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2019年8月19日月曜日

高尾山古墳発掘調査報告書 39・40頁 第23図 主体部遺物出土状況

沼津市文化財調査報告書 第104集
高尾山古墳発掘調査報告書
2012 沼津市教育委員会 平成24年3月30日発行
39・40頁 第23図 主体部遺物出土状況
報告書表紙

2018年3月8日木曜日

平成30年3月4日(日)高尾山古墳現地保存説明会




高尾山古墳は、背後に雄大な富士山、眼下には奥駿河湾という美しい眺望に恵まれた愛鷹山麓の山裾と平地の境に築造されています。
「これがスルガの王の塚か?!なんて大きいんだ!」スルガの王に招かれた隣国の使者は、初めて見る巨大な塚にびっくりしたことでしょう。富士山と愛鷹山が背後にそびえるその姿は、スルガの王の力を強く印象付けたはずです。
古墳が築かれた当時、古墳西側の低湿地帯には田子の浦を湾口とする浮島沼が形成されており、海から沼へ進入すれば、古墳の南西2~3km地点までは舟で到達できたと考えられます。
スルガの王が生きた弥生時代後期には、舟の製作技術が発達し遠隔地(えんかくち)との交流が活発化していました。波の穏やかな浮島沼は舟が発着する港として利用され、物資の運搬や情報の伝達が盛んに行われていたかもしれません。高尾山古墳の雄大な姿は、海からやってきた人々の目にもいちばんに飛び込んできたことでしょう。
かつて高尾山古墳の後方部には高尾山穂見神社(たかおさんほみじんじや)が、前方部には熊野神社が鎮座していました。地元には古くからこの高まりが古墳ではないかと考える人もいましたが、発掘調査によりその姿が明らかとなりました。

高尾山古墳は、方形と方形をつなぎ合わせた「前方後方墳」(ぜんほうこっほっふん)と呼ばれる形をしています。この形は、スルガの王が属していた政治勢力を示しているかもしれません。前方後方墳は古墳時代の比較的古い頃に多く造られましたが、静岡県内では数が非常に少なく、高尾山古墳は東部で2例目(もう1つは富士市の浅間古墳) (せんげんこふん)、沼津市では唯一の事例となります。
初期の前方後円墳(ぜんぼうこうえんふん)は畿内地方を中心に分布しています。一方、前方後方墳は東海地方以東の地域に多く確認されています。このことから、古墳の形状の違いは異なる政治勢力の存在を示しているのではないかと考える研究者もいます。
高尾山古墳の規模
全長約62.178m(前方部:30.768m、後方部:31.410m)
墳丘高:後方部5m、前方部1m?
周溝幅8~9m(南端は2m前後)
(沼津市教育委員会「高尾山古墳ガイドブック」)


高尾山古墳を守る会が見学会
 道路との両立想定される地点を回る
 高尾山古墳を守る会(杉山治孝会長)は四日、東熊堂で同古墳の現地見学会を開き、約三十人が参加者した。
 参加者は、市が発表している古墳保存と道路整備の両立案を基にした資料を手に、トンネルや橋梁の整備が想定される地点を巡回見学した。
 参加者からは、古墳東側に建設予定の道路橋梁部分が古墳の景観に与える影響を懸念する声などが上がっていた。
【沼朝平成30年3月8日(木)号】

2018年2月4日日曜日

高尾山古墳「両立最終案経過を振り返る:沼朝平成30年2月4日(日)記事」

高尾山古墳と都市計画道路
両立最終案までの経過を振り返る
二〇〇九年の発見以来、古墳保存と都市計画道路整備を巡って論争が続いていた高尾山古墳(金岡地区東熊堂)の問題は、双方を両立せるための最終案が昨年十二月二十一日に発表され、一応の決着を見た。同古墳を巡る一連の経緯や関連事項を年表形式で振り返る。
二世紀後半高尾山古墳で出土した鏡が作られる。
二一五年魯粛が巴丘(現在の中国湖南省岳陽市)に岳陽楼の前身となる建物を造る(*)。
二三〇年頃高尾山古墳が建設される。
二四七年頃卑弥呼が率いる邪馬台国と卑弥弓呼が率いる狗奴国が戦う。卑弥呼が死ぬ。
二五〇年頃高尾山古墳で埋葬が行われる。
一八四六年東熊堂村の住民が現在の山梨県南アルプス市の穂見神社から分霊を迎えて高尾山穂見神社を上荒久に建立する。
一八八八年高尾山穂見神社が熊野神社境内に移る。
一九六一年沼津南一色線の建設が都市計画決定される。
一九七八年加藤学園考古学研究所の小野眞一氏が周囲の地形状況から高尾山穂見神社は古墳であると予言し、将来発見されるであろう古墳を「高尾山古墳」と命名する。当時は、五世紀禾から六世紀にかけて造られた方墳であると考えられていた。
二〇〇七年七月道路建設に伴う発掘調査の試掘が行われ、高尾山穂見神社が前方後方墳であることや、この古墳が三世紀に築造された可能性があることなどが判明する。当時は「辻畑(つじばたけ)古墳」と呼ばれていた。
二〇〇八年五月古墳の本調査が始まる。
二〇〇九年九月▽八日=辻畑古墳が国内最盲級の古墳である可能性が報道される。
▽十三日=一般向けの現地説明会が開かれる。
二〇一一年六月二十九日古墳名が「辻畑古墳」から「高尾山古墳」に改称される。
一一〇一二年三月市教委による「高尾山古墳発掘調査報告書」が刊行される。古墳築造年代として、いわゆる二三〇年説と二五〇年説が提示された。二三〇年説に立つ赤塚次郎氏は、同古墳と東海地方文化圏との関係を論じた。この考え方は、同古墳は魏志倭人伝に登場する狗奴国との縁が深いとする説につながる。
七月二二日高尾山古墳シンポジウムが市民文化センターで開かれる。
十一月五日日本考古学協会が埋蔵文化財保護対策委員会の矢島國雄委員長名で古墳保存の要望書を文化庁・静岡県・沼津市に提出する。
一一〇一四年五月十五日古墳築造年代を確定させるための再調査が始まり、七月十八日まで行われる。
八月二十七日市長定例会見の中で、再調査の結果が発表される。市教委は、二三〇年頃に古墳が完成し、二五〇年頃に埋葬が行われたとする見解を示した。
一一〇一五年四月二十六日沼津市議選が行われる。
五月▽二十五日=日本考古学協会が高倉洋彰会長名で高尾山古墳の保存を求める内容
の声明を発表。
▽同日=古墳の現地保存を断念し、解体調査を実施してから沼津南一色線を従来の計画通りに建設する方針が市議会文教消防委員会(現文教産業委員会)で市教委から報告される。その後の報道対応の中で市教委は、日本考古学協会の会長声明と同日になったことについて「市議選などの影響で議会への報告が遅れていた。声明と重なったのはまったくの偶然」と説明。また、「道路の建設を早く進めろという市民の声はあっても、古墳の保存を求める声はない」との認識も示した。
▽二十七日=市議会建設水道委員会で道路建設課が沼津南一色線の整備万針について報告。調査の後、平成二十九年度に建設工事に着手し、三十三年度末までの完成を目指す計画だった。文消委では計画の是非を巡る質問は出なかったが、この日初めて一部委員から計画への疑義が表明された。
▽二十九日=歴史学者で静岡文化芸術大学教授(当時)の磯田道史氏が、テレビ番組収録の一環で高尾山古墳を見学する。
六月▽二日=古墳近隣の東熊堂、西熊堂、豊町、松沢町、高尾台の五自治会の代表者が市役所を訪れ、沼津南一色線の早期建設要望書を市長宛てに提出した。栗原裕康市長が自ら代表団を迎えた。
▽十日=高尾山古墳の保存問題を取り上げた磯田氏の連載コラムが読売新聞に掲載される。文中で磯田氏は古墳と狗奴国の関連を指摘する説を紹介した。
▽十二日=古墳保存を求める市民団体の設立趣旨説明会が金岡地区センターで開かれ、市議会に古墳保存を求める陳情審を提出する方針が発表される。
▽十六日=金岡地区の住民らによる団体「高尾山古墳を守る市民の会」、考古学や郷土史の専門家による団体「高尾山古墳を考える会」、インターネット上を中心に活動する団体「高尾山古墳の保存を望む会」の三団体が連名で古墳保存を求める陳情書を市議会の浅原和美議長に提出。
▽同日=栗原市長が定例会見で古墳を解体調査する市の方針を改めて表明。一方で「やみくもに道路建設を強行するものではない」と表現したほか、古墳保存については関係機関との調整を続ける意向も示した。

