2020年1月10日金曜日

足柄峠 浜悠人



足柄峠 浜悠人


 先日、足柄峠を訪ねた。峠は、小山と小田原を結ぶ箱根山の旧道に質峠の謂(いわ)れは次のようであった。
 「古代、足柄峠は都と東国とを結ぶ要路であった。大和朝廷の昔、日本武尊が東征の帰路、この峠に立ち弟橘姫をしのんで"あづまはや"と叫んだという記述が古事記にある。奈良時代東国の任地に赴く役人たちが、ここで都に最後の別れを告げ、また防人の任におもむく東国の農民たちも、この峠で故郷に残した肉親を思い、心の叫びを詠じている。こうした万葉人の痛切な声は時代を越えて今もなお私たちの胸をうつ…」
 峠から矢倉岳に向かう途中に万葉広場を見つけた。広場には点々として七カ所に万葉の東歌(あずまうた)の歌碑が刻まれていた。東国の人達が詠んだ歌を東歌といい、万葉集巻十四には二百三十首程がある。
 また、防人(さきもり)のため徴用されていた兵や、その家族が詠んだ歌は百首以上が万葉集に収録され、東歌と共に古代の生活様相を伝えている。
 防人なるものの成立や制度について記すと、西暦六六三年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍(日本軍)が、自村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に唐が我が国に攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のために設置された。
 「さきもり」という読みは、古来、岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
 防人の任期は三年で、往復の食糧と武器は自弁であった。大宰府が指揮にあたり、壱岐、対馬および筑紫の諸国に配備された。当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除されることなく、農民にとって重い負担であった。徴集された防人は九州までは係が同行するが、帰郷の際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
 足柄の万葉広場の東歌や防人の歌碑を紹介する。
 ○足柄の御坂(みさか)に立して袖振らば家(いは)なる妹(いも)は清(さや)に見もかも
 この一首は、埼玉郡(こごうり)の藤原部笄母暦(ともまろ)が詠んだもので、「防人として足柄山のみ坂に立って袖を振ったなら、家に残った妻は、それとはっきり見るだろうか」と妻への別れを惜しんだ痛切な思いが詠まれている。
 ○わが背子(せこ)を大和へ遣りてまつしたす足柄山の杉の木()の間か
 右の一首は、夫を勤番として大和へ送り出した妻の歌である。その意は、「夫を大和へ送り出してしまった私は足柄山の杉の木の間に立って待っています」というもので、「まっしたす」は「松」に「待つ」を掛けたのであろう。
 また、歌碑にはないが東国の任地に赴く役人の歌。
 ○足柄の箱根飛び越え行く鶴(たづ)の乏(とも)しき見れば大和し思ほゆ
 この歌の意は、「足柄から箱根の山を飛び越えて西へ向かう鶴の数少なく寂しげなのを見るにつけ、大和がひとしお偲ばれる」というもの。
 広場にある七つの歌碑を巡り、全てを紹介したいが、今回は、このあたりで結びとしたい。
 足柄峠の謂れの最後に、「ここ足柄峠は標高七五九㍍、当時の旅人たちは畏怖のあまり思わず"足柄の御坂かしこみ"と峠の神に手向けせずにはいられなかったというが、往時の森厳さと神秘感、寂寥.感は今もその名残りをとどめている」
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年1月10日(金)寄稿文】

