ラベル 浜悠人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 浜悠人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年9月1日火曜日

東海道原宿を往く 浜悠人






東海道原宿を往く 浜悠人
 原宿は東海道五十三次の宿場町で品川から数え十三番目に当たる。名称は浮島ヶ原の中にあったことから「原中宿」から「原宿」と呼ばれるようになった。東は片浜、北は浮島、鷹根(現愛鷹)の各村に接し、西は吉原に連なり、南は駿河湾に面し、東西にわたる横長の地形(通称ふんどしと呼ばれる)から成っている。
 徳川家康は慶長五年(一六〇〇)の関が原の勝利により事実上、天下取りなるや、翌六年、東海道五十三次の駅制を定め、また伝馬の制度も確定していった。
 当初、原の宿場は旧国道1(千本街道、旧甲州道)に面した辺りにあったが、慶長十六年(一六一一)七月七日夜の高潮により人家や施設が流されたので旧宿場を放棄し、北に向かって街道を移し現在の街道が出来たと言われる。当時、街道の北側にあったお寺が、現在、一様に通りの南に位置しているのも、そんな訳があったのかと推察できる。
 原宿が東海道五十三次の宿駅になったのは寛永十年(一六三三)で、宿駅の中では一番遅かった。原宿が自然災害により移動したのが遅くなった一因ではなかろうかと思われる。それまで沼津宿と吉原宿の「間(あい).の宿」として原宿の存在価値は高かった。
 宿場町は東から「大塚町」「原東町」「原西町」の三町からなり、正徳六年(一七一六)の記録によれば、大塚町の石高は五百七十六石余、人口四百五十三人、原東町は四百二十四石余、四百十三人、原西町は五百五十一石余、六百八十三人と記され、宿には本陣、脇本陣があり、旅寵屋(はたごや)二十五軒から成っていた。 街道入り口の「大塚町」は昔、この地に大きな塚があったことによる。新田開発で三本松新田、大塚新田、大塚本田の地名が残る。町内の清梵寺は、お地蔵さん、長興寺は金毘羅さんと呼ぼれ、それぞれ由緒ある縁起を持っている。
 お寺が南側にあるのに比して神社は街道の北側にあり、神明宮や秋葉神社、大楠のある高木神社と並ぶ。
 次に、「原東町」には白隠さんで有名な松蔭寺や天神さんと呼ばれる西念寺がある。四月、沼川堤では提灯の下、白隠夜桜見物が楽しめる。町内の白隠の道をたどれば「白隠誕生地の碑」や「産湯の井戸」があり、新たにお堂も建てられている。
 「原西町」には江戸時代、東海に名を馳せた植松家の帯笑園があり、その由来の説明板に「植松家は江戸時代はじめに当地に居を定め、代々花卉(かき)に興昧を持ち国内はもとより外来の園芸植物等を収集し花長者(はなちょうじゃ)と言われていた。東西文化の交流が盛んになった江戸中期には園芸植物の鑑賞に多くの文人墨客、公卿、大名諸侯が訪れるようになり文芸文化の交流の場となりました。約三千坪の園内には盆栽、蘇鉄、桜草、松葉蘭や万年青(おもと)などが展示されていました。その様子は帯笑園を訪れたシーボルトの『江戸参府紀行』にその庭の美しさと豊富な種類に感嘆したと記されています。・・・・」。
 町内には渡辺家の本陣跡や七面さんの昌原寺、子安さんの徳源寺があり、北側には原浅間神社がある。神社入り口には「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示した所を高札場という。原宿の高札場は、この浅間神社前にあった。規模は高さ一丈(じょう)、巾一間、長さ二間五尺あった」と写真付きの説明板がある。
 駅前公園には原尋常高等小学校跡碑、近くには明徳稲荷があり、建立は本能寺の変の翌年、天正十一年(一五八三)と記されていた。
 原宿の西境の見付(番所)外に六軒の民家があったことから、ここは六軒町と呼ばれた。町内の浅間神社には原停車場記念碑が見出される。
 ここまでで「原宿」は往き着いたが、勢い余り、さらに西に進むと、第二昭和放水路の西には慶長年間から開発された新田の「一本松新田」「助兵衛新田」「植田新田」と連なる。
 一本松の呼称は古い一本の松があったことによる。町内の浅間神社には共進学舎碑がある。羅漢さんと呼ばれる大通寺門前には岡野喜太郎の「少時止宿勉学之寺」の碑があり、明治四年七月から同六年三月まで本堂に泊まり、初学舎で学んだと刻まれていた。
 助兵衛新田は、今は「桃里新田」と呼ばれ、この地の浅間愛鷹神社には鈴木助兵衛父子が元和元年(一六一五)ここを開拓し、明治四十一年、桃の産地となり、知事の認可を得、桃里と改称した。記念として「開關(びゃく)四百年、改称百年の碑」が建っている。
 旧東海道と東海道本線が交わる辺りを植田と言い、近くに植田三十郎の墓や神護寺跡地がある。神護寺は廃寺となり、町名は開拓者の名を植田となる。明治二十二年、町村制施行により、大塚町、原東町、原西町、一本松新田、助兵衛新田、植田新田が一つとなり、原宿の呼び名を継承し原町と名付けた。昭和四十三年、原町は沼津市と合併し今日に至っている。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和291日号寄稿文】

