三島暦 (みしまごよみ)
三島暦(正しくは三嶋暦)は伊豆国三島(現在の静岡県三島市)の伊豆国一の宮である三嶋大社から頒布された暦で、三島暦の暦師河合(こよみしかわい)家の記録によると、同家は奈良時代末期の宝亀年間(七七〇~七八八)に伊豆に下り、天文台を設けて作暦したことが三島暦の起源としている。
「三嶋」と明記された暦の最古は、栃木県足利市に所在する足利学校に伝えられた『周易』(しゆうえき)紙背の「永享九年暦」(一四三七)であるが、幕末に法隆寺から発見された「元弘二年暦」(一三三二)や、戦後栃木県真岡市の荘厳寺で発見された「康永四年暦」(一三四五)などの仮名版暦も三島暦と推測されている。
仮名写本暦(かなしゃほんごよみ)は安時代後半に発生したが、それを版木に彫って印刷した仮名版暦は鎌倉時代後半に作られるようになったと考えられる。武士階級の勃興によって、暦の需要が増大したため、これまでのように書写では間に合わなくなったところから、整版による暦の印刷が開始された。
当時三島には京都から下って来た暦や陰陽道の専門家が滞在していたので、それらの人々の手を借り、幕府の応援を得て、初めての仮名版暦が発行されたと考えられる。
三島暦は最初の版摺りの暦であったところから、他の地方で発行された版暦も「三島」とか「三島暦」と呼ばれた。また、写本暦に比べて文字が小さいところから、細いことを「三島暦のような」と形容され、絵柄が似ているところから、茶碗の一種を「三島手」とか「三島茶碗」と呼ぶようになった。
江戸時代の三島暦は綴暦であったが、幕府や三島大社に献納するものは巻子仕立の写本暦であった。
三島暦は一時は東海。信濃・南関東など広い範囲に頒布されていたが、江戸時代後半には江戸暦や伊勢暦が進出して、伊豆・相模二国に限定されるようになった。
三島暦には冊子型の綴暦の並形と少し大きめ型の他に一枚摺の略暦がある。
(2012年10月号「歴史読本」)
0 件のコメント:
コメントを投稿