田邉太一に学ぶ  土屋詔二



 田邉太一に学ぶ  土屋詔二


 昨年は様々に公のあり方が問われた年だった。政治家の公務私物化、隠蔽・廃棄された公文書、付度優先の公僕、税における公平、公益事業と贈収賄、環境汚染や気候変動・・・・。
 対照的だったのは中村哲医師であろう。旧ソ連による侵攻やアメリカの空爆で荒れ果てたアフガニスタンで「人々の健康を守るためには清潔な水と食糧が必要であり、灌漑事業が欠かせない」と、自ら導永路を掘って沃野に変えた。利他の精神こそ公の原点である。襲撃され亡くなったのは痛恨極まりない。
 灌漑などの土木事業は、公益に資することが本領であろう。芦ノ湖の水を流域変更して静岡県側に引いた深良用水は、われわれに馴染み深い。同様に琵琶湖の水を京都に引いたのが琵琶湖疎水である。明治維新後、大規模土木工事は「お雇い外国人」の指導によるものが多かったが、琵琶湖疎水は田邉朔郎の卒業論文を具現化した稀有の例である。
 昨年一一月一六日に沼津史談会ふるさと講座で、田邉康雄氏の『ある幕臣の挑戦』を聞いた。ある幕臣とは朔郎の叔父の田邉太一のことである。樋口一葉に小説家への道を決意させた三宅花圃(龍子)の父親でもあるが、朔郎に比べると一般の知名度は低いだろう。
 昨年出版された木内昇『万波を翔る』は、太一が主人公の歴史小説だ。幕末から明治にかけての激動の時代、ぶれない心棒()を持って活動した太一の成長譚を、女流作家が洒脱な筆致で描いている。開国が国民生活に与える影響についての論議は、TPPや為替政策といった現在のテーマにも重なる。
 太一は幕府直営の昌平坂学間所で優秀な成績を収め、勝麟太郎や赤松則良らと共に長崎海軍伝習所の三期生に選ばれた。幕府は開国に伴う難題に対処するため、安政五年に外国奉行を設けた。下僚になった太一は上司と衝突しながら公儀として尽力したが、幕閣主導の外交は失敗続きで十年後に幕府は倒れた。
 転換期にあって必要なのは、幕藩体制下での公ではなく、それを超えた日本という枠組での公だった。太一は明治二年に徳川家創設の沼津兵学校教授に招聘され、国史や公用文の作成などを教えた。兵学校は兵部省の管轄になり、太一も勝に乞われて外務省に出仕した。『幕末外交談』という回顧録がある。
 講師の康雄氏は朔郎の孫、太一の曽姪孫。京都大学の福井謙一研究室の出身で、ノーペル賞を受賞した吉野彰氏の先輩にあたる。八〇歳を超えた今も、現役の技術コンサルタントである。五街道の一つの甲州街道が、江戸城から親藩の甲州藩への脱出路だったなどの話も交え、楽しく拝聴させて頂いた。
 現在は第三の開国と言われる。利己に走るリーダーが多いが、利他を優先する「公」の精神の人材が求められる。先駆けとしての田邉太一に学ぶことは多いのではないか。
(高島本町)
【沼朝令和2年1月10日(金)言いたいほうだい】

2020年1月3日金曜日

狩野川放水路 台風19号で越水防ぐ



狩野川放水路 台風19号で越水防ぐ
 狩野川放水路の役割大きく
 昨年1012日に東日本を中心に多数の河川の氾濫をもたらした台風19号の襲来は、台風の通過点であったこの地域にも浸水や土砂災害などの被害を出した。
 狩野川も清水町の徳倉観測所で一時、氾濫危険水位より高い計画高水位にまで、あと18㌢に迫った危険な状態になった。 しかし、その後は水位が高まることはなく、氾濫の危険を避けることができた。
 この台風で狩野川が氾濫しなかったのは放水路のお陰であったことは否めない。放水路が完成したのも、当初の計画より排水量が増やされたのも、かつて地元の人達が積極的に活動したことが大きかった。
 狩野川流域は水害の常襲地で、昔から洪水に悩まされていた住民達にとっては、その対策は切実な願いだった。
 江戸時代には、下流部に簡単な土堤が造られるようになったが、洪水の度に決壊し、韮山代官の江川太郎左衛門の指揮によって修理した記録が残っている。
 その後、明治、大正の間、度々、洪水の根本的な解決策として、口野に排水口を設ける放水路開削を中心とした議論が行われるようになった。
 この議論は大正期に盛り上がりを見せ、治水対策を求める流域住民と、放水路開設により漁場を失う三浦地区(静浦、内浦、西浦)住民との間で対立が起きている。
 昭和2(1927)、内務省は、放水路建設は漁業への被害が大きいとして、放水路を造るのではなく、狩野川の改修工事に着手し、以来19年間にわたり工事が継続された。
 一方で、昭和13(1938)16(1941)の大洪水で流域に大きな被害が出た。また、戦時中から流域一帯の大乱伐と食糧増産のための開墾の進展などにより、大洪水が起きた際の被害は甚大なものになると懸念される状況があった。
 そうした中、改修工事の継続と放水路建設を求める狩野川治水会と、取入口建設が予定され直接犠牲を強いられる江間村及び三浦地区との対立が激化する。
 そして、昭和21(1946)、継続予算全額の執行完了を理由に改修工事が中止された。
 この間の工事進捗率は全工程の75%で、25%は未完了のまま工事を終えることになった。
 同23(1948)9月に襲ったアイオン台風による被害は、懸念されていたように甚大なもので、これが放水路開削の方向を決定的にした。
 翌年に狩野川治水会が提出した請願書は、取入口から隧道に至る経路について、これまでの予定線である江間線に代えて、伊豆長岡町墹之上(ままのうえ)に取入口を設けて、江間村の犠牲を小さくする長岡線の採用を訴えた。
 また、放水路開削による内浦湾の漁業上の影響についても、国及び県による総合的調査の実施と、それに基づく合理的補償更生を訴えるものだった。
 同26(1951)1月の江間村議会は、113で放水路の開削に賛成の立場に転じた。また、三浦地区では既に沼津市長および県知事に白紙委任をしていた。
 ここに狩野川放水路開削に対する障害は取り除かれ、放水路は同年、工事着手した。
 昭和32(1957)にはトンネル工事に着手したが、翌年(1958)9月の狩野川台風で狩野川は氾濫し、県東部地域は未曽有の大水害に見舞われた。
 狩野川台風による悲惨な状況の後、韮山町出身の衆議院議員久保田豊らは、国に援助と放水路計画の見直しを訴えた。
 この結果、放水路計画は見直され、当初計画では2本のトンネルで毎秒1000立方㍍の水を流す予定だったが、トンネルを大きくするとともに2本から3本に増やした。さらに約2㍍深くし、これらの改善策で毎秒2000立方㍍の水を流せるようにした。
 大規模な計画見直しがあったものの狩野川放水路は、昭和40(1965)7月に竣工することができた。

