2018年8月24日金曜日
2015年1月30日金曜日
芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5 父常春と楊原村 芹沢守
芹沢光治良ゆかりの地を訪ねてその5
父常春と楊原村 芹沢守
『人間の運命』は芹沢光治良の代表作であり、その第一巻「父と子」は昭和三十七年に出版された。
明治から昭和までの日本の歩いた道を感じさせる大河小説の主人公は森次郎、その歩みは芹沢光治良の実体験に基づく創作である。
「その昔、この地方に定住していたアイヌ族が、…この世の天国だとうたったために、ここを駿河の国ーアイヌ語で天国と、呼ぶのだと」と作品は書き出され、「甲斐や相模の山岳地帯に割拠した武士が、初めてこの地方に侵入した時、風光は明媚、気候は温暖、天産は豊富、住人は温和だから、この地は天国だと感じて、武将の家臣が武器をすてて、この土地に土着したのかもしれない」と歴史の先生に語らせている。
芹沢光治良は明治二十九年五月四日、駿東郡楊原村我入道に生まれた。家は沼津の海岸に一定の縄張りを持つ津元で、代々一族で漁業を営んできた網元の家長が祖父常吉である。
屋敷が村の入り口東一番地にあったので家号を「ハズレ」と言い、常吉の長男として明治五年二月に父親常晴が生まれた。常晴は裕福に育てられ、五歳で駿東郡第五学区楊原村立小学道生舎に入学し、八年間学んで明治十七年に卒業した。常晴は網元の後継者で、楊原村役場に勤めた。
明治二十二年、祖父常吉がリウマチを患い病んでいたので、駿東郡大岡村から評判になっていた神様の話を聴き、岳東講元の鈴木半次郎師に祈願して救(たす)けてもらったのが契機で、芹沢家の一族は明治二十三年、天理教に入信した。
若い常晴は新しい教えを熱心に学び、しばらくすると鈴木購元宅に住み込んで病人たすけの弟子入りをした。
他方、光治良の母親はるは、明治九年四月二日近藤精一郎の三女として大岡村下石田に生まれたが、同村の有馬忠七の養女として育てられた。はる女十四歳の冬の頃より養母に連れられて鈴木講元の所へ通い、天理教の教えを聞いて熱心に信仰した。
明治二十五年の春に鈴木講元の勧めで、常晴二十一歳、はる十六歳は結婚し、岳東教会の事務所に住み込み、生活を始めた。翌年十月に常晴は悪性皮癬(ひぜん)の病気にかかったので実家の我入道へ帰って養生し、常晴の生涯を神様のご用に捧げることを家族一同が心定めて鈴木講元に祈願してもらい、命が救かった。
明治二十七年には長男真一が生まれ、神様との約束により翌年三月に芹沢家の屋敷内南側に楊原出張所が設立、常晴が初代担任となった。明治二十九年五月に二男光治良が誕生。この頃「ハズレ」の芹沢家は親族二十人程に加えて、常晴に助けられて信仰する人達も二~三十人集まって賑やかに振る舞う教会だった。
明治三十三年の春から沼津町城内片端
(通称五藤松=現在の沼津駅南口前、桃中軒周辺)の土地を借りて、我入道から神殿建物を移築し沼津出張所を設置。芹沢常晴一家五人も移り住み、他の六軒の布教師家族と共に紙漉(す)きの内職をして赤貧の生活を送ることとなった。
この時、四歳の光治良少年は我入道の祖父母の家に預けられて育てられたことが、人間の運命の始まりである。
我入道は大正十三年二月冬の夜、火災が発生し、西風によって村の大半が焼失した。村の復興に際し、道路が碁盤の目様に整理され、「ハズレ」の屋敷も分離されたが、芹沢光治良生誕の碑が建つ土地に大正十三年に建てられた楊原分教会の古い写真=右=が残っている。
(芹沢光治良兄弟の孫、天理教楊原分教会会長、我入道)
(沼朝平成27年1月30日号)
2011年12月14日水曜日
芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会
