続町名由来(七) 浜悠人
静浦地区は駿河湾の入り江に面し、特に江浦は奥深く入り、波静かにして水深もあり、天然の良港である。江戸時代には江戸や大坂を行き来する大型船が停泊し、積み荷の揚げ下ろしでにぎわった。
明治二十二(一八八九)年の町村制施行に際し、志下、馬込、獅子浜、江浦、多比、口野の六力村が一つになり、波静かな浦に面しているので静浦村と名付けられた。そして、それまでの村名は大字となり、獅子浜に村役場が置かれた。昭和十九(一九四四)年、静浦村は金岡、大岡、片浜の三力村と共に沼津市と合併した。
『志下』北は島郷に接し、昔、狩野川が現在より東の方に流れ砂嘴(さし)が伸びていたので、この地を嘴下(しげ)と称し、「志下」なる字が当てられたと言うが、定かではない。
沖の瓜島(うりじま)は明治中期、西郷隆盛の実弟、従道(つぐみち)が島の対岸に別荘を建てたので「西郷島」と呼ばれるようになった。近くには明治二十六(一八九三)年、御用邸も設けられ、別荘地、保養地として栄えた。
なお、志下には、この年、安藤正胤医師が開設した静浦海浜院と、現今ならリゾートホテルと呼ばれる静浦保養館があった。安藤は、乃木希典が院長を務めていた学習院の游泳場を誘致した功績により沼津市から表彰を受け、記念事業として志下峠に登る象山の一角に染井吉野の苗、百数十本を植えて桜の名所としたが、戦時中に切り倒され、今や雑木と交じり、その面影はない。
登山道左手には、安藤正胤翁碑と佐佐木信綱歌碑「八千もとのこの山桜こ、にうゑしよき人の名は萬世までに」が、茂れる八重葎(やえむぐら)に埋まっている。
『馬込』志下に接した地で、『駿東郡誌』によれば「治承四年源頼朝、黄瀬川在陣の折、馬をこの村に曳き寵めしを以て其の名となる」とあり、「籠」は「込」に通じ、馬込となった。
集落入り口から奥深く入り、三方が山や丘に囲まれ、馬囲いには適した地形とみた。
『獅子浜』この地名は、古文書によれば「昔この地を宍人郷(ししびとこう)と呼び、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の御時、上総の海にて弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水し、其の屍がこの浜にあがったと云うが、その真否は分からず」と記されていることによる。
先日出掛けた東京渋谷の白隠展で、禅画「鷲頭山」が展示されていた。
「見上げてみれば鷲頭山、みおろせば しげ鹿浜のつり舟」の賛があり、この地の作業歌で「しげ」は志下、「鹿浜」は「ししはま」と読み、後年、「獅子浜」の字が当てられた。
本能寺の後ろには獅子浜城址がある。戦国時代の北条方の出城で、天正十八(一五九〇)年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、将兵は退去し、以後、廃城となった。
『江浦』海の入り込んだ入り江から名付けられた。実際、駿河湾が深く入り込み、波静かな良港で、昔、伊勢船が出入りしていた。
徳川三代将軍家光が上洛の途中、三島宿で静浦の活鯛を賞味し、地元の網元に命じて志下や獅子浜で取った鯛を江浦の生簀(いけす)に入れ、船底で生かして江戸城へ運んだと言われる。
『多比』江浦湾に接した漁業の地で、朝晩、漁の合図に手火(たび=松明)を使っていたので地名になったと言われるが定かではない。古文書には「多美」「多肥」「田飛」とも書かれている。
この地は昔から鰹節の産地として全国に知られていた。その中には沖縄の出稼ぎ漁師もいたのだろうか、龍雲寺の石段左手に石敢當(せきがんとう)なる、沖縄で見かける"魔除けの石塔"が運ばれ、置かれているのを見つけた。
『口野』駿河国から伊豆国への入り口を示す意昧で「口野」と名付けられた。この地にある「塩久津」の小字は「塩置津」が訛ったからで、昔は塩を積んだ舟がたくさん出入りし、塩の積み下ろし港が塩久津であった。
口野の南、内浦重寺に接し日本武尊の金桜神社がある。奉納した絵馬には口野東組・西組両網中の建切網(帯状の大網で魚群を捕らえる)によるマグロ漁撈が描かれていた。
なお、この地には昭和四十年に完成した狩野川放水路がある。(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年2月26日(火)号》
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