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2020年7月14日火曜日

沼津兵学校について学ぶ 明治史料館ギャラリートーク


沼津兵学校について学ぶ
明治史料館ギャラリートーク
 明治史料館(西熊堂)11日、「近代教育の源流沼津兵学校」をテーマにしたギャラリートークが行われた。
 同史料館の常設展示から月替わりにテーマを選んで行っているもので、同日は第2回。4階展示室の沼津兵学校に関するコーナーで、木口亮学芸員が解説した。
 沼津兵学校は、教科書への記載もなくあまり知られていない存在だが、沼津の歴史において重要な意味を持っている。
 明治維新によって政権から退いた徳川家は、静岡藩の一大名となり、沼津城があった場所に開設したのが、士官を養成するための沼津兵学校。守旧派が主流となる静岡の中心、駿府ではなく、沼津に置いたことには意味があるという。
 兵学校とは言っても、頭取を務めたのは、哲学者の西周(にし・あまね)であり、教育の内容は近代的だった。英語、フランス語、数学をはじめ、洋式の作図を行う図画、日本で初めて授業として行った体操など、当時の水準としては国内でもトップレベルの学問を行った。
 教師陣も徳川幕府における優秀な幕臣など、そうそうたる顔ぶれで、教科書は自ら印刷したといい、これが「沼津版」と呼ばれる。
 沼津兵学校に入る前の予備教育機関として、附属小学校があった。ここで学ぶのは主に徳川家臣の子弟だが、庶民も入学することができたことは先進的だった。
 西には、沼津兵学校を「文学」と「兵学」それぞれを学べる総合大学化する構想があったという。「これが実現していれば、沼津に日本で最初の大学が出来ていたかもしれない」と木口学芸員。
 しかし、その後、明治政府は優秀な人材を求め、沼津兵学校からは多くの教授達が新政府へと移って行った。明治5年に廃藩置県が実施されると、徳川家の学校だった兵学校は中央政府に移管され、3年半の短い歴史に幕を閉じた。
 また、沼津兵学校と共に徳川家が沼津に開いた陸軍医局は、沼津病院と名を変え、その後は公立の駿東病院となった。ここには帝大を出た医師が勤めたが後に沼津で開業することもあり、医療においても沼津は先進的な地となった。
 また、兵学校の遺産として、「日本で一番古い近代的小学校」がある。附属小学校は江原素六翁の尽力もあり、「集成舎」として残され、その後、名を変えながら現在の一小となって続き、同校は明治元年から152年の歴史を数える。
 同史料館には、沼津兵学校関係者の肖像画が237枚展示されていて、「これ程に集まっている博物館は珍しい」という。
 参加した市内の50歳代の男性は、歴史に興味があって同館を度々訪れるというが、「自分で展示の説明を読むよりも、学芸員の話を聴くことで、よく理解できたし、内容も新鮮だった」と話した。
 来月8日の第3回は、戦争をテーマにしたギャラリートークを予定している。
 問い合わせは同史料館(電話923-3335)
【沼朝令和2714日(火)号】

2019年10月17日木曜日

沼津兵学校とその群像 堀田(ほつた)維禎


第一章 静岡藩の御貨人
 廃藩後も続いた派遣先の教え子との交情を示すものとして、鹿児島藩御貸人堀田維禎の墓石脇に建てられた碑(東京都豊島区.染井霊園)がある。珍しい史料なので以下に掲載しておこう。
 奉献 明治壬申歳請静岡堀田先生於我鹿児島学校教員生徒皆従受数学励精勤業以期有成焉先生亦不吝力而導之今茲甲戌暑月沿例休課先生就其暇帰省郷既赴東京適罹疾不起越廿四日訃至相共茫然大失所望矣鳴呼余輩雖庸駑而於其術粗有所得皆先生之澤也爰受業弟子凡四十三人相謀捐建石灯一基子塋域以誌麗澤且表哀惜之意云
                   明治甲戌十二月同謹撰

