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2018年10月17日水曜日

「家康の駿府」に秀吉が築かせた天守台 「幻の城」姿現す


「家康の駿府」に秀吉が築かせた天守台
「幻の城」姿現す
静岡2人の関係知る大発見
 静岡市の駿府城(同市葵区)発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の跡を発見したことを受け、市は16日、出土した天守台の石垣や金箔(きんぱく)瓦などの全容を報道関係者に公開した。専門家は「徳川家康の城の下に豊臣政権下で築かれた城があったのは大発見」と評価。市は、秀吉が江戸へ追いやった家康を威嚇するため駿府に豪華絢燗(けんらん)な城を築いたとみている。



 豊臣方の築いた城の存在は推測されていたが、裏付ける遺構や史料はなく、「幻の城」とされていた。
 発掘調査は2016年度から4年計画で実施。市によると、家康は1588(天正16)年に駿府城を築いたが、秀吉の命で江戸に領地を移した。家康に代わって秀吉家臣の中村一氏が90(18)1601(慶長6)年に城主を務めた。新たに見つかった城跡は、この間に築かれたとみられる。天下統一を果たした家康は駿府に戻り、10(同15)年に駿府城を完成させた。
 2018年度の調査で、家康が築いた天守台の南東部の土中から、古い石垣が見つかった。自然石を積み上げる「野面積み」で、家康の城に使われていた表面の石が平らな「打ち込み接()ぎ」とは異なる形状。傾斜も家康の石垣よりも緩やかだった。
 石垣の隣の敷地からは、約330点に及ぶ金箔瓦が見つかった。考古学が専門の中井均・滋賀県立大教授によると「金箔瓦の造瓦技術が豊臣時代の特徴を示している」という。これらの事実が「秀吉の城」であることを決定づけた。(政治部・内田圭美)
2021日に臨時公開
 静岡市は2021の両日、午前9時~午後4時に、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の遺構を臨時公開する。調査員が随時説明をする、金箔瓦の展示はない。参加無料。希望者は直援、駿府城公園内の発掘調査現場へ。通常公開は1122日を予定している。
 問い合わせは市歴史文化課〈電054(221)1085〉へ。
【静新平成301017()朝刊】






2015年12月1日火曜日

強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー 静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く





強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー
【静新平成27年11月6日(金)夕刊】
静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く

今年8月、女性活躍推進法が成立したが、時をさかのぼれば戦国時代の静岡と浜松にも「女戦国大名」「女城主」の異名を持つ女性がいた。今川義元の母・寿桂尼(じゆけいに)(生年不詳~1568年没)と、2017年のNHK大河ドラマの主人公に決まった井伊直虎(同~1582年没)。戦国時代をたくましく生き抜いた女性たちの実像について、"歴女、記者が戦国史研究の第一人者である小和田哲男静岡大名誉教授にインタビューした。いざ出陣。(塩沢恵子)

寿桂尼 領国支配に手腕発揮

―男たちが合戦に明け暮れた戦国時代、女性はどんな立場だったのでしょうか。
「合戦は男だけが戦ったのではないと最近分かってきた。沼津市の千本松原に、武田氏と北条氏の戦いで亡くなった人の首を埋めたと伝えられる首塚がある。骨を分析すると、3分の1は女性だったそうだ。しかも至近距離で後ろから鉄砲で撃たれたとみられる女性の頭蓋骨があった。確認された105体の骨は全て成人。老人や子供はいないことから、合戦に女性も加わっていたと考えられる。私も驚いたが、史料を読み直すと、日尾城(現・埼玉県)の妙喜尼など、女性が城を守って戦った例は結構ある」




ー女性が戦場で戦っていたとは驚きました。寿桂尼にいたっては「女戦国大名」と呼ばれているそうですが、その理由は。

「寿桂尼は夫の今川氏親が亡くなった後、病弱だった子の氏輝の後見役となり、1526年から6年間、自分の印判を押した文書を出した。男の戦国大名と同じように領国支配に手腕を発揮した」

