2015年2月21日土曜日

幕臣の移住と沼津 四方一瀰

慶応四年幕臣西周の沼津移住そのころの話
四方一
 1・幕臣の移住と沼津
 今年は徳川家康生誕四百年とかで静岡県内ではアレヤコレヤといろいろな催しを計画しているようである。その家康が開いた強大な幕府が倒れて絶対的な徳川のお殿様の時代から平民が社会の表舞台に躍り出るという、封建社会から近代国家家へとわが国の歴史の中でもかつてなかった明治維新という未曾有の社会変動を体験した大事件であった。ややもすれば沼津とは遠く離れた江戸の出来事と思いがちである。だがこの変革は沼津の街や住民の生活をも揺るがした大事件であった。
 慶応四(一八六八)年一月、王政復古の大号令が発せられ、五月、徳川氏は七〇万石の大名となって駿河・遠江・三河に移封され、七月、それまで沼津を領主として支配してきた水野藩が上総の菊間に国替となり沼津の一〇五軒の侍小屋や五六棟の惣長屋に住んでいた二三六九人の藩士やその家族はあわただしく沼津を後にして菊間へ向った。旧幕臣は新無政府にとなるか、農工商の道を選ぶか、あるいは徳川氏に従って無緑移住の道のいずれかを選ぶことが許されたがおおよそ五四〇〇人の旧幕臣が一大名となった徳川氏にしたがって無緑移住の道を選んだ。明治二年五月に調査作成された「駿河国沼津政表」にれば、当時の家数は一二六〇戸、男三二九六人女三四八一人の合計六七七七人てあったという。沼津移住の士族の数はハッキリしないが明治四年十月の陸軍局の調べによれば沼津移住士族は二一三五人といわれる。しかし移住士族のなかには間もなく帰郷したり転出する者も多かったので、当初この数より多くの者が移住してきたものと考えられる。この数知には家族数が含まれているのか否か明らかではない沼津の住人の半数に近い士族やその家族が沼津に移住してきたのであろう。

 これらの士族の居住地は、一概には言えないが、現在の沼津駅前さんさん通り辺りに沼津のお城があり、「あまねガード」の南、今の上本通りの通りはお城のお濠りで、その西側の城内・添地・西条の辺りが士族の居住地であった。そしてアーケード街(町方町-町人の町)以南が沼津の宿場町で商人をはじめ庶民が住み、士族と町民はおおよそ住み分けられていたが、上本通りの西側お濠に面したところは片端といわれ、兵学校の先生たちが住み、「あまねガード」を上り切ったところには兵学校頭取(校長)西周(あまね)の家があった。
(つづく)






















 2・移住士族の生活
 慶応四年七月、水野藩の藩士が千葉県の菊間に移住し、その歳の九月八日には慶応四年は明治元年に改元された。その二日後の九月十日には陸軍頭より旧幕臣の家族は十月末までに江戸を引き払って沼津に移るよう命じられた。今まで住んでいた家の始末から家財道具一切の引っ越しで、沼津の町や人々の生活を巻き込んだ慌ただしい転出転入であった。
 西周は十月十九日の早暁、妻舛子や川上冬崖と浅草を発ち、途中川崎・程ヶ谷・大磯・箱根畑宿・三島に宿泊して二十四日に沼津に到着し、入居する家の都合もあり、その日は本町の近江屋に投宿し翌日には通横町の旅館小松屋に移り、さらにその翌日の二十六日には藩からの命により三枚橋の豪商鈴木與兵衛の隠居所に移り、しばらくのそこに滞在し、十一月八日に西・大築の家族は鈴木の家を出て沼津の城、すなわち兵学校の西北角、あまねガード南の十九番屋敷にはいった。日時も限られた慌ただしい移住で、頭取の西家でもほとんど着のみ着のままで家財は船で送った長持一棹・箪笥二棹・水風呂一つ・水瓶一つ・畳建具三〇枚であった、すでに幕末の動乱で資産はまったく失い、移住後の生活は蓄えもなく、それゆえ兵学校頭取に任用されても御役金六百両ではまさに「焼石ニ水」で「渇々相暮申候」が精一杯で、日々家財道具を買いもとめてはいるが容易に生活に必要な道具諸品などをとり揃えるいたらない、と舛子夫人は長兄に報告している
 頭取の西家でもこんな状況であるから一般の士族は推して知るべしであった。
 移住士族は添地・西条だけでは収容仕切れないため静浦・金岡・愛鷹など隣接する地域の民家や寺院に同居し、さらに門池の北辺や愛鷹山の笹ヶ窪、長泉の長窪に簡素な住居を建てて移り住んだが、東西両椎路に約五〇戸、東沢田に約一〇〇戸、小林岡一色に約五〇戸、その他元長窪・万野原など合せて約一、二〇〇戸に及んだといわれる。それでもまかなうことができないで快く借室借家を提供されるよう各家を訪問勧誘にまめり中川重平は志下の長老の農家を借り、夫人と娘一人と乳母母子を抱えた同僚と同家に同居した。
また矢吹恒蔵は上香貫中原あった水野藩の長屋に割付けられた。狭いのはまだ致し方なかったとはいえ。山中庄治が割り当てられた東椎路の農家は大分破損しており雨漏りも酷いので移転を申請し三年九月にようやく西澤田に転居ができたという状況であった。