 この時に尽力した久保田の像が、伊豆の国市伊豆長岡墹之上の沼津河川国道事務所伊豆長岡出張所の道路脇に設置されている。
 一方、久保田ら地元住民が行政に働きかけたのも、狩野川台風の惨事を目の当たりにしたからにほかならない。そうした大きな犠牲の上に、昨年の台風19号では狩野川の氾濫を避けることができた点を銘記することが必要だ。
 台風19号では、ぎりぎり氾濫を免れることができたが、放水路による排水量にも限界があり、自然災害の規模も年々大きくなっていることから、今回の台風以上の規模の台風への備えを考える時期に来ているのかも知れない。
【沼朝令和211日(水)元旦号】



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2020年1月2日木曜日

歴民講座「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」講師 柴裕之


昭和黄金時代の沼津商店街思い出動画:本町通り(仙石規氏沼朝元旦号記念)





「昭和黄金時代の沼津商店街」思い出散歩
第七回「本町通り」仙石 規


 一 本町通りは、商店街だったのか、夏のクリスマスとは?
 クリスマスも終わり、師走も終わりを迎えるころ、かつては、冷たい西風が連日のように、沼津に吹き荒れたものでした。大晦日前から、本町通り交差点北西角には、「年の市」が立ちました。正月に欠かせない、締め飾りや鏡餅を載せる台に敷くシダ、新年の暦などを売る屋台も、いまや沼津の街角地からは消え去りそうです。祖父に手を引かれ、門松を飾った市場町自宅の玄関から出て、御成橋の上を風に飛ばされそうになりながら渡り、通横町を過ぎると、大勢の客が品定めをしている屋台が見えて来ました。
 明治・大正時代に繁盛を極めた「本町通り」は、まさしく旧東海道のメイン・ストリートでした。以前、上土通りを「沼津最古の商店街」と書いたところ、「最古は、本町だろ」と、指摘されました。だが僕は、本町通りは「繁華街」でありましたが、「商店街」ではなかったと思っています。
 明治・大正時代、沼津の港は、御成橋と永代橋の間の狩野川右岸に在ったのです。船着場からの荷や、漁船から荷揚げされた海産物などは、河岸から」「魚町」「仲町」の通りに運ばれ、倉庫に保存され、出荷されました。
 その通りから一本西側の本酊通りは、運送業者、漁師、仲買人などが、仕事を終えて集う遊興地だったのです。戦前最大の娯楽施設だった映画館、カフェー(現在のカフェではなく、女給さんがいた風俗店)、遊郭、旅館などが建ち並ぶ通りでした。もちろん商店も多かったのですが、商店街としては、明治・大正時代には上土が主で大正末期の沼津大火の後は、新興地となった本通り(その後のアーケード街)が栄えたのです。
 本町通りの北西角には、明治元年創業(創業時は氷店)の精肉店「古安」がずっと頑張っています。現在の建物は、昭和三十年後期に建てられたもので、肉店のほかに、中華食堂や屋上ビアガーデンまで営業していたことが、本紙掲載の写真から判ります。写真に写された軽トラックは、いまや滅多にお目に掛れない「宣伝力ー」です。拡声器で商店の宣伝や音楽を流してよく走っていたものです。車に「クリスマス」との表示が見えますが、冬に撮られたものではありません。市内のキャバレーが「サマー・クリスマス」を宣伝していたのです。昭和三十年代の日本では「クリスマス」は何と「ハメを外す遊び」との意味もあったのですね。古安二階の食堂で、家族とカレーライスやビフテキなどの洋食をハレの日に頂いたことも夢のようになってしまいました。縁に食紅が付いた焼豚も、この店ならではの逸品です。
 古安南隣は、「わたぎん寝貝店(閉店と、沼津商店街研究の大先輩だった故・川口和子女史の「川口歯科」(本町は休診中)、「菊水旅館」(今は駐車場)と並んでいました。
