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2020年5月21日木曜日

代戯館の教師 亀里樗翁と築山章造 (沼津市明治史料館通信第141号 令和2年4月25日)



シリーズ 沼津兵学校とその人材101 代戯館の教師 亀里樗翁と築山章造 (沼津市明治史料館通信第141号 令和2年4月25日)




2018年3月1日木曜日

幕末維新期に従軍の農民兵士

幕末維新期に従軍の農民兵士
駿河・伊豆地域から幕軍、官軍へ
 沼津・三島・富士の三市博物館連絡協議会による明治維新一五〇周年記念特別講座「幕末・明治の富士・沼津・三島」が二月二十四日、サンウェルぬまづで開かれた。国立歴史民俗博物館教授で元沼津市教委学芸員の樋口雄彦氏が講師を務め、百人を超える来場者があった。
 神職の義勇軍部隊も
 樋口雄彦教授が講演
 今回の講座のテーマは「幕末維新の戦乱と駿河・伊豆の民衆」。樋口氏は、現在の県東部に相当する地域の庶民が幕末の動乱に様々な形で参加していたことを伝える事例の数々を紹介した。
 当時、韮山代官所は郷土防衛のために農兵制度を導入し、農民や町人から兵士を募っていた。これとは別に幕府も兵賦(へいふ)と呼ばれる徴兵制度を実施し、幕府領地の村々から兵士を集めて幕府陸軍に配属していた。
 地元の防衛を目的とする農兵と異なり、幕府陸軍は各地に出動することを前提としていた。現在の沼津市内出身の兵士が一八六四年の天狗党の乱の鎮圧のために下野(栃木県)に出動したことや、一八六六年の長州征討に従軍していたことを示す記録が残されている。
 また、市内北部にあった幕府牧場(愛鷹牧)の関係者が幕府陸軍の騎兵部隊に編入されたこともあった。牧場の現地管理人である牧士(もくし)が朝廷儀式用の馬を運ぶため
に京都に向かったところ、鳥羽伏見の戦いが始まり、牧士三人が幕府陸軍に入隊させられたという。三人は騎兵第三大隊二番小隊の隊員となりパトロール任務を担当したが、敗戦で部隊は解散し、三人も帰郷した。
 農民や町人を兵士として集めたのは、幕府だけではなかった。一八六七年の大政奉還後、新政府に従った沼津藩は、その命令で甲府に藩兵を出動させた。これにより地元の防備が手薄になったので、沼津藩は領内の村々から人を集めて非常組と呼ばれる自警団を組織。甲府出動が終わると、非常組は常整隊と改称し、臨時の自警団から常設の農兵隊へと再編成された。
 富裕層の子弟が韮山代官所の農兵になったように、沼津藩の非常組や常整隊も富裕層の子弟が参加していたという。
 このほか、伊豆一帯に点在していた旗本領でも農兵制度の導入が行われた。鳥羽伏見の戦い前後、幕府は旗本に対し、領地に駐在して農兵隊を組織するよう命じており、これに従い、伊豆各地の旗本領で農兵隊が編成された。
 以上は幕府や藩などの行政権刀を握る側によって作られた部隊だったが、民間主導の部隊もあった。
 駿河東部地域の神職達は駿東赤心隊という義勇軍を作って新政府軍に加勢した。その一人で岡宮浅間神社の神職だった植松伊織は、駿河全体の神職部隊である駿州赤心隊にも参加して江戸にまで行っている。
 その後、植松は招魂社(後の靖国神社)や新政府の機関に勤務した。維新後、駿河は徳川家の領地となったため、明確に幕府に敵対した赤心隊のメンバーらは、報復を恐れて帰郷できなかったという。
 様々な兵士の姿を紹介した樋口氏は、幕末に兵士となった人々の中には明治以降の地域社会のリーダーになった例が散見される点を挙げ、これらの人々は為政者に利用されつつも、その中で主体性を得て各自の道を進んでいった、と指摘した。
【沼朝 平成30年3月1日(木)号】