 3.   サムライと町民
  このような沼津の町の構成からみると慌ただしい、しかも大がかりな人や家族・物資の出入りがあったにせよもっとも変動の激しかったのは城西の士族居住地におおむね限定され、沼津の宿場の町組み、住民の生活の仕組みを大きく混乱させたものとは思われない。とはいえ狭い水野藩の城下町は、久しく沼津の藩士として食料・衣服・生活用品の購入を通して、あるいは俳句サロンの形勢など城下町の住民と藩士たちの交流も長い年月のうちに形作られていたであろう・。しかし新来の静岡藩の士族は政権の中核にあった幕臣としての気位いも高く來沼まもない両者のあいだにはとけ込めない、大きな社会的文化的確執をもたらしたものとおもわれる。
 事実、まだ移住騒動のさ中の九月に沼津の陸軍頭はつぎのような「城下並宿駅にて酒食禁制の事」の触れを士族に出して、言動に注意を促している。すなわち、
 今般御城下に被差置候陸軍局役々組々も御城下は勿論最寄宿駅等へ罷出酒店并旅籠宿に おゐて酒食いたし候儀は一切不相成候事
 一銘々日用の諸品買入等之為何方へ罷出候共穏便に取引いたし御威光ケ間敷義決而致間  敷候事一宿駅其外夜中無提灯にて徘徊いたし候義一切不相成候事
 一御城下之義は街道筋之義にも有之別而旅人等へ対し聊不都合之義無之様可被心得候事
   右之趣役々組中え不洩様可被相触候事
 士族のなかには買い物にあたって町民に横柄な態度で値切りや応接の態度に言いがかりをつけることのないよう厳重に注意し、とりわけ居酒屋などでの酒の勢いで町人に居丈高かな態度をとるなど不祥事を心配して宿場での飲食を一切禁止している。また夜中の真っ暗な折徘徊して不安を抱かせることを厳禁するなど、殊の外町民への対応に配慮している。
  このような事態は武士の特権意識もさることながら、特権階級からの転落や前途への不安、極度な生活の経済的不安がもたらしものもあり、移住後、かなり見られた士族たちの行動でり、お触れを出さざるを得なかった実態があったものとおもわれる。しかしこのお触れの趣旨は徹底されず、二十七日にはいかがわしき行動をとるものはもってのほかのことでといただした上厳重に処罰する布告を改めて出さなければならなかつた。

 4. 士族と町民との融和策
  静岡藩も移住によってすさんでいた士族と町民との間の融和策を図らなければならなかった。移住によってすさんでいた士族たちに気晴らしの機会を与えたのは愛鷹山の馬狩りであった。古来、愛鷹山には放牧場がありかつては近くの農民を責子(せこ)〔勢子〕に充てていたが士族の移住後は農民に代えてその子弟をあてた。その数は二三千人で徐々に牧場を取り囲み、鉦の合図で声を立てて馬を囲いに追込んだ。追込んだのちは伯楽が馬に乗って囲いの中を乗り回し馬の善し悪しを鑑定して良馬を競市(せりいち)に出した。近在の村々に住む士族の子弟達は早朝から愛鷹山の牧場に集まらなければならなかったが、日頃移住生活の不満が鬱積していた活力の余る壮年の者には格好の気晴らしの場であり、「最も愉快なる野外運動なれば皆悦んで出張せり」と石橋絢彦は記している。町民は見物が許された。
 さらにまた、沼津の町民とのあいだも士族の行動に対する自重・禁制策もさることながら藩が明治二年三月、西ノ条(西條)に洋式の医局を新設し、当時一般に行われたおまじない・祈祷、あるいは怪しげな診療に対して最新の西洋医学の診療を行い、士族のみならず一般町民にも開放し、診療は無料、薬代は原価同様の価格とし、さらに貧しい者に対して薬代は藩で負担するなどの福祉医療をおこなったほか当時最も恐れられていた天然痘についての啓蒙的パンフレット「種痘辨」を配ばり、あるいは陸軍医局は百合・大根・生薑・青海苔・いさき・かさごなど一〇〇にのぼる健康に良い食品のリスト「能き物」を配布して町民の健康増進や保健衛生に役立てている。また、兵学校附属の医学所では町医者の子弟で望む者には医学所で医学修業の道をひらくなど士族と町民との融和がはかられた。