堀田維禎碑文飜訳
ささげたてまつる。明治五年、静岡の堀田(維禎)先生を招請し、我が鹿児島学校において、教員・生徒が皆数学を受け、精励・勤業し、成果を上げることを期した。先生もまた、惜しむことなく指導してくれた。本年(明治七年)夏、例年通りの休課中、先生はその暇に故郷に帰省し、やがて東京に赴き、たまたま病気にかかり治らず、二十四日死亡の知らせに接し、ともども荘然とし、大いに希望を失った。ああ、我々は凡庸といえども、学業において皆あらまし習得できたのは、先生のおかげである。ここに授業を受けた弟子およそ四十三人が相談し、資金を寄せ合って、石灯一基を先生の墓地に建て、そして、助け合って勉学に励まんことを記し、なおかつ、哀惜の意を表すものである。

                   明治甲戌(七年)十二月同謹撰

 河野広 中摩直助 比野休蔵 木佐木長信 坂口善之丞 三崎久志 川畑金之助 山元中寛 山元中正 高見弥市 田原平一 松崎鉄二 波江野源之介 林清武 岸雄二 樺山資常 桑波田景広 山口真菅 田中良道 池田純雅 永山操一 佐藤集治 間瀬田実房 長倉十次郎 西季暢 野元綱清 伊集院宗吉 西純熈 蓑田長盛 久富木重誉 町田厳槌 永田良雄 平賀裕神 友野由彦 成尾吉詮 石井元定 原弓太郎 南八郎太 宮原正助 関計一 町田直吉 鍋倉直 玉利喜造 大島之仙蔵

この碑文によると、堀田は明治五年に鹿児島の学校教師を引き受けたとあり、廃藩後も改めて同地で教鞭をとったことがわかる。しかし、明治七年(一八七四)一一月八日、帰省中の東京で二十九歳で病没した。多くの弟子たちに慕われたらしく、このような石碑が建立されたのである。
 ちなみに、石碑に名前が刻まれた堀田の弟子のうち、著名な人物は、玉利喜造(一八五六~九三)と大島仙蔵(一八九三年三十五歳で没)の二人である。玉利は、薩摩藩士の子に生まれ、鹿児島での少年時代には、藩校造士館、小学校、西兵学寮などで学び、明治八年に上京、のちに農学博士・東京帝国大学教授・貴族院議員になった。大島は、奄美大島に生まれ、明治四年鹿児島の本学校に入学、学力抜群により中学生(助教)に採用され、八年(一八七五)大山巌に伴われ上京、工部大学校を卒業しアメリカへ留学、帰国後は鉄道技師として活躍した。
静岡から鹿児島への御貸人は、はるか後年にこのような人材の花を咲かせる役割も果たしたのである。市来四郎が大久保利通へ護したことにより阿部潜が大蔵省に奉職したごとく、御貸人をめぐっては・教育制度の移植という個面だけではなく、個々の人間的なつながりの形成についても見落とせないのである。

(「沼津兵学校の研究」樋口雄彦著 平成191010日発行)




