ラベル 町名由来 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 町名由来 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年10月8日火曜日

「続町名由来(十一)」 浜悠人

「続町名由来(十一)」 浜悠人

 西浦地区は駿河湾に面し、内浦地区に続いて伊豆半島の北西にあたる地域である。歴史的には縄文、弥生、古墳の各時代の遺跡がある。江戸時代、村々の多くは海岸線まで傾斜地が迫っているので農耕地に恵まれず、半農半漁の生活が営まれていた。
 明治に入ると伊豆国君沢郡の村々は韮山県、足柄県を経て静岡県に所属することになった。明治二十二年の町村制の施行に伴い、木負、河内、久連、平沢、立保、古宇、足保、久料、江梨の九力村は一つにまとまり、君沢郡西浦村として発足した。
 明治二十九年、君沢郡から田方郡に編入されて田方郡西浦村となり、昭和三十年、西浦村と沼津市が合併。それぞれ西浦木負~西浦江梨と呼ぶようになった。西浦なる地名は古くからあり、内浦の西に連なる海辺を指し西浦と呼ばれた。
 『木負(きしょう)
 内浦地区に接し、長井崎に挟まれ(奈良時代の古文書には「吉妾郷」「棄妾郷」、室町、戦国時代には「木負」なる地名が出てくる。木負とは山中より木を伐出し、背負い下ろしたことより名付けられたとあるが定かではない。
 『河内(こうち)
 河内川の中流に位置し、西浦では海に面していない唯一の村落である。地形的に河内とは、川の中流に沿う小平地を指し、また、この地ゆかりの源頼政の孫、源太夫顕綱の後窩である大河内氏に由来して付けられたとも言われるが定かではない。
 この地にある臨済宗の九華山「禅長寺」は昔、真言宗の寺で大きな伽藍を持っていたと言われる。
 治承四(一一八〇)年、源頼政が宇治で敗死した後、妻の菖蒲(あやめ)が伊豆国に逃れ、剃髪して西妙と号し、この寺に入り故人の冥福を祈ったと伝えられる。境内にある「頼政堂」は元禄十一(一六九八)年、頼政の子孫にあたる高崎藩主、松平右京大夫輝貞によって改築された。
 『久連(くづら)
 戦国時代の古文書に出てくる地名で、昔、津波によって土地が崩壊したので「崩(くずれ)」と称し、後に美字をあて久連と記し「くづれ」から「くづら」と託ったと言われる。
 海岸沿いの道路傍らには渡瀬寅次郎夫妻のレリーフをはめ込んだ顕彰碑が建っている。この地に昭和四年、渡瀬の遺言に従い、「興農学園」が開校した。渡瀬は沼津兵学校附属小学校から札幌農学校を経て事業家となり、デンマーク式農業教育に共鳴し、農学校をこの久連の地に設立した。
 『平沢(ひらさわ)
 久連の西隣にあり、地名は海に面した砂浜が半輪形をなし平砂勾(ひらさわ)と称されていたが、砂勾を沢にあて「平沢」と改めたと言われるが定かではない。今日、人工の砂浜「らららサンビーチ」が賑わいを呈している。
 『立保(たちぼ)
平沢の西隣で駿河湾に面し、立保川下流に位置する。
 立保は南北朝から室町時代の古文書に見える地名で、「保」は平安末期より中世を通じての地方行政単位で荘、郷、保となり、地方の土着有力者によって拓かれた土地と思われるが、立保なる地名については定かではない。この地の神明神社には「四方(よも)の回文」と言われる奇妙な作品がある。
 『古宇(こう)
立保の西隣。地名の由来は判然としない。「宇」は家を指し、昔から古い家が多くあった村落のため名付けられたとも言われ、また公領であったから「公」が呼び名から土地名に転じ当て字されたとも言われるが、定かではない。
 「太子堂」の木造伝月光菩薩立像は一木造りで、藤原後期の作と推定されている。
 『足保(あしぼ)
古宇の西隣。古文書に「葦保」とあり、葦の生えていた土地で、足は葦が転化したと思われる。
 『久料(くりょう)
足保の西隣。昔、公田で公田料を納めた土地で公料(くりょう)と呼び、後に「久料」に転化したと言われているが定かではない。
 『江梨(えなし)
戦国時代の古文書に「江梨郷」とみえる。この地に入り江がないので「江なし」と称され、「なし」が「梨」に転化したと言われるが定かではない。西端の突き出た砂洲は「大瀬崎」と呼び、海の神の大瀬神社が祭られている。近くには伊豆七不思議の一つ、真水の湧く「神池」がある。
(歌人、下一丁田)

