2016年5月3日火曜日

史談会記念講演:「明治文化史のなかの沼津病院」樋口雄彦教授

明治文化史のなかの沼津病院
記念講演:樋口雄彦教授










2016年4月10日沼津病院樋口講演画像資料


平成28年5月3日(火)沼朝関連記事


一流の医師集めた沼津病院
静岡藩陸軍医局として開院
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第1回が先月十日、市立図書館視聴覚ホールで開かれた。2018年に沼津兵学校百五十周年を迎えるにあたっての企画で、国立歴史民俗博物館教授で元明治史料館学芸員の樋口雄彦氏が「明治文化史のなかの沼津病院」と題して話した。
斯界リードする医師輩出
井上靖の祖父も学ぶ
沼津病院は沼津兵学校に併設された病院。建物は現在の西条町にあった。明治維新に伴い、徳川将軍家が江戸から駿河に移されて静岡藩が成立すると、藩士の軍事教育のため、一八六八年十二月に沼津兵学校が開校。開校時に陸軍医局が設けられ、これが翌年、一般人も受診可能な沼津病院となった。病院利用者は薬代の支払いのみで診察を受けることができたという。
沼津病院には、旧幕府に仕えた医師達が勤務していて、代表である頭取には杉田玄端が就任した。玄端は西洋医学書を翻訳して『解体新書』を著したことで知られる杉田玄白の孫に当たる。
また、地元出身の平民医師も在籍し、旧沼津藩の嘱託医師だった荻生洪斎のような人物もいた。
樋口氏によると、沼津兵学校を創設した西周(にし・あまね)は、兵学校を、軍人だけでなく官僚などの文官も養成する総合学校にする構想を持っていて、沼津の病院には医師養成機能も持たせようとしたが、教育機能は現在の静岡市に設けられた駿府病院に一本化された。
しかし、沼津からは多くの医師が誕生した。
兵学校附属小学校を卒業して医師への道を進んだ人物の中には、日本の精神医学の草分け的存在である榊淑(さかき・はじめ)や、荻生洪斎の子で後に現在の千葉大医学部の幹部となった荻生録造などがいる。
勤務医の杉田玄端らは当時一流の医師であったため、その弟子になろうとする人達もいて、そこから医師となった人物も多いという。その中の一人に作家井上靖の祖父井上潔がいる。
甲斐(山梨県)などの遠方からも患者が来るなど、その名が知られた沼津病院だったが、一八七一年の廃藩置県で静岡藩が消滅し、兵学校も閉鎖されると、病院も組織の改変を迫られた。以後は杉田玄端が経営する私立病院となり、経営安定のために会社化も行われ、運営資金の寄付も募られた。
さらに一八七九年、駿東郡長だった江原素六により郡立の公立病院となり、駿東病院と改称され一九四五年まで存続した。
沼津病院の意義について樋口氏は、一八六〇年代初頭の文久年間に長崎で国内最初の近代的病院が設立されて以降、江戸幕府が整備しようとした医療制度が本格的に始動したものであると指摘。また、当時一流の医師と最新の医療設備が沼津に集まっていた点についても触れた。
【沼朝 2016年(平成28年)5月3日(火曜日)】

2016年5月1日日曜日

ナゾのマチ沼津 渡邉美和

 ナゾのマチ沼津 渡邉美和
帰り新参である。長く沼津を離れ、三年前に戻ってきた。あらためて気が付くことも多い。以前、沼津に住んでいた時には当たり前だったことが、再発見とナゾの連続に変わるのだ。
たとえば、市街地の道路。この規模の市にしては、道幅も広い。安心して歩くことのできる広い歩道もかなり完備されている。もちろん、一歩市街地から外れれば、道路行政に対する不満は、まだまだ多い。でも、三叉路は少なく、道はほぼ東西南北に走り、まっすぐである。
郊外型ショッビングモールに押され気味の商店街だが、アーケード名店街のマチも、改めて見ると建築当時のモダンさが感じられる。どうしてこのような様式を取り入れることができたのだろうか。
ナゾはつきない。帰り新参の目からは、かつての三枚橋城(後に沼津城)は、決して攻防に秀でた施設ではないように見える。そもそも狩野川の水害を受けやすい比較的平らな土地である。そこに単なる砦ではなく、石垣を備えた本格的な城として三枚橋城が築かれたのだ。なぜ?後の沼津城は、城地の脇を東海道が通るという、本来の城の機能を完全に放棄している。
そして、その城跡はどこに行ってしまったのだ。
明治維新により、沼津は城という軍事施設との関連をすっぱりと断ち切ってしまったように見える。その代わりに人材育成に励むことになる。もともと甲斐の武田氏が築いた城は、築城後へ数百年を経て、「人な石垣、人は城」という武田氏本来の形を復活させたようにも思える。
沼津兵学校、その附属施設での日本で初の小学校教育、さらに近代的な沼津病院(後の駿東病院)などが明治維新後に立て続けに沼津に設置されたことにも合点がいく。沼津は城でなく、人を育成することで近代への貢献の道を選んだのだろう。
軍事施設と縁を切れば、道はまっすぐな方がよほど便利である。そして、それが商業の近代化も促進させたのではないだろうか。
来たる五月八日(日)午後一時半から市立図書館四階、第一・二講座室で第2回「沼津ふるさと講座」が開催される。今・回の講師は、本会会員で上本通り商店街理事の長谷川徹氏。同氏の豊富な沼津のマチに関する情報による、「ナゾ解き」が楽しみである。同氏を支えるスタッフも多く参加される。講座の後、沼津の歴史を探訪する「沼津街中ウオッチング」と併せて楽しみたい。
なお、「街中ウオッチング」では、会員以外は資料代五百円とスポーツ保険料百円が必要。申し込みと問い合わせは、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)研修部長の上柳晴美(電話〇九〇の一四一八の○四三五)まで。
(沼津郷土史研究談話会会員、南本郷町)
【沼朝平成28年5月1日(日)言いたいほうだい】

