「古代スルガの王」が出現か
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2015年6月20日土曜日
2015年6月19日金曜日
京都市伏見区:秀吉の伏見城跡か 石垣や金箔瓦見つかる
京都市伏見区:秀吉の伏見城跡か 石垣や金箔瓦見つかる
毎日新聞 2015年06月18日 21時56分(最終更新 06月19日 05時37分)
発掘現場から出土した金箔瓦=京都市伏見区で2015年6月18日午後2時12分、小松雄介撮影
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豊臣秀吉が隠居所として1592年に造営を始めた伏見城(指月<しげつ>城)跡とみられる大規模な石垣や大量の金箔(きんぱく)瓦片が京都市伏見区で見つかった。民間発掘会社「京都平安文化財」が18日発表した。指月城は完成後まもなく大地震で倒壊し、近くの木幡(こはた)山に移転。資料が少ないため、「実は存在しなかった」との説もある「幻の城」だった。専門家は「指月城の存在を決定づける極めて重要な発見」としている。
マンション建設に伴い、伏見区桃山町泰長老の約600平方メートルを調査。地下約80センチから南北に延びる約36メートルの石垣が見つかった。石垣は1、2段、高さ0.5〜1メートルが残り、本来は3段以上と推定される。石垣に沿い幅5〜7メートル、深さ2メートル以上の堀も確認。堀から100個以上の瓦片が出土し、うち数十個は金箔で装飾されていた。
石垣は2012年に京都市上京区で確認された聚楽第(じゅらくだい)や、大坂城本丸跡の石垣と似た手法で積まれ、金箔瓦も聚楽第周辺から出土した瓦と同様、豊臣家の家紋「五七の桐(きり)」の文様が刻まれていた。
発掘現場東隣の土地は、さらに数メートル高く盛り上がり、現在は公務員住宅がある。発掘担当者は「公務員住宅の辺りが一番見晴らしがよく、本丸があったのだろう。今回見つかったのは本丸を囲むいくつかの石垣の一つではないか」と話す。
秀吉は1591年に関白職をおいの秀次に譲った後、隠居所として城の建設を始めた。側室茶々に実子秀頼が生まれると、本格的な城郭として拡充。秀次を高野山に追放し、切腹させた。秀次の住居だった聚楽第は徹底的に壊され、多くの建物が指月城に移築された。
指月城は1596年の大地震で倒壊し、秀吉は命からがら逃れたとされる。地震後は北東約1キロの木幡山に再建されたが、1623年に取り壊され、跡地は明治天皇伏見桃山陵になっている。
現在、木幡山城跡地の一角に1964年に建てられた模擬天守閣がある。【榊原雅晴、川瀬慎一朗】
◇
発掘現場はJR桃山駅の南西約300メートル。現地説明会は20日午後1時半。連絡先は京都平安文化財(090・5670・5195)。
2015年6月17日水曜日
高尾山古墳を考える上・下毎日新聞石川宏記者記事(6月16日・17日地方版)
高尾山古墳を考える上
歴史的財産の損失
静岡大人文社会科学部篠原和大教授(47)=考古学
高尾山古墳は保存の価値がないのかー。国内最大の考古学会である日本考古学協会が保存を求める会長声明を出した沼津市の高尾山古墳について、同市は都市計画道路建設のため取り壊す方針を発表。今年度分の関係事業費5100万円を計上した予算案を市議会に提案した。粛々と取り壊しを進める市の手続きに間題はなかったのか。専門家から話を聞いた。【石川宏】
東日本最大かつ最古初期国家形成で重要
ー日本考古学協会は会長声明を出し高尾山古墳保存を訴えた。なぜ貴重なんでしょうか?
東日本で最大かつ最古の古墳。それまで全長20㍍を超える墓もなかったのに60㍍を超えていた。日本列島の政治的社会の最初の段階を表し、初期国家形成を考える上で非常に重要だ。沼津だけではなく国民的な歴史的財産。壊せば、永遠に失われる。
ー北陸系、近江系の土器も出土した。
他の地域との交流が示されている。政治的社会の列島全体への広がりを説明する中で欠かせない。またこの年代で東日本でこれだけ多くの副葬品があるのは突出している。新たな議論や発見のたび、高尾山古墳は注目され、価値がさらに高まる可能性がある。教科書に載っていい古墳だ。
ー古墳は既に一部破壊されています。
破壊されたのは全体の10~20%。埋葬施設を含め主要部分はほぼ完全に残っている。
ー保存すれば新たな発見も今後期待できますか?
想像しなかった技術も出てくる。より正確な年代測定法もできるかもしれない。新たな学術的な視点が出てきた時に古墳が無ければどうしようもない。また学術面以外の関心も出てくるかもしれない。社会の最初の政治的ベースはどこから、とか。その時、古墳があるなしでは大違いだ。
ー一般の人が素晴らしいと感じる保存はできますか?
やり方次第。周りにもたくさん古墳があるので、高尾山を中心とした歴史公園みたいな整備も可能だと思う。
ー62㍍もの墳丘はこの時代、東日本では弘法山古墳(長野県松本市)と高尾山古墳だけ。ヤマト王権の対抗勢力の最大の首長だった可能性は?
東日本の前方後方墳はヤマトの対抗勢力と考える研究者もいる。一方、近畿中心の秩序の下にあったと考える人もいる。ヤマト勢力の橋頭堡(きょうとうほ)だったかもしれないし、逆にヤマトの対抗勢力の拠点だったかもしれない。みんな注目しているからこそ見解も対立する。ただ、埋葬者が東日本で一、二を争う首長だったのは間違いない。
ー国史跡になるのでは?
保存されれば当然なる。
ー市民にもっと保存を働きかけていれば、いきなり取り壊しとならなかったのでは?