-女性が当主の後見役を務めることに周囲の反発はなかったのでしょうか。
「夫の氏親は亡くなる10年ほど前から中風で寝たきり状態だったという。戦国大名が領国支配のために作った分国法として名高い『今川仮名目録』は氏親が亡くなる直前に制定したもの。作成には寿桂尼が関わっていたのだろう。だからこそ重臣たちも彼女の能力を認めたのだと思う」

ー寿桂尼が静岡に残した功績は何ですか。
「1982年、現在の駿府城公園の発掘調査が行われ、今川館跡から茶道具などが見つかった。京都の公家出身だった彼女の存在があってこそ、今川文化が花開いたのではないか」

ー女城主の井伊直虎は、大河ドラマの主人公に決まりました。直虎とはどんな人なので
すか。
井伊直虎 男になりきった城主
「直虎は井伊谷(現・浜松市北区引佐町)を治めていた井伊氏の当主直盛の一人娘。元の名前は分からないが、家督争いで一族の男性が次々と殺される中、出家して次郎法師を名乗った。父直盛は今川軍の一員として桶狭間で戦死。次の当主直親も殺され、一族に成人男性がいなくなった際、次郎法師は直虎を名乗り、元婚約者でもあった直親の遺児虎松(のちの井伊直政)を育てながら、1565年から4年間、井伊谷城主を務めた」

ー女性が城主になるのは珍しいのでは。
「女性が家督を譲られた例は、九州の戦国武将立花道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)など他にもある。しかし、直虎が特殊なのは、署名代わりのサインである花押を使っていた点だ。特別に地位が高い女性を除くと、一般の女性は当時、花押は持てないという不文律があった。寿桂尼も花押は持っていない。直虎は男の名前に変えただけでなく、男になりきっていた。周囲もそれを認めていたということが面白い」

ー直虎の功績は何ですか。
「今川氏が没落した後、浜松城主だった徳川家康に直政を仕えさせるという決断をしたことだろう。後に直政は『徳川四天王』と呼ばれる名将になり、井伊氏は彦根城主となった。そして幕末に日本を開国させた大老井伊直弼(なおすけ)につながった」

ー戦国時代の女性というと、政略結婚の悲劇を思い浮かべがちですが、たくましく生きた人もいたのですね。
「政略結婚と言っても、当時は親が決めた相手と結婚するのは当たり前なので、彼女たちは『好きな相手と結婚できなくて不幸だ』とは思っていないだろう。政略結婚で嫁ぐ女性は、国の平和のために外国に派遣される、いわば大使だ。家督を継ぐのが男性に限られたのも江戸時代以降。戦国時代は女性の役割が非常に大きかった時代だと言える」




首塚(沼津市本字千本1910の186)沼津市教委によると、1900年5月、暴風雨の翌朝、千本松林で見つかった頭蓋骨を集めて弔ったという。鈴木尚東京大名誉教授が89年、調査報告書を出した。本光寺の北側西隅にある=写真①=。

