2012年8月5日日曜日
高尾山古墳シンポジュウム「沼朝記事」
スルガの王、大いに塚を造る
高尾山古墳でシンポジウム
市教委は七月二十二日、「高尾山古墳シンポジウムースルガの王大いに塚を造るー」を市民文化センター小ホールで開催。約三百四十人が来場した。
築造年代や性格付けなど
専門家が自説を展開
高尾山古墳は、都市計画道路沼津南一色線の工事に伴う調査により東熊堂の高尾山穂見神社境内で発見された。当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、昨年六月に現在の名に改称された。四角形と台形を南北につなげた前方後方墳という形式で、南北の全長は約六二㍍。出土品の形状により、三世紀中ごろか、その少し前に築造されたと見られている。
シンポジウムでは、沼津市教委の池谷信之さんが司会を務め、池谷さんを含む同古墳発掘調査報告書の執筆者ら六人が、古墳について多角的に論じた。
池谷さん 古墳の概要 池谷さんが最初の発表者となり、古墳の概要について話し、はじめに当時の地理的状況を説明した。
それによると、古墳が建造された当時の沼津西部地域一帯には浮島沼が大きく広がり、現在の田子の浦付近で海とつながっていた。沼の周辺は強風や高潮などにより塩害が発生しやすいため、当時は沼から離れた内陸部に水田が広がっていた。古墳に葬られた人(被葬者)は農業地帯を支配した人であり、古墳は水田地帯を見渡せる場所に位置しているという。
また池谷さんは、古墳が築造される前の時代に当たる弥生時代後期には、愛鷹山麓に大きな集落があったことを説明。被葬者は、この集落の支配者の流れを引くのではないか、と推論した。
続いて、池谷さんは古墳の構造について説明。古墳は自然の地表を整地して地表を削り出し、その上に改めて土を盛ってつき固めてあった。この丘のような盛り上がりの頂上に「墓坑」と呼ばれる穴が掘られ、そこに死者や副葬品を納めた木棺が安置された。
池谷さんによると、この墓坑の位置は、周到な計算に基づいているという。その一例として、台形をしている前方部の斜辺を延長した線や古墳の中軸線などが交差する点は墓坑内にあり、しかも、この地点からは勾玉(まがたま)が発見されている。池谷さんは、勾玉の形は人間の心臓を模したものだという説を紹介し、古墳設計の基点となる場所で勾玉が見つかったことには、何らかの意味があるのではないか、とした。
このほか池谷さんは、高尾山古墳の築造年代について軽く触れ、大まかに言って西暦二三〇年代説と二五〇年代説があることを紹介。そして、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が葬られている可能性が高い箸墓古墳(奈良県桜井市)は二五〇年ごろの築造と見られていることを述べ、二三〇年代説と二五〇年代説が持つ意味について解説。
それによると、二三〇年代説の場合、ヤマト(奈良県)の地に中央政権が成立する以前から、地方で古墳が造られ始めたということであり、これは弥生時代から古墳時代への移り変わりが各地で同時多発的に起こったことになる。
一方、二五〇年代説の場合、古墳の築造はヤマトから地方へと普及していったことになり、新時代の訪れは、ヤマトを中心としたものであったことになる。
このため、高尾山古墳の築造年代は、弥生時代から古墳時代への移り変わりがどのように行われたかを考える上で、重要な意味を持つことになるという。
渡井英誉さん 出土土器 富士宮市教委の渡井英誉さんは、高尾山古墳から見つかった土器について話した。
それによると、古墳からは、三世紀から四世紀の百数十年間にわたる年代の土器が発見されているという。この時期は、弥生時代から古墳時代に当たる。
ま年代だけでなく、土器の産地も多岐にわたり、伊勢湾岸や近江(滋賀県)、北陸、関東などの土器が見つかっているほか、地元産である大廓式土器が見つかっている。
