大久保忠左と天野康景
史談会市史講座で人となり解説
沼津史談会(菅沼基臣会長)は五月十七日、沼津ふるさとづくり塾の第2回企画として、第1回市史講座を市立図書館視聴覚ホールで開講。約九十人が聴講した。
合戦で武勇を誇った忠佐
家臣を守り逐電した康景
元沼津城北高教諭の久保田富さんが講師を務め、「大久保忠佐と天野康景」と題して話した。久保田さんは、『沼津市史』編さんにおいて専門委員を務めたほか、一九六一(昭和三十六)年刊の『沼津市誌』編さんにも携わっている。
大久保忠佐 大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)は徳川家康の家臣。一六〇一(慶長六)年に二万石の大名として、現在の沼津市大手町にあった三枚橋城の城主となった。一六一三(同一八)年に死去し、後継者がなかったため、この時の沼津藩は断絶となった。
はじめに久保田さんは、忠佐が属した大久保氏について解説。鎌倉時代以来の名族であることや、発祥の地は北関東で南北朝時代に三河国(愛知県東部)に移ったことなどを話した。大久保氏の一族は「大久保党」と呼ばれ、その団結は強く、多くの合戦で活躍した。
忠佐は大久保党の中でも特に活躍した武将として知られ、長篠の合戦では、その奮戦ぶりが織田信長に注目された。忠佐はひげを伸ばしていたため、信長は家康に会うたびに「きょうは長篠の『ひげ』も来ているのか」と家康に尋ねるほどだったという。
続いて久保田さんは大名時代の忠佐について触れ、沼津藩主としての忠佐の功績として検地実施と牧堰(まきぜき)開発の二つを挙げた。
牧堰は、黄瀬川から取水するために大岡北小林付近に設置されたダム状の施設で、取水された水は大岡一帯の農地に供給された。
大岡は元来、水田に適さず、古代には牧場が置かれるような土地であったが、忠佐によって水田地帯となった。
久保田さんは牧堰について「忠佐が後世に残した最大の遺産」と表現した。
天野康景 天野氏もまた鎌倉時代以来の武家で、発祥の地は現在の伊豆の国市天野だという。
康景(やすかげ)は幼少期の家康に小姓として仕えた後、行政官として活躍した。
家康出生の地である三河国の奉行に就任し、同僚の本多重次、高力清長と合わせて「三河三奉行」と呼ばれた。
この三人は、それぞれ違った個性の持ち主としても知られ、当時の人々は三人を評して「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」と言ったという。高力清長は優しい男、本多重次(通称「作左衛門」)は厳しい男であるのに対し、康景(通称「三郎兵衛」)は公平甲立な男、という意味だという。
康景は、大久保忠佐が大名になったのと同じ一六〇一年に興国寺城(沼津市根古屋)の城主となり、一万石の大名となった。大名としての康景は、大名としての業績よりも逐電(ちくでん=失踪)事件で知られている。
一六〇七(慶長一二)年、康景は城と領地を捨てて失踪した。この事件は、興国寺藩に隣接する将軍直轄地(天領)の農民との争いに由来するものだという。
康景が居宅工事のために竹や木を伐採して保管していたところ、富士郡(現富士市)の農民が、これらを盗み始めた。そのため康景が見張りの足軽を配置すると、盗人と見張りの間に小競り合いが起こり、農民側に負傷者が出た。農民は代官を通して康景を訴えたため、訴訟問題となった。
康景の人柄を知る家康は康景の肩を持ったが、幕府重臣は幕府の権威を守るために康景の足軽を処罰するように主張し、康景に対して足軽の身柄引き渡しを求めた。
これに対して康景は、足軽を差し出せば自分の家来を見殺しにすることになり、差し出さなければ幕府の面目を潰すことになる、と大いに苦悩した。そして、自分が責任を取ることにして大名を辞めて城を出た。
晩年を小田原の寺で暮らした康景は、大久保忠佐と同じ一六=二年に死去した。後に新井白石や頼山陽などの学者は、この時の康景の行動について「武士の鑑(かがみ)」と誉め称えたという。
沼津史談会による沼津ふるさとづくり塾の第3回は今月二十一日に同会場で開かれる。午後一時半から。国立歴史民俗博物館の荒川章二教授が「戦時下の沼津-海軍工廠と海軍技研などー」と題して話す。資料代五百円。
申し込みは、同会の匂坂信吾(さぎさか.しんご)副会長へ(電話〇九〇ー七六八一パー八六一二)。
(沼朝平成26年6月1日号)
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