2012年1月26日木曜日

狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治





狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治
作家癒やした清流
 貫いた「望郷の念」

 「山ろくから駿河湾へ白く光って大きくS字型を描いているのが、あの狩野川であろうか。こんなにも川幅が広く、まんまんと水を張っているとは知らなかった」
 芹沢光治良の自伝的大河小説「人間の運命」の一節だ。地元の風景美を知らないと答えた主人公は恩師に狩野川を見下ろす香貫山に連れられ「何事も足元から見つめるんだ」と教えられる。
 芹沢のおじのひ孫にあたる芹沢守さん(62)=沼津市我入道、写真左=は大学時代、東京都の芹沢宅に週に1度通い、力仕事を手伝っていた。芹沢は守さんがやって来るのが楽しみで、いつも時間が近づくと「まだかな」と言って娘たちを笑わせた。同郷の2人がそろえば当然、地元の話に花が咲く。「嫌なことはあったが、我入道の狩野川べりに立つと対岸に松林が広がり、上に富士山がすっきりと立ち上がって見えた。その風景が好きだった」。あれから40年。冷たい冬風がほほをたたく河口の川べりに立つと、守さんは芹沢が決まって聞かせた望郷の言葉を思い出す。
 生い立ちは過酷だ。3歳で親が全財産を放棄して天理教の伝道生活のため去った。船酔いで漁を手伝えない少年は、漁師失格のレッテルを貼られたまま旧制沼津中(沼津東高)へ進んだが漁をなりわいとする地元での疎外感は相当あったよう。入学の年に「(漁師になる)おきてを破り村八分となる」とわざわざ加筆した年譜が守さんの家で最近見つかっている。
 美術教師の前田千寸との出会いは、少年の心の支えだった。芹沢光治良記念館館長の仁王一成さん(63)=写真右=は狩野川の文章を「発見の喜びに満ちた描写は、それまでのつらい生活を払しょくする明るいきざしにも見える」と話す。前田の自宅に通った芹沢は教えられた仏文化に憧れを抱く。
 15年後、芹沢は農商務省を辞し、新婚の妻とパリへ渡り、肺結核の療養経験をもとにした「ブルジョア」が賞を受ける。作家デビューを果たした芹沢は勝負どころの2作目に「我入道」を書いた。足元を見つめた作品で、恩師の教えを体現してみせた。
 働けど貧しい漁師たちは、命がけでとった魚が狩野川の向こうの魚市場の商人の言い値で決まる支配関係に耐えかね、若者を中心に市場の設立を決意する。「川を挟んだ力の構図は、パリのセーヌ川の右岸対左岸の関係と同じ。人間平等への願いが貫かれている」。研究者神奈川県の高校教諭鈴木吉維さん(53)は「我入道」に込めた芹沢の思いをこう分析する。

 実在する地名だったこともあり、当時、地元は反発した。愛する故郷のこうした反応に、芹沢は後悔のそぶりを見せなかったという。守さんは「真実を前に損得など関係ない様子だった。自然に書いたのでは」と振り返る。
 記念館は生誕115周年の昨年の事業仕分けで「ゼロベースの再検討」と判断された。沼津東高新聞部1年の渡辺莉奈さん(16)、稲葉紗波さん(16)、森口佳奈さん(15)=写真下=は仕分けを通じて興味を持ち、記念館を取材した。同学年の光治良が見下ろした香貫山の展望台からは今、樹木の合間に狩野川のカーブと我入道が見える。国内での知名度がそう高くないだけに「資料が少なかった」とネタ集めの苦労はあった。しかし「もっと知られるべき人」とも実感した。「知ってほしい!芹沢光治良」と見出しを付けた学校新聞は芹沢の後輩にあたる、860人の生徒に配られている。

(静新平成24年1月26日「狩野川ひと物語」)


狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治
作家癒やした清流
 沼津滞在は「陣痛の時期」


 「眼前の狩野川は満々と水をたたえ、岸の青葉をなめてゆるゆると流れていました」
 太宰治が1934年に三島で過ごした一夏を回顧した「老ハイデルベルグ」。三島夏祭りのにぎわいに疎外感を感じた「私」と友人の「佐吉さん」は、沼津にある佐吉さんの実家を目指した。太宰は途中で見た夕もやに包まれた狩野川を「恐ろしく深い青い川で、私はライン川とはこんなのではないかしらと、すこぶる唐突ながら、そう思いました」とつづった。
 「老ハイデルベルグ」の舞台である三島を太宰が訪ねたのは、その2年前に滞在した沼津で親しくなった坂部酒店(同市志下)の武郎さん、あいさん兄妹に再会するためだった。物語の「佐吉さん」のモデルは三島で店を開いた武郎さん。太宰は別の作品にも登場させている。
 32年、太宰は津軽の実家との断絶や心中未遂の末に沼津の坂部家で静養し、デビュー作「思ひ出」を書いた。「沼津滞在はのちの作品を生み出すための『陣痛の時期』にあたる」。作家と沼津や伊豆の関係性を研究する沼津高専名誉教授の鈴木邦彦さん(70)=静岡市葵区=はこう位置付ける。
 72年ごろ、2人は鈴木さんの取材に応じた。武郎さんはさりげなく気持ちをくみ取る親分肌。兄の店の売り上げを流用してでも黙って飲み代を工面し、母親に何度もしかられた。見かねたあいさんが丸めた原稿を伸ばしても太宰は無視し、夜は涼しい顔で飲みに出る。
 無償の奉仕はさておき「あの時原稿を燃やさなければ良かった」と笑う2人を見た時、鈴木さんは太宰が2年ぶりに筆を取った理由を実感できたという。「坂部兄妹が与えた無垢(むく)な善意、純粋な友情は、『美しいことはそっとするもの』という彼の美学そのものだった」
 「老ハイデルベルヒ」の最後は、その後「私」が、佐吉さんがいなくなった三島を再訪した時の孤独感で締めくくられ、失った思い出は輝きを放つ。登場人物が故人となった今も、「私」と「佐吉さん」がたどり着いた狩野川は、同じようにとうとうと水をたたえる。
(静新平成24年1月26日「狩野川ひと物語」)

2012年1月25日水曜日

高尾山古墳保存の成否に節目


高尾山古墳保存の成否に節目
年度末に調査結果の報告書
 都市計画道路予定地上に位置
 希少な前方後方墳の先行き不透明
 東熊堂の高尾山穂見神社・熊野神社境内跡地で発見され、平成二十年に前方後方墳であることが判明した高尾山古墳(旧称・辻畑古墳)。東日本で最古級とされる同古墳の保存の成否を巡る動きが今年一つの節目を迎える。我が国最古との見方もあるだけに、保存を望む声は少なくないが、先行きは不透明だ。
 同古墳は、都市計画道路沼津南一色線の建設ルート上にある同神社が移転した際の跡地調査で見つかった。同神社境内については、以前から古墳の存在が指摘されていたが、発掘調査は、この時が初めて。
 試掘が十七年度に始まり、二十年度に本格調査が開始され、出土した土器の形状から、三世紀前半に築造されたと考えられている。三世紀前半は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の時代。
 学術的希少性だけでなく、全国的に報道され知名度もある同古墳だが、道路の建設予定地上にあることは変わりなく、古墳保存か道路建設続行かの判断が求められる。
 沼津南一色線は、国道二四六号と国道一号(江原交差点)を結ぶもので、市道路建設課によると、現在は古墳一帯の土地を含む新幹線以南から国道一号以北の区間は工事を停止している。
 工事続行の可否をめぐっては、二十一年に市議会で栗原裕康市長が、「広く市民の意見を聴いていきたい」と答弁。また、村上益男教育次長(当時)は、調査結果が出るのを待ち、その後のことを決めていくという方針を説明した。
 この調査結果が出るのが現年度末。市教委では現在、三月末に向けて報告害を作成している。
 市教委文化財センターによると、この報告書に対する学界の関心は高く、研究者から問い合わせが来ることもあるという。また、市教委では、市民の関心にこたえるため、出土品の公開や、関連講演会の開催を計画している。
 しかし、それ以外に報告書完成後の日程や意思決定の手順については未定となっている。市計画課によると、都市計画の変更は県が決定権を持ち、国の同意が必要だという。このため、現状では沼津市だけの判断ですべてを決めることはできない。
 高尾山古墳は今後どうなるか。
 関係者の一人は、他地域での遺跡保存問題を挙げ、住民による署名集めなどの保存要望活動が行政による判断へ影響を与える例が多い点を指摘する。
 また別の関係者は、都市計画道路が同古墳一帯を通ることが決まったのが昭和三十六年であることに触れ、市教委による調査がもっと早ければルート変更などに柔軟性が出たのでは、と残念がる。
 市道路建設課によると、沼津南一色線は工事予定地の取得を九九%終えている。仮に古墳保存のため同路線のルートが変更になった場合、建設費用の増加は確実となる。
 解説 高尾山古墳については「確実なところで東日本最古級」とされるが、前方後方墳という形状は珍しく、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(奈良県桜井市)より古いとの見方があり、「我が国最古級」の説もあるほど。
 一方、足高の沼津工業団地一画には、同団地敷地一帯の清水柳北遺跡から出土した上円下方墳が移築復元されている。
 こちらは古墳時代終末、八世紀初めの奈良時代のものと推定され、この形状も全国的に希少。
 沼津には、古墳時代の幕開けを飾った前方後方墳と、終焉を告げる時代の上円下方墳が揃っていることになるが、千八百年という、人知の及ぶところではない時を刻んだ最古級の古墳が今、消えてなくなるかもしれない瀬戸際を迎えている。
(沼朝平成24年1月25日号)

