2014年9月22日月曜日

戦国時代沼津の三大城巡り

 沼津市立図書館秋の企画展
 戦国沼津の三大城巡り
 ~展示内容に一歩踏み込みたいあなたへ贈る解説~

 沼津の地理的特徴とはどういったものが考えられるでしょうか。東海道を代表とする「東西」の道と山梨県から御殿場・裾野を通る「南北」の道との交差点、急峻な箱根の手前に位置する東国への玄関口、駿河湾の最奥部と伊豆半島への入り口、これらは全て沼津を語るうえでの重要な特徴であるといえます。そして現在に限らず、戦国時代においても、沼津の地は地理的優位性によって東駿河の中心地であったのです。
 このことから、戦国時代において沼津の地を抑えることは戦略上非常に重要な意味を持っていました。特に北条早雲(伊勢宗瑞)旗揚げの城として知られる興国寺城は、当時の主要街道である根方街道沿いに築かれており、東西の交通を見張ることが可能でした。早雲旗揚げ以後、興国寺城が120年間にもわたって、この地の重要な城として機能し続けたのも重要な街道を抑えるという目的があったからでしょう。
 その後、駿河国(静岡県中東部)の今川氏、甲斐国(山梨県)の武田氏、伊豆・相模国(神奈川県)の北条氏の三氏による争いが、途中の同盟期間を含めても20年近くにわたって行われました。三氏による争いは、駿河国を手に入れた武田氏と伊豆国を治める北条氏の争いへと変わり、狩野川付近に引かれた駿河国と伊豆国の境では、繰り返し戦いが起こっています。武田氏は興国寺城を拠点としながらも前線基地として三枚橋城を築き、さらに千本浜には武田水軍を集結させました。一方、北条氏はこれに対抗して、長浜城を築き、当時最先端の海戦術を持った北条水箪の主力を伊豆に集めました。そして武田氏の侵攻に対抗したのです。両氏の決着はつきませんでしたが、武田氏は織田氏と徳川氏によって滅ぼされ、この地は徳川氏の領有となります。
 徳川氏の領国となった沼津は、引き続き徳川氏と北条氏の前線となりました。一時同盟関係が結ばれたものの、豊臣秀吉の臣下となった徳川氏は、豊臣氏とともに北条氏攻略に乗り出します。北条氏の本拠地は小田原城であったため、箱根手前の沼津は北条氏攻略のための最前線基地として機能しました。北条氏滅亡後の沼津は、豊臣氏の家臣である中村一氏の支配地となりました。中村一氏は、弟の一栄を三枚橋城城主とし、江戸に転封(配置換え)された徳川家康への備えとしています。徳川家康の支配地の最西端が小田原であったため、またも沼津は徳川氏に対する最前線の役割を果たしました。この時に三枚橋城は、石垣を伴う城へ改修されたと考えられます。これにより、豊臣氏がいかに沼津を重要な地点と位置付けていたかを伺うことができます。
 関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下を統一すると、「支配領域の境目」という沼津の地理的特殊性は失われることになりました。その結果、江戸時代初頭には三枚橋城や興国寺城は廃城となり、沼津は東海道の宿場町へと変わっていきました。






 〈興国寺城跡〉

 興国寺城は、北条早雲(伊勢宗瑞)旗揚げの城として知られています。早雲は、中央の政変の動きに呼応して、伊豆に攻め入り、伊豆国を奪取しました。下剋上の例として知られるこの出来事から、東国における戦国時代は始まったのです。

