2013年4月26日金曜日

マヤ文明最古の建造物 グアテマラ

マヤ文明最古の建造物 グアテマラ
 紀元前1000年ころ
 学説200年さかのぼる

 メキシコ南東部から中米で16世紀まで繁栄したマヤ文明は、従来の学説より約200年早く、紀元前1000年ごろには発展し始めていた可能性が高いことが分かった。国際調査団がグアテマラのセイバル遺跡を発掘し、当時の中央広場や祭祀(さいし)施設の跡を発見した。団長の猪俣健・米アリゾナ大教授や青山和夫茨城大教授らが26日付の米科学誌サイエンスに発表した。
 遺跡は発掘調査が2005年、約40年ぶりに再開された。自然の地盤に突き当たるまで深く掘削したところ、最も古い紀元前1000年ごろの地層から、当時の人々が集められた中央広場や、大小三つの「基壇(きだん)」と呼ばれる土造りの舞台のような祭祀施設の跡が見つかった。
 基壇では王侯貴族が祭祀を行ったとみられる。祭祀施設はこれまで、紀元前800年以降に建てられたと考えられていた。小さめの基壇二つは中央広場の東西に配置され、太陽の運行方向が配慮されたと推定される。南東に少し離れた大きい基壇は幅が34㍍超もある四角形で、敷地には後代、石造りの巨大な「神殿ピラミッド」が築かれた。
《静新平成25年4月26日(金)夕刊》

2013年4月17日水曜日

唐人お吉こと斉藤おきち

図書館で調べものしてたら。
唐人お吉こと斉藤おきちの写真発見。本名斉藤おきちという美人。

2013年4月11日木曜日

縄文人がサケ煮炊き?土器に料理跡世界最古

縄文人がサケ煮炊き?土器に料理跡世界最古
 1万年前の「焦げ」分析 北海道、福井で出土

 北海道や福井県の遺跡から出土した1万1千~1万5千年前の縄文式土器の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを日英などの研究チームが見つけ、11日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。チームは料理に使われた世界最古の土器としている。
 農耕が始まる前に発明された土器は、氷河期を乗り越えるため食料の貯蔵などに使っていたとみられていたが、栄養価の高い魚類を料理していたことも示すという。縄文人の暮らしぶりの一端を明らかにする成果。
 チームは北海道や新潟、福井、長野、鹿児島の13遺跡から縄文式土器計101個を集め、焦げ跡を分析した。
 このうち鳥浜貝塚(福井)と大正3遺跡(北海道)の土器片の内側に付着した成分を詳しく調べたところ、鳥浜貝塚では35個のうち17個、大正3遺跡では2個のうち1個から魚の油分が劣化したとみられる脂肪酸を検出。海の魚か川魚かは分からないが、深鍋の土器を300度近い高温の状態に熱し、煮炊きした証拠と判断した。
 チームは、詳細に分析していない他の遺跡でも、焦げ跡の炭素や窒素の同位体比から、ほとんどの土器は煮炊きに使われたとみている。素材はサケの可能性が高いという。
 研究に参加した総合地球環境学研究所(京都市)の内山純蔵客員准教授(景観考古学)は「この時代の土器の量は際立って少なく、煮炊きして日常的に食べたとは限らない。儀礼に使った可能性もある」とみている。
 遡上のサケやマスか
 中村俊夫・名古屋大教授(年代学)の話日本や中国、ロシアなどの極東は土器の発祥の地と考えられているが、いつ、何のために作られたのかは良く分かっていなかった。その解明につながるとても面白い研究だ。(調査対象の)遺跡はサケやマスが遡上(そじょう)する途中にあるところが多く、縄文人がこれらをたくさん捕って煮炊きし、油や食物にしたと考えてもおかしくない。これまで一般的に考えられていたことが、科学的に裏付けられた。
 儀式に使った可能性も
 研究に参加した福井県立若狭歴史民俗資料館の鰺本真友美主任(考古学)の話 氷河期の時代に、魚介類を料理するために土器が使われた可能性があると分かった。土器が生まれた理由を知るために一歩前進といえる。検出された脂肪酸は、海や川の生物を煮ると出てくるものなので、煮炊きに使ったのではないか。皆で温かい物を食べるという実用面以外に、神様への供え物や儀式などに使われた可能性もある。今後、さらに解明が進むと期待している。
《静新平成25年4月11日(木)朝刊》