2020年7月31日金曜日

沼津藩の街道をめぐる 浜悠人


沼津藩の街道をめぐる 浜悠人
 
沼津の大岡木瀬川と下石田の境に江戸時代の沼津藩の領域を示す傍示石(当初は杭だったので傍示杭と呼ばれた)「従是西沼津領」が建っている。一六一四(慶長一九)年、三枚橋城が廃城、沼津は天領(幕府の直轄地)となり、韮山代官江川太郎左衛門の支配下にあった。
 一七七七(安永六)年、水野出羽守忠友は初代沼津藩の藩主となり、二万石の大名で出発した。その上、徳川将軍から沼津城の築城を命じられた。沼津城は平和な江戸時代の城郭なので戦闘的な山城ではなく、平地に築かれた平城であった。狩野川沿いの上土にあった三枚橋城より北に進んだ地に築かれた。
 下石田から街道を西に進めば「歴史マップ沼津市大岡」なる説明板が見当たる。江戸時代の、この地の状況がよく説明されているので感心した。
 二ツ谷(ふたつやは近くに二軒、家があり二ツ家と呼ばれたのに由来)を過ぎて浪人川を渡ると、黒瀬橋のたもとに平作地蔵がひっそりと立っている。沼津の平作は浄瑠璃の「伊賀越道中双六」で有名で、歌舞伎にも上演されてファンに広く知られている。
 日枝神社参道入り口には「一里塚」がある。幕府は街道一里ごとに塚を築き、榎を植え、旅人の標識とした。ここは江戸から二十九番目の塚にあたる。
 ほかに玉砥石(たまといし)と呼ばれる大小二つの柱状石で数条の直線的な溝があり、古代、玉を磨いた痕跡と伝えられる。
 平町を過ぎ狢川(むじながわ)に架かる三枚橋を渡る。当時は三枚の大きな石で橋が架けられていた。川廓(かわぐるわ)は狩野川と沼津城の城郭に挟まれた土地から由来し、中央公園(沼津城本丸跡)から川廓の街道に出た所に「川廓通り」と標示された大きな説明板がある。
 左側には一雄斎国輝画の沼津城をバックに長州征伐に上洛する幕府軍が川廓通りを行進する様子が描かれている。中央には東海道分間延絵図、右側には沼津略画図と大変参考になる。
 川廓を上り左へ曲がると上土(あげつち)となる。ここは戦国時代、武田勝頼により三枚橋城が築かれ、城の堀を掘り、土を揚げた地域から上土(揚げ土)と呼ばれた。江戸時代は商家が多く、東側の狩野川べりは商店名や屋号の付いた河岸が並び(狩野川の水運を利用する問屋町が発達した。
 上土から右に曲がれば通横町である。人馬継立てでにぎわった。飛脚などもおり、今日の郵便や運送の業に当たると思われる。
 短い通横町を左に曲がると沼津宿の中心部、本町と下本町にさしかかる。参動交代をする大名や旗本、幕府役人、宮家など泊まった本陣(間宮本陣、清水本陣、高田本陣)や脇本陣(中村脇本陣)、それに旅寵(宿屋)五十五軒が数えられ、にぎにぎしく繁盛し、た町だった。
 下本町を右に曲がると浅間町があり、丸子神社と合祀の浅間神社や近くには多くの寺々が見受けられる。さらに西へ進めば出口町となる。沼津宿の出口にあたるところから名付けられた地名で、当時、宿(しゅく)の出口には見張りの番所として「見付」があった。西の見付が、ここ出口町で、東の見付は平町にあった。
 江戸時代、沼津宿は東から三枚橋町、上土町、本町と三町に区分され、それぞれ北へ向かって町域を広げていた。現在それら三町名が大字(おおあざ)として残っている所もある。市道から間門へ向かえば、三枚橋城主だった大久保忠佐の墓がある妙伝寺が左手に見られる。
 間門と小諏訪の境に「従是東沼津藩」なる傍示杭がある。沼津藩の西境に立てられたもので明治末期頃に折られて下半分が失われ、「従是東」なる上部の石柱だけが見られる。
 今回、ステイホームのさなかではあるが、癒しを求め、沼津藩領域を東から西へと歩みを進め、紹介させていただいた。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2731日(金)寄稿文】

