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2020年1月2日木曜日

三枚橋城主中村一栄関係の書状 静岡市が発見して購入 沼津の郷土史にも重要な価値(沼朝元旦号)


三枚橋城主中村一栄関係の書状
 文面知られていたが現存明らかに
 戦国時代の沼津市域については研究の進展や新たな発見が続いている。一昨年には武田氏による興国寺城防備に関する古文書の「天神瓦御門」という語釈が「天神尾御門」に改められ、意味の通る文章となった。さらに昨年10月、静岡市は三枚橋城主中村一栄(なかむら・かずひで)に関する古文書の原本が確認されたと発表した。
 静岡市が発見して購入
 沼津の郷土史にも重要な価値

 1579年に武田勝頼によって現在の沼津市大手町の地に築かれた三枚一橋城は、天下統一の過程に合わせて城の主も相次いで変わった。
 武田氏滅亡後は徳川氏の支配下に入り、家康家臣の松井忠次(松平康親)が城代として三枚橋城に入った。その後、豊臣秀吉の天下統一による徳川氏の関東移封に合わせて駿河国の主が秀吉家臣の中村一氏(なかむら・かずうじ)になると、一氏は弟の一栄(氏次)を三枚橋城主とした。関ヶ原の合戦で徳川氏が国政の主導権を握ると、中村氏は伯耆国米子(鳥取県米子市)に移り、家康家臣の大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)が三枚橋城主となり、忠佐の死によって同城は廃城となった。
 中村一氏は早い時期から秀吉に仕えた武将で、1584年に初めて城主となって岸和田城(大阪府岸和田市)に入り、秀吉の甥、秀次の側近となった。1590年の秀吉による北条征伐では、秀次軍の一翼を担い、山中城(三島市)の攻防戦で活躍した。この手柄が評価され、同年中に駿河一国を与えられて府中城(現在の駿府城)の城主となった。
 一氏は駿河国内の諸城に一族や重臣を配置し、三枚橋城には弟の一栄、興国寺城には河毛重次、田中城(藤枝市)に横田村詮(よこた・むらあきら)を派遣した。横田は田中城の領域だけでなく、駿河全体の行政も担当した。
 1600年、豊臣政権内の対立が激化し、一触即発の状態となった。一氏は関東を本拠とする家康に対する抑えの役割を期待されて駿河を与えられていたが、このころになると家康を支持するようになっていた。自身が病床にあり、さらに嫡男の忠一(ただかず)が幼少であるため、家康を頼ることで中村氏の安泰を図ったという。
 石田三成の盟友の大名上杉景勝を討伐する名目で家康が会津(福島県)に向けて軍を進めると、一氏は病身の自分の代理として一栄を援軍に派遣した。そして、間もなく病没した。
 この時、小山(栃木県小山市)に駐留していた家康は、一氏死去の報を受けると、一栄に書状を出した。その内容は、駿河国と中村軍の管理を一栄と横田村詮に任せるというものだった(*)
 この書状は、江戸時代後期に書かれた郷土資料集『駿国雑志』に文面が転載されているが、その実物が現存していることは知られていなかった。昨年夏、静岡市が東京の古書店で書状が売り出されているのを確認し、約130万円で購入した。同市は歴史文化施設開館の準備として展示史料の収集をしており、その一環だという。
 実物の発見により、駿国雑志の転載では未記載だった書状差し出しの日付が判明した。転載された文面では7月としか記載されていなかったが、書状の実物には727日の日付の記載があった。宛て名でも、転載の文面では一栄の名が「彦右衛門」となっていたが、書状には「彦左衛門」と書かれていた。
 今回の発見は、沼津の郷土史においても重要な価値がある。三枚橋城の城主だった一栄には、現存する関係又書が少ないからだ。
 市歴史民俗資料館の鈴木裕篤さんは「今回の発見を通して、これまであまり知られてこなかった一栄に光が当たるようになれば」と話している。
 (*)原文は「就式部少輔死去、其国諸仕置等、並軍法以下之儀、式部少輔如被申付、無沙汰有間敷候。恐々謹言。七月廿七日家康 花押 中村彦左衛門尉殿 横田内膳正殿」
 書状本又の現代語訳は「式部少輔の死去につき、その領国の処置や軍の管理は、式部少輔が申し付けたように行い、おろそかにしないようにしなさい」
 文中の式部少輔は中村一氏、中村彦左衛門尉は一栄、横田内膳正は横田村詮。難村彦左衛門尉殿 横田内膳正殿。