2013年3月17日日曜日

沼津市立第一小学校:明治時代の歴史

沼津市立第一小学校初期の歴史

明治元年9月 代戯館開く(添地の長屋を一棟借受け素読・手習・算術の三科)
●明治元年10月 代戯館 (十月には沼津城西南隅、外濠内の屋敷二戸を改造して仮校舎)
●明治元年12月8日 徳川家兵学校附属小学校開校(代戯館を引き継ぐ)
●明治2年1月8日 授業開始
●明治3年1月 静岡藩小学校(明治二年八月の静岡藩制改革に伴い、校名は「静岡藩小学校」と改められる)
●明治4年4月 沼津城丸馬出門外(今の上本通ボールビルの辺)に洋風瓦葺二階建の新校舎を建築し、移った。
●明治4年11月 沼津小学校(明治四年七月廃藩置県となり、十一月から校名も「沼津小学校」と改められた)
●明治5年8月2日 学制頌布により政府の教育方針も確立し、本校もこの時から徳川家の手を離れた。
●明治6年1月 城内町々立小学校集成舎〔この集成舎には正則学(小学部)と変則学(中学部)とがあり、沼津小学校の下級生は正則学に、上級生は変則学に編入された。この変則学には当時既に外人教師を招聘していた。集成舎の変則学は明治九年八月分離独立して第二大学区第十四番中学校となり、同十二年四月から沼津中学校と改称され、同十九年七月静岡中学校に統合されるまで、東駿地方最高の学校であった。〕
●明治6年 明強舎(城内以南の児童のために下本町の旧本陣清水宅を校舎として明強舎を設立した。校長には兵学校附属小学校に学び、明治六年一月から慶応義塾で洋学を修めてきた間宮喜十郎が就任した。明強舎は大字本町・上土・三枚橋方面を学区とした。
●明治9年 当時の集成舎の校長は、沼津小学校第一分校の後身の金岡村敬身舎の校長であった山田大夢が栄転してきた。
●明治10年 沼津学校 「集成・明強両舎を合して沼津学校」
(たまたま明治十年一月明強舎が類焼にあったので、これを機会に集成・明強両舎を合併する議が起り、校名は「沼津学校」、校長は集成舎校長山田大夢、副校長は明強舎校長間宮喜十郎)
●明治11年6月 小学沼津学校
(新校舎は沼津城本丸跡へ総工費五千円で十年六月着工、一カ年を費して建坪三五〇坪、延坪六二〇坪の洋風木造瓦葺二階建とし「小学沼津学校」の名称で十一年六月開校した。本校の名称を「沼津黌」と呼ぶものであるが、これは本校開校に際し徳川慶喜公が特別に「沼津黌」という扁額を揮毫)
●明治13年12月 後集成・後明成・三橋の三舎分立
(明治五年の学制は同十二年九月に廃され、また十一年七月郡区町村編成法が公布され、この時から駿東郡沼津町となり、これに伴い城内・本町・上土・三枚橋も一小行政区域となって会計も別個となり、各地区分離の気運が旺盛となった。これらが原因して全町一小学校の偉容を誇った沼津学校も、十三年十二月に集成・明強・三橋の三舎に分離した三校のうち後集成舎(便宜上の呼称)は添地町の西端元馬場跡に平屋建の校舎を新築して「城内町公立小学集成舎」と称し、城内一帯を学区とした。後明強舎は沼津学校々舎と交換した町方町の裁判所跡に移り「本町上土聯合小学明強舎」と称し、本町上土一帯を学区とした三橋舎の名称はこの時初めて用いられたもので、日枝神社神官川口信之の住宅の一部も教室とし「三枚橋町公立小学三橋舎」として三枚橋一帯を学区とした。)
●明治13年12月 城内町公立小学集成舎
〔城内一帯(条内・片端・添地・西条・町方)を学区とした〕
●明治19年7月 公立小学沼津黌「三舎は合併して一校となる」
(明治十七年に再び行政区画の改正があり、一度分れた四ヵ力町は旧に復して一区画となった。十八年七月には教育令も改正され、これに伴い十九年二月の県令で学区の改正もあって、沼津の大字四ヵ町は駿東郡第十五学区として一学区に指定された。これが原因して十九年七月、三舎は合併して一校となり「公立小学沼津黌」となったが、これは明治十一年に設立された沼津学校の別名を用いたものである。校舎は町方町の明強舎の個所に集中したが、手狭のため北隣の郡役所の建物を使用し、郡役所は他へ移転した学科の内容や学級の段階などは総べて以前と変りなかった。)
●明治20年1月 尋常小学沼津黌
●明治20年10月 公立沼津尋常小学校
●明治25年5月 町立沼津尋常小学校
●明治30年 沼津町では二十九年末より八幡町の現位置に大校舎を新築し、ここに尋常高等両科を統合することにし翌三十年ここに移転した。



