2012年10月5日金曜日

沼商県立九〇年 中野忠


沼商県立九〇年 中野忠
 沼津商業高校は、一八九九(明治三二)年四月に開校、今年一一三年になる。それが一九二二(大正一一)年四月、県に移管されて今年で九〇年。それまでは沼津町立で「沼津町立沼津商業学校」と称し、県への移管によって「静岡県立沼津商業学校」となった。
 この頃から校舎移転が、市内山神道から丸子町へ始まり、生徒募集も予科・本科制が廃され、尋常小学校六年卒業を入学資格とする五年制一貫体制の学校となった。
 翌一九二三年四月、丸子町全面移転も終わり、七月には、駿東郡沼津町が隣村の楊原村を併合して県下三番目の市へ沼津市となった。従って、沼商に市立沼商の時代はなかった。
 一九二五(大正一四)年四月、「陸軍現役将校配属令」により、陸軍現役の将校が各学校に配属され、教練が体操科目から独立して強化された。学校環境も整備された同年の秋には、校歌「駿河の入海…」を制定。
 昭和の不況期に入り、定員割れの学校が続出する中、沼商の入学難は続き、NCS三文字重ねの徽章に、二本の白線の帽子は、小学生憧れの的ともなっていた。以後、それも戦争の激化で、まず白線が廃されて帽子も戦闘帽に替わり、徽章も敵性文字追放から、漢字縦型の「沼商」と改められた。野球、篭球、庭球などの各部は敵性スポーツとして廃部させられた。
 一九四四(昭和一九)年四月、県内に静岡商業一校を残して、商業学校は工業学校に転換させられ、沼商は「静岡県立沼津第二工業学校」となった。この年一学期が終わると、三年生以上の学徒動労動員が始まり、四年五年は神奈川県の工場へ、三年は市内工場へ派遣されて軍需生産に携わった。秋からは、富士山目当てのB二九が昼夜、沼津の上空を飛び交うようになり、翌二〇年七月、沼津も大空襲に遭って焼土化した。
 やがて八月一五日に終戦。九月、授業が市内高田の仮校舎で始められた。学校も商業学校に復元した翌二二年、学制改革により生徒募集は中止、二三年、新制高校に昇格して「静岡県立沼津商業高等学校」と改称された。校舎も丸子町に二階建てで新築され、その後、生徒募集も再開された。
 二九年二月に新校歌「天に富士…」を制定。三一年四月から従来の商業教育を一新する、類型制導入による専門的商業教育が行われるようになり、今は、さらにそれを進めた小学科制による商業教育が定着している。
 沼商も隣町の清水町徳倉に移転して来年は四六年になる。丸子時代も四六年。学校は丸子時代の終わり頃から、ほどよい男女共学制となったが、今や女子生徒が大多数となり女子高化している。それに生徒数の減少で、どこの高校も学校振興に悩んでいる。「その名を誇る沼商」に一層の頑張りと成果ある教育の期待をしたい。(旧沼商四六回卒、竹ノ岬)

《沼朝平成24105()「言いたい放題」》

2012年9月29日土曜日

90年前の東京駅舎


90年前の東京駅舎
 航空写真見つかる

 90年前の1922(大正11)年に、東京上空から丸の内などの名所を撮影した航空写真6枚が28日までに見つかった。関東大震災前の鮮明な航空写真は極めて珍しい。
 6枚のうち「東京と丸の内」は、英国のエドワード皇太子が訪日した22412日、歓迎式典を機上から撮影した歴史的に価値の高い写真だ。
 東京駅の赤れんが駅舎が復元され101日にオープンするが、この写真には開業8年後の東京駅舎が写っている。同駅北側には皇太子を歓迎する奉祝門があり、出迎えの群衆も捉えられている。
 日本の飛行家のパイオニア伊藤音次郎が設立した伊藤飛行機研究所が、所有する複葉機で撮影した。
《静新平成24929()朝刊》