気さくでスイス好んだ芹沢光治良
作品研究者の鈴木吉維さんが講演
パリ留学時代を解説
聴講者が知る逸話紹介も
市教委は、芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会を、このほど市立図書館で開催。芹沢作品研究者で神奈川県立川崎北高校総括教諭の鈴木吉維さんが「芹沢光治良の欧州体験」と題して話した。
講演に先立ち、沼津芹沢文学愛好会の和田安弘代表があいさつ。「半年間に二回も芹沢文学に関する講演会が開かれ、そこに多くの方が足を運んでいただいている。芹沢文学への市民の関心が高まりつつある証しだと思う。市役所の市長応接室には芹沢作品が揃って置かれている。市長が率先して芹沢文学への関心を広めようとしており、とても心強く感じている」と話した。
また、芹沢四女の岡玲子さん(東京都在住)が「生前の父が、リンドバーグが大西洋無着陸飛行をしてパリに到着した時のパリ市民の歓喜について私に聞かせてくれたことがありました。リンドバーグの飛行は大昔の出来事だと思っていましたが、芹沢光治良記念館に展示されていた父のパリ時代の手紙を目にした時、当時の父と今とが瞬間的につながったような気がしました。私達姉妹にとっての大切な宝が沼津にある。沼津市民の皆さんに深い感謝と御礼を申し上げます」と語った。
講演に移ると、鈴木さんは自分が芹沢文学に向き合うようになったきっかけから話し出した。大学二年生の時、ライフワークとなる研究課題を檀一雄と芹沢のどちらにしようか悩んでいたところ、恩師から「ノーベル文学賞は川端か芹沢か、と言われていたこともある。ぜひ芹沢にしなさい」と勧められたのだという。
そこで鈴木さんは芹沢を選び、研究会に出席することにした。すると、芹沢本人が研究会にやってきた。他の出席者からまばらな拍手があり、続いて芹沢が自作品の主人公などについて気さくに語り出したため、それを見た鈴木さんは「本当にこれが芹沢光治良なのか」と衝撃を受けたという。当時、現役の作家が読者の集まりに気軽に顔を出すのは珍しいことだった。
それ以来、鈴木さんも研究会に足繁く通うようになる。
「私は悪い読者」と自らを評する鈴木さん。研究会で芹沢に会うたびに、「なぜこの登場人物を、この場面で死ぬようにしたのか」などと、わざと意地悪な質問を浴びせ続けた。当時、芹沢は八十歳を過ぎていたが、二十歳そこそこの若者の失礼な質問に対し、すべてまじめに答えてくれた。
鈴木さんは芹沢宅も訪れたが、芹沢はいつもネクタイを締めて身なりを整え、来訪者を待っていたという。
さらに鈴木さんは、自分と芹沢とのエピソードを紹介した後、芹沢の欧州留学と後の作品の影響について話した。
大正十四年、官僚だった芹沢は、鉄道会社を経営する裕福な妻の実家の援助も受けて、フランスへと向かう。当時のフランと日本円の為替レートは、円高の状態で、渡仏する日本人が多かった。
当時、九百人の在仏日本人の八割強がパリにいた。そのため、パリには日本人社会のようなものも形成され、日本人向けの店で味噌やたくあんを買うことができた。そのパリで芹沢は、画家の佐伯祐三や、ファーブル昆虫記の翻訳で知られる椎名其二らと出会う。佐伯との出会いは小説『明日を逐うて』に影響している。
また、妻が病気になった際は、留学中の日本人医学博士の診療を受けている。この博士の詳細については不明だが、鈴木さんは、小説『巴里に死す』の主人公が医学者であることとの関連を指摘する。
一方で、芹沢は素行に問題のある日本人達も目にしており、それらの人達を「日本人ゴロ」と呼んでいた。
そして、鈴木さんは、芹沢が長女宛てに書いた手紙の中にある「私は唯物論者になった」という記述に着目。信仰心の篤い家に生まれた芹沢がそのように変わった原因を芹沢の欧州経験の中から探った。
