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2020年5月18日月曜日

アーカイブスシリーズ:戦後昭和の沼津の百貨店名簿


昭和36年商工名鑑より百貨店名簿

()百貨店 ㈱西武百貨店 大中悦 大手町5 5121
()百貨店 ㈱松菱沼津店 本多肇 町方町20 4500
()百貨店 ㈱マキバ百貨店 山田富三 上土町121 2447
()百貨店 ㈱フジヤ百貨店 杉山猪太郎 町方町20 589
()百貨店 ㈱松坂屋沼津出張所 大手町 2106
()百貨店 沼津百貨店 上土町 2064
()百貨店 ㈱栄屋百貨店 岡田吉信 町方町 307

昭和42年商工名鑑より
百貨店小 ㈱西武百貨店沼津店 吉野和夫 大手町5 (62)5120
百貨店小  ㈱松菱沼津店 又平三雄 町方町20 (63)3131
百貨店小  松坂屋沼津出張所 大石喜平 大手町98 (62)2106
月賦百貨 ㈱丸井沼津店 藤巻正雄 大手町86 (62)8521
土産品・食品・茶・玩具 沼津駅デパート 増田好平大手町官無番地 (62)4188

昭和48年商工名鑑より
百貨店業小 ㈱西武百貨店沼津店 佐藤勇 大手町5 (51)0111
百貨店・不動産業小 ㈱富士急百貨店 堀内光雄 大手町6 (62)7111
百貨店業小 ㈱松坂屋静岡店沼津出張所 小嶋満平 大手町98 (62)2106
百貨店業小 ㈱十字屋沼津支店 菊地英治 大手町82 (62)2764
衣料・食品・雑貨・家電小 ㈱関東ユニー・沼津運営部 加藤錫 大手町67  (51)2311
衣服・寝具小 ㈱長崎屋沼津店 鈴木徹也 大手町中央ビル (51)4545
綜合衣料小 ㈱ニチイ沼津店 有田勝之 三枚橋664-3 (51)2211
綜合衣料小 ㈱緑屋沼津店 小林一吉  大手町155  (62)8855
家具・洋装・電器製品・呉服・百貨割賦 ㈱丸井沼津店 町田実 大手町86 (51)0101

昭和53年商工名鑑より
☆㈱十字屋沼津店 湯浅勝男 大手町82 62-2764 百貨店
☆㈱西武百貨店沼津店 川瀬悦男 大手町5 51-0111 百貨店
☆㈱長崎屋沼津店 林直彦 大手町175 51-4545 総合衣料・寝具
☆㈱ニチイ沼津店 田中義男 三枚橋字上の段664-3 51-2211 総合衣料・家庭用品
沼津ステーションビル㈱ 滝川保 上土字七反田官無番地 63-4141 百貨店
☆㈱富士急百貨店 一之宮和則 大手町6 62-7111 百貨店
☆㈱松坂屋静岡店沼津出張所 時田国彦 大手町98 62-2106 百貨店
☆㈱丸井沼津店 大桃好栄 大手町86 51-0101 家具・洋装・電器製品呉服割賦


2020年1月14日火曜日

沼朝昭和39年6月7日号記事「国道地下道完成 十日から開通」今は蓋がされ塞がれている


旧国道地下道関連記事
 国道地下道が完成:十日から開通
地上横断歩道の存続か、廃止かでもめ、長びいた大手町の国道横断地下道はこの程ようやく完成、八日朝九時から国と県係官立合いで竣工検査を行なった上、十日午前十時から完成式を行う。
 岡地下道工事は昨年十月十五日、工費三千百二十万円で藤田組が請負って着工した。鉄筋コンクリート造りで昇降道(四つ)は巾二㍍、長さ八・七㍍、地下道は深さ六・四㍍で巾六㍍、長さ十六㍍。地下道添い両側に各四店舗、計八店舗(十九・八平方㍍、モルタル床、フレキシブルボード天井、防水モルタルビニールペンキ仕立てのカベ、電気、水道、ガス付)があり南側に男女別の水洗便所電気機械室が設けられている。
 このほか階段通路には螢光燈八〇ワットが十六カ所空気調整設備(三十馬力、クーリングタワー方式、冷房つき)などがある。地下街の八店鋪は銀座商店街と仲見世商店街から各四店舗が入ることになっている。寄付金二百万円に家賃は一万五千円ぐらいが予定されている。
(沼朝昭和3967日号)