 千本首塚(静岡県沼津市千本浜)
 天正八年三月、甲州武田勝頼と小田原の北条氏政軍が激突した遺跡。この時、北条方の優秀な軍船に制圧された武田軍は、なすところなく砲撃をうけて塹壕にひそみ、陸戦隊にふみにじられて敗退した。
 この首塚に首なし武者の伝説が発生したことは、前述したとおりだが、明治三三年五月の暴風雨で欠崩し、おびただしい頭骨を露出させて村民を驚かせている。
そのため村人は、ここを発掘して頭骨を集め、俵につめて長谷寺にもちこんだ。しかし間もなく本光寺の角地に塚を築き、石碑をたてて祀ってやった。
 昭和二九年におよび、東大の鈴木尚氏によって正式発掘が行なわれると、これが伝承の如く戦国時代の首塚であることが確認され、すっぽりと刀で切り割られた頭骨などで歴史のあとが実証づけられた。
 まず石碑を脇によせ、石積みを除去してから、砂地を掘りすすめると、間もなく寄せ集められた頭骨が、寄りそうようにいくつか露頭した。土をよけると、いずれも北向きに安置してあって、このひとかたまりの頭骨の下部には、平板石が敷かれていた。そこで頭骨をとりあげ、石を除くと、再び人骨があらわれてきた、掘ると、これらは大きな甕に納められた分ですべて破片であった。頭骨の破片が、ぎっしりとつめられていたのである。明治時代の扱いであろう。
 これら破片はきれいに水洗いされて、やがて調査計測されて、次のよう事が判明した。頭骨のなかに一刀のもとに鉢を割られたものが混っていて、激戦のあとを物語っていたが、それにもまして平均年令が、意外にも若い十代後期に集中していたことは、きびしい戦国の現実を物語っていた。その数は、数百人、という漠然とした表現しかできないほど、破損骨片の多いこととが、ありし日の犠牲者を彷佛とさせていた。なお明治時代には、まだ完全な形のものも多かったようだが、発掘と移動でくずれ、さらに埋葬時点で破損したものも多く、写真で見るような程度になぞいたのであった。
(遠藤秀男著「日本の首塚」)





龍雲寺(りゅううんじ、静岡市葵区沓谷3の10の1)寿桂尼の菩提寺で、遺言に従って今川館の鬼門に当たる東北方向に建てられた。墓所=写真②=のほか、寿桂尼没後430年に建てられた石碑がある。<電054(261)4861>


龍潭寺(りょうたんじ、浜松市北区引佐町井伊谷1989)井伊家の菩提寺で直虎の墓所=写真③=がある。国指定名勝の庭園は小堀遠州作。紅葉まつり・寺宝展が12月10日まで開かれている。<電053(542)0480>

2013年2月28日木曜日

運慶作仏像国宝に

 運慶作仏像国宝に
伊豆の国 「願成就院」所蔵 文化審答申

 国の文化審議会は27日、伊豆の国市寺家の願成就院が所蔵する「運慶(うんけい)作諸仏」をはじめ、快慶の「木造騎獅文殊菩薩像(もくぞうきしもんじゅぼさつぞう)」などの仏像群と、平安時代から明治時代の史料「醍醐寺文書聖教(だいこじもんじょしょうぎょう)」の計3件を国宝に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。事務手続きを経て正式に指定される。「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」(伊豆の国市)、「明ケ島古墳群出土土製品」(磐田市)の3件を含む50件の重要文化財指定も併せて答申した。
 「運慶作諸仏」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師運慶が1186年(文治2年)、鎌倉幕府の初代執権として知られる北条時政の依頼を受けて制作した。いずれも木造の「阿弥陀(あみだ)如来坐像」「不動明王及二童子立像」「毘沙門天立像」の計5体で構成される。
 仏像の胎内から発見された木札などから、運慶の真作と判明した。運慶の優れた彫刻の技術を伝えるだけでなく、力強さと写実性を特徴とする鎌倉時代の彫刻をリードした「運慶様式」を確立した作品であることが評価された。
 彫刻の指定は中部地方で初めて。県教委によると、県内関係の国宝指定は2010年12月の「久能山東照宮本殿、石の間、拝殿」(静岡市駿河区)以来で、通算13件目。重要文化財は今回の指定を含め、計220件になった。
◎ 願成就院 創建は1189年(文治5年)。北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建設したとされる。その後約半世紀にわたり堂塔などが次々と増築され、繁栄した。15世紀末、北条早雲が堀越公方・足利茶々丸を攻めた際に多くの建物を焼失。江戸時代に入ってから再興した。今回、国宝指定が決まった運慶作諸仏をはじめ、生前の北条政子の姿を模したとされる「政子地蔵菩薩像」などを所蔵している。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