《沼朝平成25108()号投稿文》

2013年8月9日金曜日

続町名由来(十) 浜悠人

続町名由来(十) 浜悠人
 内浦地区は駿河湾の奥深い内浦湾に面し、海岸線が出入りし天然の良港に恵まれている。北は金桜山を境に静浦口野に接し、東は山を背に伊豆長岡と、南は修善寺や西浦に接し、西は淡島、内浦湾を隔て遥か富士山を眺望できる絶景の地である。ここは江戸時代から漁業を中心に、北から重寺村、小海村、三津村、長浜村、重須村の五力村から成っていた。
 明治二十二(一八八九)年、町村制の施行に際して五力村は一つになり、君沢郡内浦村として発足した。村名は湾深い内海の磯を指す内浦で、戦国時代の古文書に出てくるので採ったと思われる。
 昭和三十(一九五五)年、内浦村は沼津市と合併。それぞれの地域は大字内浦を冠し内浦重寺、内浦小海、内浦三津、内浦長浜、内浦重須と称するようになった。
 『重寺(しげでら)』は昔、医源院と大慈院(現在は観音堂)の二つの寺が上と下に重なっていたので重寺なる地名が付いたとか、また「茂ってらあ」と後背の山を指して呼んだと説く人もあり、定かではない。
 重寺の西に周囲約一・五㌔の円錐形の小島、淡島がある。「あわ」はアイヌ語で「入り口」の意味があり、海から陸への入り口を指す。「淡」は「あわ」の当て字と思われる。重寺の奥に白山神社があり、民俗芸能の三番隻(さんばそう)が有名だと聞いた。
 白山神社から金桜山へのルートがあり、昔は海岸道がなく、山伝いに次の集落へ向かったと考えられる。
 『小海』は山を背に内浦湾に面し三津とは地続きで、地名は三津から見て海の向かい側にあるので向海から小海に転じたと言われる。また海中から光明の差す軸物を発見、これを天満社に祭り以後、光海(こうみ)と呼ぶようになったともいうが、いずれも定かではない。
 『三津(みと)』は網代、下田と共に伊豆の三つの津(湊)から付けられたとも、また三戸氏の出身地からとも、あるいは田方平野に通じる地で山野に対し海戸(みと)と解して付けられたとも言われているが、いずれも定かではない。
 三津の背後に発端丈山があり、山上に正平十六(一三六一)年、畠山国清が関東管領足利基氏に対抗し立てこもった三津城があったと言われるが、城跡は定かでない。
 先日、三津浄因寺にある句碑を訪ねた。
 第八世の大顛梵千(だいてんぼんせん)は、俳人其角(きかく)の禅の師匠で松尾芭蕉とも親交があり、号を幻吁(げんく)と称した。
 禮者門を敲く羊歯暗く 幻吁
(山本三朗氏建立)
 三日月の命あやなし闇の梅 其角
(渡辺龍子氏建立)
梅こひて卯の花拝むなみだかな 芭蕉
(山本三朗氏建立)
白梅や托鉢の僧みな若く 白龍
(山本三朗氏建立)
 三津気多神社に"山桜植樹の碑"がある。
 夢に見し山桜咲き富士高く 長景
 戦後、内浦、西浦の山野を桜で飾りたいと元文部大臣の岡部長景が苗木を寄贈し地元青年団が植樹した記念の碑である。
 三津の旧道と新道の分岐点に愛鷹丸遭難者供養塔がある。大正三(一九一四)年、戸田舟山沖で遭難沈没した愛鷹丸の乗員と乗客百余人の冥福を祈り、内浦の海の仲間が建てたと言われる。
 『長浜』は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられた。
 長浜城跡は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山。長浜城のあった所で、戦国時代、豪族大川氏の居城であった。
 『重須(おもす)』は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」または、この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、重須と記された。昔は北条水軍の根拠地で船大将梶原氏の陣所。近くには田久留輪(たぐるわ)や城下(しろした)の地名が残っている。
 天正八(一五八〇)年三月、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたと言われる。 (歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年8月9日(金)号》