 利用されぬ地下道
 地上横断は危険倍加

 大手町の商工会議所前国道横断地下道は、国道の交通混雑から市民を守るため、多額の費用と半年余の時間をかけて去月はじめやつと開通したが、出入口の設計が悪く歩行者の目に止まらないことや、施設も完備していないため、利用者が少く、同所の歩行者のほとんどが国道上を横断しているため、いぜん危険な状態がつづいている。このままでは、交通事故を続発させる危険が大きいだけに、地下道を利用させるための対策を早急に行う必要が痛感されている。
 市民を交通事故から守る一ため三千百二十万円で建設された大手町の国道横断地された大手町の国道横断地下道は、開通後二カ月になろうとしているにもかかわらず利用者がほとんどなく歩道もない国道上を危険を犯して横断する人達が後を断たないだめ、地下道を利用させるための根本的な対策が強く望まれている。
 地下道は予算不足や立地条件の悪さのため、仲見世ー銀座通りの通行者に利用させるためつくられたにもかかわらず、四ヵ所の出入口はいずれも両通りとは反対側に向ってつくられているため、利用しにくいこと地下横断歩道を示すわかり易い標識などの施設がないため気付かないこと、中に収容されることになっている八店舗の開店が遅れチンピラなどがうろついていること、などの原因で通行者の中には地下道をあえて避けて通る人達まで出ている通行者のほとんどが、国道上をしっ走する多数の車の間を縫う危険を犯しているだけに、交通事故が起きる可能性は、地下道ができる前以上に高い。最近では子供連れの母親が車にはねられけがを負う宴故が現実一に発生しているほか、間一ぱつ事故から逃れているきわどい事態が一日に何回となく続いているため、付近の人達は「危ぶなくて見てはいられない」という。
 現状のままでは大金を投じた施設も宝の持ち腐れになってしまい、市民をあえて危険にさらすことにもなるので、地下道内部に収容する八店舗の開店を早め、魅力ある地下道をつくるとともに、国道上を歩いて渡らせないように指導する。
(沼朝昭和397月 号)

 味のちか道 本日開店
 ありがとうございました
 味のちか道(国道地下街)は皆様の御力のおかげをもちまして本日新装開店の運びとなりました。
 本当にありがとうございました。
 これからは常にお客様への感謝の心をこめて良いものを少しでも安くご利用いただけます様努力致しまナ。
 今後共よろしく御引立の程をお願い申し上げます。
 味のちか道 八店の店主 従業員一同
 開店ご案内
  志るこ あんみつ コーヒー
ニユーいせや
  そばうどん ラーノン 生ジユース
 味のマルトモ
  おにぎりは,
喜久屋
  ベビーふとん ママの夢がいっぱい
 すぎやまふとん店
  うな井 蒲焼
 うなぎの いな岡
○ あなたの洋服なら
 テーラートガシ
  鯉各種 金魚 熱帯魚
 川口養魚店
  たばこジユース 公衆電話
 仲見世商店街事務局
(沼朝昭和40320日号広告)

2020年1月2日木曜日

昭和黄金時代の沼津商店街思い出動画:本町通り(仙石規氏沼朝元旦号記念)