2020年7月9日木曜日

沼津空襲の思い出 浜悠人


沼津空襲の思い出 浜悠人
 昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムにアメリカ軍が進攻し、島に飛行場を建設、大型爆撃機B29で直接、日本本土空襲を企てた。
この年の十一月五日昼日中、突如としてB29一機が一万㍍の上空を怪物が異様な煙を吐くがごとく、白い飛行機雲をなびかせ沼津上空を去っていった。実は、これが日本本土の基地や軍需工場への偵察飛来であった。
翌二十年一月九日、B29一機が爆撃、大手町、上本通で死者五、重軽傷二十九。爆弾は岡藤ガラス店裏の倉庫を直撃、大きな爆撃跡を残した。さらに大手町角のトラヤ薬局も直撃、建物全壊、計十カ所に及んだ。爆撃跡を直接見て、その威力に恐怖を覚えた。
三月十日の東京大空襲は沼津から箱根山越しに東の夜空が明るく染まった。四月十一日昼、B29一機飛来。通横町、吉田町爆撃、死者十四、重軽傷三十九。当時、旧制沼中二年の私は空襲警報で下校となり、御成橋たもとのうなぎ屋寿々㐂の爆撃跡を見、その悲惨さに驚いた。御成橋の柱の傷跡は、その時によるものだと思う。
四月二十三日昼、B29一機が下香貫宮脇の技研を爆撃、死者九、重軽傷二十三。この時、犠牲になった十七歳の少女、菊池ひで等七人の慰霊碑が三中の傍らに建っている。
五月十七日昼、B29一機が三枚橋、平町を爆撃、死者十一、重軽傷十七。この日、空襲警報で下校となった私は三園橋を渡っていた。百雷の一時に落ちるような爆弾の落下音で橋の上に伏せると狩野川に水柱が立ち上った。平町の焼き芋屋が吹っ飛び、跡形もなかった。
七月十六日、この夜も、毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く尾を引き発令された。防空壕に退避していたら、B29は沼津上空を過ぎ、平塚方面に向かったとラジオは報じた。これは陽動作戦であると後になって知った。警報も解除となり、私は自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、「空襲、空襲」の叫び声、急いで飛び起き窓を開けると、南の香貫方面の空は照明弾で真昼のような明るさだった。
家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め土をかぶせていくから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。
焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下し、時折、ヒューという異様な音が混じり肝が冷やされた。私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げた。その頃、田圃越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化しているのが見えた。
既に時刻は十七日の午前一時から三時間ほど経ち、短い夏の夜は白々と明けてきた。この夜の状況は次のように発表されている。
B29百三十機が駿河湾を北上、沼津を空襲。死者二百七十四人、焼失家屋、九千三百四十一戸。沼津は文字通り焼け野原と化した。この夜、須田病院の一家六人が犠牲となり、現在、聖隷病院傍らに戦災犠牲者記念碑が建っている。
また、空襲警報が発せられると香貫地区の沼中二十三人の友人等は、いつもの如く校舎を守るべく登校し警備体制に入っていた。空襲が現実となり焼夷弾が校舎に落下。教師と生徒が一緒に消火に奮闘したが敵(かな)わず避難せざるを得なかった。
八月三日、昼日中、焼け跡に立ち、東の箱根山に目をやるとエンジンを止め私の方に向かって来るグラマン艦載機が近付いていた。側の掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込むと、一瞬遅れてダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを弾がかすめた。
その後、沼津駅方向を見ると黒煙が立ち上り、駅構内にあったガソリンタンクが機銃掃射で爆発炎上した。この時の被害は死者三、重軽傷三。
ところで先頃、アメリカ公文書館が保存していたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラの映像(カラー)を見る機会を得た。当時、グラマン機の翼には戦果を記録するためガンカメラが取り付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。
前述の八月三日、私を襲ったグラマンと並行して線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填の他の一機がいたことが画面から分かった。その機は焼け跡の藤倉電線の二本の煙突も掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には千本松原も映っていた。
私は、命拾いした八月三日の昼時に襲って来たグラマン機が機上から克明に写していたことに唖然とした。戦後七十余年を経、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観ることができ興奮し一晩眠れなかった。
最後に、私は戦時中の代え難い体験を幾度でも書き、平和の尊さを市民に訴え続けていきたいと思っている。(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年7月9日(木)寄稿文】