2016年4月16日土曜日

狩野川仲町岸の堤石垣出現


動画です





画像資料

2016年4月16日新居家河岸石堤画像資料



平成28年4月19日のマチケン隊新居家河岸石堤を探検





大正時代の仲町河岸の風景



沼津名所絵はがきより


丸子神社本町絵図(狩野川ダシが描かれている)


2016年4月3日日曜日

新幹線開通と停車駅など

 新幹線開通と停車駅など
 ふるさと塾 長谷川徹氏が解説
 一方、ふるさとづくり塾では、史談会会員の発表として、上本通り商店街理事の長谷川徹氏が「沼津の商店街-戦後昭和史3」と題し、昭和三十年代以降の市街地の歩みについて話した。
 その中で長谷川氏は、新幹線の開通と停車駅の問題について取り上げ、当時の国鉄は当初から沼津市街地を新幹線のコースから外していて、そこに沼津市や市民の意向は反映されておらず、市民や各種団体の反対のせいで沼津に新幹線駅が出来なかったという主張は誤りである、と強調した。
 当時の報道を調べた長谷川氏によると、昭和三十三年に新幹線の路線計画が報道され、そこでは沼津を避けたルートになるとされていた。
 三十五年二月に新幹線の建設予定ルートが国鉄から行政関係者に示されると、そこには沼津近辺のルートについて『石田北側-西熊堂―椎路北側―鳥谷ー青野ー井出・と説明がなされたとの報道があった、という。
 その後、三十九年に東京ー新大阪間が開業し沼津近辺は当初の説明通りのルートとなった。この時、新幹線の三島駅は存在しておらず、後に費用を地元が負担する形で建設され、四十四年に開業している。
 長谷川氏はこのほか、昭和四十年に開業した、現在の仲見世商店街と新仲見世商店街の間の旧国道一号の下にあった地下街「味のちか道名店街」についても話した。
【沼朝平成28年4月3日(日)号】