県考古学会でシンポジウムを2回やり、静岡大考古学研究会でも研究会を開いた。市民的な運動に結びつかなかったのは残念だ。
ー道路と古墳を両立させる方法は。
いろんな方法があると思う。トンネルとか高架とか。合流点ギリギリで上げれば残せるのでは、とか。完全保存が10として、検討過程が示されないまま、無理だからとゼロに近い回答。8とか7で残せないか次善の策の検討の機会もない。
ー以前はもっと新しい古墳と考えられて
いた。
駿河の本格的な古墳は4世紀以降と考えられていた。高尾山古墳も2008~09年の発掘以前は長さ約20㍍のもっと新しい古墳と思われていた。3世紀の古墳とは誰も思わなかった。それが悲劇の始まりだ。
ー篠原先生の専門は登呂遺跡ですね。
高尾山古墳は登呂遺跡に勝るとも劣らぬ遺跡です。
※高尾山古墳
沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある、前方後方墳(方形と台形を南北につなぎ合わせた形の古墳)。墳丘は全長62㍍、全幅推定34㍍。230~250年ごろの築造と推定される。弘法山古墳(長野県松本市・国史跡)と並び東日本最古最大級。当初は古墳と分からず、都市計画道路沼津南一色線(1961年計画決定)の整備に伴い2008~09年に実施した発掘調査で判明した。日本考古学協会は12年11月に保存を求める要望を提出。今年5月25日には同様の会長声明を発表した。沼津市は09年から道路建設を凍結していたが、会長声明と同日、道路建設を進めるため、全面発掘調査名目で取り壊すことを明らかにした。
【毎日新聞平成27年6月16日地方版】
高尾山古墳を考える下
検討内容、全く不明
静岡大人文社会科学部 日詰一幸教授(59)一政治・行政学
専門家交え迂回の議論深めて
ー今回の政策決定の論点は?
道路建設は非常に公共性の高い事業。一方、文化財は歴史的価値が理解されない限り、価値を軽んじられる可能性がある。それをどう考えるかが難しい。
ー市の判断に問題は?
古墳の歴史的価値の重要性をどの程度理解しているのか。考古学協会と公の場での意見交換があれば、市の認識も変わったかもしれない。議論がないまま、市の都合だけで取り壊しが進むのを危倶する。
ー一方、考古学協会にも注文があると?
広く市民の理解を形成していく努力が求められる。古墳を市民、国民の財産と理解してもらう取り組みがもっとなされてよかった。多くの市民が知らないところで判断されることは大きな問題だ。
ー理解が深まれば、変わりますか?
古代史で果たした沼津の役割を再認識する。古代史のロマンに満ちたまちづくりもできるかもしれない。沼津という町をもう一度再認識し、誇りを取り戻す。沼津への矜持(きょうじ)が持てる。そう高尾山古墳を位置付けられるかもしれない。「道路を通すために邪魔だから壊す」だけでなく、まちづくり全体に広げて議論できるのでは。
ー取り壊しは市の丙部だけで決めた。
遺跡を回避する道路設計も検討したと言うが、どう議論され、なぜ駄目かが説明されていない。判断に至った背景や理由が全く明らかにされていない。技術的困難性とか財政面とか案ごとの課題や検討結果が明かされていないのは手抜かりではないか。公表すれば市民から対案が出て、その方が合理性があるかもしれない。外部の専門家も交えて道路のルートのあり方や迂回(うかい)の議論を深めてもよい。
遺跡の重要性に判断がいくなら保存に向くと思う。栗原裕康市長は遺跡の重要性、価値への洞察が不十分なのではないか。
ー重要な古墳と分かったのは5年以上前です。
5年あれば別の結論が出たかもしれない。
ー市は今後何をすべきでしょうか?
検討内容を公開し、考古学協会との間で一番いい解決策を検討すべきだ。議論を広げて、なお市民が道路を優先と判断するなら、それは市民の良識だ。
ー判断が市議に委ねられています。
行政の監視機能を十分に発揮しないといけない。情報が不十分なら、専門家を招いたり、各層の意見を聞いたりしてみる。少し先延ばしして時間をかけて精緻な検討をするのも良識としてあっていい。価値判断できずに、市のペースで進むのには警鐘を鳴らしたい。
ー取り壊しは補正予算の一部として提案されています。
市の戦略でしょう。他の予算が人質に取られているのはその通り。議会工作なのかな。
ー文化財の今日的意義は?
文化に関わるソフトパワーは世界的に非常に重視されている。文化や歴史は残すことに意味がある。そこから人間の営みを人々は考える。失われるのは人類にとっての損失だ。地元が残した韮山反射炉は世界文化遺産につながった。
ー沼津市は「ぬまづの宝100選」を選んだが、高尾山古墳は入っていない。
自分のまちの資源の重要性は自分たちで気付かず外部に言われて初めて気づくケースがある。まさに高尾山古墳はそうではないか。取り壊しは将来に汚点を残す可能性がある。
【毎日新聞平成27年6月17日地方版】
歴史的財産の損失
静岡大人文社会科学部篠原和大教授(47)=考古学
高尾山古墳は保存の価値がないのかー。国内最大の考古学会である日本考古学協会が保存を求める会長声明を出した沼津市の高尾山古墳について、同市は都市計画道路建設のため取り壊す方針を発表。今年度分の関係事業費5100万円を計上した予算案を市議会に提案した。粛々と取り壊しを進める市の手続きに間題はなかったのか。専門家から話を聞いた。【石川宏】
東日本最大かつ最古初期国家形成で重要
ー日本考古学協会は会長声明を出し高尾山古墳保存を訴えた。なぜ貴重なんでしょうか?