古墳解体予算決するも
両立に国交省の強い意向
(二〇一五年六月)▽十九日=市議会本会議での古墳に関連する質問への答弁の中で、栗原市長が「報道や学者の意見を聴くだけでなく、古墳の現場や出土品を実際に見た上で古墳について考えてほしい」と市民に呼び掛ける。
▽二十二日=文教消防委員会と建設水道委員会の所属議員と正副議長が古墳を視察。
▽二士一百=市議会で陳情書に対する連合審査会が開かれ、出席議員が保存問題に対する意見を述べる。一般会計予算決算委員会で古墳解体調査費五一〇〇万円を含む補正予算案の審議が行やれ、10対3の賛成多数で可決すべきものとされた。
▽三十日=多くの報道関係者が傍聴席に詰めかける中、市議会本会議で補正予算案が21対6の賛成多数で可決された。本会議終了直後、栗原市長は議場の外で記者団の取材に応じ、補正予算執行の一時停止と学識経験者を交えた協議会の開催を電撃発表した。
七月▽十五日=古墳保存を求める三団体が栗原市長と工藤達朗教育長に宛てて古墳保存要望書を提出する。いずれも代理人が受け取った。
▽二十日=市民団体による署名活動が始まる。
八月▽六日=栗原市長による異例の臨時会見が開かれ、協議会開催内容の詳細が発表された。市長は報道機関からの質問に対し、従来の方針を「白紙撤回する」と表現した。
九月▽三日=第1回協議会が開かれ、市側から道路と古墳の両立が可能な道路設計案を再検討することが表明される。
▽同日=岡宮自治会が沼津南一色線の早期整備などを含む要望書を粟原市長に提出。市長本人が受け取る。この場で市長は「古墳に対して国土交通省が強い関心を持っている」と明かした。
▽十日=県教委による古墳視察が行われ、木苗直秀教育長と委員五氏が古墳墳丘に上がる。
十一月▽十日=各地区で開かれていた「市長と語る会 協働のまちづくりミーティング」が金岡地区でも開かれ、栗原市長が地区住民に保存問題の経緯を説明。その中で、道路と古墳の両立には国交省の強い意向が働いていることを述べた。
▽十六日=三市民団体が古墳保存を求める署名一六、三六〇人分を栗原市長宛てに提出。市長の代理人が受け取る。
▽十九日=第2回協議会が開かれ、①古墳を撤去しない、②沼津南「色線は上下四車線で建設する、の二大原則が確認される。道路と古墳の両立を可能にする案の一つとして「T字路案」が出される。
二〇一六年二月▽四日=第3回協議会が開かれ、有識者委員三氏がT字路案(B案)を推奨する。協議会終了後、栗原市長は記者団に対して同案採用への意欲を表明した。
▽十日=沼津法人会主催の講演会で磯田氏が古墳保存問題の経緯について話し、国交省と自身の関与を明らかにした。
▽十二日=市議会本会議で行われた施政方針演説の中で、栗原市長が高尾山古墳について「国指定史跡に向けた取り組みや活用計画の検討に着手する」と表明する。
▽同日=市が古墳保存費用への寄付の受け付けを開始する。
▽十三日=考古学愛好家団体によるシンポジウム「第1回狗奴国サミットin沼津」が市民文化センターで開かれ、静岡大学名誉教授で元沼津市史編集委員長の原秀三郎氏が古墳被葬者について伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)であるとの仮説を発表する。
十月▽三十日=沼津市長選で新人候補の大沼明穂氏が大勝。栗原市長が確定させた古墳保存と道路整備の両立という方向性に市内では大きな異論はながったため、古墳問題は市長選の争点とはならなかった。
▽三十一日=当選証書を受け取った大沼氏は、その後の記者団によるインタビューで栗原市長の両立路線を踏襲することを明言。
十一月▽七日=小野眞一氏死去(88歳)。
▽十日=大沼氏が市長に就任する。
▽二十八日=古墳保存要望団体が大沼市長に面会する。沼津市長が保存要望関係者と公の場で面会するのは、これが初めて。
二〇一七年五月二十四日古墳保存要望団体からの質問に対する市側回答という形で、T字路案の採用が困難であること、他案を検討対象とすることが示された。
八月二十九日金岡地区で開かれた「市長
と語る会元気な沼津!まちづくりトーク」において、大沼市長が年内に最終的な方向性を示したいとの考えを述べる。
十二月二十]日市議会全員協議会が開かれ、最終案が正式発表される。有識者協議会で出されていたH案を改良したもので、上下四車線の道路を二車線ずつに分け、古墳西側の二車線を地下トンネルとし、東側二車線は橋梁にして古墳を跨ぐ。原初のH案では東側車線は地上道路となっていた。
(*)沼津市と友好都市提携を結んでいる中国の岳陽市は、三国志の物語と縁が深い。魯粛は三国の一角である呉国の創成を支えた名将の一人。高尾山古墳は邪馬台国と同時代の古墳であると言われている。その邪馬台国の存在は、中国の歴史書『三国志』の一節である「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)」に記録されている。高尾山古墳の被葬者は、卑弥呼と同じ時代を生きた人物であると同時に、三国志の英雄達と同時代の人でもあった。三国志の物語に登場
する主な人物の没年を掲げる。

(沼朝平成30年2月4日(日)一面)


平成21年9月13日現地説明会時の動画↓

2017年2月5日日曜日

「邪馬台国時代の列島東部」講師:西川修一先生

平成29年2月5日(日)
金岡地区センター
講師:西川修一先生
「ヤマタイ国時代の列島東部」ー古墳時代の始まりと沼津市高尾山古墳ー
当日配布資料




遺跡など保存の必要性
 調査技術の進歩で徐々に高まり
 金岡・東熊堂の高尾山古墳の保存を要望してきた市民団体「高尾山古墳を守る会(杉山治孝会長)」は五日、古墳学習会を金岡地区センターで開き、県外からの人を含む約六十人が参加。日本考古学会会員の西川修一氏が「ヤマタイ国時代の列島東部ー古墳時代の始まりと沼津市高尾山古墳ー」と題して話した。
 西川氏は神奈川県立高校の教員。同県教委で遺跡調査や文化財保護行政に従事した経歴を持つ。
 はじめに西川氏は、丹後地方(京都府北部)で発掘された弥生時代後期のガラス製腕輪を紹介。こうしたガラス製の装身具は東日本各地で発見されているものの、大和盆地(奈良県)では見つかっていないことに触れ、大和地方を中心とした勢力とは異なる勢力圏が東日本には広がっていて、丹後を通して海外と交易していた可能性があることについて解説。
 その上で、沼津の地を含む東日本一帯は大和地方の影響を受けて徐々に発展していったのではなく、地方で独自の発展を遂げていったという学説について話した。
 また、西川氏は遺跡保存の意義について触れ、新田次郎の小説『霧の子孫たち』を紹介した。この小説では長野県の霧ケ峰高原で起きた自然保護のための道路建設反対運動が取り上げられている。
 当時、長野県庁は道路建設を進める側だったが、現在は県庁のホームページで、この小説を県内における環境保護活動の先進事例として好意的に取り扱っているという。
 この例を挙げながら、何を重視するかという世間の価値観は時間とともに変わってしまうものであり、時間を超えて生き残る価値とは何かを考えることが重要であると指摘した。
 さらに、学問における価値観の変化の例として弥生時代への評価に言及。昭和二十年代の頃、農村遺跡である登呂遺跡の発見もあり、弥生時代は平和な時代だったという見方が定着したが、一九九〇年以降になると、多くの戦乱があった時代と考えられるようになったという。
 西川氏は、こうした変化の陰には、平和を求める声が強かった終戦直後の世相と、冷戦終結後の新たな国際緊張時代の世相とが深く関係しているとの考えを示した。
 そして、近年の考古学調査技術の向上についても話し、かつては捨てられていたような土器片からも重要な情報が発見されるようになっており、遺跡や出土品の保存の重要性は日に日に高まっていると強調した。
【沼朝平成29年2月7日(火)号】

2016年3月8日火曜日

第1回狗奴国サミットin沼津:高尾山古墳に葬られたのは、物部氏第6世代の伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)と推定されます




高尾山古墳に葬られたのは誰か
一日本歴史に占める高尾山古墳の位置一
原秀三郎

はじめに
平成2年度から平成21年度までの19年間行なわれた沼津市史編纂に私は原始古代部会長として参画し、また最後の5年間は、佐々木潤之介委員長死去の後をうけ、総括の任に当たってきました。高尾山古墳の本調査は平成20~21年度であったため、その成果を市史の叙述に生かナことはできませんでした。
本サミットの基調講演を要請されたこの機会に、訂正することも含めて、沼津市史の叙述を補足し、高尾山古墳の被葬者と、その歴史的意義について考えるところを述べてみたいと思います。