平成28年3月19日「異国船と村人」講師:青山学院文学部教授・岩田みゆき

平成28年3月19日「異国船と村人」講師:青山学院文学部教授・岩田みゆき


画像資料


2016年3月19日異国船と村人岩田みゆき教授画像資料



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沼朝平成28年4月3日(日)関連記事
幕末期異国船への対応
戸田にも動き、勝呂家で記録
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第12回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館で開かれた。漁村史などが専門で沼津市史編さんにも携わっていた青山学院大学教授の岩田みゆき氏が「幕末期の沼津-異国船と村人」と題し、主に現在の市内南部地区の人々が異国船とどのように向き合ったのかについて話した。
当時も国際情勢への関心高く
ふるさと塾 青学大教授が解説
異国船への対応一八五三年のペリー提督によるアメリカ艦隊の来航以前にも、欧米の艦船は日本近海に出没しており、江戸幕府は対応を迫られていた。
一八四六年、アメリカ使節のビッドルが軍艦二隻を率いて浦賀に来航して日本との通商条約締結を求めたが、幕府の拒絶を受けた。一八四九年にはイギリス船マリナー号が相模湾の近海で測量を実施した。
こうした「異国船」が出現するたびに、幕府は警戒態勢を整えた。各藩に防衛部隊の出動を命じ、各藩は藩士を派遣するだけでなく、藩内の領民も動員した。
ビッドルの来航時、沼津藩は藩士を下田に派遣したほか、その一部が藩領となっていた戸田村では「郷筒」に出動準備を命じた。
郷筒とは、害獣駆除のために猟銃の所持を認められた人達のことで、沿岸警備の応援に投入される予定だった。しかし、ビッドルが帰国したため、実際に出動することはなかった。
マリナー号の際には、沼津藩は警備を担当していた東伊豆沿岸の台場(砲台)に藩士を派遣するとともに、戸田村では様々な作業に従事するための人足の動員が行われた。
また、いずれの際にも物資輸送のために船の動員も行われた。この動員は「取船(とりふね)」と呼ばれた。
飛び交う情報戸田村では名主の勝呂家によって異国船に関する様々な情報が記録された。村に対する命令や、それへの対応を備忘的に記しただけでなく、様々な風聞も記録した。ペリー来航時には、アメリカ政府の国書の和訳文を入手して転載している。
こうした村々の情報源となったのは、異国船対応のために動員された人達だった。
ビッドル来航の際には、取船の乗組員として現場に動員された船乗りが、緊迫した情勢を伝えている。それによると、異国船は「アミリカ」から来た大小二隻の軍艦で、大型の艦は大砲九十門を搭載していた。これに一対し日本側は、不測の事態に備えてアメリカ船を焼き討ちにする準備を進めた。火薬を積んだ船をアメリカ船に衝突させる計画だったという。
また、遭難して異国船に救助されて生還した船乗りの話も記録された。
文右衛門という船頭は一八五〇年一月六日に下出を出港した後、遠州灘で遭難。偶然発見した無人船に乗り移って漂流を続け、三月十日になって異国船に救助された。
この間に文右衛門は船乗り仲間に対して、「外国の捕鯨船に出会うこともあるから心配するな」と励ましていた。文右衛門は、それまでにも異国船に救助された経験があったという。
そうした過去の経験の中で、文右衛門は外国語をある程度理解していて、救助してくれた相手に「イキリス」の船かと尋ねたところ、「フラシヤ(フランス)」という答えが返ってきたという。その後、身振り手振りを交えて帰国協力の依頼をし、現在の岩手県の浜辺に送り届けられた。
文右衛門は異国人の生活を観察していて、フラシア人は米を食わずに「パン」という小麦の焼き餅を食べる、などと述べている。
終わりに岩田氏は講演のまとめとして、異国船の来訪に対して、村々では労働力提供などを命じられて負担も大きかったが、動員されて異国船の現場へと近づいた人達から貴重な情報を得ていたこと、日本人の船乗りは異国船や異国人に対して同じ船乗りとしてある種の親近感があったことなどの特徴を指摘。
そして、地域社会においても国際情勢への関心に高く、地域社会の歴史研究では、こうした新たな視点も重要になってくると話した。

歴史とまちづくり 匂坂信吾

 歴史とまちづくり 匂坂信吾
 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の新たな市民公開講座第1回「フレッシュ150・沼津ふるさと講座」は、四月十日(日)午後二時半から市立図書館四階の視聰覚ホールで開催されます。
 今回は本会の平成二十八年度総会の記念講演として行うもので、国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏による「明治文化史のなかの沼津病院」と題する講座を「沼津兵学校創立百五十周年記念事業」の一環として計画しました。
 記念事業は、本会と一般社団法人沼津医師会、沼津香陵ライオンズクラブが中心となり、関係団体の皆様と共に、平成三十一年の沼津兵学校創立百五十周年に向けて、杉田玄端や林洞海、室賀録朗や佐々木次郎三郎など時代の最先端を歩んだ医師達が活躍した沼津病院(江原素六が関与して駿東病院となり約八十年間存続)の歴史的意義を探ることを中心テーマとしています。
 この取り組みは、沼津兵学校の重要な遺産である、明治・大正・昭和、そして現在に至る地域の医療と文化、教育や産業振興などの関わりを学び、「歴史を生かした沼津のまちづくり」に結び付けていこうとするものです。
 これに先立ち、午後二時頃から同じ会場で、お楽しみマチづくりセレモニー、及び本会の最高齢会員である矢田保久氏によるスピーチなどを予定しています。
 総会で会員に配布する会誌『沼津史談』第67号には、現在満百歳の矢田氏が昭和二十一年から数年間、旧制沼津中学の同窓生と共に、終戦後の焦土と化した郷土を再びよみがえらせようと、市民のための文化運動として取り組んだ「沼津自由大学」に関する特集が二十四ページにわたり掲載されています。
 大中寺の下山光悦住職(本会会員)が以前、矢田氏と行った対談の前半を掲載した昨年発行の会誌66号で、自由大学の話題が注目されました。本会では矢田氏が保有されている七十年前の、自由大学に関する資料が貴重なものであるため、関連する情報と併せて会誌に掲載するとともに、昨年開設したホームページの活用などにより、情報発信を図ることといたしました。
 講座の当日、会場の受付で会誌の第66・67号を展示・頒布(各千円。前者は残部僅少)しますので、購読を希望される方は受付でお申し出ください。
 市民公開講座への参加は定員二百人、先着順で、資料代五百円が必要です。
 また、入会希望者は事前に、あるいは当日、受付で入会手続きを行い、午後一時からの総会にご参加ください。年会費は一人四千円、夫婦会員は二人で六千円です。会員は会誌・会報、講座受講料など(一人当たり年間八千円相当)が無料となり、学習や旅行企画などの活動に参加しやすくなります。
 問い合わせと講座受講の申込みは、担当の上柳(かみやなぎ)晴美(電話〇九〇ー一四一八ー〇四三五)まで。
 (沼津郷土史研究談話会会員小諏訪)
【沼朝平成28年4月3日(日)「言いたいほうだい」】