2012年9月22日土曜日

沼津周辺の貴重な文化財(四) 小野眞一


沼津周辺の貴重な文化財(四) 小野眞一
「高尾山古墳と三角縁神獣鏡」
 弥生時代の遺構として各地に円形や方形(四角形)の竪穴住居跡や、小型の土坑墓が存在したが、その後期には墓地として周囲に溝を廻(めぐ)らした円形周溝墓、方形周溝墓、前方後円型周溝墓等が出現した。これは地域における身分差の表れでもあろうが、次の古墳時代には円墳、方墳、前方後方墳、前方後円墳、双方中円墳など各種の墳丘墓に発展した。
 大和朝廷による国土統一が進行する三世紀中葉から四世紀代にかけて、中央や地方における首長クラスの墳墓である。前方後円墳は、天皇や皇族の陵墓を含み数は多いが、前方後方墳、方墳、円墳等は地方の首長墓を主とするようである。
 静岡県内での古墳時代前期の前方後円墳は、昭和五十八年の記録では八基であり、香川(「七)、奈良(一三)、大阪(一二)、岡山(一一)、兵庫()に次いで愛知県と共に全国六位であり、前方後方墳は岡山()、島根(五)、茨城()、徳島()、さらに栃木、石川、長野、滋賀と共に静岡も二基である。
 ただし、これらはあくまでも古墳時代前期の数で、中・後期を加えると大変な数になり、沼津の高尾山古墳等の前方後方墳も全国で 二〇余基になる。
 次に、前方後方墳は、その名の通り、前も後ろも方形で、後ろが正方形に近い墳丘(埋葬地)であり、前が細長い長方形または前広がりの台形(祭場)となっている。
 そこで、高尾山古墳について形を観察してみよう。
 まずは墳丘の主体部に東西に長く墓穴を掘り、内部に朱をまき、その上に木棺を納めていたようであるが、腐蝕して実態は確認できなかった。また、その周辺から出土した土器は、駿河湾地方主体の古式土師器(こしきはじき)である大廓式土器に属する壺や甕(かめ)、高杯(たかつき)等と共に、伊勢湾地方特有のS字甕(口縁断面がS字状の薄手土器)や祭祀用の直口壺、小型土器等であった。
 さらに被葬者は、駿河地方の首長であり、その遺体に副葬されていたものは銅製の鏡や鉄製の鏃(やじり)、装身具の勾玉(まがたま)等であった。
 この銅鏡=写真左=は周縁部断面が三角形をなし、背面には中国風の獣文や羽根付きの神人文と漢字が見られ、三角縁獣帯文あるいは三角縁神獣鏡と言われるもので、直径一三・五㌢であった。
 同様の鏡"写真下=が金岡地区中沢田で山麓を通過する根方街道を県道として直線的に改修する工事の際、大中寺西辺にあった道尾塚(どうおつか)から出土し、同寺に保存されている。

 これは直径二〇・三㌢と大型で、典型的な三角縁神獣鏡。昭和二年の『静岡県史跡名勝天然記念物調査報告第三集』で足立鍬太郎委員が紹介されている。しかし、道尾塚古墳は破壊され、その墳形は不明である。
 同様の鏡は外来品や模倣品を含め京都、奈良、大阪、福岡、兵庫、岡山といった畿内主体の西日本に多く、静岡県は全国十一位の出土数である。また、出土した古墳は前方後円墳が多く、円墳、方墳が続き、前方後方墳からの出土例は少ない。
 いずれにせよ貴重な古期文化財である。
(おわり)
 (元常葉短大教授・元加藤学園考古学研究所所長、富士市境)
《沼朝平成24922()号》