旧幕臣の明治維新 樋口雄彦
 沼津兵学校とその群像 堀田(ほつた)維禎
 徳島藩と鹿児島藩では、御貸人の招聘を機に静岡藩の小学校制度を取り入れた教育改革を実施している。徳島藩が四年正月に設置した小学校の規則は、「徳川家兵学校附属小学校掟書」に倣(なら)ったものだった。鹿児島藩が同年同月に始めた本学校-小学校・郷校の進級制度は、兵学校ー附属小学校のしくみを取り入れ、「普通之学問」(資業生の基礎科目相当)の習得に主眼を置いたものだった。鹿児島では廃藩後も静岡藩の制度的影響が続き、八年(一八七五)六月に制定された「変則小学校規則」は「静岡藩小学校掟書」にそっくりだった(井原政純「鹿児島藩の学制改革と静岡藩からの影響ー()『本学校ー小学校・郷校の制』を中心にー」『国士館大学教育学論叢』第一七号、一九九九年)
鹿児島に赴いたのは、沼津兵学校の生みの親ともいうべき阿部潜(せん)と附属小学校頭取蓮池新十郎らであった。倒幕(とうばく)の張本人たる鹿児島藩への肩入れは、相手からも感謝され、戊辰時の感情的なしこりを解消する役割も果たしたようである。第二期資業生から鹿児島藩御貸人となり数学を教えた堀田(ほつた)維禎は、鹿児島の生徒たちに慕われ、死後追悼のための記念碑が東京の墓地に建てられている。
 なお、沼津兵学校以外では、静岡学問所からの御貸人派遣は少ないが、箱館戦争降伏人と勤番組からの派遣数は極めて多い。無役の者や帰参した者の中にも有能な人材が眠っていたわけであり、静岡藩では彼らを他藩へ貸し出すことで、人材の有効利用と食い扶持(ぶち)の節減との一石二鳥をはかったといえる。


2019年1月26日土曜日

沼津兵学校創立150周年記念「懇親会」大手町会館







沼津兵学校創立150周年記念事業「史跡見学と記念集合写真」











沼津兵学校創立150周年記念式典「記念講演」





兵学校150周年を記念し
徳川家広氏と樋口雄彦氏が講演
 明治二年(一八六九)に開校した沼津兵学校の設立一五〇周年記念式典が二十日、市民文化センター小ホールで開かれた。記念講演が行われ、約五百人が来場した。
 沼津兵学校は、明治維新によって徳川将軍家が一大名として静岡藩に移ったことが契機となって設立された軍人養成学校。
近代的な教育が行われ、軍事にとどまらない様々な分野で活躍する人材を生んだ。明治四年(一八七一)年の廃藩置県で静岡藩が消滅すると明治政府に移管され、翌年に廃校となった。
 記念講演は、徳川将軍家十八代当主恒孝氏の子で次期当主の家広氏と、兵学校研究の専門家で国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏が講師として招かれた。
 家広氏は「沼津兵学校創立150周年に寄せて」と題して講演。
日本の伝統的な社会秩序を激変させた画期的な存在として豊臣秀吉を挙げ、その混乱を鎮めて社会を安定させたのが徳川家康と江戸幕府だったと論じ、
明治維新で不遇な立場に追いやられても反乱を起こさなかった静岡藩や兵学校にも、社会の安定を優先する徳川の気風が受け継がれたと解説した。
 樋口氏は「沼津兵学校から学ぶべきもの」と題して話し、兵学校関係者の書簡や回想などから読み取れる模範思想を挙げた。
 模範として列挙されたのは、反骨精神、進取の気風、地方性への着目など。特に樋口氏は、地方性の思想について、保守的な静岡藩上層部からの妨害を排除するために、
あえて藩中央から離れた沼津の地に兵学校が設置されたという経緯を説明し、地方の弱点を逆手に取る思考法こそ、地方が東京一極集中の現状に対抗する上で重要なヒントになると指摘した。

【沼朝平成31年1月22日(火)号より】







2019年1月21日月曜日

沼津兵学校創立150周年記念新聞記事【平成31年1月21日(月)朝刊】





沼津兵学校150年祝う
 大政奉還後、静岡藩を治めた徳川家が設置した沼津兵学校がことし創立150周年を迎え、20日、記念式典と同校付属陸軍医局(静岡藩立沼津病院)の記念碑除幕式(いずれも実行委主催)が沼津市内で開かれた。先進的な教育制度を実践し、日本の近代化に貢献する人材を輩出した同校の功績を知ってもらおうと企画した。