 その後も興国寺城は束駿河における重要な拠点であり続けました。今見えている興国寺城の姿は最終段階、つまり江戸時代初期の姿ですが、様々な城主によって支配を受けた興国寺城は、繰り返し改修が行われ、その時の城主の兵力に合わせながら、城の姿を変えています。たとえば、後の改修によって当時の様子はわかりにくくなっていますが、最初期の北条・今川段階の興国寺城は、16世紀前半の遺物が現在の三の丸から多く出土していることから、根方街道沿いにあったのではないかと想定しています。
 続く武田氏が支配した時の興国寺城の城域は、武田氏が得意とした「丸馬出し」(三日月堀と土塁を組み合わせる入口の作り方)を根拠に、現在の本丸から北曲輪を想定しています。特に本丸の南側に造られた三日月堀からは、16世紀中ごろに作られた「播鉢」が堀の底から見つかりました。この三日月堀は、本丸堀の改修によって、一気に埋められていることが発掘調査で判明したため、「揺鉢」の年代は、この堀が埋められた時期を示している可能性が非常に高いと考えられます。つまり、武田氏が造った三日月堀は、次に城主となった徳川氏によって破壊され、その後に別の形に造り直されていることが想定されるのです。
 武田氏が滅亡した後、興国寺城は、徳川氏の城となります。文献を読む限り、この段階での細かな改修はわかりませんが、参考になる文献があります。『関八州古戦録』巻之十六には、豊臣軍が小田原へ攻め込む直前のことが書いてあり、その記載を見ると「先陣追々二押来テ、富士ノ根方・(中略)、野ニモ山ニモ充満タルニ」とあります。小田原へ向かう大軍勢で根方(興国寺城付近)はあふれかえったのでしょう。そして、この文献と同時に、発掘調査でも徳川段階と想定される城域こそが、興国寺城の歴史の中で一番広かったと考えるデータがそろってきました。面積ももちろんのこと、同時に防御施設の大きさも変化しています。「堀はより広く、土塁はより高く」。これは、戦いにおける鉄砲の使用が一般化した戦国時代後半において全国的にみられる傾向ですが、これは興国寺城でも当てはまるのです。
 最後は、豊臣氏家臣の河毛重次と徳川氏家臣の天野康景の段階です。大空堀や伝天守台が造られた段階ですが、どちらの城主が普請したのかはまだ検討が必要です。この段階で重要な事項は、7㎞しか離れていない三枚橋城には、高石垣・瓦葺きの天守が造られたにもかかわらず、興国寺城には最後まで天守は造られなかったということです。
 今回解説した事項は平成15年度より本格的に開始した発掘調査によって判明してきたばかりの事ですが、広大な興国寺城の全体解明にはまだ少し時間がかかります。今後の調査によっては、今回解説したことが覆されるかもしれません。




 〈三枚橋城跡〉

 三枚橋城の築城時期は諸説ありますが、天正7(1579)9月の北条氏の文書に「このたび駿豆(※駿河と伊豆のこと)の境()沼津号地()、地利(※城のこと)築かれ候」とあり、築城した武田の文書にも、ほぼ同時期に「当地普請(※城を造るもしくは改修すること)悉く出来」と伝えているため、天正7(1579)が有力な説であるといえます。
 しかし武田氏段階の三枚橋城の姿はどんな状況であったかは、よくわかっていません。現在市街地に埋もれてしまっているため、発掘調査が困難であることも主な原因ですが、後世に大きく改変を受けていることが、一番の理由にあるでしょう。
 武田氏滅亡後は徳川氏の城となり、その後、北条氏が滅亡して徳川氏が関東に転封(配置換え)となると、駿河国は、豊臣氏家臣の中村一氏の領地となります。この段階に残った豊臣氏の脅威は、小田原城を領地の西端とする徳川氏のみであったため、沼津は徳川氏への備えのための重要な地となりました。そこで沼津の地には、一氏の弟である一栄が置かれることとなり、この時に三枚橋城は、武田氏築城の「土の城」から「石垣の城」へと変わったと考えられます。 当時の徳川氏は、かつてないほどの高層建築物である「天守」を造る為の職人集団を抱えていなかったと考えられています。これは、後年に江戸城を造る際に、石垣を造った大名が、ほとんど西国の大名であったことからも推測されます。一方、当時に西国の大名や技術者集団を抑えていた豊臣氏は、天守建造のための知識や技術を持っていました。三枚橋城に石垣造りの天守を築くということは、徳川氏が持ち合わせてなかった最先端技術を徳川氏に見せつける狙いがあったのかもしれません。
 三枚橋城は関ヶ原の戦いの後、徳川氏の家臣である大久保忠佐が城主となりました、忠佐は小田原城の城主であった忠世の弟です。この段階で、沼津と小田原は共に徳川氏の家臣、しかも兄弟で治められることになりました。これは、武田対北条、豊臣・徳川対北条、豊臣対徳川と、これまで戦いの前線としての位置づけられていた三枚橋城が、江戸時代になって、その役目を終えようとしていたことを示しています。そして実際に後継ぎがいなかった忠佐が亡くなると、新しい城主は据えられることなく、三枚橋城は廃城となりました。
 そして三枚橋城廃城から約150年後、三枚橋城の跡地には沼津城が築かれました。本丸の場所は、沼津中央公園付近で三枚橋城と変わりませんが、全体の面積は三枚橋城より狭くなっています。しかし明治時代に入ると、沼津城は沼津兵学校の校地に使用された後、道路の新設や大火などで完全にその姿を消してしまいました。
現在では、三枚橋城および沼津城の様子は、石碑や一部復元された石垣を除いて、伺うことはできません。
 しかし三枚橋城廃城から約400年たった今、発掘調査で発見された三枚橋城の石垣の一部は、千本常盤地区に整備を進めている人口高台「築山」のオブジェとして、利用されることになりました。当時の場所からは少し離れてしまいましたが、かつて城を守っていた石垣は、沼津市民を守る築山の一部となって甦える予定です。



