沼津市立図書館秋の企画展
戦国沼津の三大城巡り
~展示内容に一歩踏み込みたいあなたへ贈る解説~
沼津の地理的特徴とはどういったものが考えられるでしょうか。東海道を代表とする「東西」の道と山梨県から御殿場・裾野を通る「南北」の道との交差点、急峻な箱根の手前に位置する東国への玄関口、駿河湾の最奥部と伊豆半島への入り口、これらは全て沼津を語るうえでの重要な特徴であるといえます。そして現在に限らず、戦国時代においても、沼津の地は地理的優位性によって東駿河の中心地であったのです。
このことから、戦国時代において沼津の地を抑えることは戦略上非常に重要な意味を持っていました。特に北条早雲(伊勢宗瑞)旗揚げの城として知られる興国寺城は、当時の主要街道である根方街道沿いに築かれており、東西の交通を見張ることが可能でした。早雲旗揚げ以後、興国寺城が120年間にもわたって、この地の重要な城として機能し続けたのも重要な街道を抑えるという目的があったからでしょう。
その後、駿河国(静岡県中東部)の今川氏、甲斐国(山梨県)の武田氏、伊豆・相模国(神奈川県)の北条氏の三氏による争いが、途中の同盟期間を含めても20年近くにわたって行われました。三氏による争いは、駿河国を手に入れた武田氏と伊豆国を治める北条氏の争いへと変わり、狩野川付近に引かれた駿河国と伊豆国の境では、繰り返し戦いが起こっています。武田氏は興国寺城を拠点としながらも前線基地として三枚橋城を築き、さらに千本浜には武田水軍を集結させました。一方、北条氏はこれに対抗して、長浜城を築き、当時最先端の海戦術を持った北条水箪の主力を伊豆に集めました。そして武田氏の侵攻に対抗したのです。両氏の決着はつきませんでしたが、武田氏は織田氏と徳川氏によって滅ぼされ、この地は徳川氏の領有となります。
徳川氏の領国となった沼津は、引き続き徳川氏と北条氏の前線となりました。一時同盟関係が結ばれたものの、豊臣秀吉の臣下となった徳川氏は、豊臣氏とともに北条氏攻略に乗り出します。北条氏の本拠地は小田原城であったため、箱根手前の沼津は北条氏攻略のための最前線基地として機能しました。北条氏滅亡後の沼津は、豊臣氏の家臣である中村一氏の支配地となりました。中村一氏は、弟の一栄を三枚橋城城主とし、江戸に転封(配置換え)された徳川家康への備えとしています。徳川家康の支配地の最西端が小田原であったため、またも沼津は徳川氏に対する最前線の役割を果たしました。この時に三枚橋城は、石垣を伴う城へ改修されたと考えられます。これにより、豊臣氏がいかに沼津を重要な地点と位置付けていたかを伺うことができます。
関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下を統一すると、「支配領域の境目」という沼津の地理的特殊性は失われることになりました。その結果、江戸時代初頭には三枚橋城や興国寺城は廃城となり、沼津は東海道の宿場町へと変わっていきました。
〈興国寺城跡〉
興国寺城は、北条早雲(伊勢宗瑞)旗揚げの城として知られています。早雲は、中央の政変の動きに呼応して、伊豆に攻め入り、伊豆国を奪取しました。下剋上の例として知られるこの出来事から、東国における戦国時代は始まったのです。
その後も興国寺城は束駿河における重要な拠点であり続けました。今見えている興国寺城の姿は最終段階、つまり江戸時代初期の姿ですが、様々な城主によって支配を受けた興国寺城は、繰り返し改修が行われ、その時の城主の兵力に合わせながら、城の姿を変えています。たとえば、後の改修によって当時の様子はわかりにくくなっていますが、最初期の北条・今川段階の興国寺城は、16世紀前半の遺物が現在の三の丸から多く出土していることから、根方街道沿いにあったのではないかと想定しています。