 関ヶ原後の中村氏はー
 米子移封も嫡子なく改易
 家康から書状を与えられた中村一栄は、病没した兄に代わって中村氏の軍勢を率い、関ヶ原の合戦に東軍として参加した。ただ、彼は関ヶ原の本戦ではなく、前哨戦の杭瀬川の戦いで歴史に名を残した。
 当初、西軍は関ヶ原の東にある大垣城(岐阜県大垣市)に集結して徳川家康率いる東軍を待ち構えた。

 これに対して家康は城の向かいにある岡山に本陣を置いた。それまで家康は自分の居場所を知られないように静かに行軍していたため、家康の突然の出現は大垣城の西軍を大いに驚かせた。
 この時、西軍主将である石田三成の部下に島左近(しま・さこん)の名で知られる武将がいた。左近は西軍の動揺を鎮めるために、西軍の強さを見せつける小競り合いをやるべきだと提案した。
 そして、左近はわずか500の兵を率い、両軍の間にある杭瀬川を渡って東軍の前に現れ、挑発した。これを見た一栄は中村隊を出撃させて左近隊を攻撃した。戦いが始まると左近隊は退却を始めたので中村隊は追撃したが、これは左近の計略だった。
 わざと負けたふりをして逃げる左近隊を追いかけた中村隊は、西軍の待ち伏せを受けて大敗した。指揮官の野一色助義(のいっしき・すけよし)など、身分の高い武士だけでも30余人が戦死したという。

 この様子を見て東酉両軍が援軍を出し合って戦いが拡大したが、形勢不利を感じた家康は東軍に退却を命じ、杭瀬川の戦いは西軍の勝利に終わった。
 その翌日、大垣城攻略は困難と感じた家康は、城を無視して西に向かい、西軍も城から出て西へ向かった。両軍は関ヶ原で激しく戦い、家康率いる東軍の勝利となった。この本戦では、中村隊は東軍後方の防備を担当しており、中村隊が活躍することはなかった。杭瀬川の戦いで中村隊を破った島左近は、石田三成の西軍本陣を守って激戦の末に戦死している。
 なぜ、中村一栄は島左近の挑発に乗ったのか。 この背景には、当時の中村氏が置かれた微妙な立場があるのかもしれない。
 一栄の兄の一氏は豊臣秀次の側近として活躍したが、秀次は豊臣政権内で失脚し、自殺に追い込まれている。このため、一氏は政権内で後ろ盾を失っていた。
 さらに徳川に対しても、駿河を領地とした中村氏は関東の徳川氏の見張り役という立場であったため、徳川側から見たら潜在的な敵であった。
 こうした不安定な立場から脱却して親徳川の姿勢を鮮明にするため、中村隊は東軍の一角として積極的に戦う姿を家康に見せようとした可能性がある。
 戦後、中村氏は伯耆国米子に転封となり、石高は駿河時代の145000石から3万石の加増となった。この米子藩では藩主の忠一が幼少であったため、横田村詮が後見役として政務を担当した。一栄は重臣として現在の鳥取県琴浦町にあった八橋(やばせ)城の城主となった。
 しかし、やがて忠一は横田を邪魔者扱いするようになり、1603年には忠一が横田を自ら殺害する事件が起きている。これにより藩内は横田派と反横田派による内乱状態になり、忠一は隣藩の助けを得て鎮圧した。
 横田家では、剣豪として知られる柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の兄宗章(むねあき)を客分として招いていた。宗章は横田派のために奮戦の末、討ち死にしている。
 横田騒動の翌年、一栄死去。騒動で一栄が活動した記録はないため、すでに一栄は病床にあったと見られる。
 忠一は1609年に20歳で病死し、跡継ぎがなかったため、米子藩は改易された。
 この4年後、沼津でも三枚橋城主の大久保忠佐が跡継ぎのないまま死去し、沼津藩が改易となっている。
 ◇
 一栄には息子の栄忠(家嗣)がいた。栄忠を忠一の跡継ぎにして大名としての中村氏の再興を求める動きもあったが、改易後の米子城の明け渡しの際に資産を隠した疑いで栄忠は追放処分となってしまい、中村氏再興の望みは絶たれた。
 その後、栄忠は倉吉(鳥取県倉吉市)に移った後、駿河の清見寺で僧侶となっている。
 栄忠は八橋の体玄寺に父一栄の墓を建て、倉吉では一栄の菩提寺として大岳院を建立した。
 一氏・一栄の兄弟には、右近(重友)という弟がいたとされ、右近を歌舞伎の中村家の先祖とする説がある。
 (参考文献 笠谷和比古『戦争の日本史17関ヶ原合戦と大坂の陣』、『沼津市史』、中村忠文『中村一氏・忠一伝』)
【沼朝2020(令和2)11(水曜日)