 〈長浜城跡〉

 長浜城は、現在の内浦長浜と重須地区にまたがった岬の上に作られた水軍の城です。築城のきっかけは、天正7(1579)に武田氏が沼津に三枚橋城を築いたことに起因します。北条氏もこれに対抗し、韮山城を守る布陣を整えました。その中でも長浜城は海の防備を固める重要な城として位置づけられ、当時、東京湾で大きな活躍を見せていた北条水軍の梶原景宗を長浜城に呼び寄せています。こうして、三枚橋城と長浜城は、わずか10㎞の距離でにらみ合う関係となったのです。
 本格的な戦いは翌年春から開始されました。江戸時代に書かれた軍記物を見る限り、重須浦に武田水箪が攻撃を行い、梶原景宗率いる北条水軍が応戦したことで開戦したようです。その後、北条水軍の反撃により、武田水軍は浮島ケ原にまで引き上げましたが、北条水軍はこれを追撃して、両水軍は日が暮れるまで戦ったと書かれています。
 海戦の勝者は明らかではありません。なぜなら、両軍ともに水軍大将の戦功を褒め称えている文書が残っているのです。4月に武田勝頼は、武田水軍の小浜泉隆・向井政綱の両名に「今度伊豆浦に至り行に及ぶ砌、梶原馳せ向かうの処、挑戦し郷村数か所を撃破、殊に敵船を奪い捕えるの由、誠に戦功の至比類なく候」という感状(戦功をたたえる賞状の事)を出しています。一方北条氏も梶原景宗に対して、先の戦功(駿河湾海戦)を認めて、新たに大船を建造し、三浦郡栗濱の土地150貫を与えるので、乗組衆を仕立てるよう命じています。
 このような状況ですが、残存する文書から判断すると、武田水軍に対する感状が目立ちます。これをそのまま鵜呑みにすることはできませんが、天正9(1581)になっても武田勝頼からの感状が多く出されていることから、駿河湾での海戦は、武田水軍が有利に進めていたと考えられます。しかし徳川氏と同盟関係にあった北条氏は、天正10(1582)に織田氏・徳川氏が武田攻略戦に乗り出すと、これに呼応して、三枚橋城への陸路での攻略を進め、落城させています。こうして武田氏との決着がつくことになりました。
武田氏滅亡後は、長浜城はその役目を終えていたためか、あまり歴史の舞台に登場しなくなります。天正18(1590)に豊臣秀吉が小田原攻略に乗り出すと、沼津はそのための前線基地となりますが、海戦の中心は下田の方へ移っていたため、長浜城には地元士豪が少人数で守るだけの城となっています。このように整理していくと、長浜城が北条氏の城として重要な意味を持っていたのは、対武田戦に備えた天正7(1579)から10(1582)のわずか3年間ということになります、しかし長浜城には、至る所に北条氏の特徴的な城の造り方が反映されていて、ここから長浜城に対する北条氏の戦略的位置づけを見ることができるのです。面積は興国寺城の10分の1程度しかない小さな城ですが、「三枚橋城が城から正面に見える」という城の造りと北条氏の特徴的な防御施設を目の前にすると、北条氏の緊張感を感じざるを得ません。
(平成26920日沼津市立図書館4F展示ホール)
パネル展画像資料


2014年8月28日木曜日

高尾山古墳追加調査新聞記事

沼津・高尾山古墳追加調査
 築造20年後に埋葬
 古墳時代初期の前方後方墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の発掘調査を進めていた同市教委は27日、古墳は230年ごろに墳丘が完成し、250年ごろに埋葬されたと、調査結果を発表した。市教委の担当者は「墳丘の築造時期と埋葬時期に開きがあるとはっきり分かったのは珍しいケース」と話した。
 高尾山古墳は都市計画道路「沼津南一色線」の工事を前にした発掘調査で存在が明らかになった。2008~09年の調査で、古墳の成立年代については卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)とほぼ同じ250年ごろとする説と、それより古い230年ごろとする二つの説に分かれたため、年代を明確にするために追加調査を今年5月から7月まで行った。
 追加調査は人が埋葬されていた主体部を中心に幅1㍍、深さ2㍍の溝を計7本試掘した。発掘の結果、墳丘から出土した2千点の土器は230年ごろのものが大半で、それ以前のものが見つかっていないことから、墳丘の築造時期は同年ごろと判断した。埋葬時期は副葬品として250年ごろの鉄製のやじりが見つかっていることから、同年ごろとした。主体部周辺から見つかっていた230年ごろの土器は埋葬時に混入したと結論付けた。
(静新平成26年8月28日朝刊)