  さらに、当時の士族と平民が机を並べて勉強すること武士の面子(めんつ)にもかかわることではありほとんど行われなかったが、金岡には静岡藩の学校澤田学問所が設けられ、士族の子供にまじって金岡の農民の子どもたちが勉強をするなど、士族と平民の垣根をくずして四民平等の気運を開いていくことになった。


2015年2月15日日曜日

第9回「沼津ふるさとづくり塾」講座:沼津海軍工廠跡地の開拓



「沼津海軍工廠跡地の開拓」
平成26年12月20日
沼津市立図書館4階視聴覚ホール
講師:永江雅和専修大学教授























当日資料集

















戦争に翻弄された海軍工廠用地
数奇な運命たどり住民衝突も
 沼津史談会は、第9回「沼津ふるさとづくり塾」市史講座をこのほど市立図書館視聴覚ホールで開き、約六十人が聴講。専修大学教授の永江雅和氏が「沼津海軍工廠跡地の開拓」と題して、戦後直後の沼津駅北地区について、戦争に翻弄(ほんろう)された数奇な運命をたどった様子を話した。
 金岡独立論争の要因に
 史談会市史講座で専大教授が解説
 海軍工廠の設立 一九四二(昭和十七)年、沼津駅北側に軍需品生産拠点として海軍工廠の設立計画が進められた。交通が便利で開発可能な土地が広がっていたのが選定
理由だった。
 用地は、北は現在の神田町(金岡中付近)から沼北町(誠恵高付近)をつなぐライン、南は泉町(沼津聴覚特別支援学校付近)から双葉町(フジクラ沼津工場付近)にかけてのライン、東は学園通り、西は新中川(囚人堀)で囲まれた地域に相当する。
 土地所有者だった当時の金岡村の村民を対象に、海軍当局による用地買収が行がわれた。交渉と言っても一方的なもので、村民達は印鑑持参で金岡国民学校(現金岡小)に集められ契約会を迫られ、しかも買収代金の支払いが遅れたため、農地を手放した村民には生活が困窮する人も出た。
 終戦と土地の返還 四五(同二十)年八月の敗戦により、海軍工廠は廃止。建設時に海軍当局から「軍用地を将来開放する場合は地元の耕作農民に優先的に払下」という約束があったことから、土地を海軍に売った旧金岡村民(金岡村は終戦前年の四四年に沼津市と合併して消滅)達は、土地の返還運動を始めたが、旧軍資産はGHQ(連合国軍総司令部)によって凍結されているという理由で返還は認められなかった。
 一方、工廠敷地内には周辺に住む公務員や商工業者、工員達によって家庭菜園が作られていた。旧金岡村民達は菜園耕作者に「土地の無断使用」だとして抗議したが、菜園側は、終戦時に工廠長だった中島省三郎中将から借用許可を得ている、と主張した。
 四六(同二十一)年、金岡側は新たに旧軍用地を管理することになった大蔵省に対して土地の一時利用を申請したが交渉は難航。この間に菜園側とは暴力的な衝突寸前にまでなった。同年五月十八日、沼津警察署による調停が行われ、金岡側は菜園側に旧軍用地九四町歩のうち二四町八反歩を貸すことで合意した。
 しかし、その後、大蔵省が金岡側の主張を認めたため、金岡側は菜園側に立ち退きを要求。菜園側は、農地の所有者を地主から小作人に転換させる農地改革事業の理念に基づいて権利を主張し、双方は対立した。
 農地改革では、四五年十一月二十三日時点での耕作者に農地所有権を認めていたので、「金岡側は地主」「菜園側は小作人」と見なされる図式になった。
 このため、再び暴力的衝突寸前の事態となり、沼津署が仲介する調停が四七(同二十二)年四月十八日に行われ、菜園側に貸し出す土地面積を二四町八反歩から約六町歩にすることで双方が合意した。