2012年9月21日金曜日

沼津周辺の貴重な文化財(三) 小野眞一


沼津周辺の貴重な文化財() 小野眞一
「浮島周辺の小銅鐸や木製・土製品」
 縄文時代に続く弥生時代は、金石併用時代であり、石器と共に鉄や銅による金属器が出現した時代である。
 紀元前五世紀ごろから、中国から多数の水稲耕作民が北九州に到来。朝鮮半島南部からも黒色磨研土器や金属器が伝わり、保存用の壺や、煮炊用の甕(かめ)、食物を盛る高杯(たかつき)や鉢などをセットとする弥生式土器が誕生した。そして、この時代の前期初頭には九州から近畿へ、続いて中期には中部から南関東、さらに後葉には本州北端の青森まで、新しい文化が発展した。
 さらに今から約二千百年ないし千九百年前の中期には、国内各地に農耕集落や水田が開け、後期には静岡市の登呂遺跡や沼津市の沢田遺跡、目黒身遺跡など多数の遺跡を残している。
 生活用具として農耕用の石鍬、穂摘み用の石包丁、木製の鍬先と鋤先、田下駄などが使われていたようだ。なお、宝器または楽器と言われる青銅製の銅鐸(どうたく)をはじめ、銅剣、銅戈(どうか)、鉄剣、鉄刀という武器のほか、銅鏡なども使用されている。ちなみに、横型田下駄「ナンバ」や縦型田下駄「大足」は、昭和二十年代まで浮島沼周辺の農家で同様のものが使用されていた。
 これらの中の銅鐸について略説すると、九州北部から関東にかけて見つかっているが、出土数を見ると、近畿が圧倒的である。静岡県でも多数見つかっており、特に県西部の遠州で、しかも西日本と共通して大きさも四○㌢ないし一㍍前後の大型のもの。さらに、その形式や紋様は突線紐の三遠式(三河、遠江地方特有)や、近畿式のものが多い。他に八㌢以下の小銅鐸が発見されているが、同様のものは県中部からも出土している。
 次に県東部では伊豆の国市田京の段遺跡から近畿式の大型銅鐸の破片が、また沼津市東井出の閑峰及び冨士市船津から小銅鐸が発見されている。
 この小銅鐸は、北九州、中国、東海、関東などのほか、青森や北海道からも出土している。ここでは沼津市東井出のものを写真=下=で紹介したが、高さ七・八㌢の完形品で、現在は東京国立博物館に保管されている。

 次に農耕に関運した木製品であるが、静岡県東部では沼津市の沢田新田や雄鹿塚遺跡、雌鹿遺跡の如く、旧浮島沼周辺の諸遺跡より突鍬や鋤鍬、田下駄などの農具、木杯(もくはい=鉢形木器)、片口式木器、杓子等の食器、建築材、杭など多種多様のものが多く出土しているが、雌鹿塚遣跡からは右と左に図示した鳥形木製品が小型の鹿形土製品などと共に発見されており、稲の豊作を祈る神聖な品とも考えられている。

 かくして、時代は次の古墳時代に入り、新たな発展期を迎えることになる。
(元常葉短大教脚授・元加藤学園考古学研究所所長、富士市境)
《沼朝平成24921()号》

2012年9月20日木曜日

沼津周辺の貴重な文化財(二)小野眞一


 沼津周辺の貴重な文化財()小野眞一
「土偶・顔面把手と千居遺跡」
 前回記述の旧石器時代に続くのが新石器時代で、日本では縄目紋様に象徴される縄文時代と、金石併用の弥生時代が相当する。その縄文時代は、打製石器に磨製石器が加わり、土器や土製品が主要な生活用具として使用された時代である。
 特に土器の形態や紋様の変遷に応じて草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六時期に分けられているが、その早期以後の特殊な土製品として土偶が出現し、また中期以後には土器に付加された把手(とって)に人面または獣面を表した顔面把手も出現する。
 土偶は人物、または動物をかたどった土製品であり、玩具あるいは呪術的な偶像として作製したことが偲ばれる。そして、呪術的意義を持つものには特に女性像が多く、乳房や臀部(でんぶ)を誇張した裸像があって、生産の神としての地母神崇拝を表すものと解釈されている。
 時期的に見れば、福島、茨城、千葉の各県から早期のものが出土しているが、現在は僅か八個で、前期のものは二十二個あり、東日本に比較的多い。中期になると、長野の一九二個をはじめ、愛知以北で三三六個の出土例があり、東日本が圧倒的で、西日本では後期と晩期のものが若干見られるに過ぎない。
 静岡県では、中期のものが伊豆の国市田京の公蔵免(こうぞうめん)遺跡、三島市壱町田の千枚原遺跡、沼津市北小林の芹沢遺跡、富士宮市上野の千居(せんご)遺跡、また後期のものが三島市北上の反畑(そらばたけ)遺跡、富士宮市杉田の滝ノ上遺跡、同市野中の滝戸遺跡、浜松市の蜆塚(しじみつか)遺跡、さらに晩期のものが旧清水市の天王山遺跡、旧中川根町の上長尾遺跡から発見されている。しかし、これらの出土品に完形品は少なく、頭部、胸部、臀部、脚部の残存品が多い。