高尾山古墳シンポジューム資料画像

2014年8月24日日曜日

岳陽少年団:沼津史談会第5回沼津ふるさとづくり塾

沼津が誇る教育の先進性
岳陽少年団講演 湯川早大教授が指摘

 沼津史談会(菅沼基臣会長)は十六日、第5回沼津ふるさとづくり塾を開いた。早稲田大教授の湯川次義氏が「近代沼津の教育-岳陽少年団の成立と展開」と題して話した。
 兵学校以来、国内有数の特色
 背景に豊かな伝統、文化、自然
 岳陽少年団は、大正初期に沼津で結成された教育団体で、学校外で行われる社会教育を担った。最盛期の一九四〇年ごろには下部団体七一、団員三万人を数え、これらには東京、埼玉など関東の団体も含まれている。翌年解散し、国策により誕生した沼津市青少年団に改編された。
 活動内容としては、木太刀を用いた武道や手旗信号の訓練、野営などがあり、赤穂浪士や陸軍大将乃木希典を顕彰する「義士祭」や「乃木祭」などの行事を行った。
 湯川氏は、郷土史研究家の辻真澄氏の著書を引用しながら、岳陽少年団の性質について、皇室崇敬、武道重視、学校中心の三点を挙げた。
 このうち「学校中心」というのは、学校ごとに分団が設置され、学校として木太刀の訓練などを行ったことをいう。皇室や武道を重視したことについて湯川氏は、初期指導者が高級軍人や士族などの出身だったことを理由に挙げた。
 しかし、こうした特徴は、他の少年団との対立を生むことにもなった。
 岳陽少年団も加盟していた少年団日本連盟がイギリス式ボーイスカウトの訓練法導入を加盟団体に求めると、岳陽少年団はこれに反発して連盟を脱退。この脱退は他の加盟団体にも大きな影響を与えたという。
 一九三一年の満州事変以降、国内の国家主義的傾向が強まると、文部省や軍部は非ボーイスカウト系団体の結集を進めて帝国少年団協会を設立。当初は独自路線を歩んでいた岳陽少年団もこれに加入した。
 四〇年には、ドイツの少年団組織「ヒトラーユーゲント」の沼津来訪に合わせて交流行事を開いている。
 岳陽少年団のあらましについて説明した湯川氏は、同少年団の歴史的意味合いについて、「沼津は沼津兵学校以来、国内でも有数の特色ある教育が行われてきた地域であり、岳陽少年団など全国的にも注目される数多くの教育活動が行われてきた。この背景には、沼津地域が持つ豊かな伝統、文化、自然などがあり、そこに育った先覚者や地域住民のより良い教育を実現しようとする精神や意欲によって営まれてきた。これは沼津市民が誇るべきこと」と解説した。また、岳陽少年団がその後の地域に与えた影響の大きさも指摘し講演を終えた。
 次回は919日、宮本常一取り上げ
 なお、史談会による第6回「沼津ふるさとづくり塾」は九月十九日午後六時半から市立図書館四階の視聴覚ホールで開かれる。岩崎敦史(世間士かるの)さんが「宮本常一ーその眼差しと足跡を追って」と題して話す。参加には資料代五百円が必要。
 申し込みは、同会の匂坂信吾(さぎさか・しんこ)副会長(電話〇九〇ー七六八六-八六一二)へ。

(沼朝平成26824日号)