願成就院の仏像国宝に
 若き運慶の技躍動 力強さと写実性備え

 27日の文化審議会の答申で、国宝に指定されることが決まった願成就院の「運慶作諸仏」(伊豆の国市寺家)。美術の専門家は「運慶の確立した鎌倉彫刻様式の礎となった作品」と指摘する。
 穏やかな顔の阿弥陀如来坐像、引き締まった表情で前を見据える不動明王立像と毘沙門天立像。国宝指定を受けた5体の仏像は、いずれも運慶の代名詞となっている力強さと写実性を兼ね備える。県文化財保護審議会委員で、三井記念美術館(東京都)の清水真澄館長(73)は「阿弥陀如来坐像の全身のボリューム感や、毘沙門天立像の体の動きなどはさすが運慶と思わせる」と話す。
 運慶が北条時政の依頼を受けて仏像を制作した時期は、武士が政治を担った鎌倉幕府の成立期と重なる。上原仏教美術館(下田市)の田島整学芸員(42)は「当時は美術の中心が貴族から武士に移っていく過渡期だった。運慶はこの作品で初めて自身の様式を打ち出し、その後の潮流をつくっていった」と指摘する。
 全国的にも数少ない運慶の真作との判断には、仏像の胎内に納められた木札が大きな役割を果たした。江戸時代に不動明王と毘沙門天を修復した際、運慶と時政の名が書かれた木札が見つかっていた。さらに昭和30年代、二童子立像をエックス線で撮影したところ、同様の木札が胎内にあることが分かり、研究が大きく進展した。
 清水館長は「若い運慶の躍動感あふれ造形も魅力。大変に意義深い国宝指定だと思う」と話した。

 「後世に伝えたい」関係者ら喜びの声
 中部地方で初となる彫刻の国宝指定の答申を受け、「運慶作諸仏」を所蔵する伊豆の国市の願成就院は喜びに包まれた。観光関係者の間からは今後の観光振興に期待の声が上がった。「度重なる兵火や災害を免れ、5体の仏像が今も残っていることが奇跡。国宝指定は本当にうれしい」ー。答申の知らせを受けた願成就院の小崎祥道住職(76)は、晴れやかな表情で語った。
 鎌倉幕府の執権を務めた北条一門が造営し、隆盛を誇った同寺も15世紀以降の北条早雲の堀越公方攻めや豊臣秀吉の小田原攻めなどに巻き込まれ、何度も焼失した。小崎住職は「仏像は当時の人々が持ち出すなどして、守り抜いたのだろう。後世までしっかり伝えるため、護持管理に一層努めたい」と力を込める。
 国宝指定を機に、仏像ファンなど参拝客の増加も見込まれる。伊豆の国市観光協会の安田昌代会長(69)は「伊豆の国の宝が知られる良い機会になる。北条氏や源頼朝ゆかりの地として、あらためてPRに取り組んでいきたい」と話した。

 江川家関係資料と写真/明ケ島古墳群土製品 県内3件の重文も誕生
 「運慶作諸仏」の国宝指定と同時に、県内に3件の重要文化財が新たに誕生した。
 「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」は、江戸時代に歴代当主が韮山代官を務めた江川家に伝わる文書や洋書、武器、古写真など約3万9千点からなる。
 江川家は、平安時代に現在の伊豆の国市韮山地域に定着したとされる武士の家系。特に幕末期の第36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵)は海防政策に関心を持ち、西洋の知識の収集に取り組んだ。資料には、英龍の自画像と伝えられる肖像画や品川沖に築かれた台場の絵図、近代的な大砲の模型、韮山反射炉に関する文書などが含まれる。写真は全461点。いずれも幕末から明治前半に撮影された。中浜(ジョン)万次郎が撮影した第37代当主江川英敏や旗本小沢太左衛門、江川邸と韮山製糸場の遠景写真などがある。
 明ケ島古墳群出土土製品は磐田市明ケ島原の区画整理による調査で、5世紀後半に造られたとされる方墳の下から見つかった。
 5世紀前半の祭祀(さいし)に用いられたとみられる。過去に例のない多種多量な上に良好な状態の土製品で、時期や祭祀の実態を把握できるーとして、1064点のほか、破片計4千点以上が県指定有形文化財から格上げされた。人のほか犬やイノシシなどの動物、武器・武具、楽器、農具などを模した素焼きの立体像で、大きさは1~15㌢。人形は目や鼻、耳だけでなく男女を区別し、中には武器を装備しているものもある。琴は板琴(いたこと)や槽琴(そうごと)などの違いを細かく作り分けている。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