「昭和黄金時代の沼津商店街」思い出散歩
第七回「本町通り」仙石 規


 一 本町通りは、商店街だったのか、夏のクリスマスとは?
 クリスマスも終わり、師走も終わりを迎えるころ、かつては、冷たい西風が連日のように、沼津に吹き荒れたものでした。大晦日前から、本町通り交差点北西角には、「年の市」が立ちました。正月に欠かせない、締め飾りや鏡餅を載せる台に敷くシダ、新年の暦などを売る屋台も、いまや沼津の街角地からは消え去りそうです。祖父に手を引かれ、門松を飾った市場町自宅の玄関から出て、御成橋の上を風に飛ばされそうになりながら渡り、通横町を過ぎると、大勢の客が品定めをしている屋台が見えて来ました。
 明治・大正時代に繁盛を極めた「本町通り」は、まさしく旧東海道のメイン・ストリートでした。以前、上土通りを「沼津最古の商店街」と書いたところ、「最古は、本町だろ」と、指摘されました。だが僕は、本町通りは「繁華街」でありましたが、「商店街」ではなかったと思っています。
 明治・大正時代、沼津の港は、御成橋と永代橋の間の狩野川右岸に在ったのです。船着場からの荷や、漁船から荷揚げされた海産物などは、河岸から」「魚町」「仲町」の通りに運ばれ、倉庫に保存され、出荷されました。
 その通りから一本西側の本酊通りは、運送業者、漁師、仲買人などが、仕事を終えて集う遊興地だったのです。戦前最大の娯楽施設だった映画館、カフェー(現在のカフェではなく、女給さんがいた風俗店)、遊郭、旅館などが建ち並ぶ通りでした。もちろん商店も多かったのですが、商店街としては、明治・大正時代には上土が主で大正末期の沼津大火の後は、新興地となった本通り(その後のアーケード街)が栄えたのです。
 本町通りの北西角には、明治元年創業(創業時は氷店)の精肉店「古安」がずっと頑張っています。現在の建物は、昭和三十年後期に建てられたもので、肉店のほかに、中華食堂や屋上ビアガーデンまで営業していたことが、本紙掲載の写真から判ります。写真に写された軽トラックは、いまや滅多にお目に掛れない「宣伝力ー」です。拡声器で商店の宣伝や音楽を流してよく走っていたものです。車に「クリスマス」との表示が見えますが、冬に撮られたものではありません。市内のキャバレーが「サマー・クリスマス」を宣伝していたのです。昭和三十年代の日本では「クリスマス」は何と「ハメを外す遊び」との意味もあったのですね。古安二階の食堂で、家族とカレーライスやビフテキなどの洋食をハレの日に頂いたことも夢のようになってしまいました。縁に食紅が付いた焼豚も、この店ならではの逸品です。
 古安南隣は、「わたぎん寝貝店(閉店と、沼津商店街研究の大先輩だった故・川口和子女史の「川口歯科」(本町は休診中)、「菊水旅館」(今は駐車場)と並んでいました。
 二 鶏肉の老舗と金魚屋さん
 小路を南に渡ると、マンション・コーポ寿山の場所には、「ヤマト屋」「みゆき寿司」がありました。その南には、明治・大正時代には「桔梗屋旅館」という大きな旅館があり、「加藤学園」の前身「淑徳女学院」を創設した加藤ふぢ女史の出身地です。本町マンションが建った後、一階には貸しビデオ屋さんが入っていました。ビデオ屋が閉まった後に、「タベルナ・マンマ」というクラシックなイタリア料理店が開店し、父母はひいきにしていました。母がここでスパゲッティを食べ過ぎそうになると、父が「食べるな、お腹が出るよ。ママ」と制止したとか。タベルナとは、イタリア語で旅籠屋などにある軽食堂のことです。