2014年8月20日水曜日

「沼津市発展のために」:シルク紳士まかり通る

「沼津市発展のために」:シルク紳士まかり通る
 ・石橋治郎八著・昭和371220日発行

 戦災で横浜の家を焼かれてから、私は沼津の千本浜にある別荘に住んでいた。昭和二十五年のある日、その別荘に元沼津市長だった名取栄一さんが訪ねてきた。
名取さんは突然こんなことを言い出した。「石橋さん、あなたはこの沼津に敷地二万坪、建坪が六千五百坪もある大工場を個人で経営している。沼津商工会議所の会頭たる資格は十分にある。ぜひ次の会頭を引き受けてくれませんか」
 私には突然の話だったが、近く沼津商工会議所会頭の改選があるので、名取さんの一派が私を推そうというのである。その時の会頭は駿河銀行頭取の岡野豪夫氏で、岡野さんは再出馬を表明していたのに対し、名取一派がそれに反対して私を担ぎ出したわけなのであった。
 私はその任でないからと言って断わったのだが、名取さん一派は私の承諾なしで私を会頭に推してしまった。結局私の立侯補の意志もないままに、投票が行なわれたのであったが、開票の結果は私が当選していた。私は、実際問題として駿河銀行の頭取を差し置いてまで私が会頭になるのもどうかと思ったので、当選の結果がでてからも固辞し続けていた。
 しかしついにどうしても引き受けざるをえない破目に立ってしまったのである。結局、選挙の結果通り私は会頭に就任したが、「自ら進んで岡野さんを蹴落したのでもなく、自ら希望して会頭になるのでもない」ことをはっきりさせておくために、日銀の松本静岡支店長(現大阪支店長)に沼津までご足労を願って名取さん達を前に立ち会ってもらった上で就任を表明したのである。
さて、会頭になって、私が最初に考えたことは沼津市の商店街を発展させることであった。
 当時沼津の商店街は、装飾も.不十分で都市の商店街としての体裁をなしていなかった。その最たる原因は、銀行が商店に融資をしないことであった。商店街の発展にはまず融資の道をつけることが先決であると考えた私は、直ちに商工会議所が中心となって信用組合を設立し、市内の中小企業を対象に融資を始める方策をとった。するとその効果はてきめん、商店街は店構えを直したり、共通の街灯をつけたりして、見違えるようにきれいになり活気を呈しはじめたのである。
 次に力を入れたのは専門店会の育成である。そのころチケットで月賦販売する専門店会が関西からはやってきた。沼津でも有志が集まって専門店会を結成する計画が進められた。ところがその資金はわずかに三十万円だという。私は顧問の資格でその総会に出席して一席ぶった。「三十万円の資金ではせっかく専門店会をつくっても動きがとれないのではないか。せめて百万円にしなさい。そのかわり、私が貴任をもって静岡銀行から一千万円の信用融資を取りつけてあげます」
 もちろん会員たちは一も二もなく賛成した。出資金を百万円に増額する件はただちに可決されたのである。
 こうして専門店会ができると、そのPRのため大口消費者である沼津を中心とした有力工場の総務関係者を招いてパーティを開いた。私はその席上、商工会議所会頭として次のような挨拶を述べた。
 「専門店会がチケットで月賦販売をやるというと、あなた方はおそらく市価より高く売りつけるのではないかとお考えになるかもしれない。また、それが従来の月賦販売の常識でもあります。しかし私が顧問として専門店会に関係する以上、現金正価と変わらない値段で販売するということをここで約束いたします。どうしてそういうことができるかと不思議に思う方もいるかもしれませんが、当会では静岡銀行から一千万円の融資を受けることになっておリ、商品はみな現金で仕入れるので安く入手できるのです。だからあなた方にも安い商品を提供できるわけであります。どうか、その点は安心して当会とお取引き願いたい」
 正価で月賦ーこの方針は図に当たった。その後沼津専門店会は年々発展し、静岡県下でも優秀な成績をあげるようになり、全国の専門店会のなかから表彰されるまでになった。同会が現在なお発展途上にあることは、まことによろこばしいことである。
 大きな企業は放っておいても自分でやっていけるが、小さな企業はそうはいかない。私は会頭としての仕事の重点を中小企業の育成において努力したつもりである。
もう一つ、私が任期中に力を入れたのは沼津駅の改築である。戦災を受けた沼津駅は終戦後もずっとバラック建てのままであった。当時、駅の改築は地元の寄付が相当ないと許可にならない建て前だった。