2019年1月12日土曜日

歴民講座「江戸時代初期の徳川権力との沼津」講師:歴史学者 柴裕之





当日配布資料↓


室町から江戸初期の沼津の変遷
歴史学者の柴裕之氏が解説

 市歴史民俗資料館による郷土史講座「歴民講座」が先月、市立図書館視聴覚ホールで開かれた。歴史学者で徳川家臣団の研究が専門の柴裕之氏が「江戸時代初期の徳川権力と沼津」と題して話した。これまでのおさらいはじめに柴氏は、これまでの歴民講座で柴氏や平山優氏(武田氏研究の専門家)によって解説された戦国時代前後の沼津について触れた。
 室町時代の沼津は、室町幕府と鎌倉府の勢力圏の境界に位置した。鎌倉府は東北地方や関東地方を管轄するために設けられた役所で、足利氏の一族がトップとして派遣されていたが、京都の幕府と対立関係にあった。戦国時代になると、今川、武田、北条という有力大名の勢力圏の境目となった。さらに沼津を含む駿東郡には国衆の葛山氏がいた。
 国衆はミニ大名のような存在で、他の大名に従属することもあった。葛山氏は、はじめは今川氏に従い、武田氏が駿河に侵攻すると、武田氏に従うようになった。
 しかし、葛山氏は北条氏ともつながりを持つており、北条氏と対立した武田信玄は、駿東郡の安定確保のために息子を養子に出して葛山氏の当主にし、元の当主を死に追いやった。そして、葛山領は武田領に組み込まれ、興国寺城が駿東郡や富士郡の行政の中心地となった。
 信玄の死後、武田軍を率いた勝頼は、北条氏への備えとして三枚橋城を築いた。
 武田氏が滅亡すると、駿河は徳川領となった。家康は北条領との境目となる沼津の地を重視し、松井忠次を派遣。忠次は三枚橋城を本拠とし、駿東郡と富士郡の軍事と行政を管轄した。
 さらに家康は、軍事面で忠次を支援させるため、松平清宗を興国寺城に、牧野康成を長久保城(長泉町)に配置した。
 北条氏が滅亡すると、豊臣政権で関東・東北問題を担当していた家康が関東に移り、駿河には豊臣系の武将である中村一氏が入った。一氏は弟の氏次を三枚橋城に派遣した。豊臣秀吉にとって一氏は東の徳川への備えと見なされ、その一氏は氏次を東の備えとしていた。
 秀吉の死後、秀吉の妹の夫であった家康は、豊臣家の親族として政治の中枢を担った。これへの反発から関ヶ原の戦いが起き、戦いに勝利した家康は、現在の福島県南部から近畿地方に及ぶ広大な範囲を領地とする大名になった。
 さらに幕府を開いて公的に国政を握ることになった家康は、国政運営は自分が担当し、関東の領地管理は息子の秀忠に任せるという分担方式を採用した。