東日本で最大かつ最古の古墳。それまで全長20㍍を超える墓もなかったのに60㍍を超えていた。日本列島の政治的社会の最初の段階を表し、初期国家形成を考える上で非常に重要だ。沼津だけではなく国民的な歴史的財産。壊せば、永遠に失われる。
ー北陸系、近江系の土器も出土した。
他の地域との交流が示されている。政治的社会の列島全体への広がりを説明する中で欠かせない。またこの年代で東日本でこれだけ多くの副葬品があるのは突出している。新たな議論や発見のたび、高尾山古墳は注目され、価値がさらに高まる可能性がある。教科書に載っていい古墳だ。
ー古墳は既に一部破壊されています。
破壊されたのは全体の10~20%。埋葬施設を含め主要部分はほぼ完全に残っている。
ー保存すれば新たな発見も今後期待できますか?
想像しなかった技術も出てくる。より正確な年代測定法もできるかもしれない。新たな学術的な視点が出てきた時に古墳が無ければどうしようもない。また学術面以外の関心も出てくるかもしれない。社会の最初の政治的ベースはどこから、とか。その時、古墳があるなしでは大違いだ。
ー一般の人が素晴らしいと感じる保存はできますか?
やり方次第。周りにもたくさん古墳があるので、高尾山を中心とした歴史公園みたいな整備も可能だと思う。
ー62㍍もの墳丘はこの時代、東日本では弘法山古墳(長野県松本市)と高尾山古墳だけ。ヤマト王権の対抗勢力の最大の首長だった可能性は?
東日本の前方後方墳はヤマトの対抗勢力と考える研究者もいる。一方、近畿中心の秩序の下にあったと考える人もいる。ヤマト勢力の橋頭堡(きょうとうほ)だったかもしれないし、逆にヤマトの対抗勢力の拠点だったかもしれない。みんな注目しているからこそ見解も対立する。ただ、埋葬者が東日本で一、二を争う首長だったのは間違いない。
ー国史跡になるのでは?
保存されれば当然なる。
ー市民にもっと保存を働きかけていれば、いきなり取り壊しとならなかったのでは?
県考古学会でシンポジウムを2回やり、静岡大考古学研究会でも研究会を開いた。市民的な運動に結びつかなかったのは残念だ。
ー道路と古墳を両立させる方法は。
いろんな方法があると思う。トンネルとか高架とか。合流点ギリギリで上げれば残せるのでは、とか。完全保存が10として、検討過程が示されないまま、無理だからとゼロに近い回答。8とか7で残せないか次善の策の検討の機会もない。
ー以前はもっと新しい古墳と考えられて
いた。
駿河の本格的な古墳は4世紀以降と考えられていた。高尾山古墳も2008~09年の発掘以前は長さ約20㍍のもっと新しい古墳と思われていた。3世紀の古墳とは誰も思わなかった。それが悲劇の始まりだ。
ー篠原先生の専門は登呂遺跡ですね。
高尾山古墳は登呂遺跡に勝るとも劣らぬ遺跡です。
※高尾山古墳
沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある、前方後方墳(方形と台形を南北につなぎ合わせた形の古墳)。墳丘は全長62㍍、全幅推定34㍍。230~250年ごろの築造と推定される。弘法山古墳(長野県松本市・国史跡)と並び東日本最古最大級。当初は古墳と分からず、都市計画道路沼津南一色線(1961年計画決定)の整備に伴い2008~09年に実施した発掘調査で判明した。日本考古学協会は12年11月に保存を求める要望を提出。今年5月25日には同様の会長声明を発表した。沼津市は09年から道路建設を凍結していたが、会長声明と同日、道路建設を進めるため、全面発掘調査名目で取り壊すことを明らかにした。
【毎日新聞平成27年6月16日地方版】
高尾山古墳を考える下
検討内容、全く不明
静岡大人文社会科学部 日詰一幸教授(59)一政治・行政学
専門家交え迂回の議論深めて
ー今回の政策決定の論点は?
道路建設は非常に公共性の高い事業。一方、文化財は歴史的価値が理解されない限り、価値を軽んじられる可能性がある。それをどう考えるかが難しい。
ー市の判断に問題は?
古墳の歴史的価値の重要性をどの程度理解しているのか。考古学協会と公の場での意見交換があれば、市の認識も変わったかもしれない。議論がないまま、市の都合だけで取り壊しが進むのを危倶する。
ー一方、考古学協会にも注文があると?
広く市民の理解を形成していく努力が求められる。古墳を市民、国民の財産と理解してもらう取り組みがもっとなされてよかった。多くの市民が知らないところで判断されることは大きな問題だ。
ー理解が深まれば、変わりますか?
古代史で果たした沼津の役割を再認識する。古代史のロマンに満ちたまちづくりもできるかもしれない。沼津という町をもう一度再認識し、誇りを取り戻す。沼津への矜持(きょうじ)が持てる。そう高尾山古墳を位置付けられるかもしれない。「道路を通すために邪魔だから壊す」だけでなく、まちづくり全体に広げて議論できるのでは。
ー取り壊しは市の丙部だけで決めた。
遺跡を回避する道路設計も検討したと言うが、どう議論され、なぜ駄目かが説明されていない。判断に至った背景や理由が全く明らかにされていない。技術的困難性とか財政面とか案ごとの課題や検討結果が明かされていないのは手抜かりではないか。公表すれば市民から対案が出て、その方が合理性があるかもしれない。外部の専門家も交えて道路のルートのあり方や迂回(うかい)の議論を深めてもよい。
遺跡の重要性に判断がいくなら保存に向くと思う。栗原裕康市長は遺跡の重要性、価値への洞察が不十分なのではないか。
ー重要な古墳と分かったのは5年以上前です。
5年あれば別の結論が出たかもしれない。
ー市は今後何をすべきでしょうか?
