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2016年2月25日木曜日

御成橋の歴史振り返る 郷土史研究家の医師、仙石規さん

御成橋の歴史振り返る
 郷土史研究家の医師、仙石規さん
 NPO法人海風47は、沼津の歴史を学ぶ「沼津あれこれ塾」を十三日、市立図書館四階講座室で開き、郷土史家で医師の仙石規さんが御成橋をテーマに講演した。
 沼津あれこれ塾で講演
 手持ちの史料公開しながら
 仙石さんは昭和三十一年生まれ。御成橋近くの市場町で育ち、原に耳鼻科の「はら仙石医院」を開いて、診療にあたるとともに、郷土史研究家としてインターネットオークションなども活用しながら沼津市に関する史料を収集している。
 特に愛着のある御成橋の研究に力を注ぎ、御成橋をテーマにした著書に『時を駆けた橋ー井上靖も愛した沼津御成橋の謎』『沼津御成橋未解決事件』『沼津御成橋河童怪事件』がある。
 仙石さんが御成橋について講演するのは三年ぶり七回目。明治九年に狩野川に初めて架けられた木製の橋「港橋」の完成から、御成橋の歴史を振り返った。
 港橋は、和田伝太郎さんと原大平さんの二人が中心となって有志約百人から資金を集めて架けられ、通行料金を徴収していたが、洪水で流失、落橋を繰り返し、その都度、架け直され、明治三十一年に沼津町と楊原村に寄付されて無賃になった。
 三十八年にはレンガ積み橋脚で架橋し、四十五年、県東部初となる鉄橋に改築。大正天皇が皇太子時代に沼津によく来ていたことなどから、大正元年に「御成橋」と命名された。
 昭和九年から三年間かけて御成橋の改築工事が行われ、一二年に現在の二代目御成橋が完成し、「軍国主義の道を進む日本にあって、ギリギリで完成が間にあった」と仙石さん。
 太平洋戦争中の二十年に、爆撃で吹き飛ばされた建物の瓦礫が御成橋に当たって出来た傷跡は今も残り、仙石さんも協力して案内板が同所に設置されている。
 仙石さんは二代目御成橋の開通式など、報道写真として出版された貴重な絵葉書や当時の風景写真を見せながら解説し、御成橋に関する様々な情報を歴史に交えて紹介。
 昭和三十六年に撮影されて明治史料館に保存されている御成橋の上を車が通過する写真を示し、「この車に乗っていたのは私達家族。父親が運転し、姉がオープンカーに立って上から顔を出している」という偶然撮られたエピソードを話した。
 また、御成橋西側で狩野川右岸沿道に下りる石段は「明治四十五年に初代御成橋が完成した当時からある。この石段を保存して後世に残してほしい」と願った。
 講演後には、御成橋竣工を記念した特製の消印が押された郵便はがきをはじめ、絵はがきや写真など御成橋に関する史料を公開。参加者達は史料を手にし当時を偲んだ。
【沼朝平成28年2月25日(木)号】

2012年7月27日金曜日

沼津「御成橋」あす開通100年

戦前のにぎわい刻み、戦火くぐる 沼津「御成橋」あす開通100年  「町の宝」市民感慨
 沼津市中心部を流れる狩野川に架かる御成橋。県東部初の鉄橋として、明治時代に完成した。名称は、皇族が沼津御用邸(現沼津御用邸記念公園)に向かわれる際、通り道になったことに由来する。市民が誇りにする橋は28日、開通100年を迎える。  御成橋は、前身の港橋(木製)を改築し明治45年(1912年)7月28日に竣工した。当時としては珍しい3連アーチ式だった。交通量の増加や河川改修に伴い、1937年に当時の約35万円を投じて架け替えた。  2代目は今も現役で、全長130㍍。幅9㍍の車道と両側に歩道がある。アーチ型は初代から引き継いだ。  御成橋の西側に位置する上土商店街。ここで生まれ育った市川久枝さん(86)、中山文江さん(86)、前山文子さん(87)の同級生は、橋の歴史を知る数少ない人たちだ。  商店街は戦前、料亭などが軒を連ねにぎやかだったという。生家のわさび漬け専門店を営む中山さんは「皇族のおつきの方がよく買いに来られた」と懐かしむ。  アーチを支える鉄柱には所々、へこみがみられる。市明治史料館によると、死傷者53人を出した45年4月の米軍の空襲でできた跡。爆撃は8月まで続いた。前山さんは「御成橋を渡って対岸に逃げた。街は焼け野原になったが、御成橋だけは残った」。 御成橋は、58年の狩野川台風も耐え抜いた。現在、橋の上は日中、車が激しく行き交う。夜には青い光が、宵闇にアーチを浮かび上がらせる。夜景を眺めながら散策する人も多い。 「華やかな時代も悲惨な時代も私たちを見守ってくれた。御成橋は沼津の宝だと、つくづく思う」。老舗時計店の店頭に立つ市川さんは感慨深げに話した。 〈 メモ〉港橋は朋治33年ごろまで民間人が管理し、橋を渡る際は賃料が取られていた。初代御成橋は市史などで長年、「大正2年の沼津大火で港橋が焼失し架け替えた」とされてきた。地元の郷土史家が2007年、誤りを発見した。 (静新平成24年7月27日朝刊)