 続いて、正秀刃物店の「マサヤ刀剣店」「東京生命」(今は、岡田金魚店別館)がありました。南に進むと、懐かしい「岡田金魚店」が待っています(昭和十三年創業)。僕の生家は、市場町の法律事務所が建っている場所にありました。広い庭と池があり、祖父に連れられて、岡田さんに金魚を買いに行ったものでした。夏が訪れると吊り忍や風鈴が店先に揺れ、涼しさを感じさせてくれました。昭和三十年代に、岡田さんは飲食店もやっていたそうです。金魚屋さん南には、熱帯魚の「エンゼル」があり、大きな魚拓が眼を惹いた「沼津釣具センター」と、魚関係の店が続きました。
 その南に開く大正時代創業の「鳥佐」は、沼津一美味しい鶏肉を扱う店という評判です。焼き鳥を作る時や、クリスマスのローストチキンを焼く時も、我が家ではずっとお世話になっていました。鳥佐さんは、昭和四十年代には岡田さん隣にあったのですが、移築したそうです。角地の駐車場は、かつて松澤商店(その前は金指商会)とサトウ・スポーツ店でした。
 三 ベルタクさんと大人の映画館、ミス・パイロットとは?
 次の西に入る小路は、「丸子・浅間神社」裏口に続く情緒ある道筋です。ここを過ぎると、上本町は、下本町に移ります。小路の北にあった、とんかつ屋「美登里」は、祖父が写真同好会の集いなどでよく通った店でした。数年前に廃業し、その後しばらく店先の椅子に店主がボーっと腰かけていた姿に時代の変化を感じました。
 本町通り北西角には、「松田法律事務所」という有名な弁護士事務所があり、魚屋さんの魚松(十六年前に廃業)、明治時代から、今も元気に営みを続ける鈴木理髪店と、並んでいました。鈴木さん隣の「岩垂」は、スマー卜・ボールの店でした。この遊びを覚えている読者はおられますかね。次の角地にあった望月酒店は、平成四年から「セブンイレブン本町店」となり、いつも賑わっています。
 南に渡り、下本町西南ブロックに来ると、老舗のタクシー営業所が待っています。「ベル・タクシー」が開業したのは、昭和二十四年四月だそうです。子供の頃から、我が家は「ベルタクさんを贔屓(ひいき)にし}きました。可愛い金色のベルのロゴは、今でも色褪(あ)せないお洒落な傑作だと思います。
 ベル・タクシー南は、戦前から「中野内科・小児科医院」が開業していましたが、その後、歯科医院になっています。「ヤマフジ・コーポ」を過ぎると、駐車場がありますが、かつては「加藤楽器店」と「美松寿し」という老舗の寿司屋さんがありました。九年前に、この店の稲荷寿司を、幻に終わった僕の小説「沼津御成橋稲荷大事件」に使わせてもらおうと、訪れたところ、一週間前までにはあった店が、取り壊されて平地になっていたのには、まさに「狐に化かされた」気がしました。
 次の場所は老舗化粧品店「むさしや」ですが昭和三十年代には「銀星座」という映画館があり、その後、「東海劇場」と名を変えました。東海劇場は、成人映画専門の映画館で、この前を通る際はドキドキしました。DVDは勿論、ビデオさえ無かった時代です。性愛は、タブー視され、中学生の自分は、映画館前で、それはいやらしく感じた映画タイトルと露出度も少ないポスターの写真を脳裏に焼き付け、帰宅して妄想に耽ったものでした。現代は容易(たやす)く、アダルト映像の世界が見られる時代になりました。「想像力の欠如」という問題も出て来ているのでしょうね、今や成人映画館も絶滅状態のようです。
 かつては、「中村演芸館」という芝居小屋であった東海劇場が閉館した際、南にあった「むさし屋」が劇場跡地に移転したそうです。むさし屋さんの奥さんは、昭和三十年に「ミス・パイロット(文具社)」として、沼津夏まつりで車上パレードした美人で、今もお店に行けば変わらぬ笑顔で迎えてくれます。(当時の写真は、小生が執筆・監修した「沼津今昔写真帖」でご覧ください)