2020年6月28日日曜日

統計学の祖 杉亨二 浜悠人


統計学の祖 杉亨二 浜悠人
 昨秋十月、沼津史談会は史跡探訪として東京都立染井霊園を訪ねた。霊園の一画には日本の統計制度の基礎を築いた杉亨二(こうじ)の墓があり、「枯れたればまた植置けよ我が庵」の辞世の句と「法学博士杉亨二・之墓大正六年十二月四日卒行年九十歳」と刻まれていた。
 彼の略年表をたどれば、一八二八(文政一一)年、肥前国(現長崎市)に生ま.れ、一八四九(嘉永一)年、大坂の緒方洪庵の適塾に入門。一八五三年、勝海舟を知り彼の私塾の塾長となり、一八五五(安政二)年、老中阿部正弘に仕え待講となる。
 一八六四年、幕府開成所教授に就任、一八六八(明治元)年、徳川家と共に静岡に移り、翌明治二年、沼津兵学校員外教授に就任。この年、沼津奉行阿部潜と府中奉行中台信太郎を説き、新しい領地である静岡藩を治めるためには領民の人口調査が必要であること、そして、それを古い「人別調(にんべつしらべ)方式」で行うのではなく西洋の統計学に基づく方法で実施したい旨を伝え、了解を得た。
 だが、同年六月、版籍奉還(各藩主が天皇に領地と領民を返上)となり、静岡藩だけ調査を実施するのは新政府に対して憚(はばか)られるとの憶測から調査は中止した。しかし、沼津宿と原宿は既に調査が完了して結果がまとめられ、「沼津政表」(沼津人口調査表)「原政表」(原人口調査表)として残された。
 このことにつき後年、杉は沼津と原については漸(ようや)く政表が出来たので記念になった、と述べている。
 それまで江戸時代の人別調が、もっぱら百姓の移動防止やキリシタン禁制、賦役を目的に作成されたものだったのに対し、「沼津と原政表」は武士身分の者が調査対象になっていないなど不十分な点もあるが〉住民の実態を総合的に捉えた我が国初の人口調査と言えるものであった。
 一八七一(明治四)年、太政官正院大主記(現総務省統計局長)に就任。日本初の統計年鑑「辛未(しんぴ)政表」を発行した。これは現在の「日本統計年鑑」の前身にあたる。
 一八七八(明治十一)年、「甲斐国現在人別調」を実施した。甲斐を選んだ理由は、一県にしては人口が少なく、管内の人口移動も比較的少なく、また東京に近く、指導連絡等が便利であることからだった。
 調査員二千人、費用五千七百六十円で一八七九(明治十二)年十二月三十一日午後十二時現在、甲斐国の人口は397416人と判明した。
 一八八五(明治十八)年、統計院が廃止されたのを機に五十八歳で官界を引退し、「政表社」等で統計に関する研究などの活動を継続し統計の普及に努めた。一九一七人大正六)年、九十歳で永眠。その後三年を経、我が国で第一回の国勢調査が実施された。
 国勢調査は五年に一度、国内の人口、世帯、産業構造などについて全国的な調査をすることで国の礎を知る最も重要かつ基本的な統計調査である。英語でセンサス(census)と呼ばれる。その歴史をたどれば、第一回一九二〇(大正九)年十月一日実施。第二回一九二五(大正十四)年から…第六回一九四五(昭和二十)年は終戦のために中止し、翌々年の一九四七(昭和二十二)年、臨時に実施。第七回が一九五〇(昭和二十五)年に実施され、以下五年ごと行われてきた。
 二〇二〇(令和二)年の本年度は第二十一回となる国勢調査の実施予定年度にあたるが、新型コロナウイルスのため、どうなることか判然としない。国中が、その成り行きを見守っている。
(歌人、下一丁田)  浜悠人
 【沼朝令和2628日(日)寄稿文】

