2012年4月11日水曜日

沼津・高尾山古墳


国内最古級説も 沼津・高尾山古墳
 市教委 調査報告書が完成

 沼津市東熊堂の高尾山古墳の発掘調査を行っていた沼津市教委は10日、市議会文教消防委員会で古墳の調査報告書の完成を報告した。前方後方墳の同古墳は、西暦230年ごろに成立したとの説があり、市教委は「古墳時代成立の過程を解き明かす鍵になる極めて重要な古墳」としている。
 同古墳は、市教委が2008年に発掘調査を開始し、09年には国内最古級の230年ごろに作られた高坏(たかつき)が見つかった。ただ、副葬品の鉄製の鏃(やじり)などがそこまで古くないため、同古墳が250年ごろにできたと唱える研究者もいる。
 国内の代表的な前方後方墳は、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳。成立年代は250年ごろとみられる。仮に高尾山古墳が230年ごろにできたとすると、東海地方でも独自に古墳文化が進行していたことになる。
 市教委の担当者は「今後さらに研究が進められていくと思うが、決着には時間がかかりそう」と話している。市教委は近く、希望者に調査報告書を販売する予定。また、5月上旬から市文化財センター(同市大諏訪)で高尾山古墳の出土品を展示する。7月下旬には同古墳にまつわるシンポジウムを市民文化センターで開く予定。
(静新平成24年4月11日朝刊)

2012年2月23日木曜日

中世前期の庭園池跡 牧之原・宮下遺跡


 中世前期の庭園池跡 牧之原・宮下遺跡
 県内最大級、土器も出土

 牧之原市坂部の市指定文化財「宮下遺跡」(6513平方㍍)で、中世前期(11世紀末~12世紀前半)の園池(庭園池)が発見され、発掘調査を進めている市教育委員会が22日、発表した。市教委によると、中島のある園池の発掘例は全国的にも非常に珍しく、規模は県内最大という。
 園池は昨年発見された柱穴内礎石建物跡の付近で見つかり、だ円形で大きさは南北約35㍍、東西20㍍以上、最大深さ約1・7㍍。園池の中から「福万(よろずにふくきたり)」「寿」とめでたい言葉が墨書された珍しい祭祀(さいし)色が強い土器の完形品のほか、建物火災で焼失した多量の礎石も出土した。
 現地を視察した日本庭園学会の大沢伸啓理事は「建物と園池の配置、南北に長く中島が大きい形態は、国指定史跡の岩手県平泉町柳之御所遺跡と類似する。盛行する年代もほぼ同時期で中世前期の地域支配の在り方を考える上で重要な遺跡」とコメントした。市教委は今後、牧之原台地をめぐる中世豪族との関連性を調査する方針。
 市教委は一般向けの現地説明会を25日午前10時半からと、午後1時半からの2回実施する。参加無料で、希望者は直接現地に集合する。場所は同市坂部のJAハイナン坂部支店南隣。雨天時は出土品の展示のみ実施する。 問い合わせは市文化振興課〈電0548(52)5544〉へ。
 仏教的要素高い
 小野正敏人間文化研究機構(中世考古学専門)理事の話 宮下遺跡は武士の居館とは異なる池を伴った仏教的要素の高い特殊空間施設と考えられ、非常に興味深い。周辺遺跡との関連性からも、新たな地域社会の中世像が見えてくるだろう。
 【宮下遺跡 牧之原台地南部丘陵の坂口谷川中流西側の標高10㍍ほどに位置する。市教委が2010年7月から本格的な発掘調査を続けている。中世前期の県内最大規模の柱穴内礎石建物跡が発見されたほか、日本最古とみられる梵字等の墨書がある六角形状の卒塔婆も出土し、県内では希少な事例がみられる。】
(静新平成24年2月23日朝刊)