 下本町の最後の南西角は、静岡銀行本町支店でしたが、十数年前に大きなマンションが浅間神社入り口近くまで建てられました。建物の影響で、この付近の住民は、ただでさえ強かった冬の風が、さらに激しくなったと嘆いています。下本町を抜けると、旧東海道は西に向きを変え、出口町方面に続きます。
 四 洋画の「国際劇場」に「丸源」は、夢の跡、そして「千楽」
 本町通りを東に渡ると、明治四十年創業の「花見煎餅」が角に待っています。前は「吾妻屋」という名でした。ザラメ砂糖がまぶされた煎餅や、香ばしいあられなどの種類の多さに、どれを選ぶか迷ってしまう子供時代でした。
 北には、「小笹紙店」「会津漆器店」「丸源そば店」と続いていました。丸源の天婦羅蕎麦はとても美味しく、汁が滲んだ天婦羅の味は忘れられません。カツ丼や五目ラーメンも旨かったのに、ある事件がきっかけで昭和五十年代に閉店してしまいました。支店が高島町にあり、ここも贔屓にしていましたが、十三年前に廃業して残念です。
 蕎麦屋北には、「丸井百貨店」という小さな店がありましたが、今も人気のマルイ(かつて駅前通りにもありました)とは無関係です。露木商店を挟んだ北には、洋画専門の映画館「国際劇場」があり、洋画派の父と自分は、週末に通ったものです。「ファントマ」というフランス映画や、名優ジェームス・コバーン主演の「電撃フリント」のシリーズは、わくわく感で心を充たしてくれました。劇場跡の駐車場を観察すると、映画館の痕跡が見られます。ああ、我がシネマ・パラダイスよ。
 続く店は、骨董屋さん「田中温古堂」で、店の中で昼寝している猫を見一たくて、よく訪れた場所です。角地には、沼津で一番好きな洋食屋さん「千楽」が、今でも繁盛しています。こってりしたハヤシ・ライスやお持ち帰り出来る「カツサンド」も食べたいのですが、店に来るといつも、子供時代の誕生日に出前してもらった「ランチ」を注文してしまいます。ランチといっても昼限定ではありません。海老フライ、ハンバーグ、ハムと、みずみずしいサラダが盛られた皿を頂くと、至福の時を過ごせます。
 一階も五十年前にタイム・スリップ出来るレトロな空間ですが、二階の窓辺の席から、夕暮れの本町通りを眺め、「栄えある沼津」をしのぶのも好きです。千楽の創業は、昭和二十年代中期です。前のご主人は、千本にあった「東京亭」で修業したらしいです。
 五 「パチンコ屋」に銭湯もありましたね 千楽北の小路を渡ると、パチンコ「大都会」がありました。パチンコ屋さんといっても手動単発式の素朴な器械が数台並んだ小さな店でした。初代・仙石医院院長だった祖父は、大のパチンコ好きで、この店に通って、僕にチョコレートやビスケットなどの景品を持ってきてくれたものでした。パチンコ屋の後は、「本町将棋倶楽部」になっていましたが、現在、扉は閉ざされています。
 北にはずっと空き地が続きますが、昭和四十年中期には、「森田ゴルフ商店」「レストラン・ズパシーボ」「中野肉店」、東奥地には銭湯「朝日湯」がありました。沼津の銭湯は、数年前に廃業した「吉田温泉」とともに無くなってしまいました。中野肉店の中野勇雄さんは、沼津屈指のアマチュア・カメラマンで戦前の情緒溢れる本町の写真を遣されました。その北に、「大門食堂」「大竹洋品店」があり、角地は、七十年の歴史を誇る「小林花店」です。
 六 「お菓子の家」、一世紀以上続く薬局と「カムイン」の謎
