2024年12月16日月曜日

241216懐かしの蛇松線・沼津港線as

 荘厳な言葉「南無阿弥陀仏」 【静新令和6年12月16日(月)朝刊「文化」】

 

 荘厳な言葉「南無阿弥陀仏」



 日本文化は仏教文化によって、さまざまな深まりを見せた。特に禅の思想は、武道や茶道等に色濃く継承され、海外でも「ZEN」の人気は高い。

 一方、浄土系仏教は、文化としての発展形が少ないとされるものの、実は、社会の中では随分と定着しており、日本人に生まれて「南無阿弥陀仏」という言葉を聞いたことがない人はおそらくいないと思われる。平安時代の「空也」に始まり、鎌倉時代には「法然」が、市井の民に念仏を広げた。

 浄土系仏教の面白いところは、とにもかくにもこの「南無阿弥陀仏」のワンフレーズが、日常の中でエンドレスにリフレインするように仕掛けられているところにある。 実は、気軽に口ずさんでしまう「南撫阿弥陀仏」とは、驚くばかりの壮大な世界観を示している。サンスクリツト語の「アミターユス・アミタレバ」に由来し、人間が想像すらできない永遠に続く命と、太陽の輝きなど比ではない尽きることのない光明を意味している。ありがたくもそこが、すべての人間の本住の地であるとする。日々の苦悩も不安も恐怖も(そのすべてを燦然(さんぜん)と輝く大光明に託す、といった世界観だろうか。

 日本は古来より言霊(ことだま)の国で,ある。しかし、法然が生きた平安末期から鎌倉時代とは、戦闘に明け暮れる武士の世で、衆生の言葉も大いに乱れたことであろう。そんな折、この上なく荘厳な輝ける言葉「南無阿弥陀仏」を、日常生活の中で、歌うように終日口ずさむことの奨励は、雷霊信仰を持つ日本人には、行じやすい教えであったに違いない。

 念仏は広く庶民に漫透し、やがて笛や太鼓を伴い、踊り念仏や盆踊りとして人々の暮らしに溶け込んだ。

 白本は無宗教ではなく、信仰が満ち満ちる国である。数多(あまた)の聖者賢者の感得した悟りの世界を、生活文化の中に落とし込んだ、大変奥深い文化なのである。

 (文と絵馬森谷' 明子=日本画家、瀞岡市在住)

【静新令和61216日(月)朝刊「文化」】


2024年11月27日水曜日

長崎屋沼津店(沼津市大手町3-9-1)、1963年(昭和38年)10月15日開店。

 




長崎屋沼津店(沼津市大手町3-9-1)、1963年(昭和38年)1015日開店。(平成14年)1月閉店店舗面積2,805m2 2,970m2 3,214m2。沼津駅前の中心市街地に出店していた。


2024年9月26日木曜日

西伊豆の郡と村  明治十二年(一八七九)

 


 ▲明治14年に発行された郷土読本

 西伊豆の郡と村

 明治十二年(一八七九)三月、郡制が施行され、郡に郡役所がおかれ、郡会議員が選出されるようになった。

伊豆は田方郡、君沢郡、那賀郡、賀茂郡の四郡に分かれ、現在の西伊豆五町村は次のような村名でそれぞれ次のような郡に所属していた。

(君沢郡)

井田村、戸田村 (以上現戸田村)

小土肥村、八木沢村、小下田村、 (以上現土肥町)

(那賀郡)

宇久須村、安良里村 (以上現賀茂村)

田子村、浜村、中村、一色村、大沢里村 (以上現西伊豆町)

江奈村、桜田村、建久寺村、吉田村、中村、船田村、門野村、峯輪村、大沢村、池代村 (以上現松崎町)

(加茂郡)

明伏村、小杉原村、南郷村、宮内村、伏倉村、松崎村、岩科村、道部村、岩地村、石部村、雲見村 (以上現松崎町)