 あるとき、塩谷沼津市長が御殿揚で静養中の吉田首相から耳よりな話を聞いてきた。「これからの駅のあり方は構造を立体的にし、会社の事務所やいろいろな商店を置くようにしなければならぬ」という、いわゆる民衆駅の構想である。これに力を得て、私たちは工費一億円で鉄筋四階建ての駅を建築する計画を立てた。しかし国鉄側と話し合ってみると、民間が使用する分の建築費については民間の全額寄付とする、さらにそれを借りるときはこちらが権利金を出したうえ毎月賃貸料を払う、そして契約期間は八十年から百年という条件でなければ応じないという。
 すこぶるむずかしい条件だ。これでは寄付金を集めるわけにはいかない。残念ながら沼津駅改築計画は一時見送りとなった。
 それで私は沼津駅の改築のことは半ば諦めていたのだが、そのことがあってから六、七年たった頃、こんどは国鉄側から話が持ち込まれてきた。
 ー沼津駅改築の予算が四千万円ほどとれたが、地元から千五百万円の寄付が必要である。
その金が見込がつかなければ、改築はできないから予算も他にまわすことになるだろう、ということであった。
 千五百万円の寄付を集めることは容易ではない。しかしこの機を逸すると、沼津駅の改築は当分お預けとなる。あれやこれやと思いあぐねた末、私は国鉄側に沼津駅改築の図面をみせてもらうことにした。図面をみれば、なにかいい考えが湧くかもしれないと考えたのである。
 詳細に図面を検討したところ、改札口の上が百二、三十坪空いているのを発見した。これだ!これを活用する以外に手はない。私は早速この「空所を七、八十年の賃貸契約で貸してくれるなら千五百万円の寄付は引き受けます」と国鉄に申し入れた。
 しかし国鉄側では七、八十年の賃貸契約ではむずかしい、こちらの条件をのむなら応じようとの返事で譲らない。結局国鉄側の言いなりになるよりほかなかった。すでに駅弁を入れている桃中軒が二、三十坪を二百五十万円で引き受けることになっていたので、会議所としてはあとの百坪を借りる条件で千二百五十万円の寄付を引き受けることになった。
 これはいいささか独断専行のきらいがあった。しかし、ある場合は、この程度の蛮勇をふるわなければ何事も成就しがたいものである。
私は国鉄との契約は伏せたまま、しばらく形勢をみることにした。そのうちにいよいよ国鉄側は改築に取りかかり、新しい駅に対する一般の関心が高まってきた。ころはよし、私は会議
所の役員会を招集し、百坪の賃貸と寄付問題をはかった。
「新駅ができるについて階上の百坪を借りることができる。ただし、これには条件がある。場所に甲乙はつけるにしても、平均坪十三万円の権利金がいる。権利金といっても、その内容は寄付金だから権利証をもらうわけではない。さらに毎月賃貸料を払わねばならぬ。また不良品を客に販売するようなことがあれば、解約するといった条件もついている。したがって百坪を細かく分割して個人にやらせると解約されるものが出ないとはかぎらない。そこで私が責任者になって"沼津ステーション・デパート株式会社"をつくり、設備の一部を整え、あとは個人で経営するといった形をとったらどうだろうか。一応会社が金を出して、そのうえでみなさんにまた貸ししたという形をとれば、個人に不手際があっても解約されることはあるまい。こういう条件で坪十三万円で借りる人がいるだろうか。希望者が少なければ、東京方面に有力な借り手があるから、そちらへ頼むことになる。私は地元の発展のために、沼津で全部引き受けてくれればそれに越したことはないと思うのだが……」
 「問口一問、奥行四尺ぐらいのところが十三万円とは高過ぎる。坪十三万円かければ新しい店ができるじゃないか」こんな反対論がガヤガヤと出はじめた。
 「商工会議所としては、一応引き受けたから、みなさんにおはかりしたが、希望者が少なければ東京の有力者に貸すことになる。希望者は二週間以内に申し出てもらいたい」これ以上話し合っても、ここではまとまるまい、考える時間を与えた方がいいと思ったので、私はそう言って役員会を打ち切った。
 二週間経って、ふたを開けてみると、なんと申し込みは二・七倍もあり、こんどは割当に困るほどだった。予想通り私の作戦が奏効したわけである。
話は飛躍するようだが、三十七年四月一日、沼津駅の南北をつなぐ立派なガードが完成して祝賀会を行なった。これより五年ほど前には沼津北口駅が地元の強い要望をバックに完成している。この二つは沼津市の発展に大きく寄与するものだが、この二つとも完成に至るまでには棘の道があった。