 金岡開拓組合 四七年十月、旧軍用地の管理者が大蔵省から農林省に変わり、農林省は食糧増産のため土地を開拓者に払い下げることを決定。この方針を受け、金岡側は住民三八一人が参加する金岡開拓組合を結成し、旧軍用地の返還を受けるとともに、開拓補助金を獲得することを計画した。旧海軍工廠の土地の多くはコンクリートで舗装されるなどしていて、農地に戻すには多大の労力が必要と見込まれていた。
 岳南農民組合 農林省は農業経験が豊富な者への土地払い下げを予定していたので、本来は農家ではない菜園側は不利になった。そこで菜園側は岳南農民組合を結成して団結を深めた。
 四八(同二十三)年五月、農林省が金岡側を開拓者として認めると、金岡側は菜園側の耕作地までも開拓範囲と見なして工事の準備を始めた。
 これに対して菜園側は、金岡側が始めた工事によって排水路が埋め立てられて洪水が発生した、国有財産である排水路石垣を金岡側が持ち去っている、などとして金岡側の非を主張。金岡開拓組合の監査を行うよう農林省に要請した。
 一九四九年三月八日 金岡側と菜園側の対立は頂点に達した。金岡側は四九(同二十四)年三月八日、菜園側の土地で開拓工事を開始すると通告。同日早朝、金岡側約二百人が作業を開始しようとすると、菜園側約百二十人が工事阻止のために集結した。
 睨み合いの末、農具を用いた衝突が始まり、重傷者が出る騒ぎとなった。この時、沼津署の警官隊約五十人が出動し、騒ぎは、ようやく収まった。
 沼津署は双方の代表者から事情聴取を行い、中西久署長が調停に乗り出して群衆を解散させた。
 最終合意 衝突後、県やGHQの担当者立ち会いのもとで調停が行われ、菜園側が土地を明け渡す代わりに金岡側は換え地二町九反歩と補償金二五万円を提供することで合意した。
 その後、開拓工事は順調に進み、五五(同三十)年八月十五日、開拓地の組合員への配分が行われ、同月末に金岡開拓組合は解散した。
 この間の五二(同二十七)年に旧軍用地を駐留米軍や警察予備隊(自衛隊の前身)の基地として再活用する動きがあり、海軍工廠跡地も、その候補地と見なされたが、開拓が進んでいることから断念された。
 金岡独立運動 工廠跡地を巡る騒動の渦中にあった四八年八月には金岡地区を沼津市から分離させる運動が始まっている。
 当時は市町村区域変更請求という制度があり、三七(同十二)年から四七年の間に行われた市町村合併に異議のある場合、住民投票の結果次第で市町村区域の変更を県知事に申請することができた。
 十二月に旧金岡村区域の有権者を対象にした住民投票が行われ、独立反対派優勢との見方もあったが、賛成派が僅差で勝利し、申請が行われた。
 こうした独立運動の高まりの背景には、そもそも合併への反対論があっただけでなく、工廠跡地問題での沼津市の対応への不信感もあったという。金岡側と菜園側が対立していた時期、沼津市当局も独自に払い下げ請求を大蔵省に対して行っていて、金岡側の反発を受けている。
 しかし、この金岡独立の申請は四九年三月の県議会で否決された。
 おわりに 海軍工廠跡地を巡る混乱を説明した永江氏は、このような旧軍用地返還問題は全国的にあったこと、実際に耕作をしている人に土地の所有権を認める農地改革が返還問題を複雑化したことなどを指摘。
 また、戦争協力のために農地を奪われた金岡側、戦後の食糧難で食糧自給を迫られた菜園側、いずれも戦争の犠牲者であり、こうした図式もまた問題解決を難しくしたのではないか、とした。

(沼朝平成27年2月15日号)