渡井さんによると、大廓式土器は狩野川沿岸で作られ、西は御前崎、東は相模川流域(神奈川県)、北は甲府盆地(山・梨県)に至る範囲の土地で使われていたと考えられている。そのため、渡井さんは「これは一つの勢力圏があったことを意味し、高尾山古墳の被葬者は、大廓式土器の生産に関わっていたのではないか」との見方を示した。
渡井さんの発表終了後、司会の池谷さんは「大廓式土器が、なぜこれほど広範囲で見つかっているのか疑問に思っていたが、高尾山古墳の発見により、土器普及の核となるものが見えてきたのではないか」と総括。
「様々な地域からの外来土器が見つかっているということは、地域勢力同士の連携や同盟のようなものがあったと見てもよいか」と質問し、渡井さんは「そう見てもよいのではないか」と答えた。
滝沢誠さん 駿河の古墳 筑波大教
授(前静岡大教授)の滝沢誠さんは、駿河(静岡県中東部)の初期古墳について話した。
滝沢さんは、駿河を西スルガ(静岡市、志太地域)と東スルガ(富士市、富士宮市、沼津市、三島市の一部)に分け、双方の古墳について解説。
それによると、西スルガでは、神明山古墳群や午王堂山古墳群、駿河最大の一一五㍍の柚木山神古墳などが発見されているのに対し、東スルガでは富士宮市で発見された丸ヶ谷戸遺跡の前方後方系周溝墓(古墳以前の大型墓)が特に古いものと見なされる一方、これに続く古墳は存在しないと思われていた。しかし、高尾山古墳の発見が、この見方を変えることになったという。
滝沢さんは、神明塚古墳(沼津市)が再調査により、築造年代が、当初考えられていたより古いものであると判明したことや、七〇㍍級の前方後円墳と見られる向山十六号墳(三島市)の発見と合わせ、丸ヶ谷戸ー高尾山ー神明塚ー向山と連続して古墳が造られ続けてきたことが明らかになりつつあることを説明した。
このことから滝沢さんは「スルガの拠点的地域が明確になってきた」とし、古代には静岡市清水区一帯を地盤にする勢力と、沼津市一帯を地盤とする勢力があったことを指摘。それぞれの勢力は後の時代に登場する地方有力者である盧原国造(いおはらのくにみやつこ)や駿河国造などにつながるのではないか、との見方を示しだ。また、かつて駿河国が伊豆半島も含んでいた時代の駿河の中心地は駿河郡駿河郷(沼津市)であったが、高尾山古墳の存在は、このことと無縁ではないとの考えも見せた。
赤塚次郎さん 東海系文化との関係
高尾山古墳築造時期について西暦二三〇年代説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎さんは、高尾山古墳と東海系文化の関係について話した。
まず、東海系文化の特長について言及し、三遠式銅鐸が発見されている範囲をその文化圏であるとし、濃尾地方一帯には邪馬台国と同時期の集落遺跡が次々に見つかっていることを紹介。続いて「三世紀ではなく二世紀が問題だ」とし、高尾山古墳が築造されたと見られる三世紀より前の時代について解説した。
それによると、木の年輪調査から、二世
紀前半の西暦一〇〇年から一五〇年の間のいずれかの年に大洪水が発生したことが判明するとともに、当時は数年おきに干ばつと洪水が繰り返し続く長周期変動があったことも分かったという。また、断層の調査から東海地方では二世紀前半に大きな地震があったことも明らかになっている。
こうした状況説明を踏まえて赤塚さんは、「環境の変動が社会を変え、弥生時代までの知識が通用しなくなった。東海系文化は、この変化を乗り越える知識を蓄え、英雄が登場した」と語り、三世紀は二世紀の環境変化を乗り切った東海系文化が北陸や関東へと広まった時代だと述べた。そして、高尾山古墳にも採用されている前方後方墳という形は、この東海系文化と関係が深いと指摘。
さらに赤塚さんは、沼津一帯の環境変化についても触れ、富士山の噴火が沼津一帯への東海系文化普及のきっかけになったのではないか、と推測した。