2011年12月14日水曜日

芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会

気さくでスイス好んだ芹沢光治良
 作品研究者の鈴木吉維さんが講演
 パリ留学時代を解説
 聴講者が知る逸話紹介も
 市教委は、芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会を、このほど市立図書館で開催。芹沢作品研究者で神奈川県立川崎北高校総括教諭の鈴木吉維さんが「芹沢光治良の欧州体験」と題して話した。
 講演に先立ち、沼津芹沢文学愛好会の和田安弘代表があいさつ。「半年間に二回も芹沢文学に関する講演会が開かれ、そこに多くの方が足を運んでいただいている。芹沢文学への市民の関心が高まりつつある証しだと思う。市役所の市長応接室には芹沢作品が揃って置かれている。市長が率先して芹沢文学への関心を広めようとしており、とても心強く感じている」と話した。
 また、芹沢四女の岡玲子さん(東京都在住)が「生前の父が、リンドバーグが大西洋無着陸飛行をしてパリに到着した時のパリ市民の歓喜について私に聞かせてくれたことがありました。リンドバーグの飛行は大昔の出来事だと思っていましたが、芹沢光治良記念館に展示されていた父のパリ時代の手紙を目にした時、当時の父と今とが瞬間的につながったような気がしました。私達姉妹にとっての大切な宝が沼津にある。沼津市民の皆さんに深い感謝と御礼を申し上げます」と語った。
 講演に移ると、鈴木さんは自分が芹沢文学に向き合うようになったきっかけから話し出した。大学二年生の時、ライフワークとなる研究課題を檀一雄と芹沢のどちらにしようか悩んでいたところ、恩師から「ノーベル文学賞は川端か芹沢か、と言われていたこともある。ぜひ芹沢にしなさい」と勧められたのだという。
 そこで鈴木さんは芹沢を選び、研究会に出席することにした。すると、芹沢本人が研究会にやってきた。他の出席者からまばらな拍手があり、続いて芹沢が自作品の主人公などについて気さくに語り出したため、それを見た鈴木さんは「本当にこれが芹沢光治良なのか」と衝撃を受けたという。当時、現役の作家が読者の集まりに気軽に顔を出すのは珍しいことだった。
 それ以来、鈴木さんも研究会に足繁く通うようになる。
 「私は悪い読者」と自らを評する鈴木さん。研究会で芹沢に会うたびに、「なぜこの登場人物を、この場面で死ぬようにしたのか」などと、わざと意地悪な質問を浴びせ続けた。当時、芹沢は八十歳を過ぎていたが、二十歳そこそこの若者の失礼な質問に対し、すべてまじめに答えてくれた。
 鈴木さんは芹沢宅も訪れたが、芹沢はいつもネクタイを締めて身なりを整え、来訪者を待っていたという。
 さらに鈴木さんは、自分と芹沢とのエピソードを紹介した後、芹沢の欧州留学と後の作品の影響について話した。
 大正十四年、官僚だった芹沢は、鉄道会社を経営する裕福な妻の実家の援助も受けて、フランスへと向かう。当時のフランと日本円の為替レートは、円高の状態で、渡仏する日本人が多かった。
 当時、九百人の在仏日本人の八割強がパリにいた。そのため、パリには日本人社会のようなものも形成され、日本人向けの店で味噌やたくあんを買うことができた。そのパリで芹沢は、画家の佐伯祐三や、ファーブル昆虫記の翻訳で知られる椎名其二らと出会う。佐伯との出会いは小説『明日を逐うて』に影響している。
また、妻が病気になった際は、留学中の日本人医学博士の診療を受けている。この博士の詳細については不明だが、鈴木さんは、小説『巴里に死す』の主人公が医学者であることとの関連を指摘する。
 一方で、芹沢は素行に問題のある日本人達も目にしており、それらの人達を「日本人ゴロ」と呼んでいた。
 そして、鈴木さんは、芹沢が長女宛てに書いた手紙の中にある「私は唯物論者になった」という記述に着目。信仰心の篤い家に生まれた芹沢がそのように変わった原因を芹沢の欧州経験の中から探った。
 芹沢の欧州行きは船旅だったが、船がシンガポールに寄港した際、乗客がコインを海に投げ、それを現地人の子どもが潜って拾いにいくという姿を芹沢は見ている。また、結核に冒されスイスで療養した際には、医学の進歩が一握りの富裕層にしか恩恵をもたらさなかったという感慨を抱いている。
 当時、日本国内ではマルクス全集の刊行が始まっており、こうした世相と欧州で見聞きしたことが、芹沢に「唯物論者」と名乗らせたのではないかと、鈴木さんは分析する。
 鈴木さんは欧州体験が芹沢に与えた影響について論じた後、改めて芹沢との交流を回想し、「芹沢は『文豪』と呼ばれることもあるが、とても気さくな人。芹沢先生との出会いは、今の自分を支える宝になっている。私は物事について考えるとき、『芹沢先生なら、どう思うか』と考えることがある」と語って講演を終えた。
 引き続き、質疑応答の時間となり、多くの質問があった。
 川崎市から訪れた男性は、芹沢が自作品の中で、自分の分身である登場人物が官僚に出世した後も故郷で村八分の扱いを受けたように書いていることを挙げ、それは事実を反映しているのか、と質問。
 鈴木さんは「官僚になったことは、地元にとって名誉なことだったが、その地位を捨てて作家になってしまったことに対し、批判的な目を向ける人もいたと思われる」と話し、当時は作家の地位が低かったことを説明した。
 この質問に関しては、市内の男性が発言を求め、芹沢の第二作『我入道』の存在を指摘。この作品の中における当時の我入道地区の描き方が、地元民の反発を招いた、とした。
 また、芹沢の自伝的小説『人間の運命』に自分の祖母と思われる人物が登場しているという女性が発言し、『人間の運命』の中では、祖母は売り飛ばされたことになっているが、現実では祖母は売られていない、というエピソードを紹介するとともに、「祖母は芹沢さんのことを『みっちゃん、みっちゃん』と呼んでいました」と話した(注・
本名では光治良を「みつじろう」と読む)。
 こうした我入道関係者らの指摘について鈴木さんは「フィクションは、あくまでもフィクション。でも、私は自伝的小説の中の主人公は芹沢本人だと思っても良いと思っている。その方が、感情移入できるし、これも一つの読み方だと思っている」とした。
 また、芹沢と面識があるという男性は、芹沢から欧州留学時代の話を直接聞いたことがある、と話し、「先生はスイスのことばかり話していた。スイスの国情について多く触れ、イタリア系やドイツ系、フランス系の住民が一緒に暮らしていることを評価し、『世界中がスイスのようになれば、なんと愉快な世界になるだろうか』と話していた」と回想した。
 これに対して鈴木さんは「小説『ブルジョア』の舞台はスイス。芹沢にとってスイスは理想だった。芹沢はイタリアも訪れたが、当時のイタリアはファシスト国家。芹沢は『ファシストは幼稚』という感想を持っている。そういうイタリアを見てきた芹沢にとって、スイスでの体験は鮮烈だったのだろう」と語った。
 郷土ゆかりの作家だけに、参加者からも貴重な証言が次々に出る中で講演会は終了した。
(沼朝平成23年12月14日号)