1 高尾山古墳の被葬者は誰か
1 .高尾山古墳に葬られたのは、物部氏第6世代の伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)と推定されます。命は開化・崇神両朝(AD230年頃~258)の大臣(オオマエツギミ)として、天ッ社・国ッ社の制を定め、物部氏族の祭神布都(フツノ)大神の社を大和の石上邑に遷し建て、併せてニギハヤヒ天授の瑞宝も蔵(おさ)め斎(まつ)って、大和王権と氏族の神を崇め祠(マツ)る石上神社を創設した、と伝えられています。(先代旧事本紀天孫本紀)
2. 伊香色雄の政治的活躍の場は、大和王権の膝下にあったのですが、その軍事的・経済的基盤である領地(封地)は、西は大井川から、東は足柄・箱根両山にかけての駿河・伊豆(七島を含む)の地域にあって、東方海上交通を押え、その治所(チショ)(本拠地)は駿河湾の喉元、金岡の地にあり、死後はその丘陵上に葬られたと推定しています。
3. 高尾山は後の駿河郡と伊豆の田方郡とを押える地点にあり、眼下は観音川の原流、子持川の水源地帯で、沢田から明治史料館の辺りまでが在地の生活基盤としての居館集落(沢田遺跡、或いは柵か。)であり、近隣に通ずる陸路は根方街道、また大和に通ずる海路は子持川・観音川を使って外海に通じていました。埋葬に使われた小船(棺)は、おそらくこの外海に通ずる川筋で、彼の封地治所滞在中は、日常的に使用していた遺愛品ではなかったでしょうか。
Ⅱ高尾山古墳と中信濃弘法山古墳
1 中信安曇野・松本平を一望に収める松本市丸山の弘法山古墳は、高尾山古墳と規模や築造年代の共通点が多い古墳として注目されています。今回の調査で同形式の鏡を共有していたことが明らかとなったのは重要です。この弘法山古墳も、恐らく物部氏族の有力人物の墳墓であり、個人名を特定するには至りませんが、物部氏第三世代の出雲醜大臣命(イズモシコオオミノミコト)(懿徳(イトク)天皇の国政大夫)に始まる、三河国造の系譜に連なる人物ではないか、と推定しています。
2. 弘法山古墳からは布に包まれた鉄斧が出土しています。これは大和王権が辺地や戦地に派遣した将軍に与えた斧鉞(フエツ)ではないかといわれています(一志茂樹)。この点から言えば、弘法山古墳は北信や関東などに残る「将軍塚」のひとつと見てもよいでしょう。
又、甲斐の銚子塚(前方後円墳、全長169m)からも鉄製の手斧(チョウナ)が出土しています。私は伊豆を含む東駿河一甲斐一中信松本平・安曇野のラインが、大和王権の東方統治の第一次前線ラインで、その後、立ちはだかる足柄山や甲武信岳・浅間山に連なる山々を越えて東方へ、更に北方へと延びていったと考えています。
3. 田中卓氏は、前方後方墳は物部氏族、より広くは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)系氏族の墳墓か、と言っていますが(「古代信濃の謎」『続著作集』1)、聴くべき見解であり、今後の検証が期待されます。
皿 富士吉原浅間古墳と駿河国造
1.浅間古墳は高尾山古墳につづく前方後方墳(全長103m、未掘)で、そこに葬られた人物は伊香色雄の子、物部氏第七代の十市根命(トオチネノミコ)であり、更にその子の片堅石命(カタガタシノミコト)が、成務朝(没年355)に珠流河(スルガ)(駿河)国造(クニノミヤツコ)となった(国造本紀)と伝えられています。
十市根命は、開花・崇神朝(AD230頃~258)という大和王権成立
期の重臣五大夫の一人で、崇神朝の出雲の神宝検校に関わり(崇神紀・出雲(イズモ)振根(フルネ)事件)、また石上神宮の神宝管理にも当たったとされています。また、物部の姓はこの時はじめて十市根命とその兄大新川命とに与えられ、ともに大連となったと伝えられています(天孫本紀)。
片堅石命の墳墓は、浅間古墳の西方、谷一筋隔てた丘陵上の東坂古墳(全長約60m)と推定しています。
2・浅間古墳は高尾山古墳の西方約12kmの丘陵上にあり、眼下には浮島ヶ原(かつては沼)が東西に延び、そのほぼ中央部の丘の上に位置しています。直下の集落が須津(スド)の名をもち、かつては沼の北岸、根方街道の津・港の一つであったことを偲ばせます。湖沼内の移動は勿論、外海への水路はここから通じていたと思われます。
墳丘南の平坦地に立てば、左に伊豆西海岸の雲見山、右は三保ヶ崎辺りまで、鳥が翼を広げたごとく駿河湾を展望できます。
3.ところで、浮島の名は何に由来するものでしょうか。和名抄郡部の富士の読み方に「浮(フ)志(ジ)」と記してあることから、浮島とは元来は浮はフ、島はシマのシをとって、フシまたはフジと読ませたのではないか。つまり浮島沼とはフシ沼=富士沼ではなかったかと思います。では、富士とはなぜか。まだ解明し切れていませんが、沼・湖の縁辺にその地域の中心的な生活居住区が集中していたことからフチ(渕または縁)の地名が生まれ(例えば、大阪の河内はカワフチ⇒カワチが元義)、それが郡名にまで昇化したのではないでしょうか。富士山はフヂ(ジ)郡にある山だから富士山なのです。(都良香「富士山記」)
おわりに
1.今日の私の話を聞かれて「ほんまかいなあ」(関西)「ほんとかなあ」(関東)と思われた方がいるかと思います。しかし、ここでお話したことは日本書紀や古事記、とりわけ先代旧事本紀や国造本紀などの古典を虚心に読解し、遺跡・遺物などの考古学的所見などと突き合わせ、総合した結果であります。古代史学者・古代史家とは、言って見れば歴史の通訳です。古典の語るところ、遺跡・遺物のツブヤキを素直に聞き取り、肯定的に理解して、それらを総合して現代人に判り易く伝える者のことです。
2.そこで今一番問題になってくるのは、8世紀に成立した律令国家より以前、大和王権の時代とは、中国古典にいうところの「封建制」(秦漢帝国以前、周王朝の時代がその原型です)なのだということです。私はこの律令国家成立以前の社会の仕組みを、江戸時代の封建制と区別して「分封制」あるいは「将軍分封制」と呼んでいます。江戸時代から明治時代までの漢学者や国学者、或いは明治の史学者たちには常識的で理解しやすかったこのことが、近年ではほとんど忘れられるか、理解できなくなり、また市民的常識からは全くかけ離れてしまいました。
私は古典は古典として、まず素直に肯定的に理解すべきであると考え、また歴史の通訳という立場から、大和王権の時代をその社会の仕組みである将軍分封制の時代として理解し、およそ1700~1800年前の駿河・伊豆の歴史のひとこまを、高尾山古墳を中心に、浅間古墳や南信の弘法山古墳と関わらせて読み解いてみたのであります。
ご静聴ありがとうございました。
※原 秀三郎
1934年(昭和9年)、下田市生まれ、静岡大学名誉教授、元沼津市史編纂委員長、著書、『日本古代国家史研究大化改新論批判』(東京大学出版会)『地城と王権の古代史学』(塙書房)『日本古代国家の起源と邪馬台国 田中史学と新古典主義』(國民會舘叢書)共著、『古代の日本第7巻新版 中部』(角川書店)『大系日本国家史1古代』(東京大学出版会)

【平成28年2月13日第1回狗奴国サミットin沼津「高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る」当日配布資料より】


狗奴国サミット
古代史ロマンに400人 沼津で第1回開催 /静岡

毎日新聞2016年2月14日 地方版




約400人が集まった狗奴国サミット=沼津市民文化センターで

「第1回狗奴国(くなこく)サミット」が13日、沼津市民文化センターで開かれた。存廃に揺れた高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の保存を応援しようと会場を沼津に選んだ研究発表会。古代史への関心が高まる中、約400人が耳を傾けた。

狗奴国は邪馬台国と対立していたと考えられる魏志倭人伝に登場する国。サミットで原秀三郎・静岡大名誉教授が「高尾山古墳の被葬者は物部氏だ」とする独自説を発表。森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員が「狗奴国は天竜川以東にある」とする説を発表した。原名誉教授の熱弁に会場がどよめく場面もあった。また「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表はあいさつの中で「古墳保存の署名では全国のみなさんに協力をいただいた」と感謝を述べた。

主催した全国邪馬台国連絡協議会の鷲崎弘朋(ひろとも)会長(73)は「古代史の解明が最終目標だが、多くの人が集まり地域おこしの点でサミットは成功した。高尾山古墳の保存活用方法の検討には会としても協力したい」と話した。【石川宏】


静岡)高尾山古墳は物部氏の墓か 静大名誉教授が仮説
2016年2月14日03時00分(朝日新聞webニュース)

東日本で最古級、最大級の古墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の被葬者は、古代の豪族「物部(もののべ)氏」の有力者とする仮説を、静岡大名誉教授の原秀三郎さん(81)が、沼津市で13日開かれた「第1回狗奴国(くなこく)サミット」の中で発表した。

サミットは、邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国への関心を高めようと、古代史を研究する個人や団体でつくる全国邪馬台国連絡協議会が主催。高尾山古墳の被葬者は狗奴国王とする説もあり、沼津での開催が決まった。

原さんは元沼津市史編纂(へんさん)委員長。物部氏の系譜や、高尾山古墳から見つかった近江の土器、長野県松本市にある規模や築造年代が共通する弘法山古墳と富士市の浅間古墳との関係などから、被葬者は物部氏第6世代の伊香色雄命(いかがしこをのみこと)と推定したという。

伊香色雄命の政治的拠点は近畿の大和王権だったが領地は箱根にまで及び、沼津は海上交通の要衝だったことから近畿との間を度々往復しただろうと推測している。

原さんは「日本書紀や古事記などの古典を読み解き、出土品など考古学的所見を突き合わせれば答えは出てくる」と話した。



高尾山古墳は物部氏の墓? 原・静大名誉教授が仮説
東日本最古級の古墳の主(あるじ)は誰なのか-。沼津市の道路建設予定地で見つかったことから、一時は取り壊しの危機にあった高尾山古墳(沼津市東熊堂)について、原秀三郎(ひでさぶろう)静岡大名誉教授(81)が古代の有力豪族・物部(もののべ)氏の有力者が埋葬されたとする仮説を打ち出した。築造時期が三世紀で邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)と重なるため、敵対した狗奴国(くなこく)の有力者とする説もあり、議論になりそうだ。

仮説を主張する原さんは、元沼津市史編纂(へんさん)委員長で下田市在住。高尾山古墳は、二〇〇八年に始まった市の調査で見つかったため、原さんらが〇五年に出した沼津市史に記載はない。高尾山古墳が三世紀の築造と分かり、古典などを手掛かりに仮説を立てた。

原さんは、古墳の主を、物部氏の第六世代である伊香色雄命(いかがしこをのみこと)と推定した。大和王権初期から政権に近く、近畿の河内国周辺を本拠にした。伊香色雄は三世紀の開化、崇神(すじん)両天皇の親族にあたり、大臣として神社制度をつくったとされる。

