枠の井戸の中に、鬼の顔が天を向く状態で土に埋もれていた。井戸を埋め戻す際、意図的に土器を割って鬼を描き、埋めたとみられる。
市教委は「平安時代の末法思想の影響で、地下世界に住むと信じられていた鬼が地上に出るのを恐れ、封じ込める祭祀に使われたのではないか。鬼を払う国内最初期の儀式の可能性もある」としている。
4日~3月31日、橿原市千塚資料館で展示される。
2012年1月26日木曜日
狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治




狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治
作家癒やした清流
貫いた「望郷の念」
「山ろくから駿河湾へ白く光って大きくS字型を描いているのが、あの狩野川であろうか。こんなにも川幅が広く、まんまんと水を張っているとは知らなかった」
芹沢光治良の自伝的大河小説「人間の運命」の一節だ。地元の風景美を知らないと答えた主人公は恩師に狩野川を見下ろす香貫山に連れられ「何事も足元から見つめるんだ」と教えられる。
芹沢のおじのひ孫にあたる芹沢守さん(62)=沼津市我入道、写真左=は大学時代、東京都の芹沢宅に週に1度通い、力仕事を手伝っていた。芹沢は守さんがやって来るのが楽しみで、いつも時間が近づくと「まだかな」と言って娘たちを笑わせた。同郷の2人がそろえば当然、地元の話に花が咲く。「嫌なことはあったが、我入道の狩野川べりに立つと対岸に松林が広がり、上に富士山がすっきりと立ち上がって見えた。その風景が好きだった」。あれから40年。冷たい冬風がほほをたたく河口の川べりに立つと、守さんは芹沢が決まって聞かせた望郷の言葉を思い出す。
生い立ちは過酷だ。3歳で親が全財産を放棄して天理教の伝道生活のため去った。船酔いで漁を手伝えない少年は、漁師失格のレッテルを貼られたまま旧制沼津中(沼津東高)へ進んだが漁をなりわいとする地元での疎外感は相当あったよう。入学の年に「(漁師になる)おきてを破り村八分となる」とわざわざ加筆した年譜が守さんの家で最近見つかっている。
美術教師の前田千寸との出会いは、少年の心の支えだった。芹沢光治良記念館館長の仁王一成さん(63)=写真右=は狩野川の文章を「発見の喜びに満ちた描写は、それまでのつらい生活を払しょくする明るいきざしにも見える」と話す。前田の自宅に通った芹沢は教えられた仏文化に憧れを抱く。
15年後、芹沢は農商務省を辞し、新婚の妻とパリへ渡り、肺結核の療養経験をもとにした「ブルジョア」が賞を受ける。作家デビューを果たした芹沢は勝負どころの2作目に「我入道」を書いた。足元を見つめた作品で、恩師の教えを体現してみせた。
働けど貧しい漁師たちは、命がけでとった魚が狩野川の向こうの魚市場の商人の言い値で決まる支配関係に耐えかね、若者を中心に市場の設立を決意する。「川を挟んだ力の構図は、パリのセーヌ川の右岸対左岸の関係と同じ。人間平等への願いが貫かれている」。研究者神奈川県の高校教諭鈴木吉維さん(53)は「我入道」に込めた芹沢の思いをこう分析する。
実在する地名だったこともあり、当時、地元は反発した。愛する故郷のこうした反応に、芹沢は後悔のそぶりを見せなかったという。守さんは「真実を前に損得など関係ない様子だった。自然に書いたのでは」と振り返る。
記念館は生誕115周年の昨年の事業仕分けで「ゼロベースの再検討」と判断された。沼津東高新聞部1年の渡辺莉奈さん(16)、稲葉紗波さん(16)、森口佳奈さん(15)=写真下=は仕分けを通じて興味を持ち、記念館を取材した。同学年の光治良が見下ろした香貫山の展望台からは今、樹木の合間に狩野川のカーブと我入道が見える。国内での知名度がそう高くないだけに「資料が少なかった」とネタ集めの苦労はあった。しかし「もっと知られるべき人」とも実感した。「知ってほしい!芹沢光治良」と見出しを付けた学校新聞は芹沢の後輩にあたる、860人の生徒に配られている。
(静新平成24年1月26日「狩野川ひと物語」)
狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治
作家癒やした清流
沼津滞在は「陣痛の時期」
「眼前の狩野川は満々と水をたたえ、岸の青葉をなめてゆるゆると流れていました」
太宰治が1934年に三島で過ごした一夏を回顧した「老ハイデルベルグ」。三島夏祭りのにぎわいに疎外感を感じた「私」と友人の「佐吉さん」は、沼津にある佐吉さんの実家を目指した。太宰は途中で見た夕もやに包まれた狩野川を「恐ろしく深い青い川で、私はライン川とはこんなのではないかしらと、すこぶる唐突ながら、そう思いました」とつづった。
「老ハイデルベルグ」の舞台である三島を太宰が訪ねたのは、その2年前に滞在した沼津で親しくなった坂部酒店(同市志下)の武郎さん、あいさん兄妹に再会するためだった。物語の「佐吉さん」のモデルは三島で店を開いた武郎さん。太宰は別の作品にも登場させている。
32年、太宰は津軽の実家との断絶や心中未遂の末に沼津の坂部家で静養し、デビュー作「思ひ出」を書いた。「沼津滞在はのちの作品を生み出すための『陣痛の時期』にあたる」。作家と沼津や伊豆の関係性を研究する沼津高専名誉教授の鈴木邦彦さん(70)=静岡市葵区=はこう位置付ける。
72年ごろ、2人は鈴木さんの取材に応じた。武郎さんはさりげなく気持ちをくみ取る親分肌。兄の店の売り上げを流用してでも黙って飲み代を工面し、母親に何度もしかられた。見かねたあいさんが丸めた原稿を伸ばしても太宰は無視し、夜は涼しい顔で飲みに出る。
無償の奉仕はさておき「あの時原稿を燃やさなければ良かった」と笑う2人を見た時、鈴木さんは太宰が2年ぶりに筆を取った理由を実感できたという。「坂部兄妹が与えた無垢(むく)な善意、純粋な友情は、『美しいことはそっとするもの』という彼の美学そのものだった」
「老ハイデルベルヒ」の最後は、その後「私」が、佐吉さんがいなくなった三島を再訪した時の孤独感で締めくくられ、失った思い出は輝きを放つ。登場人物が故人となった今も、「私」と「佐吉さん」がたどり着いた狩野川は、同じようにとうとうと水をたたえる。
(静新平成24年1月26日「狩野川ひと物語」)
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