 写真=左=に見る滝ノ上遺跡のものは、完形で、富士山西麓の湧水地近くにある滝不動の祠(ほこら)付近の地下約二㍍の所で百数十年前に出土した三個の中の一つで、近隣の安養寺に保存されているものである。高さは一六・五㌢の女性像で、胸部に乳房を大きく表し、腰部には細い布を巻きつた如く縄文帯を付し、両手画脚を開いている。
 次に顔面把手であるが、これは写頁=下=で示したように沼津市柳沢の大廓遺跡より好例が見られ、加藤学園考古学研究所に保存されている。深鉢型土器の口縁近くに施された装飾的把手で、二段にわたって大きく凹んだ溝の一部を埋める如く設けられ、縦長で一一㌢、上部の顔面は楕円形に深く彫り込まれた二つの目、横に伸びる大きな三日月形の口が特徴で、獣面を表している感じがする。縄文中期のもの。
 他に三島市徳倉の城山遺跡から出た筆者採集のもの(日大三島高所蔵)や、大島淑嗣氏採集の三島市千枚原遺跡出土のもの(獣面)がある。また、後期初頭のものとして伊豆市の上白岩遺跡からも発見されている。これらは主として中期の勝坂式土器に伴うものが多い。
 なお、中期には前記した国指定史跡の富士宮市千居遺跡があり、富士山に対しての大配石遺構はまさに富士山信仰の原始的姿を示すものとして貴重である。
 (元常葉短大教授・元加藤学園考古学研究所所長、富士市境)
《沼朝平成24920()号》

2012年9月19日水曜日

沼津周辺の貴重な文化財(一)  小野眞一


沼津周辺の貴重な文化財()  小野眞一
「休場遺跡と旧石器」
 旧石器時代は三つに分けられている。約十三万年前までを前期旧石器時代といい、以後約三万五千年前までを中期旧石器時代、さらに約一万三千年前までを後期旧石器時代と呼んでいるが、静岡県でも第二東名高速道路建設工事に伴う発掘調査で、約三万年前以降の敲打器(こうだき)やナイフ形石器、石斧等を出土している。
 沼津市青野の秋葉林や金岡足高の子の神(ねのかみ)、中見代、さらに三明寺、柏葉尾、清水柳北、広合、休場(やすみば)等、多くの遺跡も同様で、中には尖頭器や細石器も発見されている。
 静岡市出身の考古学者、芹沢長介氏は、早くから旧石器時代を①握槌(ハンドアックス)、②石刃(ブレイド)、③尖頭器、④細石器(マイクロブレイド)の四段階に区分し、筆者も県東部各地を踏査して、昭和三十二年に『静岡県東部古代文化総覧』を蘭啓社より刊行し、富士川以東の駿河・伊豆地域の遺跡死延べ一〇八〇カ所記載したが、その中には僅かではあるが、旧石器時代の遺跡数カ所を登載した。
 続いて三十六年に静岡県教育委員会刊行の『静岡県遺跡地名表』には同時代遺跡が県全体で四七カ所、そのうち東部は三島市四、沼津市六、旧吉原市四、旧富士郡四、熱海市・賀茂郡各一が掲載されていた。
 この県東部旧石器時代(無土器時代・先土器時代)で最も著名なのは沼津市宮本の休場遺跡で、三十七、三十九年にわたり、当時、沼津在住の筆者並びに笹津海祥氏(妙海寺住職。故人)の指導で、沼津女子高(現加藤学園高)郷土研究部が小発掘した。
 その結果、同遺跡は、旧石器時代末期の細石器文化器の遺跡であることが判明し、これに注目された明治大学、杉原荘介氏の発案で、三十九年に同大学考古学研究所と沼津女子高が共同で本調査を実施した。
 調査では、三十九年九月二十七日から十月七日まで十一日間にわたり愛鷹山地南側中腹の小高い隆起部、標高二九一・六㍍の高山西側斜面を発掘した。