検討内容を公開し、考古学協会との間で一番いい解決策を検討すべきだ。議論を広げて、なお市民が道路を優先と判断するなら、それは市民の良識だ。
ー判断が市議に委ねられています。
行政の監視機能を十分に発揮しないといけない。情報が不十分なら、専門家を招いたり、各層の意見を聞いたりしてみる。少し先延ばしして時間をかけて精緻な検討をするのも良識としてあっていい。価値判断できずに、市のペースで進むのには警鐘を鳴らしたい。
ー取り壊しは補正予算の一部として提案されています。
市の戦略でしょう。他の予算が人質に取られているのはその通り。議会工作なのかな。
ー文化財の今日的意義は?
文化に関わるソフトパワーは世界的に非常に重視されている。文化や歴史は残すことに意味がある。そこから人間の営みを人々は考える。失われるのは人類にとっての損失だ。地元が残した韮山反射炉は世界文化遺産につながった。
ー沼津市は「ぬまづの宝100選」を選んだが、高尾山古墳は入っていない。
自分のまちの資源の重要性は自分たちで気付かず外部に言われて初めて気づくケースがある。まさに高尾山古墳はそうではないか。取り壊しは将来に汚点を残す可能性がある。
【毎日新聞平成27年6月17日地方版】
2015年6月8日月曜日
6年前の辻畑古墳発掘現場説明会の動画
平成21年9月13日の辻畑古墳発掘現場説明会の動画です、
今は高尾山古墳ですが、この貴重な文化遺産が消えそうな事態です。
皆さん、この動画を読んでこの問題を真剣に議論すべきと考えますが。
高尾山古墳(世界遺産に匹敵するこの古墳)を沼津から消えるとは、
又、それを無関心な市民が恥ずかしい。
2015年6月6日土曜日
沼津から一つの日本の宝が消えようとしている。
沼津に残る始期と終期の古墳
稀有な存在、一方が取り壊しの運命
沼津から一つの宝が消えようとしている。「ぬまづの宝」どころか、日本考古学協会の専門家が「日本国民共有の文化遺産」だと指摘する東熊堂の高尾山古墳。千八百年の時を超えて蘇った威容は、その大部分を道路が取って代わるという。この古墳の「東日本最古級」という位置付けは、単体の古さだけでなく、古墳時代の掉尾(とうび)を飾った、もう一方の古墳、足高の「清水柳北遺跡I号墳」によって、古墳時代の幕開けと、その終焉を告げる存在が同じ地域の極めて狭い範囲から出土したという希少価値につながっている。都市計画道路沼津南一色線の予定通りの建設決定に伴い、少なくとも主体部を含む主要部分が削り取られることになる高尾山古墳。最頂部の地下に眠った時の権力者は、どんな思いで成り行きを見守っているのだろうか。二つの古墳を振り返ってみた。
【高尾山古墳】 規模東熊堂の高尾山穂見神社の移転跡から出土。平成二十年五月に始まった本格調査で「前方後方墳」(前方部、後方部共に方形)であることが確認された。
古墳規模は南北全長が約六二㍍、前方部の最大幅(東西)が推定で二四㍍、後方部は推定三五㍍。前方部が低く、後方部の盛り土高は約四㍍。前方部は祭祀を行う場所だといい、後方部最頂には被葬者を埋葬した主体部があった。
築造年代 前方後方墳は県内に他の出土例がないわけではないが、高尾山が注目されるのは、築造年代。発掘調査時、周辺で確認された土器の古さから、西暦二三〇年説も出て、国内最古級の見方もあった。
その後の分析で現在は、築造は二三〇年ごろ、埋葬が二五〇年ごろということで落ち着いているが、考古学関係では、埋葬をもって築造年代とされる。卑弥呼の墓でないかとされる奈良県桜井市の箸墓古墳が、ほぼ同時代だと言われている。
出土物 主体部をはじめ周辺から多くの土器が出た。廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる古い段階の土師器(はじき=素焼きの土器)の中でも、前半の時期に属するのではないかというものや、沼津から全国に送り出された「在地土器」、さらに、北陸地方産の土器も出土していて、交流の様子を見せている。
このほかにも鉄鏃(てつぞく=やじり)や鉄製の槍、刀、勾玉などが確認され、また、棺を納めた場所には朱色が残る部分が残っていたが、これは水銀朱と言われ、現在でも大変貴重なものだといい、この古墳の被葬者の力が強大なものであったことをうかがわせるものだという。
さらに注目されるのが青銅製の鏡。「浮彫式獣帯鏡(うきぼりしきじゅうたいきょう)」と言われ、この形式の鏡の古い時代に属するものではないかとされるものが出土している。中国後漢時代に大陸で作られたものではないかといい、畿内の中央とは別に、これを手に入れることのできる存在が沼津にあったのではないかとされた。
日本考古学協会の会長声明 高倉洋彰会長は、高尾山古墳の保存を求める声明の中で、この古墳の価値について、次のように指摘している。
①古墳時代最初頭(三世紀)の時期として日本列島屈指の規模を持つ、②初期古墳の多くが丘陵上に築かれるのとは異なり平地に構築されたために墳丘盛り土がよく保存されている、③埋葬施設の朱塗り木棺から青銅鏡(後漢未)など豊富な副葬品が出土した、④墳丘や周溝から北陸や近江系の土器が出土して他地域との交流が確認できる。以上から畿内の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長墳と考えられる。
【清水柳北遺跡I号墳】 沼津工業団地造成に先立ち、昭和六十一年から二年間にわたって行われた埋蔵文化財発掘調査で出土した。
当時、全国で二例目、東日本では初めてという「上円下方墳」(下部が万形、上部が円形)で、規模は下方部の一片が一二㍍、高さ一㍍、上円部は直径九㍍。
築造年代は八世紀(西暦七〇〇年代)の半ばまでには造られたのではないかと考えられている.