 続く角地には、「沼津本町郵便局」が建っています。その北には、「沼津テレビ・サービス」「沼津交通本町営業所」がありましたが、今は、菓子材料や製菓用具を扱う店「ミズタ」になっています。「水田商店」の名だった頃、母に連れられて店に入ると、「わあ!ヘンゼルとグレーテルの世界だ!」と叫びたくなりました。元ミス名古屋だった母は、私の子供時代には、菓子や料理を手作りするのが大好きでした。オーブンで香ばしく焼いたスポンジ・ケーキに、水田さんで買い求めた材料で作ったクリームやアンジェリカを載せたクリスマス・ケーキが懐かしく思い出されます。「有難うお母さん」と、想い続けていますよ。
 水田さんの南に「カムイン」という名の洋食屋さんがあったらしいのですが、謎の店です。祖父は、千楽のランチを出前でとった際、「千楽は、カムインだったね」と言っていました。川口和子さんの戦前本町地図にも「カムイン」が載っていますし、昭和三十一年発行の沼津商工名鑑にも、水田さん南隣に「カムイン」があった記述が残っていますが、中野勇雄さんの写真では「喫茶・千楽」がその場所に写っているのです。二店の関係は、不明のままです。
 その北の「丸一薬局」は、明治三十二年創業の老舗ですが、今はお洒落なスポットになっていますよ。カフェでは、ヘルシーな飲食物が提供され、裏には、ポンテ・スパッツィオ(イタリァ語で「橋の空間」という意味)というヨガ・スポットも開いています。歴史を感じる店々を巡った後、若い女性たちで賑わう「マルイチ」に出会い、沼津の未来への望みを感じました。その北には「駿河銀行本町支店」「井口無線」「双葉不動産」、今も開業している「庄司歯科医院」がありました。
 七 出前うどんの思い出と「沼津映画劇場」
 さあ、本町の思い出散歩も、終点が近づいてきました。最後の北東フロック角を東に曲がると、小路右手に「梅鉢」という甘味屋さんがありました。「梅鉢」の歴史は古く、大正時代にはあったらしいのです。戦前は、本町通りに開店していました。あんみつを食べに家族で訪れた想い出を共有する沼津市民も多いでしょう。平成になってから移転しました。
 角地にある「安田屋」は、大正十四年創業の老舗そば屋です。信州霧下そばを謳い文句にして、沼津駅周辺のデパートや大手町にも支店がありました。あんかけ焼きそばなどの中華-も、美味しく頂きました。冬の夜、診察が遅くなった父が「規、出前をとろう」と、安田屋のうどんを夜食に頼んだ半世紀前の記憶が蘇ります。家は寒くても、一杯のかけうどんを頂くと、心の中まで温められた家族の団樂(だんらん)でした。
 安田屋北には、「七五三食堂(後に、うな八)」という店があり、本町通り北東出口には、「沼津映画劇場」が堂々と建っていました。かつては「杉本旅館」という歴史ある旅館のおかみさんだった館主は、市場町仙石医院の患者さんで、沼映の入場券をよくくださいました。邦画や洋画も上映され、タバコとポップコーンの匂いが立ち込める館内で、銀幕に見入った時代は、もう二度と返ってきません。
 映画館があった跡の駐車場を東に進むと、御成橋と我が家が待っています。狩野川を渡りながら、僕が「狩野川」を想って意訳した、ヘップバーン主演「ティファニーで朝食を」の主題歌を口ずさみます。そろそろお別れの時間です。
 広い狩野川よ。いつか渡ってそのすべてを感じたい。
 ノスタルジアを抱かせ新たな夢を打ち砕く川よ、どこまでも一緒だよ、ずっと追って行くよ。
 互いに、はぐれ者で井の中の蛙だけれど、子供の時からの友達だからね。
 宝が眠るといわれる、虹の袂を探し続けようね、川と僕。
 今回、親切に取材に応じてくださいました本町の方々、有難うございました。
 地図のイラストは、今回も「石山コンビ」先生にお願いしました、感謝!