 層位は黒色腐蝕土層の表土が約四〇~六○㌢で、出土遺物は無く、その下方の赤褐色ロームや、暗黒色土層を経た約二㍍下方の黄褐色ローム層(休場層)から約一万四千年前の石囲い炉二カ所=左上の写真=と、四四〇〇個以上の細石器=写真右=が掘り出され、その結果は明治大学考古学研究室発刊の『考古学集刊』に発表され、国指定の史跡となって今日に至っている。
 まさに同遺跡は、旧石器文化を知る貴重な遺跡であり、東椎路北方の現地に近い道路脇に記念碑が建てられている。
 (元常葉短大教授・元加藤学園考古学研究所長、富士市境)
《沼朝平成24919()号》

2012年8月5日日曜日

高尾山古墳シンポジュウム「沼朝記事」

スルガの王、大いに塚を造る  高尾山古墳でシンポジウム  市教委は七月二十二日、「高尾山古墳シンポジウムースルガの王大いに塚を造るー」を市民文化センター小ホールで開催。約三百四十人が来場した。  築造年代や性格付けなど  専門家が自説を展開  高尾山古墳は、都市計画道路沼津南一色線の工事に伴う調査により東熊堂の高尾山穂見神社境内で発見された。当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、昨年六月に現在の名に改称された。四角形と台形を南北につなげた前方後方墳という形式で、南北の全長は約六二㍍。出土品の形状により、三世紀中ごろか、その少し前に築造されたと見られている。  シンポジウムでは、沼津市教委の池谷信之さんが司会を務め、池谷さんを含む同古墳発掘調査報告書の執筆者ら六人が、古墳について多角的に論じた。
池谷さん 古墳の概要 池谷さんが最初の発表者となり、古墳の概要について話し、はじめに当時の地理的状況を説明した。  それによると、古墳が建造された当時の沼津西部地域一帯には浮島沼が大きく広がり、現在の田子の浦付近で海とつながっていた。沼の周辺は強風や高潮などにより塩害が発生しやすいため、当時は沼から離れた内陸部に水田が広がっていた。古墳に葬られた人(被葬者)は農業地帯を支配した人であり、古墳は水田地帯を見渡せる場所に位置しているという。  また池谷さんは、古墳が築造される前の時代に当たる弥生時代後期には、愛鷹山麓に大きな集落があったことを説明。被葬者は、この集落の支配者の流れを引くのではないか、と推論した。  続いて、池谷さんは古墳の構造について説明。古墳は自然の地表を整地して地表を削り出し、その上に改めて土を盛ってつき固めてあった。この丘のような盛り上がりの頂上に「墓坑」と呼ばれる穴が掘られ、そこに死者や副葬品を納めた木棺が安置された。  池谷さんによると、この墓坑の位置は、周到な計算に基づいているという。その一例として、台形をしている前方部の斜辺を延長した線や古墳の中軸線などが交差する点は墓坑内にあり、しかも、この地点からは勾玉(まがたま)が発見されている。池谷さんは、勾玉の形は人間の心臓を模したものだという説を紹介し、古墳設計の基点となる場所で勾玉が見つかったことには、何らかの意味があるのではないか、とした。  このほか池谷さんは、高尾山古墳の築造年代について軽く触れ、大まかに言って西暦二三〇年代説と二五〇年代説があることを紹介。そして、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が葬られている可能性が高い箸墓古墳(奈良県桜井市)は二五〇年ごろの築造と見られていることを述べ、二三〇年代説と二五〇年代説が持つ意味について解説。  それによると、二三〇年代説の場合、ヤマト(奈良県)の地に中央政権が成立する以前から、地方で古墳が造られ始めたということであり、これは弥生時代から古墳時代への移り変わりが各地で同時多発的に起こったことになる。  一方、二五〇年代説の場合、古墳の築造はヤマトから地方へと普及していったことになり、新時代の訪れは、ヤマトを中心としたものであったことになる。  このため、高尾山古墳の築造年代は、弥生時代から古墳時代への移り変わりがどのように行われたかを考える上で、重要な意味を持つことになるという。