この上円下方墳以降、古墳は造られなくなるので、I号墳は古墳の「最終の形態」を示したもので、「最古級」の高尾山に対して「最も新しい時代の古墳」だと言うことができる。
高尾山古墳の出土によって沼津には現在、新旧の形態を持った二つの古墳が存在しているが、上円下方墳の類例が少ないだけに、新旧が並ぶというのは全国的に見ても稀有な存在だと言える。
その一つが、今後再び行われる予定の発掘調査によって消えようとしている。
なお、清水柳北遺跡I号墳は、出土した場所からほど近い所に移築復元されている。
(沼朝平成27年6月6日号)
2015年5月27日水曜日
高尾山古墳保存活用を日本考古学協会・沼津市古墳取り壊し静新・沼朝記事
消える1800年の文化遺産
最古級の高尾山古墳取り壊しへ
建設予定地で高尾山古墳(*)が発見されたために都市計画道路沼津南一色線(**)の建設が中断している問題で、市は二十五日、古墳の保存を断念して道路建設を進める方針であることを明らかにした。同日開かれた市議会文教消防委員会(梶泰久委員長)で、市教委担当者が、道路建設に先立つ発掘調査を再開することを報告した。調査には約二年間を要し、その後、建設工事を再開するという。
道路建設優先し保存断念
県教委からは条件付き許可
市教委では、道路関係部課などと共に、道路の迂回や陸橋化などによって古墳を保存したまま建設する方法を検討してきたが、現場一帯は新幹線と国道一号に挟まれた狭い土地であるため地形的にゆとりがなく、道路設計の変更による古墳保存は不可能だと判断された。
このため、今年一月、道路建設工事を進める前提での古墳発掘調査を実施したいと市から県教委に申請したところ、三月になって、条件付きでの許可が下りたという。
新たな発掘調査は年内にも開始され、古墳墳丘部を掘削して解体しながら進められる。
県教委による許可には、古墳遺構をなるべく保存するよう検討すること、古墳の価値について市民に周知することなどの条件が付いていることから、道路東側歩道の建設区画については古墳の破壊を行わずに埋め立て、その上に歩道を整備する。このため、歩道は一部が隆起する形状になる。
また、墳丘部の西側には道路建設予定地と重ならない部分があり、この部分については地権者との協議によっては保存される可能性もあるという。
一方、古墳の価値の周知については、跡地に看板を立てたり、古墳解体後にレプリカなどを別の地に建設したりする案もあるが、実施は未定。
(*)高尾山古墳
二〇〇九年に都市計画道路沼津南一色線の工事に伴う調査により、東熊堂の高尾山穂見神社境内で発見された。当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、一一年六月に現在の名に改称された。四角形と台形を南北につなげた形の前方後方墳で、南北の全長は約六二㍍。
築造年代については、出土品から西暦二三〇年説と二五〇年説の二説が研究者によって提唱されていたが、二〇一四年の発掘調査により、二三〇年頃に築造が完了し、二五〇年頃に埋葬が行われたとの結論が出された。
二三〇年説に立った場合、最古の古墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)よりも古いことになるが、埋葬の時期を築造年代と見なすことから、高尾山古墳も二五〇年の古墳とされることになった。現在、市教委は高尾山古墳を「東日本最古級の古墳」としている。
この古墳に葬られたのは、当時の日本列島に点在していた小国のうち、古代駿河にあった国の「最初の王」だと考えられている。二五〇年以前に死去していることから、中国の歴史書の一部である「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)と同時代に生きた人物ということになり、当時の政治情勢を踏まえると、高尾山古墳の主と卑弥呼は、互いにその存在を知っていた間柄だった可能性があると考えられている。
(**)沼津南一色線
国道二四六号と国道一号江原交差点を接続する道路。現在は高尾山古墳北側付近まで完成している。
周辺地元には歓迎と懐疑複雑に
渋滞解消の期待と文化財への行政対応に懸念
都市計画道路沼津南一色線は岡宮北土地区画整理事業の一環であることから、地元の岡宮自治会や門池地区連合自治会では、道路早期開通の要望書を多年度にわたり栗原裕康市長に提出していた。
こうした場で市長は「古墳が完全な形で残っているのなら保存について一考すべきだろうが、現状を見ると、かなりの部分が損なわれている」と繰り返し答えていたほか、二〇一三年には「古墳を避けるように道路を曲げて開通させるのは技術的に極めて難しい」「古墳の今後については全国から様々な声が寄せられるだろうが、そうした声が地元の事情について将来の責任を取ってくれるのか考える必要がある」などと話していて、市長は今回の方針について早い時期から決断していたと見られる。
今回の方針決定について門池地区連合自治会長の佐野親邦さんは「門池地区は慢性的な渋滞があり、交通事故も多い。沼津南一色線が開通すれば渋滞が緩和され、通学路の交通安全に寄与する一のではないか」と歓迎する。
その上で、「沼津には多くの古墳があるが、史跡として活用できていない。高尾山古墳を保存して史跡として活用するとしても、駐車場などの必要な施設整備は現状では難しいだろう。むしろ詳細な映像や画像の記録を残し、それらを誰でも見られるようにした方が、古墳の価値を多くの人に伝えられるのではないか」と話す。