2012年2月21日火曜日

長浜城跡の整備が進展







 長浜城跡の整備が進展
 家屋跡や見学路に城らしさ演出
 今後植栽管理や崩落防止策
 当時の軍船平面展示の計画も


 内浦長浜と重須の間で内浦湾に半島状に突き出た小山にある国指定史跡、長浜城跡の整備事業が進んでいる。城跡本体の構造物整備は年度内に終了。新年度からは環境整備などに移る。
 長浜城は、小田原を本拠とする戦国大名、北条氏(後北条氏)の城として戦国時代の後期、天正七年(一五七九)から同十八年(一五九〇)にかけて存在していたと見られている。
 北条氏の水軍拠点であった内浦重須の港を守備する役割を担い、甲斐(山梨県)の武田氏が駿河を支配して北条氏と対立すると、同城は武田軍に対する最前線の城の一つとなった。
 根古屋の興国寺城が、北条氏が戦国大名としての地位を確立するきっかけとなった城なら、長浜城は、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅びた北条氏と運命を共にした城。いわば北条氏五代百年の勃興と終焉にまつわる城が沼津にあったことになる。長浜城跡は昭和六十三年、国史跡に指定され、平成十四年には周辺部が追加指定された。
 市では、平成二十年度から五力年計画で史跡公園として同城跡整備を進め、これまでに城や北条氏の歴史を説明する展示コーナーを設け、二十一年度工事で見学者用公衆トイレを設置したのに続き、二十二、二十三年度で、城跡本体や見学路の整備を実施。
 城本体の整備では、家屋の柱跡が発見された場所に低い柱を建て、かつての建物の位置を見学者が視覚的に理解できるようにした。また、中世の城の櫓(やぐら)を模した櫓式階段を高低差のある場所に設置。城跡らしい雰囲気を演出している。このほか、城域一帯を巡る手すりつき見学路を整備した。
 二十四年度以降は、環境整備に重点が置かれ、城跡に茂る木々などの植栽管理や、斜面崩落防止のための補強工事などが続けられる。見学者向けの説明板の設置も行われるほか、戦国時代に使用された軍船である安宅船(あたけぶね=大型船)や、小早(こはや=小型の快速船)の大きさを体感できる平面展示を城の麓に施す予定。これは軍船の木製甲板を実物大で模したものになる。
 今回の整備事業では、城跡からの見晴らしを重視しているのが特徴の一つで、展望の妨げとなる樹木を撤去した。これは大風などによる倒木で整備済み個所が損壊するのを防ぐ安全策にもなっている。
 現在、城の最高地点である第一曲輪(くるわ)から北の方角を眺めると、右手に淡島、左手に長井崎が見える。その中央の海を越えた向こうには、沼津市街と天候に恵まれれば富士山を望むことができる。
 その沼津市街には東京電力沼津営業センターの紅白の鉄塔が見えるが、その一帯は、かつて三枚橋城が位置した場所に当たる。長浜城は武田氏の拠点である三枚橋城に対抗するために築城されており、第一曲輪からの眺めは、まさに武田軍の動きを監視するためのもの。この眺めを通して見学者は当時の長浜城の戦略的価値を実感することができそうだ。
 整備事業の総予算は約八億五千万円。このうち五〇%が国の補助。また約百六十七万円が県から補助される。
(沼朝平成24年2月21日号)

2012年2月3日金曜日

鬼描いた土器


「鬼」描いた平安の土器 奈良・橿原の遺跡で見つかる
2012/02/02 20:55(イザ版ニュース)



 「鬼」の顔を墨で描いた平安時代後期(12世紀初め)の土器が奈良県橿原市の新堂遺跡で見つかり、市教委が2日、発表した。同時期の出土例は極めて珍しいといい、市教委は「鬼を土中に封じ込める祭祀(さいし)に使われた可能性もある」としている。3日は「節分」。
 市教委によると、鬼の顔は、割れた土器の底の部分に直径10センチほどの大きさで描かれていた。角はないが、「へ」の字口や上向きの牙、太い眉毛、丸い目などの特徴が表現されている。

 木枠の井戸の中に、鬼の顔が天を向く状態で土に埋もれていた。井戸を埋め戻す際、意図的に土器を割って鬼を描き、埋めたとみられる。

 市教委は「平安時代の末法思想の影響で、地下世界に住むと信じられていた鬼が地上に出るのを恐れ、封じ込める祭祀に使われたのではないか。鬼を払う国内最初期の儀式の可能性もある」としている。