伊香色雄が活躍した場所は王権中枢の近畿だったが、領地が西は大井川から東は箱根におよんでいたという。とくに駿河湾内奥部にある沼津は交通の要衝で、死後に葬られたとみる。

仮説の根拠は、平安初期にまとめられた物部氏らの系譜を記した文献。高尾山古墳から近江国の土器が出土したことも理由とする。原さんは「古典を虚心に読解し、遺物などの考古学的所見と突き合わせた」と話した。

一方で、中国の歴史書「魏志倭人伝」に「女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)ともとより和せず」とあることから、卑弥呼のライバルの有力者の可能性を挙げる人もいる。近畿などの前方後円墳と異なる前方後方墳は東海地方以東に多く、邪馬台国畿内説を前提にした場合、宿敵の狗奴国は東海説が有力視される。だが、狗奴国をめぐり、大和説や熊本説の異論がある。

原さんは十三日、考古学者らが集まり、沼津市で開かれる「狗奴国サミット」で仮説を発表する。狗奴国の研究発表もある。

<高尾山古墳> 墳丘全長62メートル、幅最大34メートルの前方後方墳。沼津市教委の発掘調査で、230年ごろに築造され、250年ごろに当時の有力者が埋葬されたと年代を特定した。古墳時代初期では、国史跡になっている弘法山古墳(長野県松本市)と並び、東日本最大級とされる。

(築山英司)(中日新聞webニュース)

高尾山古墳に「物部氏」
原名誉教授 被葬者を指摘 沼津
古代史専門家や歴史研究家でつくる全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)がこのほど、沼津市民文化センターで「狗奴国サミット」を開き、講演した原秀三郎静岡大名誉教授(81)は、3世紀前半に築造されたとみられる高尾山古墳(沼津市東熊堂)の被葬者を有力豪族物部氏第6世代で開化天皇、崇神天皇の大臣だった「伊香色雄命(いかがしこをのみこと)」とする持論を発表した。
沼津市史編さん委員長も務めた原名誉教授は、古墳の出土品に日本書紀や古事記などの文献を照らし合わせて結論を得たという。埋葬に使われた棺は、「古墳がある現在の金岡地区周辺の水路で使った小舟」と推論した。
高尾山古墳と築造年代や規模が似る弘法山古墳(長野県松本市)にも着目。沼津周辺と中信州エリアを結ぶ南北の地帯が大和王権の東万統治の最前線だったとし、「物部氏がここに配置されていた可能性は十分ある」と指摘した。
同サミットは初開催。邪馬台国と対立していた狗奴国の所在に関する研究発表も行われた。全国の会員ら約450人が聴講した。
【静新平成28年2月17日(水)朝刊】


会場満席、関心の高さうかがわせる
狗奴国サミット高尾山古墳と狗奴国の魅力
 古代史研究家などで構成される全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)が主催する「第1回狗奴国サミットin沼津~高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る~」が先月、市民文化センター小ホールで開かれ、約四百五十人が来場。ほぼ満席となり、この分野への市民らの関心の高さをうかがわせた。
 狗奴(くな)国は、三世紀ごろの日本列島に存在した国。中国の歴史書『三国志』の一章、いわゆる「魏志倭人伝」に登場し、女王卑弥呼(ひみこ)で知られる邪馬台(やまたい)国と対立関係にあったとされる。
 東熊堂で発見された高尾山古墳は、狗奴国と関連があると見る説があることから、沼津でのサミット開催となった。
 サミットでは、来賓として「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表があいさつ。古墳の存在は沼津の気候や地理的環境の優位性を示すものではないか、と話した。また、サミットが多くの来場者に恵まれたことに触れ、こうした関心の高さが古墳保存に対する市長の判断を後押しすることを期待した。
 続いて、市内の考古学専門家らで構成される「高尾山古墳を考える会」の瀬川裕市郎代表が古墳保存問題の経緯を説明。先月二日の第3回協議会で古墳を回避する道路整備の諸案が出されたことを話した。その上で、古墳の保存や活用にとっては、同古墳と隣接神社境内を分断しない道路整備が望ましいことを強調した。
 この後、講演や発表が行われ、高尾山古墳に関しては、静岡大名誉教授で元沼津市史編集委員長の原秀三郎氏が高尾山古墳の被葬者について仮説を述べたほか、「魏志倭人伝」の記述では明確でない狗奴国の位置について、東海関東説、大和説、九州熊本説の三説が発表された。
 高尾山古墳 被葬者は誰?
 原秀三郎氏が持論を展開
 狗奴国サミットの基調講演者として登壇した原秀三郎氏は、「高尾山古墳に葬られたのは誰かー日本歴史に占める高尾山古墳の位置ー」と題して話した。その中で、同古墳の被葬者として、古代氏族の物部(もののべ)氏に属する伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)ではないかとの見方を示した。
 沼津市史と高尾山古墳
 原氏は平成二年度から二十一年度までの十九年間にわたって実施された『沼津市史』の編さんでは、主に原始古代史部会長として携わった。高尾山古墳の本格的な調査は二十一年度まで行われたため、市史の中で同古墳を扱うことができず、非常に心残りだったという。
 また、原氏は考古学の研究成果を柱として論じられることの多い同古墳を、文献史料研究の側から論じることに強い意欲を示していて、今回の講演に当たっては「きょうは考えていることを率直にお話ししたいと思う」と力強く言い放った。
 物部氏と伊香色雄命
物部氏は、天上の神の一人だとされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を先祖とする一族。大和朝廷に仕え、主に軍事を担当した。朝廷の高官として繁栄したが、六世紀末に仏教受け入れなどを巡る争いの中で破れ、本流は滅亡した。
 伊香色雄命は、その第六世代に属する。古代の歴史について書かれた『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、第九代開化天皇と第十代崇神(すじん)天皇に大臣として仕え、石上(いそのかみ)神社を創立した。同神社は石上神宮として奈良県天理市に現存している。
 原氏は、伊香色雄命は近畿地方で活躍した人物であると認めつつ、現在の静岡県中・東部に当たる大井川から伊豆半島までの土地を領地としていた、と論じた。
 その根拠としては、伊香色雄命の孫の片堅石命(カタガタシノミコト)が第十三代の成務天皇によって珠流河(スルガ=駿河)国造に任命されたとの記述が、『先代旧事本紀』の中の一章を構成する「国造本紀」に登場することを挙げている。国造(くにのみやつこ、こくぞう)は、現在の県知事のような役職。
 また、高尾山古墳からは近江(滋賀県)の土器が出土していて、近江には古代より伊香郡があったことから、同古墳と伊香色雄命との関連が読み取れるという。
 原氏は、崇神天皇の時代は三世紀前半、成務天皇の時代は四世紀前半だと推定している。
 前方後方墳と物部氏 原氏は、高尾山古墳と同時期の三世紀前半に築造され、同じ「前方後方墳」という形状である弘法山古墳(長野県松本市)も物部氏系の人物と関連があると論じた。
 それによると、現在の長野県から静岡県東部にかけてのラインは、当時の大和朝廷の東の国境地帯であり、国境を守るために軍事の専門家である物部氏が派遣された、と見ている。
 また、原氏は栃木県東部にある前方後方墳の侍塚古墳(*)が、那須国造(**)に任命された阿倍氏と関連があると見ていて、阿倍氏も物部氏の血を引いていることから、前方後方墳と物部氏とのつながりは深いと考えている。
 原氏は、こうした東日本に存在する前方後方墳と物部氏とのつながりから、現代の言葉で「将軍分封制」と呼べるような地方支配制度が当時の大和朝廷にはあったのではないか、と提唱した。これは、物部氏のような軍事を得意とする氏族に国境最前線の領地を与え、その土地の行政や防衛を任せるという制度だという。
 終わりに 高尾山古墳に葬られたのは伊香色雄命である、という仮説に対し、多くの疑問の声が上がるであろうことを原氏は理解している。
 しかし、原氏は『日本書紀』や『古事記』『先代旧事本紀』などの古典文献を丹念に読解し、これらの記述を素直に理解するという前提に従って、「歴史の通訳」として議論を展開したという。

 (*)栃木県大田原市にある上侍塚古墳・下侍塚古墳の総称。同市教委のホームページによると、いずれも前方後方墳で、五世紀以前に築造された。下侍塚が先に築かれたという。
 両古墳は徳川光圀(水戸黄門)が発掘調査を行ったことで知られている。実際に調査を担当したのは佐々宗淳(さっさ・むねきよ)という人物で、介三郎(すけさぶろう)という別名のある宗淳は、時代劇に登場する「助(すけ)さん」のモデルとされている。
 (**)那須地方(栃木県東北部)を支配した国造。
【沼朝平成28年3月8日(火)号】


2016年2月28日日曜日

第3回高尾山古墳・道路整備両立協議会終わる


第3回高尾山古墳・道路整備両立協議会
平成28年2月2日(火)10:00~12:00
プラザヴェルデ401会議室
最終協議会が開催された。

6案提出、尚、学者3名B案を推薦して会議が終わる。





古墳北にT字交差点検討
沼津高尾山
道路と両立市長意向

都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にある3世紀前半築造とみられる前方後方墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の現状保存と道路建設の両立策について、栗原裕康沼津市長は2日、古墳の北側に丁字交差点を設け、西側に4車線の道路を造る案を検討する意向を明らかにした。
同案は、沼津市が同日、市内で開いた有識者を交えた協議会(議長・大橋洋一学習院大法科入学院法務研究科長)の最終会合(第3回)で、大橋議長ら3人の学識経験者が実現可能性が高い案として推奨した。
渋滞や事故の防止策を講じる必要はあるものの、事業費が約5億円と市が示した全9案の中で最も少ない上、建物補償が3件と比較的少ないことを理由に挙げた。古墳の保存後に史跡として活用しやすいことも重視した。
栗原市長は協議会終了後、「推奨をもらったので、そこから取りかかるのが筋」と語った。昨年6月に市議会が可決した一般会計補正予算に盛り込んだ墳丘の取り壊しを前提にした古墳の調査費5100万円は来年度に繰り越すと述べた。今後、両立策の財源を確保するため、ふるさと納税や寄付金を募る考えも示した。
【静新平成28年2月3日(水)朝刊】