2013年2月28日木曜日

運慶作仏像国宝に

 運慶作仏像国宝に
伊豆の国 「願成就院」所蔵 文化審答申

 国の文化審議会は27日、伊豆の国市寺家の願成就院が所蔵する「運慶(うんけい)作諸仏」をはじめ、快慶の「木造騎獅文殊菩薩像(もくぞうきしもんじゅぼさつぞう)」などの仏像群と、平安時代から明治時代の史料「醍醐寺文書聖教(だいこじもんじょしょうぎょう)」の計3件を国宝に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。事務手続きを経て正式に指定される。「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」(伊豆の国市)、「明ケ島古墳群出土土製品」(磐田市)の3件を含む50件の重要文化財指定も併せて答申した。
 「運慶作諸仏」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師運慶が1186年(文治2年)、鎌倉幕府の初代執権として知られる北条時政の依頼を受けて制作した。いずれも木造の「阿弥陀(あみだ)如来坐像」「不動明王及二童子立像」「毘沙門天立像」の計5体で構成される。
 仏像の胎内から発見された木札などから、運慶の真作と判明した。運慶の優れた彫刻の技術を伝えるだけでなく、力強さと写実性を特徴とする鎌倉時代の彫刻をリードした「運慶様式」を確立した作品であることが評価された。
 彫刻の指定は中部地方で初めて。県教委によると、県内関係の国宝指定は2010年12月の「久能山東照宮本殿、石の間、拝殿」(静岡市駿河区)以来で、通算13件目。重要文化財は今回の指定を含め、計220件になった。
◎ 願成就院 創建は1189年(文治5年)。北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建設したとされる。その後約半世紀にわたり堂塔などが次々と増築され、繁栄した。15世紀末、北条早雲が堀越公方・足利茶々丸を攻めた際に多くの建物を焼失。江戸時代に入ってから再興した。今回、国宝指定が決まった運慶作諸仏をはじめ、生前の北条政子の姿を模したとされる「政子地蔵菩薩像」などを所蔵している。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

願成就院の仏像国宝に
 若き運慶の技躍動 力強さと写実性備え

 27日の文化審議会の答申で、国宝に指定されることが決まった願成就院の「運慶作諸仏」(伊豆の国市寺家)。美術の専門家は「運慶の確立した鎌倉彫刻様式の礎となった作品」と指摘する。
 穏やかな顔の阿弥陀如来坐像、引き締まった表情で前を見据える不動明王立像と毘沙門天立像。国宝指定を受けた5体の仏像は、いずれも運慶の代名詞となっている力強さと写実性を兼ね備える。県文化財保護審議会委員で、三井記念美術館(東京都)の清水真澄館長(73)は「阿弥陀如来坐像の全身のボリューム感や、毘沙門天立像の体の動きなどはさすが運慶と思わせる」と話す。
 運慶が北条時政の依頼を受けて仏像を制作した時期は、武士が政治を担った鎌倉幕府の成立期と重なる。上原仏教美術館(下田市)の田島整学芸員(42)は「当時は美術の中心が貴族から武士に移っていく過渡期だった。運慶はこの作品で初めて自身の様式を打ち出し、その後の潮流をつくっていった」と指摘する。
 全国的にも数少ない運慶の真作との判断には、仏像の胎内に納められた木札が大きな役割を果たした。江戸時代に不動明王と毘沙門天を修復した際、運慶と時政の名が書かれた木札が見つかっていた。さらに昭和30年代、二童子立像をエックス線で撮影したところ、同様の木札が胎内にあることが分かり、研究が大きく進展した。
 清水館長は「若い運慶の躍動感あふれ造形も魅力。大変に意義深い国宝指定だと思う」と話した。