 この分担によって、京都の伏見城を中心とする家康の勢力圏と、江戸城を中心とする秀忠の勢力圏の二つが誕生し、沼津は、その境目となった。この結果、興国寺城には家康側近の天野康景が配置されて大名となり、三枚橋城には秀忠側近の大久保忠隣の叔父である大久保忠佐が入って大名となった。
 一六〇七年に天野康景の興国寺藩が取りつぶしとなると、その領地は家康のものとなった。家康は十男の頼官(よりのぶ)を駿府藩主にし、旧興国寺領は駿府藩に編入された。
 一六一三年に大久保忠佐が跡継ぎのいないまま死去し、さらに直後に甥の忠隣が政変で失脚すると、沼津城は破壊され、周辺領地は駿府藩に編入された。
 新旧駿府藩 頼宣の駿府藩が誕生した時、頼宣は幼く、また家康が伏見城から駿府城に転居したため、頼宣が藩政に携わることはなかった。
 家康は、頼宣の駿府藩を、九男義直の尾張藩と合わせて、江戸を守る西の抑えと見なしていた。
 しかし、家康が死去して秀忠が実権を握ると、秀忠は近畿地方の警備のため、一六一九年に頼宣を紀伊(和歌山県)に移す。駿府藩領は幕府直轄地となり、代官が派遣された。
 そして一六二五年、江戸の西の守りを考えていた秀忠は、自身の三男、忠長を駿府藩主とした。忠長は五十五万石の大名となり、大納言の位を与えられた。後に御三家と呼ばれる尾張藩主義直や紀伊藩主頼宣に匹敵する待遇だった。
 しかし、忠長は痴蹟(かんしゃく)を起こして周囲の人を殺すなどの異常行動を繰り返しており、身柄を甲府に移され幽閉された。
 忠長の不在によって駿府藩は機能不全に陥ったことから、江戸の防備のために稲葉正勝が小田原城に入り、小田原藩が置かれた。正勝は、三代将軍家光の側近。
 忠長の行状に激怒する秀忠に対し、兄の家光は同情的で、忠長の行状回復を望んでいた。忠長の甲府移送後も駿府藩は存続していたが、行状は回復しなかったため、一六三二年、忠長は高崎(群馬県高崎市)に移され、駿府藩も改易となった。
 その翌年、家光が跡継ぎのないまま病気になると、忠長の存在による政治的混乱を防止するため、忠長は自害に追い込まれている
 忠長の駿府藩の改易後、沼津近辺の土地は幕府領や小田原藩領旗本領などとなった。
 終わりに室町時代から江戸時代初期までの沼津の支配者の変遷を解説した柴氏は、当初は関東から西を守るための防備の地であった沼津が、江戸時代以降は西から関東を守るための防備の地になったと総括した。
 さらに頼宣の駿府藩以降は、駿河国全体が江戸を守る西の境となり、沼津はそれ以前の自立した性質を持つ地から、駿河の一部を構成する地へと変容していったと指摘した。
【沼朝平成31年2月17日(日)号】