2011年11月28日月曜日

東海道本線全線開通までの年譜


開業時の沼津駅



東海道線全線開通までの年譜
明治2年(1869)11月10日の廟議において,その建設が決定。
明治5年(1872)9月12日(新暦10月14目) 新橋・横浜間開通。
明治7年(1874)5月11日大阪・神戸間開通。
明治10年(1877)2月5日大阪・京都間開通。
明治13年(1880)7月京都・大津問開通。
明治16年(1883)7月上野・熊谷問開通。(日本鉄道株式会社により建設される)
明治17年(1884)4月16日大津・長浜間は琵琶湖を経由することとし,長浜・敦賀問開通。
明治18年(1885)10月高崎・横川間開通。
明治19年(1883)8月名古屋(仮)・武豊(知多半島)間開通。(中山道幹線鉄道建設の資材輸送線として)
明治19年(1886)12月1日沼津機関庫が設置され,沼津町の旧沼津城北側に木造機関車庫が建設された。
明治20年(1887)1月大垣・加納(現在の岐阜)間開通。
明治20年(1887)3月沼津資材運搬線(蛇松線)試運転。
明治20年(1887)4月加納・名古屋間開通。
明治20年(1887)7月11日横浜・国府津問開通。
明治21年(1888)9月1日浜松・大府間開通。
明治22年(1889)2月1日国府津・静岡間開通。
明治22年(1889)4月16日静岡・浜松間開通。
明治22年(1889)7月1日新橋・神戸間605.7kmが全通したのである。
明治23年(1890)2月沼津・御殿場間複線工事成る。