芹沢の欧州行きは船旅だったが、船がシンガポールに寄港した際、乗客がコインを海に投げ、それを現地人の子どもが潜って拾いにいくという姿を芹沢は見ている。また、結核に冒されスイスで療養した際には、医学の進歩が一握りの富裕層にしか恩恵をもたらさなかったという感慨を抱いている。
当時、日本国内ではマルクス全集の刊行が始まっており、こうした世相と欧州で見聞きしたことが、芹沢に「唯物論者」と名乗らせたのではないかと、鈴木さんは分析する。
鈴木さんは欧州体験が芹沢に与えた影響について論じた後、改めて芹沢との交流を回想し、「芹沢は『文豪』と呼ばれることもあるが、とても気さくな人。芹沢先生との出会いは、今の自分を支える宝になっている。私は物事について考えるとき、『芹沢先生なら、どう思うか』と考えることがある」と語って講演を終えた。
引き続き、質疑応答の時間となり、多くの質問があった。
川崎市から訪れた男性は、芹沢が自作品の中で、自分の分身である登場人物が官僚に出世した後も故郷で村八分の扱いを受けたように書いていることを挙げ、それは事実を反映しているのか、と質問。
鈴木さんは「官僚になったことは、地元にとって名誉なことだったが、その地位を捨てて作家になってしまったことに対し、批判的な目を向ける人もいたと思われる」と話し、当時は作家の地位が低かったことを説明した。
この質問に関しては、市内の男性が発言を求め、芹沢の第二作『我入道』の存在を指摘。この作品の中における当時の我入道地区の描き方が、地元民の反発を招いた、とした。
また、芹沢の自伝的小説『人間の運命』に自分の祖母と思われる人物が登場しているという女性が発言し、『人間の運命』の中では、祖母は売り飛ばされたことになっているが、現実では祖母は売られていない、というエピソードを紹介するとともに、「祖母は芹沢さんのことを『みっちゃん、みっちゃん』と呼んでいました」と話した(注・
本名では光治良を「みつじろう」と読む)。
こうした我入道関係者らの指摘について鈴木さんは「フィクションは、あくまでもフィクション。でも、私は自伝的小説の中の主人公は芹沢本人だと思っても良いと思っている。その方が、感情移入できるし、これも一つの読み方だと思っている」とした。
また、芹沢と面識があるという男性は、芹沢から欧州留学時代の話を直接聞いたことがある、と話し、「先生はスイスのことばかり話していた。スイスの国情について多く触れ、イタリア系やドイツ系、フランス系の住民が一緒に暮らしていることを評価し、『世界中がスイスのようになれば、なんと愉快な世界になるだろうか』と話していた」と回想した。
これに対して鈴木さんは「小説『ブルジョア』の舞台はスイス。芹沢にとってスイスは理想だった。芹沢はイタリアも訪れたが、当時のイタリアはファシスト国家。芹沢は『ファシストは幼稚』という感想を持っている。そういうイタリアを見てきた芹沢にとって、スイスでの体験は鮮烈だったのだろう」と語った。
郷土ゆかりの作家だけに、参加者からも貴重な証言が次々に出る中で講演会は終了した。
(沼朝平成23年12月14日号)
作品研究者の鈴木吉維さんが講演
パリ留学時代を解説
聴講者が知る逸話紹介も
市教委は、芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会を、このほど市立図書館で開催。芹沢作品研究者で神奈川県立川崎北高校総括教諭の鈴木吉維さんが「芹沢光治良の欧州体験」と題して話した。