2012年2月23日木曜日

中世前期の庭園池跡 牧之原・宮下遺跡


 中世前期の庭園池跡 牧之原・宮下遺跡
 県内最大級、土器も出土

 牧之原市坂部の市指定文化財「宮下遺跡」(6513平方㍍)で、中世前期(11世紀末~12世紀前半)の園池(庭園池)が発見され、発掘調査を進めている市教育委員会が22日、発表した。市教委によると、中島のある園池の発掘例は全国的にも非常に珍しく、規模は県内最大という。
 園池は昨年発見された柱穴内礎石建物跡の付近で見つかり、だ円形で大きさは南北約35㍍、東西20㍍以上、最大深さ約1・7㍍。園池の中から「福万(よろずにふくきたり)」「寿」とめでたい言葉が墨書された珍しい祭祀(さいし)色が強い土器の完形品のほか、建物火災で焼失した多量の礎石も出土した。
 現地を視察した日本庭園学会の大沢伸啓理事は「建物と園池の配置、南北に長く中島が大きい形態は、国指定史跡の岩手県平泉町柳之御所遺跡と類似する。盛行する年代もほぼ同時期で中世前期の地域支配の在り方を考える上で重要な遺跡」とコメントした。市教委は今後、牧之原台地をめぐる中世豪族との関連性を調査する方針。
 市教委は一般向けの現地説明会を25日午前10時半からと、午後1時半からの2回実施する。参加無料で、希望者は直接現地に集合する。場所は同市坂部のJAハイナン坂部支店南隣。雨天時は出土品の展示のみ実施する。 問い合わせは市文化振興課〈電0548(52)5544〉へ。
 仏教的要素高い
 小野正敏人間文化研究機構(中世考古学専門)理事の話 宮下遺跡は武士の居館とは異なる池を伴った仏教的要素の高い特殊空間施設と考えられ、非常に興味深い。周辺遺跡との関連性からも、新たな地域社会の中世像が見えてくるだろう。
 【宮下遺跡 牧之原台地南部丘陵の坂口谷川中流西側の標高10㍍ほどに位置する。市教委が2010年7月から本格的な発掘調査を続けている。中世前期の県内最大規模の柱穴内礎石建物跡が発見されたほか、日本最古とみられる梵字等の墨書がある六角形状の卒塔婆も出土し、県内では希少な事例がみられる。】
(静新平成24年2月23日朝刊)

2011年11月22日火曜日

信長に降伏後埋めた濠?跡を発見


自治都市今井町:信長に降伏後埋めた濠?跡を発見 奈良


織田信長に降伏した後、武装解除のために埋めたとみられる濠跡(調査担当者が指し示している場所)=奈良県橿原市今井町で、高島博之撮影
 奈良県橿原市教委は21日、室町時代から江戸時代にかけ自治都市として繁栄した同市の今井町で、16世紀後半に埋められたとみられる濠(ほり)跡を発見したと発表した。今井町は石山本願寺(大阪市)とともに織田信長に対抗し、周囲に濠や土塁を築いて武装都市化したが、同寺が信長と休戦後、今井町も信長に降伏し、武装解除して埋めた濠の可能性があるという。【高島博之】