有識者3委員がT字路線案
高尾山古墳と計画道路両立協議会

「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の最終回となる第3回会合が二日、プラサヴェルデ会議室で開かれた。今回は、古墳迂回道路の再御設計案についての詳細な検討が行われ、委員五人のうち有識者委員三氏連名という形で「T字路四車線」案が推奨された。栗原裕康市長は協議会後、同案採用への強い意欲を表明した。
副知事の頑強な異論も
栗原市長は賛意を見せる
三氏連名で推奨された「T字路四車線」案は、上下四車線一体で古墳を迂回して沼津南一色線を開通させるために庫角のカーブを設けるというもので、カーブ部分が一T字型の交差点となる。国道一号と国道二四六号を結ぶ沼津南一色線が〃「〃形でカーブし、そこに北側から在来の市道一六七二号線が交わる。
この案は、朝夕の通勤ラッシュ時における交差点付近での渋滞発生や、交差点を曲がりきれない車両による事故発生などの可能性が指摘される一方、事業費が約五億円で諸案の中では最少であること、古墳と隣接神社が史跡回遊エリアとして活用可能になることなどの利点が挙げられ、有識者委員の評価を受けた。
ただし、整備事業のためには約一、四〇〇平方㍍の土地取得が必要で、三件の建物が立ち退きによる補償の対象となり、そのうち一件は再補償。
T字路案以外にはS字力ーブによる道路迂回案、トンネル案、これらを組み合わせた案など八案が市側から提示されていた。
他案については、トンネル案は、上下四車線を全てトンネル化した場台は事業費が五十億円を超えて高額となること、S字力ーブ案は建物補償が十件(うち再補償五件)となり近隣住民への負担が過大であることなどがそれぞれ非現実的と見なされた。
協議会には、大橋洋一委員(学習院大学法科大学院法務研究科長)、久保田尚委員(埼玉大学六学院理工学研究科教授)、矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)の有識者三氏と県幹部の難波喬司委員(副知事)、杉山行由委員(県教育次長)が出席。議長は、これまでと同様、大橋委員が務めた。
また、国土交通省街路交通施設課長の神田昌幸氏と、文化庁主任文化財調査官の禰宜田佳男氏がアドバイサーとして同席した。
今回の協議会終盤、大橋議長は協議会全体の結論としてT字路案を推すことで委員各氏の合意を取り付けようとしたが、難波委員が「判断は市長が行うことになっている。この場で判断のようなものを下すべきではない」などと頑強に異を唱えたため、大橋議長、久保田委員、矢野委員の三委員による推奨という形になった。
大橋議長は競技会終了後、報道各社への会見に応じ、「沼津市からは情報が洗いざらい出てきたので驚いた。今回はシナリオなしのぶっつけ本番で議論を進めた。市民に情報を公開しながら進めてきたので、(公共事業のあり方としては)画期的なモデルケースとなるのではないか」と話した。
票原裕康市長も会見に応じ、推奨案に対しては「この案から考えていきたい。誰が見てもそうだろう。五億円というのは決して安いとは言えないが、この案から取り掛かるのが基本だ」とした。
さらに、今後の課題については、都市計画決定の変更手続きや、委員からも指摘されたT字交差点実現のための県公安委員会との協議などがあることを示しながら、条件が整えば推奨案を「一気呵成に進めたい」「早ければ早い方がいい」との考え方を示した。
道路整備事業費に必要とされる五億円のうち、半分は国土交通省などからの補助金が使用されるため、市の負担は約二・五億円となるが、今後の史跡整備などに追加投資も必要となる。
財政面の問題について市長は、「(高尾山古墳には)多くの関心が寄せられた。沼津の一つの宝として、その整備のために、ふるさと納税によつで市内外から広く寄付を集めることを真剣に考えたい」と語った。
【沼朝平成28年2月3日(水)号】

古墳保存へ道路迂回
静岡・沼津 取り壊し免れる
都市計画道路の建設で取り壊される予定だった高尾山古墳(静岡県沼津市)の現地保存と道路の両立を検討していた同市の有識者協議会(議長=大橋洋一・学習院大法科大学院法務研究科長)は2日、古墳を迂回(うかい)する道路案を栗原裕康市長に提示した。栗原市長は協議会の結論を尊重する姿勢を示しており古墳の現地保存が確定した。
日本考古学協会が昨年5月25日、保存を求める会長声明を発表したが、市は同日、取り壊しを発表。保存運動が起き、栗原市長は8月6日に白紙撤回を表明し、協議会に代替案の検討を委ねた。
協議会はこの日、六つの迂回道路案を提示した。このうち、委員5人中3人が丁字交差点を新設して道路を全て古墳西側に迂回させる案を推した。ほかの委員からも異論はなかったが、道路建設は県公安委員会との協議が必要なため、絞り込みは避けた。他の5案も上下線分離やトンネルで古墳を避ける内容だ。市は県公安委と協議後、県と協議して都市計画決定を変更し、迂回道路建設を進める。「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表は「市民の力が委員に通じた」と喜んだ。【石川宏】
高尾山古墳
静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある前方後方墳。墳丘は全長62㍍、全幅推定34㍍。230~250年ころ築造と推定される。国史跡の弘法山古墳(長野県松本市)と並び、この時代では東日本最大級。1961年に計画決定された都市計画道路建設に伴う発掘調査(2005~09年)で古墳と判明した。
【毎日新聞平成28年2月3日(水)地方版】

沼津・高尾山古墳保存へ道路計画案
◆西側に迂回「丁字路4車線」

高尾山古墳保存と道路両立を考える協議会の最終会合=2日、沼津市大手町のプラサヴェルデで
写真
東日本最古級とされる高尾山古墳(沼津市東熊堂(くまんどう))の保存と都市計画道路の整備の両立を考える沼津市の協議会(議長・大橋洋一学習院大大学院教授)の最終会合が二日、市内であった。委員からは、古墳西側に丁字路交差点を設けて迂回(うかい)するルートの事業費が最小の上、実現可能性が高いと評価する意見が多く、市はこの案で古墳保存と道路整備を始める方針を示した。栗原裕康市長が「できるだけ早く」結論を出す。

協議会はこの日、昨年十一月の前回会合で市が示したトンネルや迂回ルート九案を、交通機能や事業費の観点から検討。多くの委員が「西側丁字路四車線」案を推した。事業費が五億円と最小で、古墳と神社一体での保存が可能であり、見学用歩道も整備しやすいなどの長所があるためだ。

ただ、「県の認可がおりない場合もあり、一案に絞るべきではない」との意見も出たことから、立ち退きを求める建物の再補償などの課題が少ない六案を候補と結論付けた。



会合後、栗原市長は西側丁字路四車線案について「まずこの案から取り掛かる」と述べた。都市計画の変更や信号設置の可否などについて県や県公安委員会との協議を始めるとした。

傍聴した古墳保存派の学者や市民からは、丁字路四車線案に賛成する声が上がった。日本考古学協会理事の篠原和大(かずひろ)静岡大教授は「古墳がしっかり利活用できる案。実現できるよう努力してほしい」と話した。高尾山古墳を守る市民の会代表の杉山治孝さん(82)は「古墳が残ったあとの活用にも配慮されていて良かった」と評価した
【東京新聞webニュース平成28年2月3日(水)】


公式議事録

2015年11月29日日曜日

2015年11月19日第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会画像資料↓


↑当日配布画像資料クリックして下さい

沼津市役所資料URL

第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会議事録



第2回 高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会
日時 平成27年11月19日(木)10:00~12:00
会場 プラサヴェルデ4階407会議室
資料説明
・(都)沼津南一色線の推計交通量について(資料1)
・古墳保存及び活用の手法について(資料2)
・空間的に整備可能性のある街路線形について(資料3)
・考えられる整備案の総合的評価について(資料4)


今日の会議で「高尾山古墳」現状保存と道路整備提案が絞られてきた。
車線4線でB案(西側T字4線案)・E案(西側S字2車線、東側トンネル2車線案)・G案(西側T字2車線、東側トンネル2車線案)それにD案・F案・H案も捨てきれない。
次回の会議までに市民の意見を収集し、協議会委員にに報告して下さい。と大橋会長より纏めがあり、閉会となった。