 「後世に伝えたい」関係者ら喜びの声
 中部地方で初となる彫刻の国宝指定の答申を受け、「運慶作諸仏」を所蔵する伊豆の国市の願成就院は喜びに包まれた。観光関係者の間からは今後の観光振興に期待の声が上がった。「度重なる兵火や災害を免れ、5体の仏像が今も残っていることが奇跡。国宝指定は本当にうれしい」ー。答申の知らせを受けた願成就院の小崎祥道住職(76)は、晴れやかな表情で語った。
 鎌倉幕府の執権を務めた北条一門が造営し、隆盛を誇った同寺も15世紀以降の北条早雲の堀越公方攻めや豊臣秀吉の小田原攻めなどに巻き込まれ、何度も焼失した。小崎住職は「仏像は当時の人々が持ち出すなどして、守り抜いたのだろう。後世までしっかり伝えるため、護持管理に一層努めたい」と力を込める。
 国宝指定を機に、仏像ファンなど参拝客の増加も見込まれる。伊豆の国市観光協会の安田昌代会長(69)は「伊豆の国の宝が知られる良い機会になる。北条氏や源頼朝ゆかりの地として、あらためてPRに取り組んでいきたい」と話した。

 江川家関係資料と写真/明ケ島古墳群土製品 県内3件の重文も誕生
 「運慶作諸仏」の国宝指定と同時に、県内に3件の重要文化財が新たに誕生した。
 「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」は、江戸時代に歴代当主が韮山代官を務めた江川家に伝わる文書や洋書、武器、古写真など約3万9千点からなる。
 江川家は、平安時代に現在の伊豆の国市韮山地域に定着したとされる武士の家系。特に幕末期の第36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵)は海防政策に関心を持ち、西洋の知識の収集に取り組んだ。資料には、英龍の自画像と伝えられる肖像画や品川沖に築かれた台場の絵図、近代的な大砲の模型、韮山反射炉に関する文書などが含まれる。写真は全461点。いずれも幕末から明治前半に撮影された。中浜(ジョン)万次郎が撮影した第37代当主江川英敏や旗本小沢太左衛門、江川邸と韮山製糸場の遠景写真などがある。
 明ケ島古墳群出土土製品は磐田市明ケ島原の区画整理による調査で、5世紀後半に造られたとされる方墳の下から見つかった。
 5世紀前半の祭祀(さいし)に用いられたとみられる。過去に例のない多種多量な上に良好な状態の土製品で、時期や祭祀の実態を把握できるーとして、1064点のほか、破片計4千点以上が県指定有形文化財から格上げされた。人のほか犬やイノシシなどの動物、武器・武具、楽器、農具などを模した素焼きの立体像で、大きさは1~15㌢。人形は目や鼻、耳だけでなく男女を区別し、中には武器を装備しているものもある。琴は板琴(いたこと)や槽琴(そうごと)などの違いを細かく作り分けている。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