仙石 規(せんごく.ただし=郷土史家,はら仙石医院・市場町)
 (本町関係の写真は、いずれも明治史料館提供)
【沼朝2020年(令和2年)1月1日(水曜日)元旦号】

2019年5月10日金曜日

自決直前.バルコニーから自衛隊員に演説する三島由紀夫(45年11月25日)


▲自決直前.バルコニーから自衛隊員に演説する三島由紀夫(451125日)
 ノーベル賞候補作家三島由紀夫は、451125日午前1113分ごろ、楯の会のメンバー4人を引き連れて東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り、総監室にいた益田兼利総監(当時)を監禁、その眼前で楯の会の1人とともに割腹自殺を遂げた。
 三島は自殺の寸前に本部バルコニーに出て、広場に集まった約1,000人の自衛隊員を前に「諸君、自分たちを否定する憲法を守るのか」と問いかけ、「自衛隊に失望した」と叫んだ。いわば治安活動に向かって行動を起こさない自衛隊に対する死の抗議で、全世界に大きな反響と論議を呼んだ。(静岡年鑑昭和46年度版 昭和467月発行)


2018年5月21日月曜日

昭和四年竣工の「行幸橋(みゆきばし)」探索 平成30年5月21日(月)


昭和五年六月一日~三日の昭和天皇沼津巡幸。
前年の四年九月に沼津御用邸への通りに「行幸橋(みゆきばし)」竣工。
昭和の貴重な現役橋を探索した。
平成30年5月21日(月)朝

2015年10月30日金曜日

「書籍・戦後史の正体」を読み終わって、

「書籍・戦後史の正体」おわり章から
アメリカと日本の国益の関係における戦後の首相
 自主派(積極的に現状を変えようと米国に働きかけた人たち)

 〇重光葵(まもる)(降伏直後の軍事植民地化政策を阻止。のちに米軍完全撤退案を米国に示す)
 〇石橋湛山(たんざん)(敗戦直後、膨大な米軍駐留経費の削減を求める)
 〇芦田均(ひとし)(外相時代、米国に対し米軍の「有事駐留」案を示す)
 〇岸信介(のぶすけ)(従属色の強い旧安保条約を改定。さらに米軍基地の治外法権を認めた行政協定の見直しも行なおうと試みる)
 〇鳩山一郎(対米自主路線をとなえ、米国が敵視するソ連との国交回復を実現)
 〇佐藤栄作(ベトナム戦争で沖縄の米軍基地の価値が高まるなか、沖縄返還を実現)
 〇田中角栄(米国の強い反対を押しきって、日中国交回復を実現)
 〇福田赴夫(たけお)(ASEAN外交を推進するなど、米国一辺倒でない外交を展開)
 〇宮沢喜一(基本的に対米協調。しかしクリントン大統領に対しては対等以上の態度で交渉)
 〇細川護煕(もりひろ)(「樋ロレポート」の作成を指示。「日米同盟」よりも「多角的安全保障」を前視)
 〇鳩山由紀夫(「普天間基地の県外、国外への移設」と「東アジア共同体」を提唱)

 対米追随派(米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化しようとした人たち)

 〇吉田茂(安全保障と経済の両面で、きわめて強い対米従属路線をとる)
 〇池田勇人(安保闘争以降、安全保障問題を封印し、経済に特化)
 〇三木武夫(米国が嫌った田中角栄を裁判で有罪にするため、特別な行動をとる)
 〇中曽根康弘(安全保障面では「日本は不沈空母になる」発言、経済面ではプラザ合意で円高基調の土台をつくる)
 〇小泉純一郎(安全保障では自衛隊の海外派遣、経済では郵政民営化など制度の米国化推進)
 他、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野田佳彦

 一部抵抗派(特定の問題について米国からの圧力に抵抗した人たち)

 ○鈴木善幸(米国からの防衛費増額要請を拒否。米国との軍事協力は行なわないと明言)
 〇竹下登(金融面では協力。その一方、安全保障面では米国が世界的規模で自衛隊が協力するよう要請してきたことに抵抗)
 〇橋本龍太郎(長野五輪中の米軍の武力行使自粛を要求。「米国債を大幅に売りたい」発言)
 ○福田康夫(アフガンへの陸上自衛隊の大規模派遣要求を拒否。破綻寸前の米金融会社への巨額融資に消極姿勢)

 ①占領軍の指示により公職追放する
 鳩山一郎、石橋湛山
 ②検察が起訴し、マスコミが大々的に報道し、政治生命を絶つ
 芦田均、田中角栄、少し異色ですが小沢一郎
 ③政権内の重要人物を切ることを求め、結果的に内閣を崩壊させる
片山哲、細川護煕
 ④米国が支持していないことを強調し、党内の反対勢力の勢いを強める
鳩山由紀夫、福田康夫
 ⑤選挙で敗北
 宮沢喜一
 ⑥大衆を動員し、政権を崩壊させる
 岸信介

2015年8月8日土曜日

歴史とは・・・・ 鈴木数雄(沼朝投稿記事)