渡井英誉さん 出土土器 富士宮市教委の渡井英誉さんは、高尾山古墳から見つかった土器について話した。  それによると、古墳からは、三世紀から四世紀の百数十年間にわたる年代の土器が発見されているという。この時期は、弥生時代から古墳時代に当たる。  ま年代だけでなく、土器の産地も多岐にわたり、伊勢湾岸や近江(滋賀県)、北陸、関東などの土器が見つかっているほか、地元産である大廓式土器が見つかっている。  渡井さんによると、大廓式土器は狩野川沿岸で作られ、西は御前崎、東は相模川流域(神奈川県)、北は甲府盆地(山・梨県)に至る範囲の土地で使われていたと考えられている。そのため、渡井さんは「これは一つの勢力圏があったことを意味し、高尾山古墳の被葬者は、大廓式土器の生産に関わっていたのではないか」との見方を示した。  渡井さんの発表終了後、司会の池谷さんは「大廓式土器が、なぜこれほど広範囲で見つかっているのか疑問に思っていたが、高尾山古墳の発見により、土器普及の核となるものが見えてきたのではないか」と総括。 「様々な地域からの外来土器が見つかっているということは、地域勢力同士の連携や同盟のようなものがあったと見てもよいか」と質問し、渡井さんは「そう見てもよいのではないか」と答えた。
滝沢誠さん 駿河の古墳 筑波大教 授(前静岡大教授)の滝沢誠さんは、駿河(静岡県中東部)の初期古墳について話した。  滝沢さんは、駿河を西スルガ(静岡市、志太地域)と東スルガ(富士市、富士宮市、沼津市、三島市の一部)に分け、双方の古墳について解説。  それによると、西スルガでは、神明山古墳群や午王堂山古墳群、駿河最大の一一五㍍の柚木山神古墳などが発見されているのに対し、東スルガでは富士宮市で発見された丸ヶ谷戸遺跡の前方後方系周溝墓(古墳以前の大型墓)が特に古いものと見なされる一方、これに続く古墳は存在しないと思われていた。しかし、高尾山古墳の発見が、この見方を変えることになったという。  滝沢さんは、神明塚古墳(沼津市)が再調査により、築造年代が、当初考えられていたより古いものであると判明したことや、七〇㍍級の前方後円墳と見られる向山十六号墳(三島市)の発見と合わせ、丸ヶ谷戸ー高尾山ー神明塚ー向山と連続して古墳が造られ続けてきたことが明らかになりつつあることを説明した。  このことから滝沢さんは「スルガの拠点的地域が明確になってきた」とし、古代には静岡市清水区一帯を地盤にする勢力と、沼津市一帯を地盤とする勢力があったことを指摘。それぞれの勢力は後の時代に登場する地方有力者である盧原国造(いおはらのくにみやつこ)や駿河国造などにつながるのではないか、との見方を示しだ。また、かつて駿河国が伊豆半島も含んでいた時代の駿河の中心地は駿河郡駿河郷(沼津市)であったが、高尾山古墳の存在は、このことと無縁ではないとの考えも見せた。
赤塚次郎さん  東海系文化との関係  高尾山古墳築造時期について西暦二三〇年代説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎さんは、高尾山古墳と東海系文化の関係について話した。  まず、東海系文化の特長について言及し、三遠式銅鐸が発見されている範囲をその文化圏であるとし、濃尾地方一帯には邪馬台国と同時期の集落遺跡が次々に見つかっていることを紹介。続いて「三世紀ではなく二世紀が問題だ」とし、高尾山古墳が築造されたと見られる三世紀より前の時代について解説した。  それによると、木の年輪調査から、二世 紀前半の西暦一〇〇年から一五〇年の間のいずれかの年に大洪水が発生したことが判明するとともに、当時は数年おきに干ばつと洪水が繰り返し続く長周期変動があったことも分かったという。また、断層の調査から東海地方では二世紀前半に大きな地震があったことも明らかになっている。  こうした状況説明を踏まえて赤塚さんは、「環境の変動が社会を変え、弥生時代までの知識が通用しなくなった。東海系文化は、この変化を乗り越える知識を蓄え、英雄が登場した」と語り、三世紀は二世紀の環境変化を乗り切った東海系文化が北陸や関東へと広まった時代だと述べた。そして、高尾山古墳にも採用されている前方後方墳という形は、この東海系文化と関係が深いと指摘。  