 以前、沼津駅は南口だけで北口に駅がなかったため、駅北へ行く人は南口で降りてからガードをくぐらねばならなかった。ところが、このガードはお粗末で雨が降ると水びたしで通れない。年々駅北の商店街も発展してくるし、北口に駅をつくろうという声は十年ほど前から聞か
れていた。だが線路が十三本もある沼津駅に跨線橋をかけると、国鉄の古材を使っても一千万円はかかり、それを含めて工事費は全額地元負担でなければ着工できないと、国鉄では言っていた。これが北口に駅を実現する上の最大の障害となっていたのである。
 しかし、なんとか実現しようという地元の強い盛り上がりをバックにして、沼津駅北開発促進同盟会が発足し、私が会長になって運動にとりかかった。が、地元で集められる金はせいぜい一千万円どまりとあって、容易に実現しそうになかった。
 私は高木沼津市長と何回も国鉄静岡鉄道管理局へ足を運んで陳情したが、うまくいかない。そこで地元選出の遠藤代議士に一肌脱いでもらい、中央で建設省の建設局長に便宜をはからうよう頼んでもらったところ「なにか特別の理由がありますか」と聞かれた。
「雨が降るとガードに水がたまって、子供達が北部の学校へ通えなくなります。学校を休むわけにいかないので、学生達は危険な線路の上を歩いて通っているのが現状です。どうしても北口に駅をつくらなければなりません」
学生を持ち出したのは、われながら上出来だった。それならなんとかしようというわけで、建設省から国鉄に話が持ち込まれた。
 すると、すぐ静岡鉄道管理局長が本庁に呼ばれ、沼津北口駅工事の計画案をつくるよう命ぜられた。そのあとで管理局長に私が会うと「石橋さん、東京でどんなことを言ったのですか。うまくやりましたな」とほめてくれた。
 国鉄が見込んだ工費は二千万円あまりだった。うち地元負担は、七、八百万円で、あとは鉄道利用公債でまかなうことになった。いよいよ話がまとまったので、私達は遠藤さんといっしょに国鉄総裁室へ行った。ちょうど総裁が外遊中だったので副総裁と会った。
 結局、副総裁は鉄道利用公債を使うことに応じたが条件付きだった。
「いま国鉄運賃の値上げ問題が起きていますが、遠藤さんがこれに骨折ってくれるなら、鉄道利用公債の件を考慮しましょう。反対されるようなことはないでしょうね」遠藤さんはちょっと渋い顔をしたが「もちろんだ」と答えた。こうした政治的掛け引きに異論をはさむ向きもあろうが、ともかくこうして沼津北口に駅が五年前に実現したのであった。
これにはほかの人の力もあったが、なんといっても遠藤さんの力に負うところが大きかったのである。
 さて、こうして北口駅はできたが、ガードの方は相変らずで、雨が降れば水浸し、また狭くて大きな車は通れない。こんどはガードの拡張工事をやらねばならぬ。これなくしては沼津の発展はない。こういう声が地元で高まっていた。
 そのころ、遠藤代議士が岸内閣の建設相に就任したので地元の沼津市で祝賀会が開かれた。
市内千本の遠藤邸に永野運輸相と藤山外相がみえたので挨拶に伺うと、私は三人が話をしていた奥の座敷に通された。こんなチャンスはまたとない。ここでガード拡張の糸口をつかまねばならない。さて、どう切り出したものかー。
「遠藤さん、このたびは大臣にご就任でおめでとうございます。ところで一つ、私はうまいことを考えついたのですが、如何でしょう。これは昼寝していても代議士に当選する方法なのですが……」
 選挙といえば大臣でも眼の色を変える。私は第一球を投げて相手の出方をうかがった。
「なんだ、なんの話だ」はたして永野さんが身を乗り出してきた。
「それは沼津の南北の問、盲腸の手術をやるのです。この手術をしないと沼津は発展しません。こいつを遠藤さんにやってもらいたいのです。もし、ガードの拡張が実現すれば駅北住民の遠藤さんへの感謝はたいへんなものだと思います。幸い所管大臣の永野運輸相もおられることだし、ぜひご尽力願いたいものです」
「遠藤君、そういうことがあるのかね」永野運輸相がいうと遠藤さんが「どのくらいかかるかね」と私に聞いた。
「駅長の話ではガードの改築をやると一億五、六千万円ぐらいはかかるそうです」
永野さんがまた一膝乗り出して「そんなわずかなもんかい。そんないいことがあるなら君やろうじゃないか」といとも簡単に遠藤さんにそう言った。