続く武田氏が支配した時の興国寺城の城域は、武田氏が得意とした「丸馬出し」(三日月堀と土塁を組み合わせる入口の作り方)を根拠に、現在の本丸から北曲輪を想定しています。特に本丸の南側に造られた三日月堀からは、16世紀中ごろに作られた「播鉢」が堀の底から見つかりました。この三日月堀は、本丸堀の改修によって、一気に埋められていることが発掘調査で判明したため、「揺鉢」の年代は、この堀が埋められた時期を示している可能性が非常に高いと考えられます。つまり、武田氏が造った三日月堀は、次に城主となった徳川氏によって破壊され、その後に別の形に造り直されていることが想定されるのです。
武田氏が滅亡した後、興国寺城は、徳川氏の城となります。文献を読む限り、この段階での細かな改修はわかりませんが、参考になる文献があります。『関八州古戦録』巻之十六には、豊臣軍が小田原へ攻め込む直前のことが書いてあり、その記載を見ると「先陣追々二押来テ、富士ノ根方・(中略)、野ニモ山ニモ充満タルニ」とあります。小田原へ向かう大軍勢で根方(興国寺城付近)はあふれかえったのでしょう。そして、この文献と同時に、発掘調査でも徳川段階と想定される城域こそが、興国寺城の歴史の中で一番広かったと考えるデータがそろってきました。面積ももちろんのこと、同時に防御施設の大きさも変化しています。「堀はより広く、土塁はより高く」。これは、戦いにおける鉄砲の使用が一般化した戦国時代後半において全国的にみられる傾向ですが、これは興国寺城でも当てはまるのです。
最後は、豊臣氏家臣の河毛重次と徳川氏家臣の天野康景の段階です。大空堀や伝天守台が造られた段階ですが、どちらの城主が普請したのかはまだ検討が必要です。この段階で重要な事項は、7㎞しか離れていない三枚橋城には、高石垣・瓦葺きの天守が造られたにもかかわらず、興国寺城には最後まで天守は造られなかったということです。
今回解説した事項は平成15年度より本格的に開始した発掘調査によって判明してきたばかりの事ですが、広大な興国寺城の全体解明にはまだ少し時間がかかります。今後の調査によっては、今回解説したことが覆されるかもしれません。
〈三枚橋城跡〉
三枚橋城の築城時期は諸説ありますが、天正7年(1579)9月の北条氏の文書に「このたび駿豆(※駿河と伊豆のこと)の境(の)沼津号地(に)、地利(※城のこと)築かれ候」とあり、築城した武田の文書にも、ほぼ同時期に「当地普請(※城を造るもしくは改修すること)悉く出来」と伝えているため、天正7年(1579)が有力な説であるといえます。
しかし武田氏段階の三枚橋城の姿はどんな状況であったかは、よくわかっていません。現在市街地に埋もれてしまっているため、発掘調査が困難であることも主な原因ですが、後世に大きく改変を受けていることが、一番の理由にあるでしょう。
武田氏滅亡後は徳川氏の城となり、その後、北条氏が滅亡して徳川氏が関東に転封(配置換え)となると、駿河国は、豊臣氏家臣の中村一氏の領地となります。この段階に残った豊臣氏の脅威は、小田原城を領地の西端とする徳川氏のみであったため、沼津は徳川氏への備えのための重要な地となりました。そこで沼津の地には、一氏の弟である一栄が置かれることとなり、この時に三枚橋城は、武田氏築城の「土の城」から「石垣の城」へと変わったと考えられます。 当時の徳川氏は、かつてないほどの高層建築物である「天守」を造る為の職人集団を抱えていなかったと考えられています。これは、後年に江戸城を造る際に、石垣を造った大名が、ほとんど西国の大名であったことからも推測されます。一方、当時に西国の大名や技術者集団を抑えていた豊臣氏は、天守建造のための知識や技術を持っていました。三枚橋城に石垣造りの天守を築くということは、徳川氏が持ち合わせてなかった最先端技術を徳川氏に見せつける狙いがあったのかもしれません。
三枚橋城は関ヶ原の戦いの後、徳川氏の家臣である大久保忠佐が城主となりました、忠佐は小田原城の城主であった忠世の弟です。この段階で、沼津と小田原は共に徳川氏の家臣、しかも兄弟で治められることになりました。これは、武田対北条、豊臣・徳川対北条、豊臣対徳川と、これまで戦いの前線としての位置づけられていた三枚橋城が、江戸時代になって、その役目を終えようとしていたことを示しています。そして実際に後継ぎがいなかった忠佐が亡くなると、新しい城主は据えられることなく、三枚橋城は廃城となりました。