2017年1月14日土曜日

平成28年度歴民講座「徳川家康の沼津支配」

平成29年1月14日(土)
歴民講座
「徳川家康の沼津支配」

ー興国寺城将松平清宗を通じてー



当日配布資料





徳川家康の沼津支配を見る
 興国寺守った松平清宗を通じて
 市歴史民俗資料館(歴民)は先月、歴民講座を市立図書館四階の視聴覚ホールで開き、歴史学省の芝裕之氏が「徳川家康の沼津支配-興国寺城将松平清宗を通じてー」と題して話した。百四十七人が聴講した。
 三枚橋城と役割分担
 河東二郡の警備を担当か
 芝氏は徳川家康の家臣団に関する研究を行っている。昨年度の歴民講座でも講師を務め、戦国時代末期に三枚橋城代を務めた松井忠次について解説している。
 今回の講演は前回と対になるもので、松井忠次と同時期に興国寺城に駐在した松平清宗の生涯を明らかにするとともに、現在の沼津市域に存在する二つの城に配置された二人の武将の役割の違いについて話した。
 沼津の城東海道経由で関東地方への入り口となる沼津の地は、政治的軍事的に重要な拠点と見なされ、戦国大名による争奪の対象となった。当時、沼津を含む駿東郡は富士郡と合わせて「河東(かとう)二郡」と呼ばれて一つの地域と見なされていた。
 戦国時代後期に河東二郡を制圧した武田氏は、興国寺城を河東の行政中心地として定め、武田信玄の側近も務めた曽根昌世(そね・まさただ)を担当者に任命した。
 天正十年(一五八二)、武田氏が滅亡すると、河東二郡は徳川氏の支配下に入った。徳川家康は三枚橋城を行政の中心地とし、国境防備のベテランであった松井忠次を関東の北条氏への備えとして同城に配置した。
 松平清宗 この時、興国寺城に派遣されたのが松平清宗(一五三八~一六〇五)だった。
 清宗は竹谷(たけのや)松平家の出身で、同家は家康の実家である松平一族の分家筋に当たる。
 清宗は家康の部下として戦い続けて手柄を立てている。息子は家康から名前の一文字をもらい、家清」と名乗ることを許されたうえ、家康の異父妹を要とした。
 武田氏滅亡直後、河東二郡は、武田時代から興国寺城にいる曽根昌世と、新たに勢力を拡大した家康によって二分された。このため、曽根の興国寺城と、家康によって送り込まれた松井忠次の三枚橋城という二つの中心拠点が河東二郡に並立することになったが、曽根は間もなく亡命してしまったため、興国寺城が空くことになってしまった。この空き城に清宗が派遣されることになった。
 清宗の仕事 当時の清宗が発行した命令書など三通の書状が現在も残されている。それらによると、清宗は現在の原地区周辺に漂着した不審船の捜査を担当したことが分かっている。
 このことから、湾宗は興国寺城に駐留する武士達を指揮して河東二郡の警備を担当していたと考えられている。
 一方で、同時期に三枚橋城にいた松井忠次は、税金徴収などの行政事務を担当していたことを示す史料が残っているため、清宗は河東二郡を治める忠次を軍事面で補佐する役割を果たしていたと見られている。
 清宗の子孫 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、家康は東海地方から関東地方に移された。この時、清宗も武蔵国八幡山(埼玉県本庄市)に移り、一万石の領地を認められた。清宗は生前に当主を引退して息子の家清が後継となり、家清は関ヶ原の合戦後に三河国吉田(愛知県豊橋市)で三万石の大名となった。
 しかし、家清は五年前に死去した父に続いて慶長十五年(一六一〇)に四十五歳で急死。息子の忠清が後を継いだが、忠清も二年後に二十八歳で急死してしまった。これにより大名としての竹谷松平家は断絶してしまったが、忠清の弟の清昌が後に幕府旗本となり、旗本としての竹谷松平家は幕末まで続いたという。
【沼朝平成29年2月5日(日)号】