2015年2月11日水曜日

大平地区に希少な古城跡

大平地区に希少な古城跡
静岡古城研究会の水野茂会長が紹介
 大平地区連合自治会、大平治水・まちづくり対策懇話会、大平郷土史研究会は五日、特別講演会を同地区センターで開催。静岡古城研究会の水野茂会長(静岡市)を講師に招き、一般住民も出席して「謎の大平古城について」と題する話を聴いた。

 中世の城郭そのまま残る
 「国宝と言えるほど素晴らしい」
 同地区連合自治会の的場達雄会長は、水野さんが若い時から会社勤めの傍ら全国の古城や山城を探索していること、沼津市史編纂にも携わり、その際、大平地区と近くの山々を調べたことなどを紹介した。
 講演に移ると、水野さんは冒頭、大平古城は「国宝」という言葉を用いることができるほど素晴らしく、四百五十年ぐらい前の城跡がそのまま残っていることを話した。
 大平古城は大平を取り囲む山並みの大平山から大平新城までの間の山の頂にあり、大半は、函南町との境界を挟んで同町日守地区に存在するが、一部が大平地区にかかっている。平成十年、静岡古城研究会の会員によって発見された。
 水野さんによれば、中世の大平地区は駿河国駿東郡泉庄(いずみのしょう)大平郷と呼ばれ、後醍醐天皇から足利尊氏に与えられ、その後、今川氏の領地になった。
 また、大平地区の山には、ほかにも複数の城跡があることに触れ、「広くない地域に、これだけの城があるのはなぜか。山城というのは戦う装置だということ。だから、それだけ戦いがあったという証になる」とした。
 今川義元から家督を継いだ氏真は、武田氏との戦いで追われ、掛川城を明け渡して大平城に入る。「氏真が大平に入ったというのは間接的な文書しかない」としながらも「永禄十二年、氏真は五月十二日に掛川城を出て一カ月間ぐらい大平にいた。その大平は、どこなのか。大平郷はここしかなく、大平古城があることは確実」だとの見方を示した。
 その上で、「僕は十数年前、徹底的に調べたが、氏真が入ったのは明らかに、ここ(大平古城)しかない。これは間違いないことで、(城の)構造から言っても間違いない」とした。
 その構造は、今川氏の賎機(しずはた)山城(現静岡市、築城一四一〇年)に似ているという。
 最後に、水野さんは「大平新城、大平古城は地域の歴史的文化遺産。公園化すると破壊に結びつくので、相談しながらいろいろな形で利用していただきたい。(古城の)これほどきちっと残っているのは他に例がない」と呼びかけた。

(沼朝平成27年2月11日号)