徳川家縁故者ら式典 病院記念碑除幕も
 第18代徳川家当主徳川恒孝さんの長男家広さん(53)らを招き、病院跡地の市立第一小北側で沼津病院の記念碑除幕式を行った。病院の初代院長杉田玄端のひ孫鈴木富子さん(83)=東京都世田谷区=らも出席し、司会の合図で一斉に幕を引き下ろした。完成した碑を見た鈴木さんは「言葉にならないほどの感謝でいっぱい」と話した。
 除幕式に先立ち行った式典では、家広さんと国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が記念講演した。家広さんは兵学校設置の経緯や教育内容などを説明した。樋口教授は自由貿易論を推進した田口卯吉や政界で活躍した元学生らを紹介した。反骨精神や外国語と異文化の学習など5点を挙げ、「兵学校からくみ取るべきものは無数にある」と強調した。(東部総局・中川琳)
【静新平成31121()朝刊】



<沼津病院>設立150年 跡地に記念碑建立 /静岡
毎日新聞201901210000

 1869(明治2)年に当時の徳川藩が設立した「沼津兵学校」付属医学所「沼津病院」跡地の沼津市西条町で20日、病院記念碑の除幕式が行われた。沼津病院は後身の駿東病院が1945年に空襲で焼け、市民にあまり知られていないため、設立150周年を機に、歴史を後世に伝えようと碑が建立された。

 碑は縦50センチ、横160センチの横長。徳川家の現当主、徳川恒孝さんによる「沼津病院駿東病院跡」の文字があり、左右に明治末期の病院の写真や沿革の説明文がある。

 式では沼津病院初代頭取(院長)杉田玄端(げんたん)のひ孫の鈴木富子さん(83)や徳川家次期当主の徳川家広さん、頼重秀一市長らが除幕した。また除幕式に先立ち、沼津兵学校創立150周年記念式典も沼津市民文化センターで行われた。

 玄端は杉田玄白のひ孫。副院長格の林洞海(どうかい)は順天堂大創設者の佐藤泰然の女婿。本人が医者と名乗れば誰でも医者になれた時代に、舶来の医療器具や医学書、薬品をそろえ、極めて水準の高い医療を施したという。廃藩後は私立や郡立の病院として変遷。廃院まで戦前の沼津の医療の中心だった。

 鈴木さんは「曽祖父を直接は知らないが、記念碑建立はうれしい限り。みなさんに感謝します」と話した。

 また実行委員会事務局長の匂坂(さぎさか)信吾・沼津郷土史研究談話会会長(71)は「今日は沼津兵学校の先生や生徒の子孫が74人も集まった。先祖の人生の原点の地を見に来たのだろう」と話した。【石川宏】



 沼津病院顕彰の記念碑除幕西条町の旧所在地跡に設置
 記念式典終了後、兵学校に併設された沼津病院を顕彰する記念碑=写真=の除幕式が、西条町の県道冨士清水線(旧国一通り)北側で行われた。
 沼津病院は、兵学校附属陸軍医局として設立され、沼津病院、駿東病院と名を変えて空襲で焼失する昭和二十年(一九四五)まで地域医療に貢献した。
 除幕式には、徳川家広氏や頼重秀一市長、沼津病院頭取を務めた杉田玄端(杉田玄臼の曾孫)の子孫などが参列し、紅白の幕を引いた。

【沼朝平成31122()号】


↓除幕式当日の動画



2019年1月13日日曜日

兵学校創立150周年(沼朝平成31年1月13日(日)号記事)