一方、古墳所在地の東熊堂がある金岡地区では、道路用地提供のために家屋移転した人などもいて、道路の早期開通を望む声もあったが、高尾山古墳を地域の宝と見なして大切にしていこうという動きもあった。
自治会などが中心になった地域起こし団体「金岡有識者会議」の活動では、住民が自慢できる郷土づくりを通して市内の沈滞ムードの払拭と活性化につなげよう、との考え方から、地域の魅力再発見事業として「金岡の宝五〇選」を選定し高尾山古墳も宝の一つとして認定。これに関連して市教委から学芸員を招いた講演会や金岡中と連携した古墳勉強会などを開き、地域住民が古墳に親しむ取り組みを進めてきた。
有識者会議活動を主導してきた金岡地区連合自治会前会長の杉山治孝さんは、保存断念を惜しむ。
「高尾山古墳が現地から姿を消すのであれば、市民にとって憩いの場ともなる記念公園を造って古墳を移築し、出土品を展示する施設も併設するなど、古墳の存在を後世に伝えるための努力も必要だろう。そもそも沼津には名所旧跡が少ない。沼津城や三枚橋城も復元不可能だ。日本最古クラスの高尾山古墳こそ、沼津の宝とも言える存在なのに」と話し、「ぬまづの宝推進課」を設置する一方で文化財を尊重しない市の対応に懸念を示した。
「国民の遺産」残せないか
考古学協会からは保存望む声
研究者や文化財保護関係者らの全国組織である日本考古学協会は二十五日、高倉洋彰会長名で高尾山古墳の保存を求める内容の声明を発表した。同協会は、高尾山古墳を学術的価値が非常に高い「国民共有の文化遺産」と位置付け、過去にも保存を求める要望書を県や市に送付している。
今回の声明文は同日中に沼津市と市教委にも届いた。声明は回答を求めるものではなく、声明を無視することによる制裁措置のようなものも存在しないが、市教委では声明に対して市の方針に反しない範囲での対応を検討しているという。
市議会での報告と同協会の声明発表が同じ日になったことについて市教委では、「市の方針は既に決まっていたが、市議選などの影響で議会への報告が遅れていた。声明と重なったのはまったくの偶然」だとしている。
一方、市議会と声明が重なった影響からか、普段は傍聴者もまばらな委員会室には多くの報道関係者が詰め掛け、テレビカメラ三台が委員会の質疑を撮影していた。
(沼朝平成27年5月27日号)
高尾山古墳取り壊しへ
沼津市 道路計画変更できず
沼津市教育委員会は25日の市議会文教消防委員会で、市の都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にあり、保存するか撤去して道路を建設するかの検討が進められていた高尾山古墳(同市東熊堂)について、道路建設を前提に古墳の大部分を取り壊す発掘調査を行う方針を明らかにした。古墳については同日、日本考古学協会が保存と活用を求める会長声明を発表している。
市は古墳を保存するため、道路の迂回(うかい)案や陸橋案なども検討したという。栗原裕康市長は静岡新聞社の取材に対し「道路構造上不可能だった。周囲の道路の混雑を考えると、できるだけ古墳に配慮する形で道路建設を進める」と話した。
市教委文化振興課によると、古墳の墳丘全体を調査の過程で削り取るという。担当者は文教消防委員会で「やむを得なく古墳の大半は失われる。市民に古墳があったことやその価値を伝えたい」と話し、古墳のレプリカなどの制作を検討する考えも示した。
調査は古墳の墳丘を築くために土が積み上げられていく過程や方法などを調べるのが目的で、市教委の職員が手作業で実施する。調査期間は2年。年度内の調査着手を目指す。
計画では都市計画道路の幅は25㍍ほど。本線予定地にある墳丘部分などは調査とともになくなるが、墳丘の周りにある周溝の一部は埋めた上で道路の歩道部分にする予定。
地元「渋滞解消に期待」
専門家「重要な価値ある」
高尾山古墳を取り壊す沼津市の方針について、約20年前から毎年、市や県などに道路建設の要望書を提出している同市の岡宮自治会前会長の林祝充さん(75)は「学園通りと国道1号交差点の渋滞解消につながる」と早期完成に期待を寄せる。地元金岡地区の有識者会議「宝探し部会」元部会長で、3年前から中学生らの学習会を開く柿迫芳信さん(71)は「できれば古墳は残してほしいが、建設する場合は力のある王がいたことを地元の若い世代が知る方策を講じてほしい」と述べた。
日本考古学協会の高倉洋彰会長は25日、都内で開いた高尾山古墳の保存を求める会長声明発表の会見で「古墳時代最初頭の重要遺跡」と強調し、「沼津市のみならず、日本の歴史において重要な価値がある」と訴えた。
(静新平成27年5月26日朝刊)
高尾山古墳保存活用を日本考古学協会
道路計画見直し要望 沼津
日本考古学協会(高倉洋彰会長)は25日、沼津市の都市計画道路「沼津南一色線」の予定地にある同市東熊堂の前方後方墳「高尾山古墳」の保存と活用を求める会長声明を発表した。
声明は同古墳を「日本列島の初期国家形成過程の、古墳文化形成を解明する上で重要」と説明し、道路計画事業の見直しと適切な保存、活用を要望した。
同協会が25日に都内で開いた会見で、同協会の篠原和大理事(静岡大人文社会科学部教授)は「古墳時代の中でも古い段階のもの。この時期としては、日本列島屈指の規模」と解説した。