蛇松線(上)(下) 奈木秀幸 沼朝投稿記事

蛇松線() 奈木秀幸

 昨年暮れ、東京駅が開業百周年を迎え、話題となった。だが、我が沼津駅(昔は沼津停車場と呼んだ)の開業は東京駅のそれを遡ること四半世紀、明治二十二年(一八八九)二月一日のことである。こちらの方が、ずっと古い。
 後に東海道本線と呼ばれることになるこの官設鉄道の建設は、当時の重要な国家プロジェクトであった。当初、中山道ルートが考えられていたが、難工事が予想されたため、工期が短縮できる東海道ルートに途中で変更された。
 その中で、箱根越えについては長大なトンネル工事の技術的難しさから御殿場経由(現御殿場線)の、勾配のきついルートをとらざるを得なかった。箱根の下を貫通する丹那トンネルの開通は、昭和九年(一九三四)まで待つこととなる。
 明治十九年(一八八六)十二月一日、既に廃城となっていた沼津城外濠の北側に沼津機関庫(後の機関区)が設置され、国府津ー沼津間の工事拠点となった。
 今のような陸上運搬手段など無い時代である。建設資材は横浜から海路汽船で内浦湾まで運び、ここで喫水の浅い平底の艀(はしけ)に乗せ換えて狩野川河口を遡り、蛇松(現在の港大橋の袂付近)まで運び、仮設された桟橋を使って陸揚げされた。機関車も解体して運ばれ、陸揚げ後、組み立てられた。
 翌明治二十年三月二十七日、沼津機関庫までの線路が出来、機関車(五号蒸気機関車)も組み立てられ、いよいよ試運転という時、まだ石炭が届いていなかったため、松薪を燃やして走った。これが静岡県内最初の鉄道「官設蛇松線」の誕生である。
 蛇松の桟橋には、初めての蒸気機関車を一目見ようと多くの人々が集まり、出店も軒を連ね、さながら、お祭り騒ぎのようだったという。
 蛇松線は当時の沼津の中心部を東に見ながらカーブを描いて、蛇松と沼津停車場設置場所間の約二・七㌔を単線で結んだ。沿線には、民家はまだ少なく、田畑が多かった。明治の沼津は、今からは想像もできないほどに実にコンパクトだった。
 明治二十二年二月一日、東海道の鉄道建設は国府津ー御殿場ー沼津ー静岡間が開通し、これと同時に沼津停車場も開業となる。そして蛇松線は当初の目的を達し、その使命を終えた。
 半ば放置され、無用の長物となりかけた明治三十一年(一八九八)、岳陽運送という会社が蛇松線を利用しての貨物輸送を願い出たため、逓信省鉄道作業局は審査の結果これを許可。翌明治三十二年六月十五日、蛇松線は運転が再開され、新たな使命を与えられることとなった。
 この日、蛇松駅が正式開業し、海路を経由して陸揚げされた石油、石炭、木材等が運ばれた。その後、終戦直後まで蛇松線に変わりはなく、貨物線としての役割を担い続けた。
 昭和八年(一九三三)十二月八日、新たな沼津港(現在の内港)の建設工事が始まる。それまでの港は狩野川右岸の魚町、仲町、宮町、下河原の辺りにかけてあったのだが、水深が浅く、大型船は接岸できなかった。そこで河口に新港を建設することとなったのである。
 港は昭和十二年(一九三七)五月三十一日に竣工したものの、周辺にはまだ何も出来ておらず、実際に機能するのは終戦後のことである。
 蛇松線沿線の千本緑町、常盤町、千本東町、千本中町、千本西町、千本港町等は耕地整理により直線的な道路が整備されることで、それまでの小字名を廃して昭和十二年から十七年(一九四二)にかけて、それぞれ成立。また、蛇松町、春日町、蓼原町等も町域が変わったが、以前の小字名を引き継いだうえで新たに成立した。(つづく)
(千本東町)
(沼朝平成27年2月10日号)

蛇松線() 奈木秀幸
 昭和二十一年(一九四六)十一月二日、沼津港(現内港)開港祝賀式と臨港線開通式が行われた。
 臨港線とは、現在の蛇松緑道お祭り広場西側で分岐し、港まで新たに造られた路線のことである。分岐地点には線路を切り替える手動の、通称ダルマポイント(転轍器)があり、普段は南京錠で施錠されていた。
 翌二十二年三月一日、蛇松線は国鉄沼津港線と改称し、蛇松駅が内港東側に移転改称され、沼津港駅となった。移転前の駅も、引き続き構内側線として廃止時まで使用された。
 蛇松線から沼津港線に改称した後、沼津港からは鮮魚が京浜方面に向けて運ばれた。また、旧蛇松駅では石油や鉄屑等が運ばれた。
 昭和二十年代には宮町や下河原にあった多くの干物加工業者が沼津港周辺に移転してきた。西伊豆方面からの旅客が宿泊する旅館も何軒もできた。
 沼津港は沼津駅が陸の玄関口であるのに対して海の玄関口と呼ばれた。沿線では市街地の拡大に伴って次第に住宅も増え、交差する道路の交通量も増えていった。
 いつしか沼津の中心市街地を走ることとなってしまった沼津港線は平面交差の踏切ばかりで、自動車との事故も頻発するようになっていく。ことに旧国道一号や旧東海道と交差する踏切では機関車の方が一時停止して道を譲ったという。
 貨物輸送は鉄道輸送からトラック輸送主流の時代になっていく。昭和四十五年(一九七〇)には蒸気機関車からディーゼル機関車に替わった。次第に邪魔者扱いされることになっていく沼津港線は、ついに八十七年余の歴史を閉じることとなった。
 昭和四十九年(一九七四)八月三十一日、臨時列車が運行され、この日をもって国鉄沼津港線は廃止となった。この列車は「さよなら沼津港線」と書かれたヘッドマークを付け、開通以来、初めて客車(旧型二両)を連結し、DE11型ディーゼル機関車が牽引して地元の老人達を乗せて走った。記念切符(硬券)が発行され、記念品として手ぬぐいも配られた。
 名称変更後も、地元では沼津港線と呼ぶ人は誰もいない。廃線後は昭和五十一年(一九七六)、沼津市に払い下げられ、後に白銀町から狩野川河口の蛇松町までの約一・八㌔が遊歩道「蛇松緑道」として整備され、現在に至っている。
 春には桜が満開となる。今も沿線の地元自治会や町内会によって清掃が行われ、大切にされている。蛇松線は廃線から既に四十年が経過した。(おわり)
(千本東町)