 4日~3月31日、橿原市千塚資料館で展示される。

2012年1月26日木曜日

狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治





狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治
作家癒やした清流
 貫いた「望郷の念」

 「山ろくから駿河湾へ白く光って大きくS字型を描いているのが、あの狩野川であろうか。こんなにも川幅が広く、まんまんと水を張っているとは知らなかった」
 芹沢光治良の自伝的大河小説「人間の運命」の一節だ。地元の風景美を知らないと答えた主人公は恩師に狩野川を見下ろす香貫山に連れられ「何事も足元から見つめるんだ」と教えられる。
 芹沢のおじのひ孫にあたる芹沢守さん(62)=沼津市我入道、写真左=は大学時代、東京都の芹沢宅に週に1度通い、力仕事を手伝っていた。芹沢は守さんがやって来るのが楽しみで、いつも時間が近づくと「まだかな」と言って娘たちを笑わせた。同郷の2人がそろえば当然、地元の話に花が咲く。「嫌なことはあったが、我入道の狩野川べりに立つと対岸に松林が広がり、上に富士山がすっきりと立ち上がって見えた。その風景が好きだった」。あれから40年。冷たい冬風がほほをたたく河口の川べりに立つと、守さんは芹沢が決まって聞かせた望郷の言葉を思い出す。
 生い立ちは過酷だ。3歳で親が全財産を放棄して天理教の伝道生活のため去った。船酔いで漁を手伝えない少年は、漁師失格のレッテルを貼られたまま旧制沼津中(沼津東高)へ進んだが漁をなりわいとする地元での疎外感は相当あったよう。入学の年に「(漁師になる)おきてを破り村八分となる」とわざわざ加筆した年譜が守さんの家で最近見つかっている。
 美術教師の前田千寸との出会いは、少年の心の支えだった。芹沢光治良記念館館長の仁王一成さん(63)=写真右=は狩野川の文章を「発見の喜びに満ちた描写は、それまでのつらい生活を払しょくする明るいきざしにも見える」と話す。前田の自宅に通った芹沢は教えられた仏文化に憧れを抱く。
 15年後、芹沢は農商務省を辞し、新婚の妻とパリへ渡り、肺結核の療養経験をもとにした「ブルジョア」が賞を受ける。作家デビューを果たした芹沢は勝負どころの2作目に「我入道」を書いた。足元を見つめた作品で、恩師の教えを体現してみせた。
 働けど貧しい漁師たちは、命がけでとった魚が狩野川の向こうの魚市場の商人の言い値で決まる支配関係に耐えかね、若者を中心に市場の設立を決意する。「川を挟んだ力の構図は、パリのセーヌ川の右岸対左岸の関係と同じ。人間平等への願いが貫かれている」。研究者神奈川県の高校教諭鈴木吉維さん(53)は「我入道」に込めた芹沢の思いをこう分析する。

 実在する地名だったこともあり、当時、地元は反発した。愛する故郷のこうした反応に、芹沢は後悔のそぶりを見せなかったという。守さんは「真実を前に損得など関係ない様子だった。自然に書いたのでは」と振り返る。
 記念館は生誕115周年の昨年の事業仕分けで「ゼロベースの再検討」と判断された。沼津東高新聞部1年の渡辺莉奈さん(16)、稲葉紗波さん(16)、森口佳奈さん(15)=写真下=は仕分けを通じて興味を持ち、記念館を取材した。同学年の光治良が見下ろした香貫山の展望台からは今、樹木の合間に狩野川のカーブと我入道が見える。国内での知名度がそう高くないだけに「資料が少なかった」とネタ集めの苦労はあった。しかし「もっと知られるべき人」とも実感した。「知ってほしい!芹沢光治良」と見出しを付けた学校新聞は芹沢の後輩にあたる、860人の生徒に配られている。

(静新平成24年1月26日「狩野川ひと物語」)