 二 鶏肉の老舗と金魚屋さん
 小路を南に渡ると、マンション・コーポ寿山の場所には、「ヤマト屋」「みゆき寿司」がありました。その南には、明治・大正時代には「桔梗屋旅館」という大きな旅館があり、「加藤学園」の前身「淑徳女学院」を創設した加藤ふぢ女史の出身地です。本町マンションが建った後、一階には貸しビデオ屋さんが入っていました。ビデオ屋が閉まった後に、「タベルナ・マンマ」というクラシックなイタリア料理店が開店し、父母はひいきにしていました。母がここでスパゲッティを食べ過ぎそうになると、父が「食べるな、お腹が出るよ。ママ」と制止したとか。タベルナとは、イタリア語で旅籠屋などにある軽食堂のことです。
 続いて、正秀刃物店の「マサヤ刀剣店」「東京生命」(今は、岡田金魚店別館)がありました。南に進むと、懐かしい「岡田金魚店」が待っています(昭和十三年創業)。僕の生家は、市場町の法律事務所が建っている場所にありました。広い庭と池があり、祖父に連れられて、岡田さんに金魚を買いに行ったものでした。夏が訪れると吊り忍や風鈴が店先に揺れ、涼しさを感じさせてくれました。昭和三十年代に、岡田さんは飲食店もやっていたそうです。金魚屋さん南には、熱帯魚の「エンゼル」があり、大きな魚拓が眼を惹いた「沼津釣具センター」と、魚関係の店が続きました。
 その南に開く大正時代創業の「鳥佐」は、沼津一美味しい鶏肉を扱う店という評判です。焼き鳥を作る時や、クリスマスのローストチキンを焼く時も、我が家ではずっとお世話になっていました。鳥佐さんは、昭和四十年代には岡田さん隣にあったのですが、移築したそうです。角地の駐車場は、かつて松澤商店(その前は金指商会)とサトウ・スポーツ店でした。
 三 ベルタクさんと大人の映画館、ミス・パイロットとは?
 次の西に入る小路は、「丸子・浅間神社」裏口に続く情緒ある道筋です。ここを過ぎると、上本町は、下本町に移ります。小路の北にあった、とんかつ屋「美登里」は、祖父が写真同好会の集いなどでよく通った店でした。数年前に廃業し、その後しばらく店先の椅子に店主がボーっと腰かけていた姿に時代の変化を感じました。
 本町通り北西角には、「松田法律事務所」という有名な弁護士事務所があり、魚屋さんの魚松(十六年前に廃業)、明治時代から、今も元気に営みを続ける鈴木理髪店と、並んでいました。鈴木さん隣の「岩垂」は、スマー卜・ボールの店でした。この遊びを覚えている読者はおられますかね。次の角地にあった望月酒店は、平成四年から「セブンイレブン本町店」となり、いつも賑わっています。
 南に渡り、下本町西南ブロックに来ると、老舗のタクシー営業所が待っています。「ベル・タクシー」が開業したのは、昭和二十四年四月だそうです。子供の頃から、我が家は「ベルタクさんを贔屓(ひいき)にし}きました。可愛い金色のベルのロゴは、今でも色褪(あ)せないお洒落な傑作だと思います。
 ベル・タクシー南は、戦前から「中野内科・小児科医院」が開業していましたが、その後、歯科医院になっています。「ヤマフジ・コーポ」を過ぎると、駐車場がありますが、かつては「加藤楽器店」と「美松寿し」という老舗の寿司屋さんがありました。九年前に、この店の稲荷寿司を、幻に終わった僕の小説「沼津御成橋稲荷大事件」に使わせてもらおうと、訪れたところ、一週間前までにはあった店が、取り壊されて平地になっていたのには、まさに「狐に化かされた」気がしました。
 次の場所は老舗化粧品店「むさしや」ですが昭和三十年代には「銀星座」という映画館があり、その後、「東海劇場」と名を変えました。東海劇場は、成人映画専門の映画館で、この前を通る際はドキドキしました。DVDは勿論、ビデオさえ無かった時代です。性愛は、タブー視され、中学生の自分は、映画館前で、それはいやらしく感じた映画タイトルと露出度も少ないポスターの写真を脳裏に焼き付け、帰宅して妄想に耽ったものでした。現代は容易(たやす)く、アダルト映像の世界が見られる時代になりました。「想像力の欠如」という問題も出て来ているのでしょうね、今や成人映画館も絶滅状態のようです。