歴史とは・・・・ 鈴木数雄
 『昭和天皇実録』が第二冊まで刊行されている。明治三十四年のご誕生から大正九年(十九歳)までの動静が記されていて、驚くのは沼津御用邸滞在が頻繁で、長期にわたったこと。ほぼ毎年、暮れに沼津にお越しになって新年を迎えられ、春になると東京へ御帰還という日程が繰り返されている。
 滞在中の生活など知る由もなかったが、今回分かったことの一つが「御運動」。桃郷や我入道、千本の松林や海岸に精力的にお出かけになる。貝拾い、クラゲ捕り、松露採り、凧揚げなどもされた。ご成長とともに徳倉山、鷲頭山、香貫山と行動範囲は広がる。
 七面山、土筆が原、雷山、大平越え、香貫山の十三本松などの地名が詳しく記されている。現在、沼津アルプスと呼ばれる山々だが、昭和天皇ほど何度も足を運ばれた方は珍しいと思われる。本邸の馬場で練習に励まれ、馬で重寺や黒瀬方面にもお出かけになった。
 また、牛臥山と海の景色など沼津滞在中は、しばしば水彩画を描かれたという。
 大正七年、御用邸前の浜で採集された緋色のエビが新種とされ、和名ショウジョウエビと命名されたこともあった。
 沼津の海、山、川が、昭和天皇の自然観を育んだ可能性は高い。十二歳の時には博物博士になりたいと希望されている。しかし、その願いは叶わなかった。大正十年、大正天皇の摂政となり、昭和の激動に巻き込まれていったからだ。昭和天皇にとって沼津は、まさに揺籃(ようらん)の庭であった。
 今回、「実録」が公になったことで昭和天皇と沼津との絆が想像以上に強く、興味深いものになった。昭和天皇に限らず、沼津御用邸に出入りしていた人々や、そのつながり、縁の場所を「御用邸文化」と、ひとくくりにすれば、非常に多彩で歴史的にも価値のある「沼津の宝物」となる。
 敗戦後の一九四六年に「人間宣言」された後、昭和天皇は全国を巡行された。沼津巡行の際に「沼津は小さい時から馴染みの地だが、こんなに焼けては感慨無量だ」と述べられたという(沼津広報沼津市史)。

 平和憲法の下で象徴天皇となられてからは、公務の傍ら、ヒドロ虫類やウミウシ、貝類の研究で業績を挙げられた。「博物博士」という少年時代の夢は、平和な時代になって叶えられた。
 その平和憲法も、戦後七十年にして揺らいでいる。開戦を回避しようとされた昭和天皇なら、どうお考えになるだろう。

 昭和天皇のほかには、沼津に縁の人物で国家の存亡に関わった例はない、と思っていた。ところが、高尾山古墳が「日本国家誕生時の重要遺跡」で、「卑弥呼のライバルというべき東国の王の墳丘」の可能性が出てきた。日本考古学協会会長による、保存を求める異例の声明も出された。
 西暦二一二〇年頃に築造され、被葬者は二五〇年頃に埋葬されたという。三世紀前半と二〇世紀に日本の国の歴史に深く関わる人物が、沼津という風土の中で生活していた。予想を超えた歴史の展開は実に面白い。
 高尾山古墳の価値は今後の研究で、さらに高まるだろう。道路建設のために破壊するなど断じて許されるものではない。昭和天皇没後二十五年経って刊行された「実録」から新たな事実が分かり、市民にとっての御用邸文化の価値も大いに高まったのだから。
 歴史とは、そういうものらしい。(大岡)
【沼朝平成27年8月8日(土)投稿記事】

2015年3月12日木曜日

ポスター「富士国立公園遊覧地帯観光案内鳥瞰図」佐々木古桜画伯作

昭和10年沼津観光汽船株式会社(昭和10年~14年存在)の遊覧船案内ポスター
当時沼津に滞在中の京都の画家「佐々木古桜」の作品。
















↓その当時(昭和10年)の御成橋下の船着き場。