最後に赤塚さんは、いわゆる「魏志倭人伝」の記述を踏まえ、①巨大地震や洪水の発生、②倭国大乱、③東海系文化の普及、④邪馬台国と狗奴国(くなこく)の抗争、という時代の流れを描き、高尾山古墳の築造は③と④の間の出来事ではないか、と見通した。
発表終了後、東海系文化圏を魏志倭人伝に登場する狗奴国と見なす赤塚さんに対し、司会の池谷さんは会場を代表する形で「高尾山古墳の被葬者と狗奴国の関係についてどう思うか」と質問。
赤塚さんは「狗奴国の仲間の一つだったのではないか」と答えた。
寺沢薫さん 前方後方蹟の意味 一方、築造時期を西暦二五〇年代だとする見方に立つ桜井市纏向(まきむく)学研究センターの寺沢薫さんは、ヤマト地方(奈良県)の前方後円墳と前方後方墳の関係について論じた。
はじめに寺沢さんは高尾山古墳の築造年代について触れ、「副葬品の状況を見ると、三世紀中ごろ以降。しかし、土器はそれより古いものだと思う。このギャップをどう考えるか」と述べ、古い時期の土器が古墳周囲の溝から発見されているとから、これらは古墳に紛れ込んだものではないか、と指摘。また、古墳の形状についても「前方部が長く発達していろ。これは、それほど古いものではないだろう」との見方を示した。
続いて古墳の規格の話となり、奈良県桜井市で見つかった纒向遺跡の古墳群の形状を説明。
これらの古墳は、前方後円墳で、後円部が盛り土で高くなっているのに対し、前方部は低くなっている。また、古墳全長と後円部直径、前方部長さの比率などの特徴について話した。
そして、寺沢さんは、纏向遺跡の前方後円墳のこうした特徴は、多くの前方後方墳にも含まれていると指摘。前方後方墳と前方後円墳は対等に存在するものではなく、前方後方墳は前方後円墳の影響を受けて形が決まる関係にあった、と推論。また、こうした上下関係を江戸時代になぞらえ、前方後円墳の被葬者はヤマト地方の中央集権的な政治勢力にとって譜代大名のような立場であり、前方後方墳の被葬者は外様大名のような立場だったのではないか、とした。
そして、この上下関係から、高尾山古墳の位置付けについても触れ、高尾山古墳は三世紀中ごろ(西暦二五〇年ごろ)に築造された纏向遺跡の箸墓古墳などと同じか、少し後の時期に築かれたのではないか、との見解を示した。
そして、高尾山古墳にもヤマト地方の影響があったのではないか、と語り、「高尾山古墳とは、西暦二五〇年ごろにスルガがヤマトの王権とのパイプを模索していたことの証であり、これこそがこの古墳が持つ歴史的価値ではないか」と結論付けた。
総括 最後に明治犬名誉教授の大塚初重さんが総括。
はじめに、大塚さんは高尾山古墳の第一印象について、「大廓式土器が出てきたと聞いて、かなり古いなと思った」と回想。また他の土器の出土状況からも、三世紀前半の築造ではないか、と思っていることを述べた。そして、古墳とは、ある地域からある地域へと波及していくのではなく、どの地域でも一定の状況まで発展成長すると古墳が登場してくるのではないか、との考えを述べた。
また、前方後円墳と前方後方墳とは被葬者の地位の違いによるものではなく、各地域の墓や葬儀の制度の違いではないか、とした。
すべての発表終了後、質疑。
来場者の一人は赤塚さんに対し、「東海に狗奴国があるとするならば、邪馬台国はどこにあると思うか」と質問。赤塚さんは「河内(大阪府南部)だと思う」と答えた。
また別の質問者は「高尾山古墳に関連すると思われるような貝塚は見つかっているのか」と質問.これには池谷さんが「見つかっていない。しかし沼津市内の雌鹿塚遺跡からは釣り針が見つかっている」と答えた。
このシンポジウムは、高尾山古墳について沼津市民が理解を深める機会を提供するために開催された。
このため、市教委ではシンポジウムの開催を県外に向けては特に告知しなかったことから県外の研究者等から開催について多くの問い合わせがあったという。
(沼朝平成24年8月5日号)
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