 かつては、「中村演芸館」という芝居小屋であった東海劇場が閉館した際、南にあった「むさし屋」が劇場跡地に移転したそうです。むさし屋さんの奥さんは、昭和三十年に「ミス・パイロット(文具社)」として、沼津夏まつりで車上パレードした美人で、今もお店に行けば変わらぬ笑顔で迎えてくれます。(当時の写真は、小生が執筆・監修した「沼津今昔写真帖」でご覧ください)
 下本町の最後の南西角は、静岡銀行本町支店でしたが、十数年前に大きなマンションが浅間神社入り口近くまで建てられました。建物の影響で、この付近の住民は、ただでさえ強かった冬の風が、さらに激しくなったと嘆いています。下本町を抜けると、旧東海道は西に向きを変え、出口町方面に続きます。
 四 洋画の「国際劇場」に「丸源」は、夢の跡、そして「千楽」
 本町通りを東に渡ると、明治四十年創業の「花見煎餅」が角に待っています。前は「吾妻屋」という名でした。ザラメ砂糖がまぶされた煎餅や、香ばしいあられなどの種類の多さに、どれを選ぶか迷ってしまう子供時代でした。
 北には、「小笹紙店」「会津漆器店」「丸源そば店」と続いていました。丸源の天婦羅蕎麦はとても美味しく、汁が滲んだ天婦羅の味は忘れられません。カツ丼や五目ラーメンも旨かったのに、ある事件がきっかけで昭和五十年代に閉店してしまいました。支店が高島町にあり、ここも贔屓にしていましたが、十三年前に廃業して残念です。
 蕎麦屋北には、「丸井百貨店」という小さな店がありましたが、今も人気のマルイ(かつて駅前通りにもありました)とは無関係です。露木商店を挟んだ北には、洋画専門の映画館「国際劇場」があり、洋画派の父と自分は、週末に通ったものです。「ファントマ」というフランス映画や、名優ジェームス・コバーン主演の「電撃フリント」のシリーズは、わくわく感で心を充たしてくれました。劇場跡の駐車場を観察すると、映画館の痕跡が見られます。ああ、我がシネマ・パラダイスよ。
 続く店は、骨董屋さん「田中温古堂」で、店の中で昼寝している猫を見一たくて、よく訪れた場所です。角地には、沼津で一番好きな洋食屋さん「千楽」が、今でも繁盛しています。こってりしたハヤシ・ライスやお持ち帰り出来る「カツサンド」も食べたいのですが、店に来るといつも、子供時代の誕生日に出前してもらった「ランチ」を注文してしまいます。ランチといっても昼限定ではありません。海老フライ、ハンバーグ、ハムと、みずみずしいサラダが盛られた皿を頂くと、至福の時を過ごせます。
 一階も五十年前にタイム・スリップ出来るレトロな空間ですが、二階の窓辺の席から、夕暮れの本町通りを眺め、「栄えある沼津」をしのぶのも好きです。千楽の創業は、昭和二十年代中期です。前のご主人は、千本にあった「東京亭」で修業したらしいです。
 五 「パチンコ屋」に銭湯もありましたね 千楽北の小路を渡ると、パチンコ「大都会」がありました。パチンコ屋さんといっても手動単発式の素朴な器械が数台並んだ小さな店でした。初代・仙石医院院長だった祖父は、大のパチンコ好きで、この店に通って、僕にチョコレートやビスケットなどの景品を持ってきてくれたものでした。パチンコ屋の後は、「本町将棋倶楽部」になっていましたが、現在、扉は閉ざされています。
 北にはずっと空き地が続きますが、昭和四十年中期には、「森田ゴルフ商店」「レストラン・ズパシーボ」「中野肉店」、東奥地には銭湯「朝日湯」がありました。沼津の銭湯は、数年前に廃業した「吉田温泉」とともに無くなってしまいました。中野肉店の中野勇雄さんは、沼津屈指のアマチュア・カメラマンで戦前の情緒溢れる本町の写真を遣されました。その北に、「大門食堂」「大竹洋品店」があり、角地は、七十年の歴史を誇る「小林花店」です。