同古墳は、道路の本格工事を前に沼津市教委が2008~09年に発掘調査し、230年ごろに作られた高杯(たかつき)などが見つかった。14年の追加調査では230年ごろに墳丘が完成し、250年ごろに当時の有力者が埋葬されたとみられることが分かった。古墳は本来は台形を二つ組み合わせた形で、東西の最大幅約34・2㍍、南北約62㍍と推計される。
沼津市は同都市計画道路を建設中だが、古墳の部分については工事を中断している。
(静新平成27年5月25日夕刊)
↓この画像は7年前の発掘調査時の新聞画像
↓この画像は発掘地市民説明会時の画像
平成21年9月13日辻畑古墳発掘現場写真集
2015年5月26日火曜日
沼津街中歴史ウオーク講演動画・沼朝記事
三枚橋城に去来した武将ら
沼津史談会第2回公開講座から・・・上
沼津史談会による「沼津ふるさとづくり塾」の第2回市民公開講座が十六日に開かれ、市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城・沼津城・沼津兵学校跡地VS現在の駅南地区の街並」と題して話したほか、「沼津街中歴史ウォーク」として現地見学が行われた。講演会には約百人、見学会には約六十人が参加した。
淀君滞在の可能性も
最後の城主断絶で廃城に
三枚橋城鈴木館長は三枚橋城について、歴代城主四人の事績を中心に解説した。
三枚橋城は戦国大名の武田氏によって天正七年(一五七九)に現在の大手町一帯に築城された。当時、黄瀬川と狩野川より西の地が武田領、東の地は関東の戦国大名北条氏の領土とされていた。両者の関係は平穏であったが、天正六年に上杉謙信の跡継ぎを巡って武田氏と北条氏が対立すると、武田氏は防衛のために国境線付近の狩野川の岸辺に三枚橋城を築いた。
武田氏滅亡後は徳川氏のものとなり、徳川氏が関東に移ると、豊臣秀吉配下の大名である中村氏のものとなった。関ヶ原の合戦で徳川氏が天下人となると、徳川家臣から大名となった大久保氏の居城となった。
春日信達 武田時代の三枚橋城を治めたのは春日信達(かすが・のぶたつ)という武将で、武田信玄の優れた家臣として知られる高坂弾正(こうさか・だんじょう)の息子。
信達は、三枚橋城では城の管理と守備隊の指揮を担当するだけだったので、厳密には城主ではなく、城将と呼ばれる立場だった。
謙信の死後、武田氏と北条氏が争うようになると、三枚橋城周辺では北条側の徳倉城将である笠原新六郎が城ごと武田側に寝返るなど、武田側優勢の局面が続いた。
しかし、天正十年(一五八二)に織田信長が武田氏への総攻撃を開始すると、それに合わせて北条氏も反撃を開始。押し寄せる北条軍を前にして信達は城を捨てて甲府へ脱出し、武田本隊に合流しようとしたが、その行動を疑われて合流を拒否され、やむなく故郷の海津城へ戻った。
武田氏滅亡後は、海津城を領有した織田家臣の森長可(もり・ながよし=森蘭丸の兄)に仕えたものの、直後に信長が本能寺の変で急死したため、信濃国は大混乱となり、信達は信濃国を奪い合う北条氏と上杉氏の争いに巻き込まれ、上杉氏によって処刑された。
松井忠次信達が脱出した三枚橋城は、北条軍によって占領された後、徳川氏に引き渡された。家康は、この城を四男松平忠吉(まつだいら・ただよし)に与えたが、忠吉は幼児だったため、名目上の城主に過ぎず、実務は後見人の松井忠次が取り仕切った。忠次は富士郡と駿東郡の「郡代」という役職に任命されていたという。
信長の死後、徳川と北条が戦うことになると、忠次は忠吉の代わりに軍勢を率いて戦った。
忠次の一族は家康の一族ではないが、後に家康ゆかりの「松平」姓を与えられて松平氏となり、子孫は大名となった。明治維新の際には武蔵国(埼玉県)の川越藩主だった。
中村一栄 天下統一を進める豊臣秀吉は、抵抗する北条氏を討つため大軍を関東に派遣。東海道を進む豊臣軍は沼津に集結し、天正十八年(一五九〇)三月二十七日には、秀吉本人が三枚橋城に入り、北条軍の前線基地である山中城(三島市)攻撃を監督している。
北条本拠地の小田原城を包囲した秀吉は、包囲が長期化すると妻の淀君を小田原に呼び寄せ、淀君も東海道を移動中に三枚橋城に立ち寄っているという。
北条氏が降伏すると、秀吉は関東の北条領土を家康に与え、代わりに家康の東海地方の領土を取り上げた。東海地方の土地は秀吉の家臣達に与えられ、駿河国は山中城の戦いで活躍した中村一氏(なかむら・かずうじ)が支配することとなり、忠吉は、武蔵国の忍(おし)城に移った。
駿河十四万石の大名となった一氏は駿府を拠点とし、三枚橋城には弟の一栄(かずひで)を派遣した。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で中村氏は東軍に味方したが、当主の一氏は病気で死の床にありき一栄が当主代理として参戦した。一栄は、関ヶ原前哨戦である杭瀬川の戦いで、石田三成の家臣で名将として知られる島左近(しま・さこん)と戦って大敗したことで歴史に名を残した。
関ヶ原では最終的に東軍が勝利し、中村氏も勝者となった。死去した一氏の子の一学は伯耆国(鳥取県)の米子に移り、十七万五千石の大名となった。
関ヶ原の合戦では松平忠吉も歴史に名を残している。忠吉は東軍による攻撃の一番手となり、両軍激突のきっかけを作ったことで知られる。その活躍が評価されて尾張国(愛知県)の清州五十七万石の大大名となったが、関ヶ原での傷がもとで、二十八歳で跡継ぎなしのまま死去している。