さらに赤塚さんは、沼津一帯の環境変化についても触れ、富士山の噴火が沼津一帯への東海系文化普及のきっかけになったのではないか、と推測した。  最後に赤塚さんは、いわゆる「魏志倭人伝」の記述を踏まえ、①巨大地震や洪水の発生、②倭国大乱、③東海系文化の普及、④邪馬台国と狗奴国(くなこく)の抗争、という時代の流れを描き、高尾山古墳の築造は③と④の間の出来事ではないか、と見通した。  発表終了後、東海系文化圏を魏志倭人伝に登場する狗奴国と見なす赤塚さんに対し、司会の池谷さんは会場を代表する形で「高尾山古墳の被葬者と狗奴国の関係についてどう思うか」と質問。 赤塚さんは「狗奴国の仲間の一つだったのではないか」と答えた。
寺沢薫さん 前方後方蹟の意味 一方、築造時期を西暦二五〇年代だとする見方に立つ桜井市纏向(まきむく)学研究センターの寺沢薫さんは、ヤマト地方(奈良県)の前方後円墳と前方後方墳の関係について論じた。  はじめに寺沢さんは高尾山古墳の築造年代について触れ、「副葬品の状況を見ると、三世紀中ごろ以降。しかし、土器はそれより古いものだと思う。このギャップをどう考えるか」と述べ、古い時期の土器が古墳周囲の溝から発見されているとから、これらは古墳に紛れ込んだものではないか、と指摘。また、古墳の形状についても「前方部が長く発達していろ。これは、それほど古いものではないだろう」との見方を示した。  続いて古墳の規格の話となり、奈良県桜井市で見つかった纒向遺跡の古墳群の形状を説明。  これらの古墳は、前方後円墳で、後円部が盛り土で高くなっているのに対し、前方部は低くなっている。また、古墳全長と後円部直径、前方部長さの比率などの特徴について話した。  そして、寺沢さんは、纏向遺跡の前方後円墳のこうした特徴は、多くの前方後方墳にも含まれていると指摘。前方後方墳と前方後円墳は対等に存在するものではなく、前方後方墳は前方後円墳の影響を受けて形が決まる関係にあった、と推論。また、こうした上下関係を江戸時代になぞらえ、前方後円墳の被葬者はヤマト地方の中央集権的な政治勢力にとって譜代大名のような立場であり、前方後方墳の被葬者は外様大名のような立場だったのではないか、とした。  そして、この上下関係から、高尾山古墳の位置付けについても触れ、高尾山古墳は三世紀中ごろ(西暦二五〇年ごろ)に築造された纏向遺跡の箸墓古墳などと同じか、少し後の時期に築かれたのではないか、との見解を示した。  そして、高尾山古墳にもヤマト地方の影響があったのではないか、と語り、「高尾山古墳とは、西暦二五〇年ごろにスルガがヤマトの王権とのパイプを模索していたことの証であり、これこそがこの古墳が持つ歴史的価値ではないか」と結論付けた。
  総括 最後に明治犬名誉教授の大塚初重さんが総括。  はじめに、大塚さんは高尾山古墳の第一印象について、「大廓式土器が出てきたと聞いて、かなり古いなと思った」と回想。また他の土器の出土状況からも、三世紀前半の築造ではないか、と思っていることを述べた。そして、古墳とは、ある地域からある地域へと波及していくのではなく、どの地域でも一定の状況まで発展成長すると古墳が登場してくるのではないか、との考えを述べた。  また、前方後円墳と前方後方墳とは被葬者の地位の違いによるものではなく、各地域の墓や葬儀の制度の違いではないか、とした。  すべての発表終了後、質疑。  来場者の一人は赤塚さんに対し、「東海に狗奴国があるとするならば、邪馬台国はどこにあると思うか」と質問。赤塚さんは「河内(大阪府南部)だと思う」と答えた。  また別の質問者は「高尾山古墳に関連すると思われるような貝塚は見つかっているのか」と質問.これには池谷さんが「見つかっていない。しかし沼津市内の雌鹿塚遺跡からは釣り針が見つかっている」と答えた。  このシンポジウムは、高尾山古墳について沼津市民が理解を深める機会を提供するために開催された。  このため、市教委ではシンポジウムの開催を県外に向けては特に告知しなかったことから県外の研究者等から開催について多くの問い合わせがあったという。 (沼朝平成24年8月5日号) シンポジュウム当日資料クリック