2016年6月5日日曜日

三枚橋城と4人の武将:沼朝記事

 三枚橋城と4人の武将
城の歴史と武将の生涯に迫る
NPO法人海風47による郷土学習講座「沼津あれこれ塾」の第12回が先月、市立図書館講座室で開かれた。市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城主列伝」と題し、現在の大手町にあった三枚橋城の歴史と、城を治めた四人の武将の生涯について話した。
城誕生と上杉謙信 三枚橋城は、戦国時代末期の天正七年(一五七九)に武田信玄の子の武田勝頼によって築かれた。それまで城のなかった地に新たに城が築かれた背景には、上杉謙信の死が大きく関わっているという。
天正六年(一五七八)三月、越後(新潟県)の上杉謙信が病死すると、景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)という二人の養子による跡目争いが発生した。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの争いには、武田氏と小田原の戦国大名北条氏が介入し激しく対立。
争いは武田氏が支援した景勝派の勝利に終わったが、それまで同盟関係にあった武田氏と北条氏の仲は破綻し、一転して緊張関係となった。
当時、駿東地方では、黄瀬川を境界として武田領と北条領が隣り合っていた。勝頼は北条側への備えとして国境近くの地に三枚橋城を築いた。当時の常識では、国境近くに城を築くことは敵対宣言と見なされていたことから、武田氏と北条氏は戦闘状態に入った。北条氏は三枚橋城に対抗するため、現在の内浦地区に長浜城を築いた。
①春日信達 完成した三枚橋城の指揮官に選ばれたのが春日信達だった。高坂源五郎という別名でも知られる信達は、信玄家臣の名将として知られる高坂昌信の子で、兄の昌澄が長篠の合戦で戦死したため、後を継いでいた。
春日氏(高坂氏)の一族は、川中島の戦い以来の宿敵である越後の上杉氏への備えとして信濃(長野県)北部の海津城(長野市)を守っていた。しかし、御館の乱で武田氏が支援した景勝が当主となり両者は和解。信達は新たな敵となった北条氏への備えとして三枚橋城に派遣された。
駿東地方における武田と北条の戦いは、北条側の戸倉城(清水町徳倉)が城ごと武田側に寝返るなど、武田側の優勢で推移していたが、天正十年(一五八二)二月に織田信長が武田氏への攻撃を開始すると、状況は一変する。
信達は三枚橋城を放棄して甲府の勝頼のもとへ向かうが、疑われて合流を拒否されたため、かつての本拠地だった海津城へと退去した。勝頼が自害して武田氏が滅亡すると、旧武田領は織田氏や徳川氏によって分割され、海津城周辺の地は織田家臣の森長可(もり・ながよし)の領地となった。
信達は長可の家臣となるが、ここで再び状況が一変する。数カ月後の同年六月に本能寺の変が起きて織田信長が急死すると、旧武田領の織田氏の勢力は後ろ盾を失って大混乱となった。長可も本拠地の美濃(岐阜県)への避難を決意し、信達のような旧武田氏系勢力による報復を恐れて人質を取りながら美濃へと回かった。この時、信達など春日一族や他の旧武田家臣らは一斉に立ち上がって長可の帰国を妨害し、長可は戦いながら帰国を果たして人質を処刑した。信達の子は、この時に殺されている。
織田氏の勢力が信濃から消滅すると、北から上杉氏、東から北条氏が侵攻を始めた。信達は上杉氏の家臣となるが、上杉と北条との戦いの際に、北条側にいた真田昌幸の弟信尹(のぶただ)の誘いを受けて北条に寝返ろうとした。しかし、この企みは失敗し、信達は処刑された。
この信達の晩年の日々は、二月二十八日に放映されたNHKの大河ドラマ「真田丸」の第八回で大きく取り上げられている。
後に森長可の弟の忠政は信濃に領地を持つ大名となった。忠政は信濃に移ると、かつて兄を妨害した春日一族への報復を行い、一族を皆殺しにしたという。
②松井忠次 武田氏が滅亡すると駿河は徳川氏の領土となった。徳川家康は四男の松平忠吉を三枚橋城主に任命した。
しかし、当時の忠吉は一歳児であったため、後見人の松井忠次が忠吉の領地である河東二郡(富士川の東にある富士郡と駿東郡)を代理として治め三枚橋城を守った。
忠次は三枚橋城に入ってから一年余りで死去し、子の康重が後を継いだ。忠次の墓は市内の乗運寺にある。