狩野川ひと物語 芹沢光治良と太宰治
作家癒やした清流
 沼津滞在は「陣痛の時期」


 「眼前の狩野川は満々と水をたたえ、岸の青葉をなめてゆるゆると流れていました」
 太宰治が1934年に三島で過ごした一夏を回顧した「老ハイデルベルグ」。三島夏祭りのにぎわいに疎外感を感じた「私」と友人の「佐吉さん」は、沼津にある佐吉さんの実家を目指した。太宰は途中で見た夕もやに包まれた狩野川を「恐ろしく深い青い川で、私はライン川とはこんなのではないかしらと、すこぶる唐突ながら、そう思いました」とつづった。
 「老ハイデルベルグ」の舞台である三島を太宰が訪ねたのは、その2年前に滞在した沼津で親しくなった坂部酒店(同市志下)の武郎さん、あいさん兄妹に再会するためだった。物語の「佐吉さん」のモデルは三島で店を開いた武郎さん。太宰は別の作品にも登場させている。
 32年、太宰は津軽の実家との断絶や心中未遂の末に沼津の坂部家で静養し、デビュー作「思ひ出」を書いた。「沼津滞在はのちの作品を生み出すための『陣痛の時期』にあたる」。作家と沼津や伊豆の関係性を研究する沼津高専名誉教授の鈴木邦彦さん(70)=静岡市葵区=はこう位置付ける。
 72年ごろ、2人は鈴木さんの取材に応じた。武郎さんはさりげなく気持ちをくみ取る親分肌。兄の店の売り上げを流用してでも黙って飲み代を工面し、母親に何度もしかられた。見かねたあいさんが丸めた原稿を伸ばしても太宰は無視し、夜は涼しい顔で飲みに出る。
 無償の奉仕はさておき「あの時原稿を燃やさなければ良かった」と笑う2人を見た時、鈴木さんは太宰が2年ぶりに筆を取った理由を実感できたという。「坂部兄妹が与えた無垢(むく)な善意、純粋な友情は、『美しいことはそっとするもの』という彼の美学そのものだった」
 「老ハイデルベルヒ」の最後は、その後「私」が、佐吉さんがいなくなった三島を再訪した時の孤独感で締めくくられ、失った思い出は輝きを放つ。登場人物が故人となった今も、「私」と「佐吉さん」がたどり着いた狩野川は、同じようにとうとうと水をたたえる。
(静新平成24年1月26日「狩野川ひと物語」)

2012年1月25日水曜日

高尾山古墳保存の成否に節目


高尾山古墳保存の成否に節目
年度末に調査結果の報告書
 都市計画道路予定地上に位置
 希少な前方後方墳の先行き不透明
 東熊堂の高尾山穂見神社・熊野神社境内跡地で発見され、平成二十年に前方後方墳であることが判明した高尾山古墳(旧称・辻畑古墳)。東日本で最古級とされる同古墳の保存の成否を巡る動きが今年一つの節目を迎える。我が国最古との見方もあるだけに、保存を望む声は少なくないが、先行きは不透明だ。
 同古墳は、都市計画道路沼津南一色線の建設ルート上にある同神社が移転した際の跡地調査で見つかった。同神社境内については、以前から古墳の存在が指摘されていたが、発掘調査は、この時が初めて。
 試掘が十七年度に始まり、二十年度に本格調査が開始され、出土した土器の形状から、三世紀前半に築造されたと考えられている。三世紀前半は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の時代。
 学術的希少性だけでなく、全国的に報道され知名度もある同古墳だが、道路の建設予定地上にあることは変わりなく、古墳保存か道路建設続行かの判断が求められる。
 沼津南一色線は、国道二四六号と国道一号(江原交差点)を結ぶもので、市道路建設課によると、現在は古墳一帯の土地を含む新幹線以南から国道一号以北の区間は工事を停止している。
 工事続行の可否をめぐっては、二十一年に市議会で栗原裕康市長が、「広く市民の意見を聴いていきたい」と答弁。また、村上益男教育次長(当時)は、調査結果が出るのを待ち、その後のことを決めていくという方針を説明した。
 この調査結果が出るのが現年度末。市教委では現在、三月末に向けて報告害を作成している。
 市教委文化財センターによると、この報告書に対する学界の関心は高く、研究者から問い合わせが来ることもあるという。また、市教委では、市民の関心にこたえるため、出土品の公開や、関連講演会の開催を計画している。
 しかし、それ以外に報告書完成後の日程や意思決定の手順については未定となっている。市計画課によると、都市計画の変更は県が決定権を持ち、国の同意が必要だという。このため、現状では沼津市だけの判断ですべてを決めることはできない。
 高尾山古墳は今後どうなるか。
 関係者の一人は、他地域での遺跡保存問題を挙げ、住民による署名集めなどの保存要望活動が行政による判断へ影響を与える例が多い点を指摘する。
 また別の関係者は、都市計画道路が同古墳一帯を通ることが決まったのが昭和三十六年であることに触れ、市教委による調査がもっと早ければルート変更などに柔軟性が出たのでは、と残念がる。
 市道路建設課によると、沼津南一色線は工事予定地の取得を九九%終えている。仮に古墳保存のため同路線のルートが変更になった場合、建設費用の増加は確実となる。
 解説 高尾山古墳については「確実なところで東日本最古級」とされるが、前方後方墳という形状は珍しく、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(奈良県桜井市)より古いとの見方があり、「我が国最古級」の説もあるほど。
 一方、足高の沼津工業団地一画には、同団地敷地一帯の清水柳北遺跡から出土した上円下方墳が移築復元されている。
 こちらは古墳時代終末、八世紀初めの奈良時代のものと推定され、この形状も全国的に希少。
 沼津には、古墳時代の幕開けを飾った前方後方墳と、終焉を告げる時代の上円下方墳が揃っていることになるが、千八百年という、人知の及ぶところではない時を刻んだ最古級の古墳が今、消えてなくなるかもしれない瀬戸際を迎えている。
(沼朝平成24年1月25日号)