(沼朝平成27年2月11日号)

2015年1月30日金曜日

芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5 父常春と楊原村 芹沢守

芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5
父常春と楊原村 芹沢守
 『人間の運命』は芹沢光治良の代表作であり、その第一巻「父と子」は昭和三十七年に出版された。
 明治から昭和までの日本の歩いた道を感じさせる大河小説の主人公は森次郎、その歩みは芹沢光治良の実体験に基づく創作である。
 「その昔、この地方に定住していたアイヌ族が、…この世の天国だとうたったために、ここを駿河の国ーアイヌ語で天国と、呼ぶのだと」と作品は書き出され、「甲斐や相模の山岳地帯に割拠した武士が、初めてこの地方に侵入した時、風光は明媚、気候は温暖、天産は豊富、住人は温和だから、この地は天国だと感じて、武将の家臣が武器をすてて、この土地に土着したのかもしれない」と歴史の先生に語らせている。
 芹沢光治良は明治二十九年五月四日、駿東郡楊原村我入道に生まれた。家は沼津の海岸に一定の縄張りを持つ津元で、代々一族で漁業を営んできた網元の家長が祖父常吉である。
 屋敷が村の入り口東一番地にあったので家号を「ハズレ」と言い、常吉の長男として明治五年二月に父親常晴が生まれた。常晴は裕福に育てられ、五歳で駿東郡第五学区楊原村立小学道生舎に入学し、八年間学んで明治十七年に卒業した。常晴は網元の後継者で、楊原村役場に勤めた。
 明治二十二年、祖父常吉がリウマチを患い病んでいたので、駿東郡大岡村から評判になっていた神様の話を聴き、岳東講元の鈴木半次郎師に祈願して救(たす)けてもらったのが契機で、芹沢家の一族は明治二十三年、天理教に入信した。
 若い常晴は新しい教えを熱心に学び、しばらくすると鈴木購元宅に住み込んで病人たすけの弟子入りをした。
 他方、光治良の母親はるは、明治九年四月二日近藤精一郎の三女として大岡村下石田に生まれたが、同村の有馬忠七の養女として育てられた。はる女十四歳の冬の頃より養母に連れられて鈴木講元の所へ通い、天理教の教えを聞いて熱心に信仰した。
 明治二十五年の春に鈴木講元の勧めで、常晴二十一歳、はる十六歳は結婚し、岳東教会の事務所に住み込み、生活を始めた。翌年十月に常晴は悪性皮癬(ひぜん)の病気にかかったので実家の我入道へ帰って養生し、常晴の生涯を神様のご用に捧げることを家族一同が心定めて鈴木講元に祈願してもらい、命が救かった。
 明治二十七年には長男真一が生まれ、神様との約束により翌年三月に芹沢家の屋敷内南側に楊原出張所が設立、常晴が初代担任となった。明治二十九年五月に二男光治良が誕生。この頃「ハズレ」の芹沢家は親族二十人程に加えて、常晴に助けられて信仰する人達も二~三十人集まって賑やかに振る舞う教会だった。
 明治三十三年の春から沼津町城内片端
(通称五藤松=現在の沼津駅南口前、桃中軒周辺)の土地を借りて、我入道から神殿建物を移築し沼津出張所を設置。芹沢常晴一家五人も移り住み、他の六軒の布教師家族と共に紙漉()きの内職をして赤貧の生活を送ることとなった。
 この時、四歳の光治良少年は我入道の祖父母の家に預けられて育てられたことが、人間の運命の始まりである。
 我入道は大正十三年二月冬の夜、火災が発生し、西風によって村の大半が焼失した。村の復興に際し、道路が碁盤の目様に整理され、「ハズレ」の屋敷も分離されたが、芹沢光治良生誕の碑が建つ土地に大正十三年に建てられた楊原分教会の古い写真=右=が残っている。

(芹沢光治良兄弟の孫、天理教楊原分教会会長、我入道)

(沼朝平成27年1月30日号)