兵学校創立150周年
 20日 徳川宗家当主も出席し記念式典
 「沼津兵学校創立150周年記念式典」が二十日午後一時半から三時まで市民文化センター小ホールで開かれる。主催は沼津兵学校創立150周年記念事業実行委員会(事務局=沼津郷土史研究談話会)
 沼津兵学校は、明治元年(一八六八)十二月、静岡藩によって沼津城の跡地に設立された。静岡藩は、明治維新により幕府将軍徳川家が駿河の地に移ったもので、七十万石の大名という扱いだった。
 兵学校には旧幕臣の子弟らが入学し、国内一流の講師陣の下で近代的な学科の授業が行われた。軍人養成のための学校だったが、兵学校や附属小学校の卒業生は近代日本の様々な分野で活躍した。
 式典は、記念講演を中心に行われる。講演は徳川宗家(旧将軍家)十八代当主の徳川恒孝氏による「沼津兵学校創立150周年に寄せて」と、国立歴史民俗博物館教授で元市教委学芸員の樋口雄彦氏の「沼津兵学校から学ぶべきもの」。
 入場無料、定員五百人(先着順)
 式典当日は「沼津兵学校記念誌」が頒布される。A4判約二百ぺージ。頒価千円。
【沼朝平成31113()号記事】

2019年1月12日土曜日

明治27年9月城岡神社境内建立「沼津兵学校記念碑」書き下し文





沼津兵学校記念碑書下し文
 富岳(ふがく)(よう)()(すい)(狩野川)のほとりに名区(めいく)(景色のよい所)あり、曰く沼津と。往時城あり、青松(せいしょう)白壁(はくへき)江山(こうざん)掩映(えんえい)し、その名特(あら)はる。明治紀元、東方(とうほう)(はじ)めて定まり朝廷我が徳川公をして駿河遠江に封じて静岡を治めしむ。これを以て沼津は遂に静岡の都城となる。公(徳川公)の封に就くや、その従う者市に帰するが如し。乃ち有司(ゆうし)(役人)に命じて所在を安撫(あんぶ)(民を安心させる)し、別に水陸軍人及び子弟の俊秀(しゅんしゅう)なる者をこの地に(あつ)め、城を以て充て以て兵を講ず。所説の課業には数目あり。曰く漢学、曰く洋学、曰く数理、曰く図画、曰く体操練兵、曰く騎、曰く(しゅう)(水泳)と、これを修むること一・二年その人、彬々(ひんひん)として用うらるべし。故を以て列国の行人(役人)の静岡に使する者必ず請うひて來觀す。或いは、その藩人を遣はして就きて学ばしむ。鹿児島、徳島の如きは、特に我が学官を(へい)して以て士卒を訓練巣す。(けだ)し維新の始めを以て、列国の學制いまだ(そなは)らず。沼津兵學これが率先(そっせん)をなす。(明治)四年、朝廷、藩を徹して県となし、学館を以て陸軍兵学寮に合す。(ここ)において、在学の諸子、半ば朝に(のぼ)り(上京して)半ば去りて業を改む。歳月(さいげつ)()たるに及び、或いは陸海軍の将校となり、或いは院省の名官となり、商となり、農となり、衆議院議員となり、銀行公司の長となり、博士となり、学士となり、大小学校の教官となる。その朝に在ると否と(官庁や民間に係わらず)みな力を国家に()さざるはなし(尽くさない者はない)当世知名の者、即ち昔日の苦学の功ここに至って始めて(あら)はれ、公の皇国に忠ならんと欲するの志また(むく)はれり。学館の廢するより、今は二十余年の人、歳時相会(さいじあいかい)し、往時を語る毎に、(すこぶ)る今昔の(がい)あり。つねに言う沼津は即ち我輩の()(しん)の地なりと。学館廢してすでに(ひさ)しといへども、何ぞよく眷々(けんけん)として(なつ)かしきこと()けんや。このごろ相議(あいは)かり、石をその旧跡に立て、公(徳川(いえ)(さと))に()て額を(てん)し、(しゅく)(選文者)にこれを()せしめ(もっ)て永く後に伝え祀せんとす。意はその本を忘れざるにあるのみ。()に敢えてその多材(たざい)誇ると言わんや(碑建立の真意は、兵学校の存在を後世に伝え祭祀(さいし)せんで、その本質を忘れまいとするのみで、我々の人材の豊かさを誇ろうとしているいではない)
(沼津市明治史料館資料)