2011年11月24日木曜日

懐かし汽車土瓶 大阪で大量発見


「お茶は静岡」「山は富士」
 懐かし汽車土瓶 大阪で大量発見

 明治から昭和にかけ全国の鉄道駅で温かいお茶を入れて販売され、プラスチック製容器の登場で姿を消した小型陶器「汽車土瓶」が、旧国鉄吹田操車場跡地(大阪府吹田市、摂津市)で大量に見つかったことが23日、大阪府文化財センターの調査で分かった。同操車場で大阪駅終点の客車の清掃作業が行われていた昭和初期の1928~33年の製品で、数万点あるとみられる。
 正面にレールの断面をあしらい「お茶」の2文字を囲むデザインを基調に、金のしゃちほこの絵や「お茶は静岡」「山は富士」などと記されているものもあり、少なくとも24種類の図柄や形状を確認した。
(静新平成23年11月24日朝刊)

2011年11月22日火曜日

信長に降伏後埋めた濠?跡を発見


自治都市今井町:信長に降伏後埋めた濠?跡を発見 奈良


織田信長に降伏した後、武装解除のために埋めたとみられる濠跡(調査担当者が指し示している場所)=奈良県橿原市今井町で、高島博之撮影
 奈良県橿原市教委は21日、室町時代から江戸時代にかけ自治都市として繁栄した同市の今井町で、16世紀後半に埋められたとみられる濠(ほり)跡を発見したと発表した。今井町は石山本願寺(大阪市)とともに織田信長に対抗し、周囲に濠や土塁を築いて武装都市化したが、同寺が信長と休戦後、今井町も信長に降伏し、武装解除して埋めた濠の可能性があるという。【高島博之】

 発掘調査は、駐車場の整備に伴い、今井町の西側の約400平方メートルで8月から行われている。発見された濠は同町の西側に南北方向に延びるもので、幅は少なくとも2メートル以上、長さ約10メートル分を確認した。過去の発掘調査で、16世紀後半当時の今井町(東西約450メートル、南北約250メートル)の周囲を2重ないし、3重の濠が巡っていたことが確認されており、今回の濠跡は、最も外側の「外濠」だった可能性が高く、橿原市教委は幅約15メートルの大きなものだったと推定している。
 98~99年の調査では、今井町の南側で見つかった外濠が16世紀後半に埋められたことが、一緒に出土した陶器の年代から分かっており、同市教委は今回発見した濠も同時期に埋められたものとみている。

 今井町は16世紀、一向宗の拠点としての寺内町として発展。石山本願寺が信長と戦った際は、同町は濠や土塁を巡らして武装化を強めていたという。
 しかし、1575(天正3)年、石山本願寺と信長が休戦すると、今井町は信長軍の明智光秀に降伏し、土塁を壊して武器を捨てるなど武装解除に応じたことが、光秀から信長への書状に記されている。同市教委はこの時期に濠が埋められたとみており、調査担当の米田一・同市教委文化財課係長は「今井町が武装化していた寺内町から商業都市へと変化していく様子をうかがわせる発見」と評価する。

毎日新聞 2011年11月22日 10時49分

2011年11月17日木曜日

文学者・芹沢光治良生誕115周年


文学者・芹沢光治良生誕115周年
 欧州体験と影響解説 沼津で講演会

 沼津市出身の文学者芹沢光治良の生誕115周年の記念講演会が13日、同市立図書館で開かれた。芹沢文学を研究する神奈川県の高校教諭鈴木吉維氏が講演し、文学者の出発点となった欧州での体験と、後の作品への影響を解説した。
 農商務省を辞した芹沢は1925年に妻とパリに渡った。長女が生まれ、社交界にも出たが、肺結核でスイスなどに移り28年に帰国した。30年に療養時の日記をもとにした「ブルジョア」で文壇デビューを果たした。
 生前の芹沢から聞き取りを続けていた鈴木氏は「経済学を志望して渡仏した芹沢にとって、欧州滞在は文学の道を逡巡(しゅんじゅん)した時期だった」と位置付けた上で、「研究者として長期滞在したことで、庶民と上流階級の貧富の差や男女平等の意識を感受した。日本と異なる仏文学の論理性にも触れるなど、個々の体験が、作品に色濃く反映されている」と述べ、作家としての原点を強調した。
 約170人の来場者からは、作品についての質問が多数挙がった。
(静新平成23年11月16日朝刊)