その間、五分も経ったろうか。これでガードの改築がきまってしまった。予算は建設省でとるのだが、仕事は運輸省がやるのだから両者の連絡がうまくつかなければ仕事にならない。それが所管大臣が二人、それも時の首相岸信介と親分、子分の関係にありた二人が同席しているときに話を持ち出したので、たちまちまとまってしまった。
 すぐ陳情書を出せというので、私が会長をしていた駅北開発促進同盟会の名で陳情書を出した。ガードは三十七年四月一日、ついに開通した。
沼津市も都市計画で立派な道路ができ、御殿場線も舗装できたので、東京へ行く車はみなこのガードをくぐるようになった。このガードが今後の沼津市の発展に寄与するところの大きいのは疑いのないところである。
 このほか、産業会館の建設、日本最初のアーケード商店街、そして有名になった沼津市本町商店街の町づくりなど、会議所での仕事は際限なくつづいた。
 そのころ、私は沼津観光協会長を兼任していた。昭和二十七年のこと、夏の人寄せに夏祭りを計画し、手はじめに西条八十、中山晋平両先生に作詞作曲を依頼して「沼津音頭」と「沼津夜曲」をつくってもらい、レコドーにも吹き込んで、振リ付けも頼み、これを町内を通じて普及すると同時に、夏祭りの気分を高めるように努めた。
夏祭りは八月一日から三日問とし、観光協会の主催で狩野川河口の御成橋を中心に仕掛け花火なども用意して、盛大な花火大会を開いた。私はこの夏祭りの宣伝のため、沼津の芸者を狩り集め、満艦飾のトラックに乗せて沼津音頭のお披露目をし、近村から修善寺、伊豆半島と静岡県東部一帯を巡らせた。この三日間に集まった人波はざっと二十万、商店街に落ちた金は一億円にもなった。
 祭りは造るものである。人は集めるものである。思いがけぬ盛大な夏祭りになって商店街もホクホクだった。私も生まれてはじめてのような大音声で、狩野川河口で群衆にあいさつした、
おそらく〃街道一"の〃いい男"になっていただろう、翌年の夏はちょうど沼津御用邸にお出でになっていた皇太子殿下をお祭りにご招待し、ご観覧の光栄に浴した。
 この夏祭りは、いまでは東海道の名物となり、毎夏盛大に行なわれているのである。
 私はまた小田急の安藤社長と懇意だったので、沼津市の繁栄のため、新宿ー御殿場ー沼津の線で小田急乗り入れを促進した。そしてとりあえず御殿場までの乗り入れは実現したが、沼津までの開通はいろいろな事情で安藤さんも踏み切れず、沙汰やみとなった。もしこれが実現していれば、沼津は東京の奥座敷として今日以上に繁栄していただろうと思う。
こうして私は沼津商工会議所会頭を二期勤めたが、三期目のとき岡野元会頭派が私の三選に反対し、岡野さん自身、こんどはどうしても自分が出るといって猛運動を展開した。
 だが、このときは中立派から、のちに参議院議員になった富士製作の田中社長が私のあとを継いだ。
 私は昭和二十五年から三十三年まで七年半の問、会頭の席にあったが、その間、私心を捨て、いつも先頭に立って沼津市発展のために尽してきたつもりである。会頭になったころは終戦後のことで会議所もひどく荒れており、自分の金を出して修理したこともあった。当時は会議所の会費が義務づけられていなかったのでほとんど集まらなかった。そのため接待費、交際費などは全部持ち出しになった。
 こうした金は普通の株式会社なら税務面でも経費として落とせるのだが、私の場合は沼津工場で個人経営の形になっていたのでそれが出来なかった。行きがかり上、岡野前会頭がソッポを向いておられたこともその面ではひびいた。
 しかし、何が幸いになるかわからないものである。税務署では、私の会頭としての出費があまり大きいのを気の毒がって、非常に有利な条件で沼津工場の個人経営から法人への転換を認めてくれたのだった。
 当時、沼津工場は東京国税管内でも個人経営はペスト5に入るくらいで、むしろ個人経営なのが不思議なくらいだった。ある時、国税局の人がきて「あなたのところは個人でも、普通の会社よりは帳簿が正確だ。これなら間違いないし、会議所の出費も大きいことだから、この際株式会社に改めてはどうか」といった。
「工場の設備や士地を時価に見積もられると、厖大な税金がかかってくる。私の帳簿が信用できるというなら、帳簿そのままを認めて株式会社に移してくれますか」というと「できるだけご便宜を計りましょう」といってくれた。

こうして沼津工場は二十八年一月、株式会社として認められた。法人と個人では税金のかかり方が大きく違う。その後、私はこのおかげでどれだけ助かったかわからないのである。