 六 「お菓子の家」、一世紀以上続く薬局と「カムイン」の謎
 続く角地には、「沼津本町郵便局」が建っています。その北には、「沼津テレビ・サービス」「沼津交通本町営業所」がありましたが、今は、菓子材料や製菓用具を扱う店「ミズタ」になっています。「水田商店」の名だった頃、母に連れられて店に入ると、「わあ!ヘンゼルとグレーテルの世界だ!」と叫びたくなりました。元ミス名古屋だった母は、私の子供時代には、菓子や料理を手作りするのが大好きでした。オーブンで香ばしく焼いたスポンジ・ケーキに、水田さんで買い求めた材料で作ったクリームやアンジェリカを載せたクリスマス・ケーキが懐かしく思い出されます。「有難うお母さん」と、想い続けていますよ。
 水田さんの南に「カムイン」という名の洋食屋さんがあったらしいのですが、謎の店です。祖父は、千楽のランチを出前でとった際、「千楽は、カムインだったね」と言っていました。川口和子さんの戦前本町地図にも「カムイン」が載っていますし、昭和三十一年発行の沼津商工名鑑にも、水田さん南隣に「カムイン」があった記述が残っていますが、中野勇雄さんの写真では「喫茶・千楽」がその場所に写っているのです。二店の関係は、不明のままです。
 その北の「丸一薬局」は、明治三十二年創業の老舗ですが、今はお洒落なスポットになっていますよ。カフェでは、ヘルシーな飲食物が提供され、裏には、ポンテ・スパッツィオ(イタリァ語で「橋の空間」という意味)というヨガ・スポットも開いています。歴史を感じる店々を巡った後、若い女性たちで賑わう「マルイチ」に出会い、沼津の未来への望みを感じました。その北には「駿河銀行本町支店」「井口無線」「双葉不動産」、今も開業している「庄司歯科医院」がありました。
 七 出前うどんの思い出と「沼津映画劇場」
 さあ、本町の思い出散歩も、終点が近づいてきました。最後の北東フロック角を東に曲がると、小路右手に「梅鉢」という甘味屋さんがありました。「梅鉢」の歴史は古く、大正時代にはあったらしいのです。戦前は、本町通りに開店していました。あんみつを食べに家族で訪れた想い出を共有する沼津市民も多いでしょう。平成になってから移転しました。
 角地にある「安田屋」は、大正十四年創業の老舗そば屋です。信州霧下そばを謳い文句にして、沼津駅周辺のデパートや大手町にも支店がありました。あんかけ焼きそばなどの中華-も、美味しく頂きました。冬の夜、診察が遅くなった父が「規、出前をとろう」と、安田屋のうどんを夜食に頼んだ半世紀前の記憶が蘇ります。家は寒くても、一杯のかけうどんを頂くと、心の中まで温められた家族の団樂(だんらん)でした。
 安田屋北には、「七五三食堂(後に、うな八)」という店があり、本町通り北東出口には、「沼津映画劇場」が堂々と建っていました。かつては「杉本旅館」という歴史ある旅館のおかみさんだった館主は、市場町仙石医院の患者さんで、沼映の入場券をよくくださいました。邦画や洋画も上映され、タバコとポップコーンの匂いが立ち込める館内で、銀幕に見入った時代は、もう二度と返ってきません。
 映画館があった跡の駐車場を東に進むと、御成橋と我が家が待っています。狩野川を渡りながら、僕が「狩野川」を想って意訳した、ヘップバーン主演「ティファニーで朝食を」の主題歌を口ずさみます。そろそろお別れの時間です。
 広い狩野川よ。いつか渡ってそのすべてを感じたい。
 ノスタルジアを抱かせ新たな夢を打ち砕く川よ、どこまでも一緒だよ、ずっと追って行くよ。
 互いに、はぐれ者で井の中の蛙だけれど、子供の時からの友達だからね。
 宝が眠るといわれる、虹の袂を探し続けようね、川と僕。
 今回、親切に取材に応じてくださいました本町の方々、有難うございました。
 地図のイラストは、今回も「石山コンビ」先生にお願いしました、感謝!