なお、郡役所の所在地は、田方郡と君沢郡は三島、那賀郡は松崎、賀茂郡は下田であった。


240925お伊勢参りas

2024年7月30日火曜日

日蓮聖人と薬王山本光寺のご縁 と簡単な歴史

 


昭和20年7月17日空襲で焼失前の本光寺本堂↑


日蓮聖人と薬王山本光寺のご縁

文永11年(1274)五月十二日、佐渡流罪を赦免された、日蓮(五十三歳)、鎌倉を出、同十二日相模酒匂、十三日駿河竹之下、十四日車返、十五日大宮、十六日甲斐南部、十七日身延着。この折、十四日車返(法華道場)に泊。

建治二年(1276)、徳永山 光長寺草創(日春聖人、栃木佐野領主の家柄で、氏名徳永光長:天台宗時代、空存)(日法聖人と同時開基)

弘安五年(1282)10月二十三日、日蓮聖人尊骨身延納骨の折、車返(法華道場)に泊。

この(法華道場)が薬王山本光寺となる。

永和元年(1375)、光長寺西之房より日性上人(三枚橋城主、景山左京享基廣の三男)入寺。

天文十四年(1445)8月、武田信玄に寺焼かれる。

元亀元年(1570)8月、武田勝頼、三枚橋城改築普請。

この時、車返(三枚橋)から八幡町に移転再興される。

市の要請により、昭和24・25年(1949・1950)、八幡町から千本に移転する。

 

本光寺のはじまりは、日枝神社(平町)さんのあたり、「車返」にあった天台宗の法華道場です。日枝神社の社頭で日蓮聖人が御説法をしていて、そのお姿に教化された四軒(勝地・関・斎藤・井田)の方たちの子孫が、大本山光長寺さん(岡宮}から聖人の孫弟子を住職に呼んで、「車返」にあった道場を改めて薬王山本光寺としました。山号は目蓮聖人のご幼名、「薬王丸」です。「車返」というのは沼津の古地名です。蓮光寺さん(三芳町)の周辺ですが、諸説あり正確な場所はわかりません。京都鎌倉を往還する牛車が、急坂を登れずにそこで返ったから「車返」といい、交通の要衝だったとか。

  それが武田信玄公に焼かれて、その後戦国末期から江戸期に沼津城(三枚橋城)が築城される時に外砦にするために八幡町に集められました。


2024年5月1日水曜日

覚えていますか? 昭和 平凡パンチ アービーの男子が街に溢れていた時代

 



水野忠恒(ただつね)狂気 (信濃松本藩第6代藩主)

 



水野隼人正忠恒 大廊にて俄に心くるい 水野隼人正忠恒狂気

享保十年(1725)〇七月廿八日、この日不慮の事出来しは、水野隼人正忠恒婚姻の事謝せんと登城し、ことはてて御前より退く時に、大廊にて俄に心くるい、佩刀をぬき、毛利主水師就(長門国萩城主毛利家の分家、同国清末領主)に手おわせたり。師就狂人と見しかば、いかにもしてをし捕らえんとせしに、忠恒ものもいわず、ただ切りかかりければ、やむことを得ず、師就差し添えの鞘ながら抜きあわせ、忠恒が刀もちし手をしたたかに打ち手、その佩刀を打ち落とす。かたわらより戸田右近将監氏房(美濃国畑村城主・隼人正の妻の弟)、いそぎ忠恒を押しとどめぬ。このとき目付長田三右衛門元郷も、柳の間のかたより走りより、押しへだてて後、双方の宿意をただされしに、忠恒申すは、我等身の修まらざる事ども世に聞こえ、こたび所領の地召し上げられ、師就に賜わるよし聞きて、憤りにたえず、かくはからいしなりと、あらぬ事となりければ、まったく狂気の致す所にまぎれなしとて、秋元伊賀守喬房にあづけらる。師就をばいたわりて、番医成田宗庵直寛、栗崎道有正羽をそえて家に帰さる。忠恒が宅には、太田備中守資晴(睦奥国棚倉城主・妻が水野忠恒の妻の姉)に大目付北条安房守氏英、目付三宅大学康敬をそえてつかわされ、家人等にそのむねつたえられ、邸宅をば収公せらる。また戸田右近将監氏房は姻党なるをもって、忠恒が家をまもるべしと仰せ下さる。)同月廿九日、酒井頼母忠衛、きのう水野隼人正忠恒狂気せし時、戸田右近将監氏房がとり押さえたるを見ながら、属吏等に事つたえ、とりしづめさせんとて其所をさり、ただちに奥の方にまいりて出ず。既に忠恒狂気せしさまを知らば、みづからおしとどむべきにさはなく、はた、その事のさまをもたださずありしは、職掌に似つかはしからぬ挙動なればとて士藉を削らる。忠恒が私邸は藤堂和泉守高敏にあづけらる。