講演に先立ち、沼津芹沢文学愛好会の和田安弘代表があいさつ。「半年間に二回も芹沢文学に関する講演会が開かれ、そこに多くの方が足を運んでいただいている。芹沢文学への市民の関心が高まりつつある証しだと思う。市役所の市長応接室には芹沢作品が揃って置かれている。市長が率先して芹沢文学への関心を広めようとしており、とても心強く感じている」と話した。
また、芹沢四女の岡玲子さん(東京都在住)が「生前の父が、リンドバーグが大西洋無着陸飛行をしてパリに到着した時のパリ市民の歓喜について私に聞かせてくれたことがありました。リンドバーグの飛行は大昔の出来事だと思っていましたが、芹沢光治良記念館に展示されていた父のパリ時代の手紙を目にした時、当時の父と今とが瞬間的につながったような気がしました。私達姉妹にとっての大切な宝が沼津にある。沼津市民の皆さんに深い感謝と御礼を申し上げます」と語った。
講演に移ると、鈴木さんは自分が芹沢文学に向き合うようになったきっかけから話し出した。大学二年生の時、ライフワークとなる研究課題を檀一雄と芹沢のどちらにしようか悩んでいたところ、恩師から「ノーベル文学賞は川端か芹沢か、と言われていたこともある。ぜひ芹沢にしなさい」と勧められたのだという。
そこで鈴木さんは芹沢を選び、研究会に出席することにした。すると、芹沢本人が研究会にやってきた。他の出席者からまばらな拍手があり、続いて芹沢が自作品の主人公などについて気さくに語り出したため、それを見た鈴木さんは「本当にこれが芹沢光治良なのか」と衝撃を受けたという。当時、現役の作家が読者の集まりに気軽に顔を出すのは珍しいことだった。
それ以来、鈴木さんも研究会に足繁く通うようになる。
「私は悪い読者」と自らを評する鈴木さん。研究会で芹沢に会うたびに、「なぜこの登場人物を、この場面で死ぬようにしたのか」などと、わざと意地悪な質問を浴びせ続けた。当時、芹沢は八十歳を過ぎていたが、二十歳そこそこの若者の失礼な質問に対し、すべてまじめに答えてくれた。
鈴木さんは芹沢宅も訪れたが、芹沢はいつもネクタイを締めて身なりを整え、来訪者を待っていたという。
さらに鈴木さんは、自分と芹沢とのエピソードを紹介した後、芹沢の欧州留学と後の作品の影響について話した。
大正十四年、官僚だった芹沢は、鉄道会社を経営する裕福な妻の実家の援助も受けて、フランスへと向かう。当時のフランと日本円の為替レートは、円高の状態で、渡仏する日本人が多かった。
当時、九百人の在仏日本人の八割強がパリにいた。そのため、パリには日本人社会のようなものも形成され、日本人向けの店で味噌やたくあんを買うことができた。そのパリで芹沢は、画家の佐伯祐三や、ファーブル昆虫記の翻訳で知られる椎名其二らと出会う。佐伯との出会いは小説『明日を逐うて』に影響している。
また、妻が病気になった際は、留学中の日本人医学博士の診療を受けている。この博士の詳細については不明だが、鈴木さんは、小説『巴里に死す』の主人公が医学者であることとの関連を指摘する。
一方で、芹沢は素行に問題のある日本人達も目にしており、それらの人達を「日本人ゴロ」と呼んでいた。
そして、鈴木さんは、芹沢が長女宛てに書いた手紙の中にある「私は唯物論者になった」という記述に着目。信仰心の篤い家に生まれた芹沢がそのように変わった原因を芹沢の欧州経験の中から探った。
芹沢の欧州行きは船旅だったが、船がシンガポールに寄港した際、乗客がコインを海に投げ、それを現地人の子どもが潜って拾いにいくという姿を芹沢は見ている。また、結核に冒されスイスで療養した際には、医学の進歩が一握りの富裕層にしか恩恵をもたらさなかったという感慨を抱いている。
当時、日本国内ではマルクス全集の刊行が始まっており、こうした世相と欧州で見聞きしたことが、芹沢に「唯物論者」と名乗らせたのではないかと、鈴木さんは分析する。