2011年12月14日水曜日

芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会

気さくでスイス好んだ芹沢光治良
 作品研究者の鈴木吉維さんが講演
 パリ留学時代を解説
 聴講者が知る逸話紹介も
 市教委は、芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会を、このほど市立図書館で開催。芹沢作品研究者で神奈川県立川崎北高校総括教諭の鈴木吉維さんが「芹沢光治良の欧州体験」と題して話した。
 講演に先立ち、沼津芹沢文学愛好会の和田安弘代表があいさつ。「半年間に二回も芹沢文学に関する講演会が開かれ、そこに多くの方が足を運んでいただいている。芹沢文学への市民の関心が高まりつつある証しだと思う。市役所の市長応接室には芹沢作品が揃って置かれている。市長が率先して芹沢文学への関心を広めようとしており、とても心強く感じている」と話した。
 また、芹沢四女の岡玲子さん(東京都在住)が「生前の父が、リンドバーグが大西洋無着陸飛行をしてパリに到着した時のパリ市民の歓喜について私に聞かせてくれたことがありました。リンドバーグの飛行は大昔の出来事だと思っていましたが、芹沢光治良記念館に展示されていた父のパリ時代の手紙を目にした時、当時の父と今とが瞬間的につながったような気がしました。私達姉妹にとっての大切な宝が沼津にある。沼津市民の皆さんに深い感謝と御礼を申し上げます」と語った。
 講演に移ると、鈴木さんは自分が芹沢文学に向き合うようになったきっかけから話し出した。大学二年生の時、ライフワークとなる研究課題を檀一雄と芹沢のどちらにしようか悩んでいたところ、恩師から「ノーベル文学賞は川端か芹沢か、と言われていたこともある。ぜひ芹沢にしなさい」と勧められたのだという。
 そこで鈴木さんは芹沢を選び、研究会に出席することにした。すると、芹沢本人が研究会にやってきた。他の出席者からまばらな拍手があり、続いて芹沢が自作品の主人公などについて気さくに語り出したため、それを見た鈴木さんは「本当にこれが芹沢光治良なのか」と衝撃を受けたという。当時、現役の作家が読者の集まりに気軽に顔を出すのは珍しいことだった。
 それ以来、鈴木さんも研究会に足繁く通うようになる。
 「私は悪い読者」と自らを評する鈴木さん。研究会で芹沢に会うたびに、「なぜこの登場人物を、この場面で死ぬようにしたのか」などと、わざと意地悪な質問を浴びせ続けた。当時、芹沢は八十歳を過ぎていたが、二十歳そこそこの若者の失礼な質問に対し、すべてまじめに答えてくれた。
 鈴木さんは芹沢宅も訪れたが、芹沢はいつもネクタイを締めて身なりを整え、来訪者を待っていたという。
 さらに鈴木さんは、自分と芹沢とのエピソードを紹介した後、芹沢の欧州留学と後の作品の影響について話した。
 大正十四年、官僚だった芹沢は、鉄道会社を経営する裕福な妻の実家の援助も受けて、フランスへと向かう。当時のフランと日本円の為替レートは、円高の状態で、渡仏する日本人が多かった。
 当時、九百人の在仏日本人の八割強がパリにいた。そのため、パリには日本人社会のようなものも形成され、日本人向けの店で味噌やたくあんを買うことができた。そのパリで芹沢は、画家の佐伯祐三や、ファーブル昆虫記の翻訳で知られる椎名其二らと出会う。佐伯との出会いは小説『明日を逐うて』に影響している。
また、妻が病気になった際は、留学中の日本人医学博士の診療を受けている。この博士の詳細については不明だが、鈴木さんは、小説『巴里に死す』の主人公が医学者であることとの関連を指摘する。