2013年2月26日火曜日

続町名由来(七) 浜悠人

続町名由来(七) 浜悠人
 静浦地区は駿河湾の入り江に面し、特に江浦は奥深く入り、波静かにして水深もあり、天然の良港である。江戸時代には江戸や大坂を行き来する大型船が停泊し、積み荷の揚げ下ろしでにぎわった。
 明治二十二(一八八九)年の町村制施行に際し、志下、馬込、獅子浜、江浦、多比、口野の六力村が一つになり、波静かな浦に面しているので静浦村と名付けられた。そして、それまでの村名は大字となり、獅子浜に村役場が置かれた。昭和十九(一九四四)年、静浦村は金岡、大岡、片浜の三力村と共に沼津市と合併した。
 『志下』北は島郷に接し、昔、狩野川が現在より東の方に流れ砂嘴(さし)が伸びていたので、この地を嘴下(しげ)と称し、「志下」なる字が当てられたと言うが、定かではない。
 沖の瓜島(うりじま)は明治中期、西郷隆盛の実弟、従道(つぐみち)が島の対岸に別荘を建てたので「西郷島」と呼ばれるようになった。近くには明治二十六(一八九三)年、御用邸も設けられ、別荘地、保養地として栄えた。
 なお、志下には、この年、安藤正胤医師が開設した静浦海浜院と、現今ならリゾートホテルと呼ばれる静浦保養館があった。安藤は、乃木希典が院長を務めていた学習院の游泳場を誘致した功績により沼津市から表彰を受け、記念事業として志下峠に登る象山の一角に染井吉野の苗、百数十本を植えて桜の名所としたが、戦時中に切り倒され、今や雑木と交じり、その面影はない。
 登山道左手には、安藤正胤翁碑と佐佐木信綱歌碑「八千もとのこの山桜こ、にうゑしよき人の名は萬世までに」が、茂れる八重葎(やえむぐら)に埋まっている。
 『馬込』志下に接した地で、『駿東郡誌』によれば「治承四年源頼朝、黄瀬川在陣の折、馬をこの村に曳き寵めしを以て其の名となる」とあり、「籠」は「込」に通じ、馬込となった。
 集落入り口から奥深く入り、三方が山や丘に囲まれ、馬囲いには適した地形とみた。
 『獅子浜』この地名は、古文書によれば「昔この地を宍人郷(ししびとこう)と呼び、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の御時、上総の海にて弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水し、其の屍がこの浜にあがったと云うが、その真否は分からず」と記されていることによる。
 先日出掛けた東京渋谷の白隠展で、禅画「鷲頭山」が展示されていた。
 「見上げてみれば鷲頭山、みおろせば しげ鹿浜のつり舟」の賛があり、この地の作業歌で「しげ」は志下、「鹿浜」は「ししはま」と読み、後年、「獅子浜」の字が当てられた。
 本能寺の後ろには獅子浜城址がある。戦国時代の北条方の出城で、天正十八(一五九〇)年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、将兵は退去し、以後、廃城となった。
 『江浦』海の入り込んだ入り江から名付けられた。実際、駿河湾が深く入り込み、波静かな良港で、昔、伊勢船が出入りしていた。
 徳川三代将軍家光が上洛の途中、三島宿で静浦の活鯛を賞味し、地元の網元に命じて志下や獅子浜で取った鯛を江浦の生簀(いけす)に入れ、船底で生かして江戸城へ運んだと言われる。
 『多比』江浦湾に接した漁業の地で、朝晩、漁の合図に手火(たび=松明)を使っていたので地名になったと言われるが定かではない。古文書には「多美」「多肥」「田飛」とも書かれている。
 この地は昔から鰹節の産地として全国に知られていた。その中には沖縄の出稼ぎ漁師もいたのだろうか、龍雲寺の石段左手に石敢當(せきがんとう)なる、沖縄で見かける"魔除けの石塔"が運ばれ、置かれているのを見つけた。
 『口野』駿河国から伊豆国への入り口を示す意昧で「口野」と名付けられた。この地にある「塩久津」の小字は「塩置津」が訛ったからで、昔は塩を積んだ舟がたくさん出入りし、塩の積み下ろし港が塩久津であった。
 口野の南、内浦重寺に接し日本武尊の金桜神社がある。奉納した絵馬には口野東組・西組両網中の建切網(帯状の大網で魚群を捕らえる)によるマグロ漁撈が描かれていた。
 なお、この地には昭和四十年に完成した狩野川放水路がある。(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年2月26日(火)号》