2018年2月16日金曜日

沼津市地域にみる幕末の農兵:講師 樋口雄彦教授





↓当日配布資料



↓平成30年2月16日(金)沼朝記事



沼津市域に見る幕末の農兵
樋口雄彦氏新著出版記念し講演会
国立歴史民俗博物館教授で元市教委学芸員の樋口雄彦氏による郷土史講演会が十日、マルサン書店仲見世店で開かれ、約四十人が来場した。樋口氏の著書『幕末の農兵』が先月出版されたことを記念したもので、樋口氏は「沼津市域に見る幕末の農兵」と題して話した。
原宿の富裕層など入隊近代への扉開く存在に江戸時代以降に農民や町人などを集めて武装させた農兵の起源は、一般的には韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)による幕府への提言にさかのぼるとされている。しかし、樋口氏によると、国内では坦庵の提言以前に農兵制度を実施していた藩もあり、現在の岩手県盛岡市付近を支配していた南部藩は、北日本におけるロシア船出没への備えとして十八世紀から農兵制度を導入していた。
坦庵による農兵制度に画期的な点があるとすれば、それは農兵に西洋式の銃を装備させる点にあったという。坦庵式の農兵制度は、坦庵死後の一八六四年に本格運用された。現在の沼津市一帯では、韮山代官の管轄地である原の宿場町で農兵が集められた。
農兵として志願入隊した者は、帯笑園を造営したことで知られる植松家などの富裕層の若者が多かった。農兵は、一本差しではあるものの帯刀を許され、幹部となった者は名字を名乗ることを認められた。これらは一般庶民よりも高い身分となったことを意味する。
富裕層が農兵に志願した理由として樋口氏は、農民一揆が多発した当時の社会情勢を挙げた。一揆が起きると農村の富裕層も襲撃対象となる場合があったため、彼らは自衛のために剣術を学ぶようになっていた。富裕層子弟の剣術修行は全国的なブームで、後に新撰組の中心的メンバーとなった者達も、多摩地方の農村地帯の富裕層子弟だった。
このことから樋口氏は、農兵は富裕層の自衛意識と幕府の支配体制防衛が組み合わさった非常に保守的な性格を持つ集団である、としたが、それと同時に、農兵となった者達は地域社会における近代への扉を開いた革新的な存在であるとも指摘した。
農兵となった者は、幕府将軍の前で訓練を披露するなどの経験を通し、生まれ育った地域だけでなく国家全体を意識するようになり、それが近代的な国民の誕生につながった。また、農兵勤務の代償として身分の上昇を得たことは、義務と引き換えに権利を得るという近代的な権利意識を芽生えさせた。農兵参加者の中には、朋治の世になって自由民権運動に身を投じた者も確認されているという。
また樋口氏は、自身の母校である韮山高校と農兵のゆかりについても触れた。同校では江川坦庵を「学祖」として学校のルーツの一つと見なしているが、樋口氏は坦庵が運営した高島式砲術の塾よりも、坦庵死後に開設された農兵学校の方が同校のルーツとしてふさわしいと話した。
その理由として、坦庵の塾は全国諸藩の武士を対象としたものあるのに対し、農兵学校は農兵幹部を養成するために伊豆地方から若者を集めたものであり、現在の韮山高校と性格が近いと指摘した。
講演後、質問の時間が設けられ、江川式農兵の装備品についての質問があった。
樋口氏によると、農兵には、西洋式ではあるものの当時としては時代遅れになっていた旧式銃が配備された。制服はなかったが、韮山笠と呼ばれる円錐型の編み笠が支給されていた。農兵の姿を描いた絵や写真は発見されていないという。
【沼朝平成30年2月16日(金)号】

2017年4月17日月曜日

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 静岡新聞社の本
 見る読む 静岡藩ヒストリー
 大政奉還(1867年)から150年目の今年、現在の静岡県の礎となった「静岡藩」の歴史を、貴重な資料や人物写真を交えて概説した。
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【静新平成29年4月16日(日)朝刊】