仙石 規(せんごく.ただし=郷土史家,はら仙石医院・市場町)
 (本町関係の写真は、いずれも明治史料館提供)
【沼朝2020年(令和2年)1月1日(水曜日)元旦号】

三枚橋城主中村一栄関係の書状 静岡市が発見して購入 沼津の郷土史にも重要な価値(沼朝元旦号)


三枚橋城主中村一栄関係の書状
 文面知られていたが現存明らかに
 戦国時代の沼津市域については研究の進展や新たな発見が続いている。一昨年には武田氏による興国寺城防備に関する古文書の「天神瓦御門」という語釈が「天神尾御門」に改められ、意味の通る文章となった。さらに昨年10月、静岡市は三枚橋城主中村一栄(なかむら・かずひで)に関する古文書の原本が確認されたと発表した。
 静岡市が発見して購入
 沼津の郷土史にも重要な価値

 1579年に武田勝頼によって現在の沼津市大手町の地に築かれた三枚一橋城は、天下統一の過程に合わせて城の主も相次いで変わった。
 武田氏滅亡後は徳川氏の支配下に入り、家康家臣の松井忠次(松平康親)が城代として三枚橋城に入った。その後、豊臣秀吉の天下統一による徳川氏の関東移封に合わせて駿河国の主が秀吉家臣の中村一氏(なかむら・かずうじ)になると、一氏は弟の一栄(氏次)を三枚橋城主とした。関ヶ原の合戦で徳川氏が国政の主導権を握ると、中村氏は伯耆国米子(鳥取県米子市)に移り、家康家臣の大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)が三枚橋城主となり、忠佐の死によって同城は廃城となった。
 中村一氏は早い時期から秀吉に仕えた武将で、1584年に初めて城主となって岸和田城(大阪府岸和田市)に入り、秀吉の甥、秀次の側近となった。1590年の秀吉による北条征伐では、秀次軍の一翼を担い、山中城(三島市)の攻防戦で活躍した。この手柄が評価され、同年中に駿河一国を与えられて府中城(現在の駿府城)の城主となった。
 一氏は駿河国内の諸城に一族や重臣を配置し、三枚橋城には弟の一栄、興国寺城には河毛重次、田中城(藤枝市)に横田村詮(よこた・むらあきら)を派遣した。横田は田中城の領域だけでなく、駿河全体の行政も担当した。
 1600年、豊臣政権内の対立が激化し、一触即発の状態となった。一氏は関東を本拠とする家康に対する抑えの役割を期待されて駿河を与えられていたが、このころになると家康を支持するようになっていた。自身が病床にあり、さらに嫡男の忠一(ただかず)が幼少であるため、家康を頼ることで中村氏の安泰を図ったという。
 石田三成の盟友の大名上杉景勝を討伐する名目で家康が会津(福島県)に向けて軍を進めると、一氏は病身の自分の代理として一栄を援軍に派遣した。そして、間もなく病没した。
 この時、小山(栃木県小山市)に駐留していた家康は、一氏死去の報を受けると、一栄に書状を出した。その内容は、駿河国と中村軍の管理を一栄と横田村詮に任せるというものだった(*)
 この書状は、江戸時代後期に書かれた郷土資料集『駿国雑志』に文面が転載されているが、その実物が現存していることは知られていなかった。昨年夏、静岡市が東京の古書店で書状が売り出されているのを確認し、約130万円で購入した。同市は歴史文化施設開館の準備として展示史料の収集をしており、その一環だという。
 実物の発見により、駿国雑志の転載では未記載だった書状差し出しの日付が判明した。転載された文面では7月としか記載されていなかったが、書状の実物には727日の日付の記載があった。宛て名でも、転載の文面では一栄の名が「彦右衛門」となっていたが、書状には「彦左衛門」と書かれていた。
 今回の発見は、沼津の郷土史においても重要な価値がある。三枚橋城の城主だった一栄には、現存する関係又書が少ないからだ。
 市歴史民俗資料館の鈴木裕篤さんは「今回の発見を通して、これまであまり知られてこなかった一栄に光が当たるようになれば」と話している。
 (*)原文は「就式部少輔死去、其国諸仕置等、並軍法以下之儀、式部少輔如被申付、無沙汰有間敷候。恐々謹言。七月廿七日家康 花押 中村彦左衛門尉殿 横田内膳正殿」
 書状本又の現代語訳は「式部少輔の死去につき、その領国の処置や軍の管理は、式部少輔が申し付けたように行い、おろそかにしないようにしなさい」
 文中の式部少輔は中村一氏、中村彦左衛門尉は一栄、横田内膳正は横田村詮。難村彦左衛門尉殿 横田内膳正殿。