大久保忠佐中村氏が駿河を去った後に三枚橋城主となったのは家康家臣の大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)で、沼津藩二万石の藩主となった。忠佐は兄の忠世(ただよ)や弟の忠教(ただのり)と共に勇敢な武将として知られ、織田徳川連合軍と武田軍が戦った天正三年(一五七五)の長篠の合戦では、忠佐は忠世と大活躍をした。
髭を伸ばして目立つ風貌だった忠佐の戦いぶりは、信長も目撃して記憶していて、信長は後々も忠佐を「長篠の髭」と呼んで親しんだ。
忠佐が沼津藩主となった頃、忠世はすでに死去していて、息子の忠隣(ただちか)が跡を継いでいた。忠隣は小田原藩主となっていて、箱根を挟んで叔父(忠佐)と甥(忠隣)の領地が隣り合う形となった。
しかし、この一族には悲劇が続いた。忠佐は息子の忠兼(ただかね)が早世し、弟の忠教を跡継ぎにしようとしたが、断られた。
忠教は軍談書『三河物語』の著者であり、彦左衛門という別名で広く知られている。
慶長十八年(一六一三)に忠佐が亡くなると、跡を継ぐ者がいない沼津藩は廃止となった。
一方の忠隣は二代将軍徳川秀忠の側近として活躍したが、慶長十九年、幕府内の権力争いに破れて失脚し、小田原藩も取りつぶしとなった。この時、三枚橋城の破壊命令も幕府から出されていて、大久保一族への迫害政策の一環だと見られている。
後に忠隣の子孫は復権を果たして小田原藩主となり、この小田原藩は明治維新まで続いている。
忠佐の死後、沼津の地は紀州藩領や幕府直轄領、徳川忠長(三代将軍家光の弟)領を経て、再び幕府直轄領となった。
この間、破壊された三枚橋城の跡は、代官の住まいなどとして利用されたが、最終的には農地への転換が進められた。(以下、二十六日発行「の次号へ)
(沼朝平成27年5月24日号)
沼津史談会第2回公開講座から・・・下
沼津史談会の市民公開講座「三枚橋城沼津城・沼津兵学校跡地VS現在の駅南地区の街並」で大手町の三枚橋城の沿革について話した市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長は、続いて沼津城や沼津兵学校などについて話した。
東海道に面した場所に本丸
街道から丸見えの特異な形式
水野氏と沼津城三枚橋城が廃城になってから百五十年以上が経過した安永六年(一七七七)、十代将軍徳川家治の側近である水野忠友が沼津藩主となり、翌年、沼津城の築城が始まった。
水野氏は徳川家康の母親の実家で、江戸時代には名門として扱われ、一族からは複数の藩主家が生まれた。
忠友の祖父の忠直は信州松本藩七万石の大名だったが、孫の忠恒(忠友のいとこ)が享保十年(一七二五)に江戸城松の廊下で長府藩主毛利師就に刀で切りつけるという事件を起こし、松本藩は取りつぶしとなった。ただ、忠恒の叔父の忠穀(忠友の父)は旗本として家名存続が許された。
こうして旗本の家に生まれた忠友は、幕政を主導していた老中田沼意次に接近して幕府内で出世し、領地も増えて大名となった。
水野藩の沼津城は、三枚橋城と同じ土地に築かれたが、その面積は半分程。通常の城では、最重要部である本丸が城の中心部に位置して厳重に防備されているが、沼津城は城の南東を通る東海道に面した場所に本丸があり、街道から本丸が丸見えになる特異な形式の城だった。本丸には三層櫓が建っていたが、幕末を迎える以前に失われている。
歴代沼津藩主は江戸で暮らすことが多く、沼津城に滞在することは少なかった。
明治になり、江戸徳川 家が駿河静岡に移り、それに合わせて沼津藩が上総国(千葉県)菊間に移ると、沼津城は静岡藩のものとなり、沼津兵学校が置かれた。
廃藩置県後、兵学校も廃止となり、跡地は民間に払い下げられ、堀などは埋め立てられた。建物は移築れて建材となったが、はっきりと現存しりはなく、瓦が残っている。城の遺構調査は大手門や本丸周辺などに限られている。
沼津兵学校と公園計画
兵学校は沼津城二の丸御殿を校舎として使用した。また、沼津には旧幕臣が多く暮らし、こうした人達は沼津城三の丸土塁の上にあった稲荷社に徳川家康を祭る東照宮を合祀。これが現在の城岡神社となった。
東海道線沼津駅開業後の明治二十六年(一八九三)、沼津兵学校記念碑建立と記念公園建設の計画が持ち上がった。千五百坪の土地を購入し、観光施設として東京の上野忍ヶ丘公園を模した公園を建設する計画だったが、寄付金が集まらずに記念碑建立のみで終わった。この碑は後に破損したため、二代目が建てられ、城岡神社に現存している。
昭和十五年(一九四〇)には兵学校創立七十周年記念の碑が沼津城二の丸跡近くの旧沼津郵便局本局前に建立され、これも現在は城岡神社に残っている。
駿東病院 明治二年、現在の西条町に徳川家の陸軍医局が開設され、同年中に沼津病院と改称された。
廃藩置県後は、私立病院となったが、経営困難に陥ったため、駿東郡長となった江原素六の計らいで公立病院となり、駿東病院と改称した。その後、再び私立病院となり、昭和二十年六月に閉院。建物は七月の沼津大空襲で焼失した。
鈴木館長による講演後、紹介した場所の現在地を巡る見学会となり、沼津城ゆかりの中果公園や城岡神社、上土町の三枚橋城石垣跡、大久保忠佐ゆかりの碑が建つ一小の道喜塚などを見学した。
(沼朝平成27年5月26日号)
150516鈴木祐篤三枚橋城・沼津城蹤地 from 河谷杯歩 on Vimeo.
当日画像資料
150516歴史散歩スライド from 河谷杯歩 on Vimeo.
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