 発掘調査は、駐車場の整備に伴い、今井町の西側の約400平方メートルで8月から行われている。発見された濠は同町の西側に南北方向に延びるもので、幅は少なくとも2メートル以上、長さ約10メートル分を確認した。過去の発掘調査で、16世紀後半当時の今井町(東西約450メートル、南北約250メートル)の周囲を2重ないし、3重の濠が巡っていたことが確認されており、今回の濠跡は、最も外側の「外濠」だった可能性が高く、橿原市教委は幅約15メートルの大きなものだったと推定している。
 98~99年の調査では、今井町の南側で見つかった外濠が16世紀後半に埋められたことが、一緒に出土した陶器の年代から分かっており、同市教委は今回発見した濠も同時期に埋められたものとみている。

 今井町は16世紀、一向宗の拠点としての寺内町として発展。石山本願寺が信長と戦った際は、同町は濠や土塁を巡らして武装化を強めていたという。
 しかし、1575(天正3)年、石山本願寺と信長が休戦すると、今井町は信長軍の明智光秀に降伏し、土塁を壊して武器を捨てるなど武装解除に応じたことが、光秀から信長への書状に記されている。同市教委はこの時期に濠が埋められたとみており、調査担当の米田一・同市教委文化財課係長は「今井町が武装化していた寺内町から商業都市へと変化していく様子をうかがわせる発見」と評価する。

毎日新聞 2011年11月22日 10時49分

2011年3月10日木曜日

三の丸から供養塔 義元移設の「興国寺」か



三の丸から供養塔 義元移設の「興国寺」か
沼津市教委城跡地調査 12日に一般公開



 沼津市教委が調査している北条早雲の旗揚げ城「興国寺城跡」(国指定史跡、同市根古屋)の三の丸周辺で、地下排水溝の底部から、寺院の供養塔の一部とみられる石が見つかった。その下層には建物の基礎に用いる石組やたたきしめた土の層も確認され、今川義元がほかへ移設したとされる「興国寺」との関連が浮上している。発掘調査を手掛けている市教委は12日、これらの調査結果を一般公開する。
 義元は1549年から2年間城を改修し、その際に「興国寺を移転させた」との文書が残されている。それより60年さかのぼる早雲の旗揚時には同所に寺があった可能性もあるが、存在や場所を裏付ける出土物はこれまでなく、実態は明らかになっていない。
 排水溝は、丘の斜面に広がる城跡の低地から外に21㍍にわたって伸び、中に水を通すよう管状に積んだ石が見つかった。供養塔の台座とみられる石はその中にあり、正方形で模様が入っている。
 その下層部で確認された石組みや土塁は、構造から一定以上の建物の基礎と推測される。また早雲の旗揚げと時期が重複する瀬戸・美濃焼の丸皿「腰折皿」も出土し、周辺には焼けた土や炭化物が大量に見つかったことからも、同所で神事が行われていた可能性もあるという。出土物は全体的にほかの調査箇所より圧倒的に古く、市教委文化振興課は「時期や特徴からも、早雲の生きた時期、興国寺がそこにあったという仮説に結び付くかも。今後詳細を調べたい」と話している。
 12日の現地見学会は、午前10時と午後1時半から。調査を担当した専門職員が説明する。問い合わせは市文化財センター〈電055(952)0844〉へ。
 【メモ】興国寺城北条早雲が姉(妹の説もあり)の嫁ぎ先だった今川家の家督争いを納めた功績に、1487年に今川に与えられた城。早雲を祖とする後北条氏は、5代目氏直が豊臣秀吉の征伐に遭うまで、小田原を拠点に関東を支配した。領土の西端に位置する沼津市周辺をめぐる武田、今川との争いは絶えず、興国寺城もその後12人城主を変えた。幕府を開いた徳川家康が駿府に隠居した1607年に廃城になった。市教委は2003年から調査している。
(静新平成23年3月10日朝刊)