古墳回避へ4ルート
道路建設有識者協議 沼津市が提示
沼津市は19日、都市計画道路の建設予定地にある高尾山古墳(同市東熊堂)の墳丘などの現状保存と、道路建設の両立を模索する有識者協議会(議長・大橋洋一学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合を、同市のプラサヴェルデで開いた。
市は墳丘を回避する街路線形について、①平面で西側を通過②平面で東側を通過③高架で上を通過④トンネルで下を通過ーの検討結果を公表した。4ルートについてそれぞれ、これまで時速60㌔としてきた設計速度を同50㌔にした場合、車線数を4から2に減らした場合も検討し、建物補償件数や用地買収面積を試算した。平面西側案ではS字カーブ、用地買収面積を減らせる可能性があるT字交差点を採用した場合を示した。
市は9、10月に2回実施した周辺道路の交通量調査の結果も報告し、沼津南一色線の2030年の推計交通量を1日約2万5800台と見積もり、2車線と4車線の境界として国が定めた1万2千台を大きく超えることから、「計画通り4車線が必要」と結論つけた。委員もこれを了承した。
同古墳は3世紀前半の築造とみられる前方後方墳で、当時としては東日本最大級とされる。日本考古学協会は5月、保存を求める会長声明を出したが、地元自治会は渋滞解消などのために道路の早期完成を要望する。市は9月、有識者7人を交えた協議会を設置し、実現可能性のある両立策を模索している。協議会の結論と市民への意見聴取を踏まえ、栗原裕康市長が最終判断を下す。
【静新平成27年11月19日(木)夕刊】


道路整備3案を軸
高尾山古墳回避 有識者協が方針 沼津
沼津市は19日、高尾山古墳(同市東熊堂)の現状保存と、道路建設の両立を模索する有識者協議会(議長・大橋洋一学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合を同市のプラサヴェルデで開き、古墳を回避する三つの道路整備案を軸に検討する方針を決めた。協議会の委員は周辺道路の歩行者の安全性や史跡整備への道筋を再検討するよう市に要請した。
委員は市が示した九つの道路整備案について、用地買収費を含む事業費用、古墳区域内の車道の有無、建物補償の件数などの視点で比較した。片側2車線を前提に、実現可能性のある案として、①古墳北西の丁字交差点を経由する西側4車線②古墳西側にS字の2車線と古墳下にトンネルを掘り2車線③古墳北西の丁字交差点を経由する古墳西側2車線と古墳下にトンネルを掘り2車線ーを挙げた。
協議会終了後、大橋議長は「多角的に検討し、各案の問題点を指摘できた。ある程度、案を絞り込んで市に提示したい」と語った。栗原裕康市長は検討案に対して市民の意見を聴くパブリックコメントを実施する考えを示した。
【静新平成27年11月20日(金)朝刊】

古墳の現状保存、道路4車線
両立に関する協議会で方針確認
「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の第2回が十九日、プラサヴェルデ会議室で開かれた。協議会の方針として、古墳の撤去・移設の可能性は除外すること、沼津南一色線は上下四車線で整備することを確認。また、市側からは、S字力iブの道路で古墳を迂回する従来の案に加えて、古墳の北西にT字交差点を設けて古墳の迂回を可能にする方式が新たに提出された。
道路側各案に一長一短
T字交差点新設案に優位性か
協議会には、大橋洋一委員(学習院大学法科大学院法務研究科長)、久保田尚委員(埼玉大学大学院理工学研究科教授)、矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)の有識者三氏と県幹部の杉山行由委員(県教育次長)が出席。前回出席した難波喬司委員(副知事)は欠席し、意見書を提出した。議長は前回と同様、大橋委員が務めた。
また、国土交通省街路交通施設課長の神田昌幸氏と、文化庁主任文化財調査官の禰宜田佳男氏がアドバイザーとして同席した。
前提方針 協議会では、初めに前回に市側が実施を約束した沼津南一色線の交通量推計が報告され、一日二五、八〇〇台であるとされた。この推計は、道路を二車線にするか四車線にするかの判断基準として実施され、一万二千台以下なら二車線化も可能になるとされていた。しかし、推計値は基準値を大きく超えたため、二車線化による道路設計は否定されることになった。
続いて、古墳の現地での現状保存については、文化庁の禰宜田氏から「移築では史跡指定の対象とはならない」との意見が出され、古墳移築は検討対象から除外された。
代替案 前回協議会で委員達が要望していた新たな道路設計の代替案について、市側から九案が提出された。
この九案を設計するに当たり、市側は「古墳北側部分の高く盛り上がっている墳丘部を壊さない」「道路用地取得のための建物再移転は可能な限り避ける」「追加の用地買収は最小限に抑える」などの原則を設定。
これに従い、①道路がS字力ーブで古墳を迂回する、②信号のあるT字交差点を設けて道路を直角的にカーブさせて古墳を迂回する、③道路の設計速度を六〇㌔から五〇㌔に下げて古墳の下にトンネルを設ける、の三方式が提案された。
九案は、この三つの方式を組み合わせて生み出されたもので、四車線を一体的に造るもの、二車線ずつに分けて古墳の東西両側に分散して通すもの、二車線に分けて片方をトンネル化するもの、などが含まれている。
一長一短 各案には、それぞれ利点と欠点がある。
四車線が一体的にS字力ーブで古墳を迂回する方式では、用地買収面積が広くなり、過去に移転に応じた建物が再移転を迫られる件数が最も多くなる。
T字交差点方式は、事業費用が約五億円と九案の中では最少レベルであるのに対し、交差点の追加により、スムーズな車両通行に影響が出る。
トンネル方式は、四車線をすべてトンネル化した場合、事業費として最低でも五十億円以上が必要となる。事業費の半分は国負担となるが、平均の年間道路事業費が約八億円である沼津市にとっては重大な負担となる。
四車線道路を二つの二車線道路に分けて古墳を間に挟むように迂回させる案は、古墳と現在の神社との間に二車線道路が通ることになる。このため、歴史的にもつながりの深い古墳と神社を分断してしまうほか、古墳が車道の間に入ることで、古墳見学者が古墳にたどりつくのが困難になる可能性がある。
T字方式の利点 新たに交差点を設けることになるT字交差点による古墳迂回方式は、スムーズな車両走行の妨げになる可能性があると指摘されたが、新たな用地取得や事業費が比較的少なくなることから、委員達からも大きく注目された。
それに伴い矢野委員は、「自分は道路の専門家ではないが」と前置きした上で、交差点の設置により車両の走行速度が落ちることから、交通安全の面では有益であると指摘した。
都市計画の専門家である久保田委員は「T字方式は、道路の専門家が見ると『びっくりたまげた』案であろう」と述べて非常識的なアイデアだとする一方で、「しかし、この場合は可能性のある案だ。近くには国道一号との交差点があり、沼津南一色線の走行車両は、必ず国道一号で止まることになる。どうせ、すぐに止まるのだから、その手前で一時止まるようなことになっても、交通への影響は限られるのではないか」と話した。
国交省の神田氏は、信号機付きの交差点が設置されることは、児童の道路横断にとって都合が良いものであり、交通安全の観点からプラスになる、と意見を述べた。
今回の結論議長役の大橋委員は、各委員からの意見表明を受けた上で、①四車線を一体的にT字交差点方式で古墳西側を迂回させる案、②片側二車線を古墳西側地上でS字カーブさせ、残り二車線をトンネル化する案、③片側二車線を古墳西側地上をT字交差点方式で迂回させ残り二車線をトンネル化する案の三案が有力になるだろう、と述べた。
これに対し、神田氏は、古墳と神社を分断する東西迂回案については、市民の意見を反映した上で今後の検討対象として残すことを要望した。
この意見を踏まえ、大橋委員は市に対して協議会の第3回開催以前に、パブリックコメントなどの実施による市民意見の聴取を市側に要望した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

全国の模範となるような手続きを
困難な課題だとしつつ市長
協議会の成り行きを主催者席から見守った栗原裕康市長は、終了後の記者会見で「いろいろな意見をいただいた。正直言って想像していたよりも難しい課題だ。古墳の扱いは、当初の計画が市議会での承認を得ていながら、全国的な反響と市民からの要望を受けて再検討することになった。全国の模範となるような手続きを進めていきたい。今回の流れが、価値観や意見の対立を乗り越えるための手法の模範となるよう努めたい」と述べた。
また、市民意見の扱いについては、まずはパブリックコメントという形式で募った後、専門家を交えた市民的議論の場を設ける考えを示した。そして(「あくまでも一私案に過ぎない」「行政の手法として正しいかは分からないが」などと断った上で、古墳や道路の整備費の一部を「ふるさと納税」などの形で広く募ることも有効ではないか、と話した。
一般傍聴席から協議会を見つめた「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表は、「我々にとっては良い方向ではないか。古墳の現状保存が大原則として確認されたことは、今回の大きな成果だと思う。これまでの活動に意昧があったと思いたい」と話した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

高尾山古墳を考える:迂回3案を高評価 沼津市、意見公募実施へ 有識者協議会 /静岡
毎日新聞 2015年11月20日 地方版

高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の現地保存と道路建設の両立を検討する有識者による協議会(議長、大橋洋一・学習院大法科大学院法務研究科長)の第2回会合が19日、沼津市内で開かれた。市は古墳を迂回(うかい)する道路変更案を9案提示。協議会は、西に迂回しT字交差点を新設する案など3案を高く評価し、今後重点的に検討すると決めた。【石川宏】

協議会が評価したのは(1)4車線全てを西側に迂回させ、T字交差点を新設(2)西側2車線をS字状に迂回させ、東側2車線をトンネル化(3)西側2車線を迂回させT字交差点を新設。東側2車線はトンネル化−−の3案。

市は、古墳移設は価値を大きく損なううえ技術的に困難▽4車線の2車線削減は交通量の多さで困難▽4車線とも東にずらす案は神社の全面移転が必要で困難▽高架は古墳最上部を破壊する−−として案からあらかじめ排除。その上で4車線一体、もしくは2車線ずつ分離して、古墳を迂回させたり、下にトンネルを掘るなどした9案を提示した。