 関ヶ原後の中村氏はー
 米子移封も嫡子なく改易
 家康から書状を与えられた中村一栄は、病没した兄に代わって中村氏の軍勢を率い、関ヶ原の合戦に東軍として参加した。ただ、彼は関ヶ原の本戦ではなく、前哨戦の杭瀬川の戦いで歴史に名を残した。
 当初、西軍は関ヶ原の東にある大垣城(岐阜県大垣市)に集結して徳川家康率いる東軍を待ち構えた。

 これに対して家康は城の向かいにある岡山に本陣を置いた。それまで家康は自分の居場所を知られないように静かに行軍していたため、家康の突然の出現は大垣城の西軍を大いに驚かせた。
 この時、西軍主将である石田三成の部下に島左近(しま・さこん)の名で知られる武将がいた。左近は西軍の動揺を鎮めるために、西軍の強さを見せつける小競り合いをやるべきだと提案した。
 そして、左近はわずか500の兵を率い、両軍の間にある杭瀬川を渡って東軍の前に現れ、挑発した。これを見た一栄は中村隊を出撃させて左近隊を攻撃した。戦いが始まると左近隊は退却を始めたので中村隊は追撃したが、これは左近の計略だった。
 わざと負けたふりをして逃げる左近隊を追いかけた中村隊は、西軍の待ち伏せを受けて大敗した。指揮官の野一色助義(のいっしき・すけよし)など、身分の高い武士だけでも30余人が戦死したという。

 この様子を見て東酉両軍が援軍を出し合って戦いが拡大したが、形勢不利を感じた家康は東軍に退却を命じ、杭瀬川の戦いは西軍の勝利に終わった。
 その翌日、大垣城攻略は困難と感じた家康は、城を無視して西に向かい、西軍も城から出て西へ向かった。両軍は関ヶ原で激しく戦い、家康率いる東軍の勝利となった。この本戦では、中村隊は東軍後方の防備を担当しており、中村隊が活躍することはなかった。杭瀬川の戦いで中村隊を破った島左近は、石田三成の西軍本陣を守って激戦の末に戦死している。
 なぜ、中村一栄は島左近の挑発に乗ったのか。 この背景には、当時の中村氏が置かれた微妙な立場があるのかもしれない。
 一栄の兄の一氏は豊臣秀次の側近として活躍したが、秀次は豊臣政権内で失脚し、自殺に追い込まれている。このため、一氏は政権内で後ろ盾を失っていた。
 さらに徳川に対しても、駿河を領地とした中村氏は関東の徳川氏の見張り役という立場であったため、徳川側から見たら潜在的な敵であった。
 こうした不安定な立場から脱却して親徳川の姿勢を鮮明にするため、中村隊は東軍の一角として積極的に戦う姿を家康に見せようとした可能性がある。
 戦後、中村氏は伯耆国米子に転封となり、石高は駿河時代の145000石から3万石の加増となった。この米子藩では藩主の忠一が幼少であったため、横田村詮が後見役として政務を担当した。一栄は重臣として現在の鳥取県琴浦町にあった八橋(やばせ)城の城主となった。
 しかし、やがて忠一は横田を邪魔者扱いするようになり、1603年には忠一が横田を自ら殺害する事件が起きている。これにより藩内は横田派と反横田派による内乱状態になり、忠一は隣藩の助けを得て鎮圧した。
 横田家では、剣豪として知られる柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の兄宗章(むねあき)を客分として招いていた。宗章は横田派のために奮戦の末、討ち死にしている。
 横田騒動の翌年、一栄死去。騒動で一栄が活動した記録はないため、すでに一栄は病床にあったと見られる。
 忠一は1609年に20歳で病死し、跡継ぎがなかったため、米子藩は改易された。
 この4年後、沼津でも三枚橋城主の大久保忠佐が跡継ぎのないまま死去し、沼津藩が改易となっている。
 ◇
 一栄には息子の栄忠(家嗣)がいた。栄忠を忠一の跡継ぎにして大名としての中村氏の再興を求める動きもあったが、改易後の米子城の明け渡しの際に資産を隠した疑いで栄忠は追放処分となってしまい、中村氏再興の望みは絶たれた。
 その後、栄忠は倉吉(鳥取県倉吉市)に移った後、駿河の清見寺で僧侶となっている。
 栄忠は八橋の体玄寺に父一栄の墓を建て、倉吉では一栄の菩提寺として大岳院を建立した。
 一氏・一栄の兄弟には、右近(重友)という弟がいたとされ、右近を歌舞伎の中村家の先祖とする説がある。
 (参考文献 笠谷和比古『戦争の日本史17関ヶ原合戦と大坂の陣』、『沼津市史』、中村忠文『中村一氏・忠一伝』)
【沼朝2020(令和2)11(水曜日)