◯同三十日、また、水野隼人正忠恒、酒井頼母忠衛が一族等御前をとどめらる。

 ●八月朔日、さきに水野隼人正忠恒が営中にて狂気せしこと、遠国にあやまり聞こえなば、驚愕するもの有るべしとて、国々にありさまを示さる。

◯同月廿七日、先に秋元伊賀守需房にあづけられし水野隼人正忠恒が所領信漫国松本城七万石を収公せらる。されど閥閲を思召さるるにより、もとの隼入正忠直が九子卯之助忠穀に、采邑七千石を賜わりてその家をつがせらる。毛利主水師就も疵平癒し、その宗家毛利長門守吉元よりも申旨あれば、忠恒をゆるされ、忠穀がもとに篭居せしむ。忠穀が兄宮内忠照、今まで忠恒より廩米二千俵をわかち置しを、あらためて采地となし、二千石下さる。

●九月六日、さきに収公せられし水野隼人正忠恒が濱町別邸の内を、水野惣兵衛忠穀、水野宮内忠照にわかちたまわる。

〔御家中興記〕 享保十巳 八月廿七日 水野卯之助 水野宮内 同氏隼人儀令乱心於

(「沼津略記」9293頁 沼津市立駿河図書館平成2331日発行)

 

 

水野忠恒 (大名)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水野 忠恒(みずの ただつね、元禄1486日〈170198日〉 - 元文4628日〈173982日〉)は江戸時代の大名。信濃松本藩第6代藩主。沼津藩水野家6代。

4代藩主水野忠周の次男。母は前田利明の娘。正室は戸田氏定の娘。官位は従五位下、隼人正。

生涯

江戸日本橋浜町邸で生まれた。幼名は為千代。嫡男ではなかったため後継者としての自覚も無く、日頃から酒色に耽って、みだりに弓矢を射たり鉄砲を撃つなどの奇行がたびたび見られたと伝わる。ところが、享保8年(1723年)に兄の水野忠幹が嗣子無きまま没したため、兄の遺言により松本藩主となった。藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せだったと伝わる。また、普段から気の短い性格であったともされている]

享保10年(1725年)、大垣藩主戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶り、721日に婚儀を行った。征夷大将軍徳川吉宗に婚儀報告をするため、同年728日に江戸城に登城して報告を済ませた。その城中にて、松の廊下ですれ違った長府藩世子の毛利師就に対して、唐突に斬りかかった。師就は鞘に入ったままの刀で応戦し、忠恒の刀を打ち落とした。忠恒は近くにいた大垣新田藩主の戸田氏房により取り押さえられ、目付の長田元鄰が反撃せんとする師就を押しとどめた。

忠恒は自身に不行跡が多く、家臣に人気が無いため、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけた、と供述したが、実際には幕府側にそのような転封予定の事実は無く、乱心したとされた忠恒はその罪で改易となり、川越藩の秋元喬房の下に預けられた後、叔父の水野忠穀の江戸浜町の屋敷に移されて蟄居させられ、そのまま同屋敷で没した。享年39

