昭和20年7月17日空襲で焼失前の本光寺本堂↑
日蓮聖人と薬王山本光寺のご縁
文永11年(1274)五月十二日、佐渡流罪を赦免された、日蓮(五十三歳)、鎌倉を出、同十二日相模酒匂、十三日駿河竹之下、十四日車返、十五日大宮、十六日甲斐南部、十七日身延着。この折、十四日車返(法華道場)に泊。
建治二年(1276)、徳永山 光長寺草創(日春聖人、栃木佐野領主の家柄で、氏名徳永光長:天台宗時代、空存)(日法聖人と同時開基)
弘安五年(1282)10月二十三日、日蓮聖人尊骨身延納骨の折、車返(法華道場)に泊。
この(法華道場)が薬王山本光寺となる。
永和元年(1375)、光長寺西之房より日性上人(三枚橋城主、景山左京享基廣の三男)入寺。
天文十四年(1445)8月、武田信玄に寺焼かれる。
元亀元年(1570)8月、武田勝頼、三枚橋城改築普請。
この時、車返(三枚橋)から八幡町に移転再興される。
市の要請により、昭和24・25年(1949・1950)、八幡町から千本に移転する。
本光寺のはじまりは、日枝神社(平町)さんのあたり、「車返」にあった天台宗の法華道場です。日枝神社の社頭で日蓮聖人が御説法をしていて、そのお姿に教化された四軒(勝地・関・斎藤・井田)の方たちの子孫が、大本山光長寺さん(岡宮}から聖人の孫弟子を住職に呼んで、「車返」にあった道場を改めて薬王山本光寺としました。山号は目蓮聖人のご幼名、「薬王丸」です。「車返」というのは沼津の古地名です。蓮光寺さん(三芳町)の周辺ですが、諸説あり正確な場所はわかりません。京都鎌倉を往還する牛車が、急坂を登れずにそこで返ったから「車返」といい、交通の要衝だったとか。
それが武田信玄公に焼かれて、その後戦国末期から江戸期に沼津城(三枚橋城)が築城される時に外砦にするために八幡町に集められました。