2013年2月26日火曜日

続町名由来(七) 浜悠人

続町名由来(七) 浜悠人
 静浦地区は駿河湾の入り江に面し、特に江浦は奥深く入り、波静かにして水深もあり、天然の良港である。江戸時代には江戸や大坂を行き来する大型船が停泊し、積み荷の揚げ下ろしでにぎわった。
 明治二十二(一八八九)年の町村制施行に際し、志下、馬込、獅子浜、江浦、多比、口野の六力村が一つになり、波静かな浦に面しているので静浦村と名付けられた。そして、それまでの村名は大字となり、獅子浜に村役場が置かれた。昭和十九(一九四四)年、静浦村は金岡、大岡、片浜の三力村と共に沼津市と合併した。
 『志下』北は島郷に接し、昔、狩野川が現在より東の方に流れ砂嘴(さし)が伸びていたので、この地を嘴下(しげ)と称し、「志下」なる字が当てられたと言うが、定かではない。
 沖の瓜島(うりじま)は明治中期、西郷隆盛の実弟、従道(つぐみち)が島の対岸に別荘を建てたので「西郷島」と呼ばれるようになった。近くには明治二十六(一八九三)年、御用邸も設けられ、別荘地、保養地として栄えた。
 なお、志下には、この年、安藤正胤医師が開設した静浦海浜院と、現今ならリゾートホテルと呼ばれる静浦保養館があった。安藤は、乃木希典が院長を務めていた学習院の游泳場を誘致した功績により沼津市から表彰を受け、記念事業として志下峠に登る象山の一角に染井吉野の苗、百数十本を植えて桜の名所としたが、戦時中に切り倒され、今や雑木と交じり、その面影はない。
 登山道左手には、安藤正胤翁碑と佐佐木信綱歌碑「八千もとのこの山桜こ、にうゑしよき人の名は萬世までに」が、茂れる八重葎(やえむぐら)に埋まっている。
 『馬込』志下に接した地で、『駿東郡誌』によれば「治承四年源頼朝、黄瀬川在陣の折、馬をこの村に曳き寵めしを以て其の名となる」とあり、「籠」は「込」に通じ、馬込となった。
 集落入り口から奥深く入り、三方が山や丘に囲まれ、馬囲いには適した地形とみた。
 『獅子浜』この地名は、古文書によれば「昔この地を宍人郷(ししびとこう)と呼び、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の御時、上総の海にて弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水し、其の屍がこの浜にあがったと云うが、その真否は分からず」と記されていることによる。
 先日出掛けた東京渋谷の白隠展で、禅画「鷲頭山」が展示されていた。
 「見上げてみれば鷲頭山、みおろせば しげ鹿浜のつり舟」の賛があり、この地の作業歌で「しげ」は志下、「鹿浜」は「ししはま」と読み、後年、「獅子浜」の字が当てられた。
 本能寺の後ろには獅子浜城址がある。戦国時代の北条方の出城で、天正十八(一五九〇)年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、将兵は退去し、以後、廃城となった。
 『江浦』海の入り込んだ入り江から名付けられた。実際、駿河湾が深く入り込み、波静かな良港で、昔、伊勢船が出入りしていた。
 徳川三代将軍家光が上洛の途中、三島宿で静浦の活鯛を賞味し、地元の網元に命じて志下や獅子浜で取った鯛を江浦の生簀(いけす)に入れ、船底で生かして江戸城へ運んだと言われる。
 『多比』江浦湾に接した漁業の地で、朝晩、漁の合図に手火(たび=松明)を使っていたので地名になったと言われるが定かではない。古文書には「多美」「多肥」「田飛」とも書かれている。
 この地は昔から鰹節の産地として全国に知られていた。その中には沖縄の出稼ぎ漁師もいたのだろうか、龍雲寺の石段左手に石敢當(せきがんとう)なる、沖縄で見かける"魔除けの石塔"が運ばれ、置かれているのを見つけた。
 『口野』駿河国から伊豆国への入り口を示す意昧で「口野」と名付けられた。この地にある「塩久津」の小字は「塩置津」が訛ったからで、昔は塩を積んだ舟がたくさん出入りし、塩の積み下ろし港が塩久津であった。
 口野の南、内浦重寺に接し日本武尊の金桜神社がある。奉納した絵馬には口野東組・西組両網中の建切網(帯状の大網で魚群を捕らえる)によるマグロ漁撈が描かれていた。
 なお、この地には昭和四十年に完成した狩野川放水路がある。(歌人、下一丁田)
《沼朝平成25年2月26日(火)号》