そして三枚橋城廃城から約150年後、三枚橋城の跡地には沼津城が築かれました。本丸の場所は、沼津中央公園付近で三枚橋城と変わりませんが、全体の面積は三枚橋城より狭くなっています。しかし明治時代に入ると、沼津城は沼津兵学校の校地に使用された後、道路の新設や大火などで完全にその姿を消してしまいました。
現在では、三枚橋城および沼津城の様子は、石碑や一部復元された石垣を除いて、伺うことはできません。
しかし三枚橋城廃城から約400年たった今、発掘調査で発見された三枚橋城の石垣の一部は、千本常盤地区に整備を進めている人口高台「築山」のオブジェとして、利用されることになりました。当時の場所からは少し離れてしまいましたが、かつて城を守っていた石垣は、沼津市民を守る築山の一部となって甦える予定です。
〈長浜城跡〉
長浜城は、現在の内浦長浜と重須地区にまたがった岬の上に作られた水軍の城です。築城のきっかけは、天正7年(1579)に武田氏が沼津に三枚橋城を築いたことに起因します。北条氏もこれに対抗し、韮山城を守る布陣を整えました。その中でも長浜城は海の防備を固める重要な城として位置づけられ、当時、東京湾で大きな活躍を見せていた北条水軍の梶原景宗を長浜城に呼び寄せています。こうして、三枚橋城と長浜城は、わずか10㎞の距離でにらみ合う関係となったのです。
本格的な戦いは翌年春から開始されました。江戸時代に書かれた軍記物を見る限り、重須浦に武田水箪が攻撃を行い、梶原景宗率いる北条水軍が応戦したことで開戦したようです。その後、北条水軍の反撃により、武田水軍は浮島ケ原にまで引き上げましたが、北条水軍はこれを追撃して、両水軍は日が暮れるまで戦ったと書かれています。
海戦の勝者は明らかではありません。なぜなら、両軍ともに水軍大将の戦功を褒め称えている文書が残っているのです。4月に武田勝頼は、武田水軍の小浜泉隆・向井政綱の両名に「今度伊豆浦に至り行に及ぶ砌、梶原馳せ向かうの処、挑戦し郷村数か所を撃破、殊に敵船を奪い捕えるの由、誠に戦功の至比類なく候」という感状(戦功をたたえる賞状の事)を出しています。一方北条氏も梶原景宗に対して、先の戦功(駿河湾海戦)を認めて、新たに大船を建造し、三浦郡栗濱の土地150貫を与えるので、乗組衆を仕立てるよう命じています。
このような状況ですが、残存する文書から判断すると、武田水軍に対する感状が目立ちます。これをそのまま鵜呑みにすることはできませんが、天正9年(1581)になっても武田勝頼からの感状が多く出されていることから、駿河湾での海戦は、武田水軍が有利に進めていたと考えられます。しかし徳川氏と同盟関係にあった北条氏は、天正10年(1582)に織田氏・徳川氏が武田攻略戦に乗り出すと、これに呼応して、三枚橋城への陸路での攻略を進め、落城させています。こうして武田氏との決着がつくことになりました。
武田氏滅亡後は、長浜城はその役目を終えていたためか、あまり歴史の舞台に登場しなくなります。天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原攻略に乗り出すと、沼津はそのための前線基地となりますが、海戦の中心は下田の方へ移っていたため、長浜城には地元士豪が少人数で守るだけの城となっています。このように整理していくと、長浜城が北条氏の城として重要な意味を持っていたのは、対武田戦に備えた天正7年(1579)から10年(1582)のわずか3年間ということになります、しかし長浜城には、至る所に北条氏の特徴的な城の造り方が反映されていて、ここから長浜城に対する北条氏の戦略的位置づけを見ることができるのです。面積は興国寺城の10分の1程度しかない小さな城ですが、「三枚橋城が城から正面に見える」という城の造りと北条氏の特徴的な防御施設を目の前にすると、北条氏の緊張感を感じざるを得ません。
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