協議会は残り6案については、4車線全てをS字状に西側に迂回させると建物10件の移転が必要で補償費が過大▽上下2車線ずつ、もしくは4車線一体で全面トンネル化すると事業費が50億円を超え過大▽2車線ずつ東西に迂回させると古墳が道路に挟まれ活用しにくくなる−−などとして、低い評価をした。

市は次回協議会(時期未定)前にパブリックコメント(意見公募)をする方針。大橋議長は「傷のない案はない。多角的に検討し、各案の問題点を指摘でき非常に成果があった」と述べた。栗原裕康市長は「想像以上に難しい方程式。異なる価値観が対決した時の解決法として、全国の模範となるようなプロセスを踏みたい」と述べた。

傍聴した篠原和大・日本考古学協会理事(静岡大教授)は「かなりいい方向に向かっている。このままの方向で進んでほしい」と話した。

2015年8月8日土曜日

歴史とは・・・・ 鈴木数雄(沼朝投稿記事)

歴史とは・・・・ 鈴木数雄
 『昭和天皇実録』が第二冊まで刊行されている。明治三十四年のご誕生から大正九年(十九歳)までの動静が記されていて、驚くのは沼津御用邸滞在が頻繁で、長期にわたったこと。ほぼ毎年、暮れに沼津にお越しになって新年を迎えられ、春になると東京へ御帰還という日程が繰り返されている。
 滞在中の生活など知る由もなかったが、今回分かったことの一つが「御運動」。桃郷や我入道、千本の松林や海岸に精力的にお出かけになる。貝拾い、クラゲ捕り、松露採り、凧揚げなどもされた。ご成長とともに徳倉山、鷲頭山、香貫山と行動範囲は広がる。
 七面山、土筆が原、雷山、大平越え、香貫山の十三本松などの地名が詳しく記されている。現在、沼津アルプスと呼ばれる山々だが、昭和天皇ほど何度も足を運ばれた方は珍しいと思われる。本邸の馬場で練習に励まれ、馬で重寺や黒瀬方面にもお出かけになった。
 また、牛臥山と海の景色など沼津滞在中は、しばしば水彩画を描かれたという。
 大正七年、御用邸前の浜で採集された緋色のエビが新種とされ、和名ショウジョウエビと命名されたこともあった。
 沼津の海、山、川が、昭和天皇の自然観を育んだ可能性は高い。十二歳の時には博物博士になりたいと希望されている。しかし、その願いは叶わなかった。大正十年、大正天皇の摂政となり、昭和の激動に巻き込まれていったからだ。昭和天皇にとって沼津は、まさに揺籃(ようらん)の庭であった。
 今回、「実録」が公になったことで昭和天皇と沼津との絆が想像以上に強く、興味深いものになった。昭和天皇に限らず、沼津御用邸に出入りしていた人々や、そのつながり、縁の場所を「御用邸文化」と、ひとくくりにすれば、非常に多彩で歴史的にも価値のある「沼津の宝物」となる。
 敗戦後の一九四六年に「人間宣言」された後、昭和天皇は全国を巡行された。沼津巡行の際に「沼津は小さい時から馴染みの地だが、こんなに焼けては感慨無量だ」と述べられたという(沼津広報沼津市史)。

 平和憲法の下で象徴天皇となられてからは、公務の傍ら、ヒドロ虫類やウミウシ、貝類の研究で業績を挙げられた。「博物博士」という少年時代の夢は、平和な時代になって叶えられた。
 その平和憲法も、戦後七十年にして揺らいでいる。開戦を回避しようとされた昭和天皇なら、どうお考えになるだろう。

 昭和天皇のほかには、沼津に縁の人物で国家の存亡に関わった例はない、と思っていた。ところが、高尾山古墳が「日本国家誕生時の重要遺跡」で、「卑弥呼のライバルというべき東国の王の墳丘」の可能性が出てきた。日本考古学協会会長による、保存を求める異例の声明も出された。
 西暦二一二〇年頃に築造され、被葬者は二五〇年頃に埋葬されたという。三世紀前半と二〇世紀に日本の国の歴史に深く関わる人物が、沼津という風土の中で生活していた。予想を超えた歴史の展開は実に面白い。
 高尾山古墳の価値は今後の研究で、さらに高まるだろう。道路建設のために破壊するなど断じて許されるものではない。昭和天皇没後二十五年経って刊行された「実録」から新たな事実が分かり、市民にとっての御用邸文化の価値も大いに高まったのだから。
 歴史とは、そういうものらしい。(大岡)
【沼朝平成27年8月8日(土)投稿記事】

2015年7月28日火曜日

平成24年8月の「スルガの古墳企画展」動画

平成24年8月「スルガの古墳(高尾山古墳)企画展」
会場:沼津市明治史料館

2015年7月12日日曜日

高尾山古墳が語るもの:篠原和大教授

高尾山古墳が語ること:篠原教授 from 河谷杯歩 on Vimeo.



当日配布画像資料

講演会の一部ですが動画です。当日配布資料は静止画像です。


高尾山古墳を解説
 沼津市民向けに勉強会

 都市計画道路の建設予定地にあり、沼津市が発掘調査で墳丘などを取り壊す方針を示している高尾山古墳(同市東熊堂)の現状維持を求める3市民団体が11日、同市の第5地区センターで初の市民向け勉強会を開いた。
 市民ら約220人が集まった。静岡大の篠原和大教授が同古墳の概要や価値を解説した。形状や立地、出土品を挙げ、「日本列島の政治、社会の成り立ちを知る上で重要な遺跡」と強調した。
 主催団体の一つ「高尾山古墳を考える会」の瀬川裕市郎代表(76)は「市民の関心の高さに驚いた。今後は署名活動などを通じて市に声を届けたい」と話した。
 同市原の女性(74)は「2009年の発掘調査時に出土品を見に行った。古墳を大切にしたいという気持ちが一層強まった」と感想を語った。
【静新平成27年7月12日(日)朝刊】

2015年6月17日水曜日

高尾山古墳を考える上・下毎日新聞石川宏記者記事(6月16日・17日地方版)

高尾山古墳を考える上

歴史的財産の損失
 静岡大人文社会科学部篠原和大教授(47)=考古学

 高尾山古墳は保存の価値がないのかー。国内最大の考古学会である日本考古学協会が保存を求める会長声明を出した沼津市の高尾山古墳について、同市は都市計画道路建設のため取り壊す方針を発表。今年度分の関係事業費5100万円を計上した予算案を市議会に提案した。粛々と取り壊しを進める市の手続きに間題はなかったのか。専門家から話を聞いた。【石川宏】

 東日本最大かつ最古初期国家形成で重要
 ー日本考古学協会は会長声明を出し高尾山古墳保存を訴えた。なぜ貴重なんでしょうか?
 東日本で最大かつ最古の古墳。それまで全長20㍍を超える墓もなかったのに60㍍を超えていた。日本列島の政治的社会の最初の段階を表し、初期国家形成を考える上で非常に重要だ。沼津だけではなく国民的な歴史的財産。壊せば、永遠に失われる。
 ー北陸系、近江系の土器も出土した。
 他の地域との交流が示されている。政治的社会の列島全体への広がりを説明する中で欠かせない。またこの年代で東日本でこれだけ多くの副葬品があるのは突出している。新たな議論や発見のたび、高尾山古墳は注目され、価値がさらに高まる可能性がある。教科書に載っていい古墳だ。
 ー古墳は既に一部破壊されています。
 破壊されたのは全体の10~20%。埋葬施設を含め主要部分はほぼ完全に残っている。
 ー保存すれば新たな発見も今後期待できますか?
 想像しなかった技術も出てくる。より正確な年代測定法もできるかもしれない。新たな学術的な視点が出てきた時に古墳が無ければどうしようもない。また学術面以外の関心も出てくるかもしれない。社会の最初の政治的ベースはどこから、とか。その時、古墳があるなしでは大違いだ。
 ー一般の人が素晴らしいと感じる保存はできますか?
 やり方次第。周りにもたくさん古墳があるので、高尾山を中心とした歴史公園みたいな整備も可能だと思う。
 ー62㍍もの墳丘はこの時代、東日本では弘法山古墳(長野県松本市)と高尾山古墳だけ。ヤマト王権の対抗勢力の最大の首長だった可能性は?
 東日本の前方後方墳はヤマトの対抗勢力と考える研究者もいる。一方、近畿中心の秩序の下にあったと考える人もいる。ヤマト勢力の橋頭堡(きょうとうほ)だったかもしれないし、逆にヤマトの対抗勢力の拠点だったかもしれない。みんな注目しているからこそ見解も対立する。ただ、埋葬者が東日本で一、二を争う首長だったのは間違いない。
 ー国史跡になるのでは?
 保存されれば当然なる。
 ー市民にもっと保存を働きかけていれば、いきなり取り壊しとならなかったのでは?
 県考古学会でシンポジウムを2回やり、静岡大考古学研究会でも研究会を開いた。市民的な運動に結びつかなかったのは残念だ。
 ー道路と古墳を両立させる方法は。
 いろんな方法があると思う。トンネルとか高架とか。合流点ギリギリで上げれば残せるのでは、とか。完全保存が10として、検討過程が示されないまま、無理だからとゼロに近い回答。8とか7で残せないか次善の策の検討の機会もない。
 ー以前はもっと新しい古墳と考えられて
いた。
 駿河の本格的な古墳は4世紀以降と考えられていた。高尾山古墳も2008~09年の発掘以前は長さ約20㍍のもっと新しい古墳と思われていた。3世紀の古墳とは誰も思わなかった。それが悲劇の始まりだ。
 ー篠原先生の専門は登呂遺跡ですね。
 高尾山古墳は登呂遺跡に勝るとも劣らぬ遺跡です。
 ※高尾山古墳
 沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある、前方後方墳(方形と台形を南北につなぎ合わせた形の古墳)。墳丘は全長62㍍、全幅推定34㍍。230~250年ごろの築造と推定される。弘法山古墳(長野県松本市・国史跡)と並び東日本最古最大級。当初は古墳と分からず、都市計画道路沼津南一色線(1961年計画決定)の整備に伴い2008~09年に実施した発掘調査で判明した。日本考古学協会は12年11月に保存を求める要望を提出。今年5月25日には同様の会長声明を発表した。沼津市は09年から道路建設を凍結していたが、会長声明と同日、道路建設を進めるため、全面発掘調査名目で取り壊すことを明らかにした。
【毎日新聞平成27年6月16日地方版】