2020年5月12日火曜日

疫病 浜悠人


疫病 浜悠人

 疫病 疫病とは広い地域に集団的に発生、伝播(でんぱ)する急性伝染病を言い、全身的な症状を示し、急性的経過をたどる。現在では流行病と呼ばれることが多い。
 種類として、ペスト、マラリア、痘瘡(天然痘)、麻疹(はしか)、発疹チフス、腸チフス、赤痢、コレラ、インフルエンザ、それに新たに新型コロナウイルス感染症が加わった。
 慢性伝染病としては、ハンセン病(らい病)や結核があり、さらに梅毒が挙げられる。
 疫病史人類の歴史が始まってζのかた、人間の生死を左右した最大の原因と言えるのが疫病であり、戦争や天災の死因をはるかに上回り、人間の歴史に与えた役割は極めて大きい。
 ヨーロッパの疫病の歴史をたどれば、13世紀のハンセン病、14世紀のペスト、16世紀の梅毒、1718世紀の痘瘡、発疹チフス、19世紀の結核、コレラ、20世紀のインフルエンザと、それぞれの時代の社会なり文明なりは、それ特有の疫病を持っており、疫病は、その文明の変革、社会の改革によって消滅していくか、次の時代には別の疫病が出現してくることが分かる。
 また、疫病は戦争や天災、貧困と深い相関関係をもっている。
 中世末期とペスト、ルネサンスと梅毒、産業革命と結核、近代化とコレラのように、時代の激動期、社会の変革期に新しい疫病が出現し流行するという歴史的因果関係も分かる。
 日本の疫病史翻(ひるがえ)って、我が国の疫病史をたどれば、奈良時代に天然痘が大流行した。
 天平七(七三五)年から九(七三七)年にかけ、九州から全国に広がり、奈良平城京では役人の大多数が罹患した。藤原四兄弟から成る政権も崩壊し、反藤原氏的な橘諸兄の政権が誕生した。
 聖武天皇は疫病の蔓延や天候不順による飢餓、大地震の悩みから東大寺の大仏造営に着手し、仏法の威霊によって天地が安泰になるよう祈った。
 また、聖武天皇の.后、光明皇后は奈良法華寺に施薬院、悲田院を付設し救済事業を行った。先年、私は法華寺を訪ね、光明皇后が、らい病者に役立てた湯屋(浴室)を見学した。
 奈良時代以後、疫病は疫神、疫鬼、怨霊の仕業とか、あるいは、神罰、仏罰といった見方があり、それらの疫神などを慰撫し、追放するため御霊会などが執行され、経典の転読や加持祈祷がなされてきた。
 一方、庶民は無病息災を祈り、六月三十日の茅の輪くぐりや七月の京都祇園祭と、その風習が受け継がれてきた。
 沼津の疫病 沼津地方にはコレラが明治十一(一八七八)~十二(一八七九)年、十五(一八八二)年、十九(一八八六)年と大流行した。
 十二年の時のそれは全国で死者十万人以上に達した。
 沼津では八月から十月にかけて約五十人の患者が発生、二十六人が死亡した。
 また、十五年の時には患者八十二人が発生、二十一人が死亡した。
 各町村では、それぞれに対策が取られ、十二年九月、西沢田村では、村内の三町内をそれぞれ三組に分け、九つの組ごとに予防に当たり、患者発生時には直ちに委員に届け出、消毒には石炭酸を使用。親類に死者が出た場合でも悔やみに出向くことは禁止し、死者は一つの埋葬地で火葬にすることなどの予防規制が定められた。
 当時は、警察が衛生行政を担っており、コレラ予防に奔走、殉職した二人の沼津警察署の巡査がいた。富士吉信と入山熊太郎で、二人の死は命をかけて近代医療、衛生行政の普及に努めた結果であると賞讃され、明治十三(一八八〇)年九月、顕彰碑が建てられた。
 先日、その碑が千本緑町の長谷寺境内にあることを知り、早速訪れた。篆額には「富士入山弐氏乃碑」とおぼろげながら読めたと同時に、私は二人の行動に感激した。そして現在新型コロナウイルスに立ち向かうため、私達にできることは「ズテイホーム」しかないと、深く思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2512日(火)寄稿文】