分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、同年827日、叔父の忠穀に信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)が与えられて家名は存続し、忠穀の嫡男忠友の代に大名に返り咲いている。また同時に、4代藩主水野忠周の弟忠照に対し、佐久郡2000石(根々井知行所)が与えられている。



2024年4月24日水曜日

完成近ずく アーケード  【沼津朝日新聞 昭和29年9月10日(金曜日) 巷の声】70年前のアーケード名店街への激励新聞記事

 



  完成近ずく アーケード

 沼津市の商店街に一威彩を副えようと目下建築中の本通りのアーケードは去る三月工を起して一部は六月一杯で完成する予定であつたが、設計を一部三階建としたりあるいは地主との協定が長引いたりした結果として、工事に種々な支障を来たして遂に予定の期間に竣工不可能となつて遅延を来たしてたが、愈々本月一杯を以て完成がほぼ確実視され名実共に沼津市商店街に、画期的な新構装になる防火と美観を兼ねた大建築の完成が間近かに迫つて、関係業者はこの落成を記念して一大売出しを敢行しようと目下種々構装を練つてるとのことである。

 沼津市は勿論のこと全国にも比類のない新容装の建築が完成するのであるから、関係者が落成を記念してあれこれと種々構装を練ることは当然であると共に、沼津市の新名所となつたとの意味は勿論商店街である以上永久永遠に、その名を一般に反映せしめ信用を高めることに相房しい催物の計画を要望するものである、催おしものは落成を祝賀すると共に客寄せの一端を担うものであるから、目先きの利益にのみ拘泥することなく名所となつた外形のみでなく、の内容に於ても沼津市の新名所たらんことを切望して己ない。

 あの構装は善美を尽したとも言えるほど学の粋を集めた堂々たる全く他の追随を許さないものがある、それほどに立派なものであるだけに関係者にとつては全く一生一代の大事業を成し遂げた誇りを持つことは勿論であるが、莫大な資本を投じた関係やゝもすれば眼前の小利に眼先きを誤まつて、信用を失墜させるような事のないよう協力することが望ましいのである、万一にも一人のものがそうした抜けがけの功名を争つて信用を傷つけんか、徒らに建築の外装だけが名所となつて客が素通りするが如きことあらんか、死活を制する重大問題となるばかりでなく引いでは沼津市全商店の名にかゝわるようなことになる。

 アーケード完成と共に行なわれる落成をかねた各種の催おしと共に、行う売出しは独り本通りだけの売り出しでなく沼津市全商店街を賭けての大売出しなのである、アーケードの名にかけても沼津市の名にかけても一大発奮が望ましい、勿論岡町は紳商を綱らしてる一流街であるから、計画には憧重を期し一人の落伍者のなからんことに努力してると伝えられてることはまことに喜びに堪えない。

  戦災による復興区画整理は県内に於いても静岡市を始め浜松、滑水の四市と更にその後に大火を起した熱海市に実施されたのであるが、沼津市の中央通りに見るような善美をつくした集団な統一建築はどこにも見られない建築したのは独り沼津市に限られたものであるだけに、全県下は勿論全国から大きく注目されるに至つてるのである、これにより建築と共に内容を併立させて育成することは当事者の誠意を以て、新商道の遵守することによつて名誉と誇りを守り得られるのである。

 新名所の出現は問近かに迫つている、これを活かすも殺すも全では関係業者によつて決定づけられることは今更言を俣たないのである、他に類を見ない威容を整えたのであるからその内容に於ても、他に追随を許さない誇りを以ての経営が望ましい全市民は関係者が多大の犠牲を惜まずにこれに全てを傾注して竣工されんとするに当つて限り感激と誇りを以て迎えている。

 【沼津朝日新聞 昭和29910日(金曜日) 巷の声】


覚えていますか 昭和 謄写版 インキで手が黒くなったもんでした。