松井氏は家康実家の名字である松平氏を名乗ることを許されたため、子は松平康重の名で知られる。豊臣秀吉による北条攻めでは、康重は豊臣軍に参加した徳川軍の先鋒を務めて箱根の間道を進んで小田原に向かった。
その後、北条氏が滅びて徳川氏が旧北条領の関東地方に移ると、康重も三枚橋城から武蔵騎西城(埼玉県加須市)に移された。江戸幕府成立後も康重は領地が移り、篠山(兵庫県篠山市)や岸和田(大阪府岸和田市)の藩主となった。このため、松井系松平氏の墓所は各地にあるという。
③中村一栄北条氏が滅亡して徳川氏が関東に移ると、駿河は秀吉家臣の中村一氏の領地となった。一氏は北条攻めの際に山中城の戦いで活躍している。
駿府(静岡市)を本拠とした一氏は、弟の一栄(かずひで)を三枚橋城主とした。
一栄は、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川(くいぜがわ)の戦いで負けた武将として知られている。
慶長五年(一六〇〇)、一氏は東軍に参加することを決めるが、病気のため軍勢を率いることができず、代わりに一栄を派遣した。
江戸を出発して美濃にたどりついた東軍は西軍とにらみ合いとなった。この時、西軍の中心人物だった石田三成に島左近(しま・さごん)という重臣がいて、左近は東軍を誘い出して待ち伏せ攻撃を行うことにした。これに誘い出されたのが一栄の部隊で、待ち伏せを受けて大敗。
しかし、翌日の関ヶ原の戦いでは東軍が勝利したため、東軍に参加した中村氏は領地を増やされて米子(鳥取県米子市)に移った。当主の一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去したため、子の一忠が後を継いだ。一忠は叔父の一栄を八橋(やばせ)城(鳥取県琴浦町)の城主とした。一栄は幼い一忠を補佐したが、まもなく死去した。
その後、大名としての中村氏は、一忠が跡継ぎを残さず早世したため、改易されている。
④大久保忠佐 中村氏が米子に移ると、家康家臣の大久保忠佐が三枚橋城主となり、沼津藩主となった。
忠佐は勇猛果敢な武将で、元亀元年(一五七〇)の姉川の戦いや、天正三年(一五七五)の長篠の戦いで活躍。姉川では松井忠次や、忠佐と同時期に興国寺城主だった天野康景も揃って活躍してる。長篠では、兄の忠世と共に鉄砲隊を指揮し、その戦いぶりは織田信長に高く評価された。
慶長六年(一六〇一)に沼津へやってきた忠佐は、政治家としても手腕を発揮し、牧堰を建設して水不足に苦しむ大岡地区一帯に農業用水を供給した。
忠佐は慶長十八年二六一三)に七十七歳で死去し、子の忠兼(ただかね)は先に死んでいたため跡継ぎがなく、大久保氏の沼津藩は改易された。市内の妙伝寺に墓があるほか、一小校庭の一角には忠佐を祭る道喜塚が建っている。
忠兼の墓は現在確認されていないが、市内の寺に葬られたという記録があることから、今後、市内で発見される可能性もあるという。
その後の三枚橋城主を失った三枚橋城は、慶長十九年(一六一四)に破壊された。この直前、忠佐の兄の子の小田原藩主大久保思隣(ただちか)が幕府内の権力争いに敗れて失脚していることから、「大久保一族への制裁の一環として三枚橋城も破壊されたのだろう」と鈴木館長は指摘する。
三枚橋城からは、歴史上の有名人も登場している。江戸時代初期のシャム(タイ)で軍人や政治家として活躍した山田長政は、大久保忠佐の六尺(駕籠を担ぐ係)をして
いたという記録が残されていて、沼津藩改易による失職が海外雄飛のきっかけとなったと考えられている。
おわりに 三枚橋城の歴史と四人の武将の生涯を解説した鈴木館長は、同城の特徴として、①国境の城であり最前線を守るために武闘派の要人が配置された、②城内に
町屋を取り込むなど城下町を持つ近世的な城の性格を持っていたが、軍事的な役割の城と見なされて行政の中心地として長続きできなかった、などの点を指摘した。
そして、「後に三枚橋城の跡地には沼津城が築かれたが、新たな藩主となった水野氏は、ほとんど江戸にいて沼津には不在だった。それに対して三枚橋城は城主が長らく住んだ城で、沼津の地と城主が身近だった時代の城。もっと市民に知ってもらい、顕彰の機会が増えていけば」と話して講演を終えた。
(沼朝平成28年6月5日号記事)