 一方で、芹沢は素行に問題のある日本人達も目にしており、それらの人達を「日本人ゴロ」と呼んでいた。
 そして、鈴木さんは、芹沢が長女宛てに書いた手紙の中にある「私は唯物論者になった」という記述に着目。信仰心の篤い家に生まれた芹沢がそのように変わった原因を芹沢の欧州経験の中から探った。
 芹沢の欧州行きは船旅だったが、船がシンガポールに寄港した際、乗客がコインを海に投げ、それを現地人の子どもが潜って拾いにいくという姿を芹沢は見ている。また、結核に冒されスイスで療養した際には、医学の進歩が一握りの富裕層にしか恩恵をもたらさなかったという感慨を抱いている。
 当時、日本国内ではマルクス全集の刊行が始まっており、こうした世相と欧州で見聞きしたことが、芹沢に「唯物論者」と名乗らせたのではないかと、鈴木さんは分析する。
 鈴木さんは欧州体験が芹沢に与えた影響について論じた後、改めて芹沢との交流を回想し、「芹沢は『文豪』と呼ばれることもあるが、とても気さくな人。芹沢先生との出会いは、今の自分を支える宝になっている。私は物事について考えるとき、『芹沢先生なら、どう思うか』と考えることがある」と語って講演を終えた。
 引き続き、質疑応答の時間となり、多くの質問があった。
 川崎市から訪れた男性は、芹沢が自作品の中で、自分の分身である登場人物が官僚に出世した後も故郷で村八分の扱いを受けたように書いていることを挙げ、それは事実を反映しているのか、と質問。
 鈴木さんは「官僚になったことは、地元にとって名誉なことだったが、その地位を捨てて作家になってしまったことに対し、批判的な目を向ける人もいたと思われる」と話し、当時は作家の地位が低かったことを説明した。
 この質問に関しては、市内の男性が発言を求め、芹沢の第二作『我入道』の存在を指摘。この作品の中における当時の我入道地区の描き方が、地元民の反発を招いた、とした。
 また、芹沢の自伝的小説『人間の運命』に自分の祖母と思われる人物が登場しているという女性が発言し、『人間の運命』の中では、祖母は売り飛ばされたことになっているが、現実では祖母は売られていない、というエピソードを紹介するとともに、「祖母は芹沢さんのことを『みっちゃん、みっちゃん』と呼んでいました」と話した(注・
本名では光治良を「みつじろう」と読む)。
 こうした我入道関係者らの指摘について鈴木さんは「フィクションは、あくまでもフィクション。でも、私は自伝的小説の中の主人公は芹沢本人だと思っても良いと思っている。その方が、感情移入できるし、これも一つの読み方だと思っている」とした。
 また、芹沢と面識があるという男性は、芹沢から欧州留学時代の話を直接聞いたことがある、と話し、「先生はスイスのことばかり話していた。スイスの国情について多く触れ、イタリア系やドイツ系、フランス系の住民が一緒に暮らしていることを評価し、『世界中がスイスのようになれば、なんと愉快な世界になるだろうか』と話していた」と回想した。
 これに対して鈴木さんは「小説『ブルジョア』の舞台はスイス。芹沢にとってスイスは理想だった。芹沢はイタリアも訪れたが、当時のイタリアはファシスト国家。芹沢は『ファシストは幼稚』という感想を持っている。そういうイタリアを見てきた芹沢にとって、スイスでの体験は鮮烈だったのだろう」と語った。
 郷土ゆかりの作家だけに、参加者からも貴重な証言が次々に出る中で講演会は終了した。
(沼朝平成23年12月14日号)