鈴木さんは欧州体験が芹沢に与えた影響について論じた後、改めて芹沢との交流を回想し、「芹沢は『文豪』と呼ばれることもあるが、とても気さくな人。芹沢先生との出会いは、今の自分を支える宝になっている。私は物事について考えるとき、『芹沢先生なら、どう思うか』と考えることがある」と語って講演を終えた。
引き続き、質疑応答の時間となり、多くの質問があった。
川崎市から訪れた男性は、芹沢が自作品の中で、自分の分身である登場人物が官僚に出世した後も故郷で村八分の扱いを受けたように書いていることを挙げ、それは事実を反映しているのか、と質問。
鈴木さんは「官僚になったことは、地元にとって名誉なことだったが、その地位を捨てて作家になってしまったことに対し、批判的な目を向ける人もいたと思われる」と話し、当時は作家の地位が低かったことを説明した。
この質問に関しては、市内の男性が発言を求め、芹沢の第二作『我入道』の存在を指摘。この作品の中における当時の我入道地区の描き方が、地元民の反発を招いた、とした。
また、芹沢の自伝的小説『人間の運命』に自分の祖母と思われる人物が登場しているという女性が発言し、『人間の運命』の中では、祖母は売り飛ばされたことになっているが、現実では祖母は売られていない、というエピソードを紹介するとともに、「祖母は芹沢さんのことを『みっちゃん、みっちゃん』と呼んでいました」と話した(注・
本名では光治良を「みつじろう」と読む)。
こうした我入道関係者らの指摘について鈴木さんは「フィクションは、あくまでもフィクション。でも、私は自伝的小説の中の主人公は芹沢本人だと思っても良いと思っている。その方が、感情移入できるし、これも一つの読み方だと思っている」とした。
また、芹沢と面識があるという男性は、芹沢から欧州留学時代の話を直接聞いたことがある、と話し、「先生はスイスのことばかり話していた。スイスの国情について多く触れ、イタリア系やドイツ系、フランス系の住民が一緒に暮らしていることを評価し、『世界中がスイスのようになれば、なんと愉快な世界になるだろうか』と話していた」と回想した。
これに対して鈴木さんは「小説『ブルジョア』の舞台はスイス。芹沢にとってスイスは理想だった。芹沢はイタリアも訪れたが、当時のイタリアはファシスト国家。芹沢は『ファシストは幼稚』という感想を持っている。そういうイタリアを見てきた芹沢にとって、スイスでの体験は鮮烈だったのだろう」と語った。
郷土ゆかりの作家だけに、参加者からも貴重な証言が次々に出る中で講演会は終了した。
(沼朝平成23年12月14日号)
2011年11月17日木曜日
文学者・芹沢光治良生誕115周年

文学者・芹沢光治良生誕115周年
欧州体験と影響解説 沼津で講演会
沼津市出身の文学者芹沢光治良の生誕115周年の記念講演会が13日、同市立図書館で開かれた。芹沢文学を研究する神奈川県の高校教諭鈴木吉維氏が講演し、文学者の出発点となった欧州での体験と、後の作品への影響を解説した。
農商務省を辞した芹沢は1925年に妻とパリに渡った。長女が生まれ、社交界にも出たが、肺結核でスイスなどに移り28年に帰国した。30年に療養時の日記をもとにした「ブルジョア」で文壇デビューを果たした。
生前の芹沢から聞き取りを続けていた鈴木氏は「経済学を志望して渡仏した芹沢にとって、欧州滞在は文学の道を逡巡(しゅんじゅん)した時期だった」と位置付けた上で、「研究者として長期滞在したことで、庶民と上流階級の貧富の差や男女平等の意識を感受した。日本と異なる仏文学の論理性にも触れるなど、個々の体験が、作品に色濃く反映されている」と述べ、作家としての原点を強調した。
約170人の来場者からは、作品についての質問が多数挙がった。
(静新平成23年11月16日朝刊)
登録:
投稿 (Atom)