高尾山古墳を考える下

 検討内容、全く不明
静岡大人文社会科学部 日詰一幸教授(59)一政治・行政学

 専門家交え迂回の議論深めて
 ー今回の政策決定の論点は?
 道路建設は非常に公共性の高い事業。一方、文化財は歴史的価値が理解されない限り、価値を軽んじられる可能性がある。それをどう考えるかが難しい。
 ー市の判断に問題は?
 古墳の歴史的価値の重要性をどの程度理解しているのか。考古学協会と公の場での意見交換があれば、市の認識も変わったかもしれない。議論がないまま、市の都合だけで取り壊しが進むのを危倶する。
 ー一方、考古学協会にも注文があると?
 広く市民の理解を形成していく努力が求められる。古墳を市民、国民の財産と理解してもらう取り組みがもっとなされてよかった。多くの市民が知らないところで判断されることは大きな問題だ。
 ー理解が深まれば、変わりますか?
 古代史で果たした沼津の役割を再認識する。古代史のロマンに満ちたまちづくりもできるかもしれない。沼津という町をもう一度再認識し、誇りを取り戻す。沼津への矜持(きょうじ)が持てる。そう高尾山古墳を位置付けられるかもしれない。「道路を通すために邪魔だから壊す」だけでなく、まちづくり全体に広げて議論できるのでは。
 ー取り壊しは市の丙部だけで決めた。
 遺跡を回避する道路設計も検討したと言うが、どう議論され、なぜ駄目かが説明されていない。判断に至った背景や理由が全く明らかにされていない。技術的困難性とか財政面とか案ごとの課題や検討結果が明かされていないのは手抜かりではないか。公表すれば市民から対案が出て、その方が合理性があるかもしれない。外部の専門家も交えて道路のルートのあり方や迂回(うかい)の議論を深めてもよい。
 遺跡の重要性に判断がいくなら保存に向くと思う。栗原裕康市長は遺跡の重要性、価値への洞察が不十分なのではないか。
 ー重要な古墳と分かったのは5年以上前です。
 5年あれば別の結論が出たかもしれない。
 ー市は今後何をすべきでしょうか?
 検討内容を公開し、考古学協会との間で一番いい解決策を検討すべきだ。議論を広げて、なお市民が道路を優先と判断するなら、それは市民の良識だ。
 ー判断が市議に委ねられています。
 行政の監視機能を十分に発揮しないといけない。情報が不十分なら、専門家を招いたり、各層の意見を聞いたりしてみる。少し先延ばしして時間をかけて精緻な検討をするのも良識としてあっていい。価値判断できずに、市のペースで進むのには警鐘を鳴らしたい。
 ー取り壊しは補正予算の一部として提案されています。
 市の戦略でしょう。他の予算が人質に取られているのはその通り。議会工作なのかな。
 ー文化財の今日的意義は?
 文化に関わるソフトパワーは世界的に非常に重視されている。文化や歴史は残すことに意味がある。そこから人間の営みを人々は考える。失われるのは人類にとっての損失だ。地元が残した韮山反射炉は世界文化遺産につながった。
 ー沼津市は「ぬまづの宝100選」を選んだが、高尾山古墳は入っていない。
 自分のまちの資源の重要性は自分たちで気付かず外部に言われて初めて気づくケースがある。まさに高尾山古墳はそうではないか。取り壊しは将来に汚点を残す可能性がある。
【毎日新聞平成27年6月17日地方版】

2015年6月8日月曜日

6年前の辻畑古墳発掘現場説明会の動画











平成21年9月13日の辻畑古墳発掘現場説明会の動画です、

今は高尾山古墳ですが、この貴重な文化遺産が消えそうな事態です。

皆さん、この動画を読んでこの問題を真剣に議論すべきと考えますが。

高尾山古墳(世界遺産に匹敵するこの古墳)を沼津から消えるとは、

又、それを無関心な市民が恥ずかしい。

2015年6月6日土曜日

沼津から一つの日本の宝が消えようとしている。

沼津に残る始期と終期の古墳
 稀有な存在、一方が取り壊しの運命
 沼津から一つの宝が消えようとしている。「ぬまづの宝」どころか、日本考古学協会の専門家が「日本国民共有の文化遺産」だと指摘する東熊堂の高尾山古墳。千八百年の時を超えて蘇った威容は、その大部分を道路が取って代わるという。この古墳の「東日本最古級」という位置付けは、単体の古さだけでなく、古墳時代の掉尾(とうび)を飾った、もう一方の古墳、足高の「清水柳北遺跡I号墳」によって、古墳時代の幕開けと、その終焉を告げる存在が同じ地域の極めて狭い範囲から出土したという希少価値につながっている。都市計画道路沼津南一色線の予定通りの建設決定に伴い、少なくとも主体部を含む主要部分が削り取られることになる高尾山古墳。最頂部の地下に眠った時の権力者は、どんな思いで成り行きを見守っているのだろうか。二つの古墳を振り返ってみた。
 【高尾山古墳】 規模東熊堂の高尾山穂見神社の移転跡から出土。平成二十年五月に始まった本格調査で「前方後方墳」(前方部、後方部共に方形)であることが確認された。
 古墳規模は南北全長が約六二㍍、前方部の最大幅(東西)が推定で二四㍍、後方部は推定三五㍍。前方部が低く、後方部の盛り土高は約四㍍。前方部は祭祀を行う場所だといい、後方部最頂には被葬者を埋葬した主体部があった。

 築造年代 前方後方墳は県内に他の出土例がないわけではないが、高尾山が注目されるのは、築造年代。発掘調査時、周辺で確認された土器の古さから、西暦二三〇年説も出て、国内最古級の見方もあった。
 その後の分析で現在は、築造は二三〇年ごろ、埋葬が二五〇年ごろということで落ち着いているが、考古学関係では、埋葬をもって築造年代とされる。卑弥呼の墓でないかとされる奈良県桜井市の箸墓古墳が、ほぼ同時代だと言われている。
 出土物 主体部をはじめ周辺から多くの土器が出た。廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる古い段階の土師器(はじき=素焼きの土器)の中でも、前半の時期に属するのではないかというものや、沼津から全国に送り出された「在地土器」、さらに、北陸地方産の土器も出土していて、交流の様子を見せている。
 このほかにも鉄鏃(てつぞく=やじり)や鉄製の槍、刀、勾玉などが確認され、また、棺を納めた場所には朱色が残る部分が残っていたが、これは水銀朱と言われ、現在でも大変貴重なものだといい、この古墳の被葬者の力が強大なものであったことをうかがわせるものだという。
 さらに注目されるのが青銅製の鏡。「浮彫式獣帯鏡(うきぼりしきじゅうたいきょう)」と言われ、この形式の鏡の古い時代に属するものではないかとされるものが出土している。中国後漢時代に大陸で作られたものではないかといい、畿内の中央とは別に、これを手に入れることのできる存在が沼津にあったのではないかとされた。

 日本考古学協会の会長声明 高倉洋彰会長は、高尾山古墳の保存を求める声明の中で、この古墳の価値について、次のように指摘している。
 ①古墳時代最初頭(三世紀)の時期として日本列島屈指の規模を持つ、②初期古墳の多くが丘陵上に築かれるのとは異なり平地に構築されたために墳丘盛り土がよく保存されている、③埋葬施設の朱塗り木棺から青銅鏡(後漢未)など豊富な副葬品が出土した、④墳丘や周溝から北陸や近江系の土器が出土して他地域との交流が確認できる。以上から畿内の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長墳と考えられる。

 【清水柳北遺跡I号墳】 沼津工業団地造成に先立ち、昭和六十一年から二年間にわたって行われた埋蔵文化財発掘調査で出土した。

 当時、全国で二例目、東日本では初めてという「上円下方墳」(下部が万形、上部が円形)で、規模は下方部の一片が一二㍍、高さ一㍍、上円部は直径九㍍。
 築造年代は八世紀(西暦七〇〇年代)の半ばまでには造られたのではないかと考えられている.
 この上円下方墳以降、古墳は造られなくなるので、I号墳は古墳の「最終の形態」を示したもので、「最古級」の高尾山に対して「最も新しい時代の古墳」だと言うことができる。
 高尾山古墳の出土によって沼津には現在、新旧の形態を持った二つの古墳が存在しているが、上円下方墳の類例が少ないだけに、新旧が並ぶというのは全国的に見ても稀有な存在だと言える。
 その一つが、今後再び行われる予定の発掘調査によって消えようとしている。
 なお、清水柳北遺跡I号墳は、出土した場所からほど近い所に移築復元されている。

(沼朝平成27年6月6日号)