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2018年10月23日火曜日

函南に伊豆最大規模古墳 筑波大調査 王権との関わり示す


函南に伊豆最大規模古墳
筑波大調査 王権との関わり示す
 県内を中心に古墳の発掘調査に取り組む筑波大の滝沢誠准教授(55)と研究室の学生らがこのほど、函南町平井に伊豆半島最大とみられる前方後円墳の存在を確認した。古墳時代前期(34世紀)に造られたと考えられ、滝沢准教授は「当時の伊豆地域の状況を知る大きな手がかり」と話す。
 調査は2016年から3年間行われ、東京大や静岡大の学生らも参加した。測量、発掘の作業で墳丘の規模や正確な形状を調べた。推定全長は87㍍で、県東部最大の浅間古墳(富士市、推定90㍍)に迫る規模という。
 地元住民によると、平井地区には「瓢笛(ひょうたん)山古墳」と呼ばれる遺跡があることが古くから伝えられてきたが、これまで長らく実態は分かっていなかった。数年前に実施された県のジオパーク関連の測量で実在することが判明し、滝沢准教授らが基礎調査に乗り出した。
 滝沢准教授によると、これまで伊豆半島では34世紀ごろの古墳は発見されておらず、独自の政治勢力はないというのが定説だった。約10年前に「向山16号墳」(三島市)が見つかったことで定説は見直され、今回の実態解明は伊豆半島に有力な支配者がいたことを改めて裏付けた。
 瓢箪山古墳の特徴は西側の墳丘を大きく見せる造り。西側は現在の熱函道路に面していることから、4世紀ごろから伊豆半島を横断するルートが存在し、当時支配を拡大していた「ヤマト王権」がこのルートを重視して現地の勢力と結びつき、規模を拡大させていった結果、大型の古墳が築かれたと考えられるという。
 発見場所は私有地。
調査は920日でいったん終了したが、今後も継続していく方針。
(三島支局・仲瀬駿介)
【静新平成301023()朝刊】

2012年7月14日土曜日

高尾山古墳でシンポ

高尾山古墳でシンポ 沼津22日 きょうからパネル展も  東日本最古級の前方後方墳といわれている沼津市東熊堂の高尾山古墳の歴史的価値を考えるシンポジウムが22日午後1時から、同市御幸町の市民又化センターで開かれる。入場無料。申し込み不要。  市の学芸員と同古墳発掘調査報告書を執筆した専門家らが出土品などを元に、古墳の成立年代や当時の勢力図などを解説する。調査の成果を写真やイラストで紹介する「高尾山古墳ガイドブック~スルガの王、大いに塚を造る~」を1部100円で販売する。  同古墳は西暦230年頃に成立したとの説があり、卑弥呼の墓よりも古いとみる専門家もいる。ただ、国道1号と同246号を結ぶ市道建設予定地にあるため、保存するか撤去して道路を建設するかで揺れている。市教委は「古墳の価値をしっかり認識した上で、市民同士の議論を深めてほしい」としている。  14~23日は、同センターで「高尾山古墳パネル展」も開催する。問い合わせは市文化振興課文化財調査係〈電055(952)0844〉へ。 (静新平成24年7月14日朝刊)

2012年5月13日日曜日

高尾山古墳発掘の調査報告書

高尾山古墳発掘の調査報告書  7章にわたり詳細分析 今月以降一般頒布を予定  築造年代めぐり2説 最古級性に興味引かれる論争  市教委は「高尾山古墳発掘調査報告書」を三月三十日に刊行。今月以降に一般への頒布が予定されている。市教委では五百部を印刷し、三百部は研究機関や図書館などに送られ、二百部が一般頒布用となる。また、頒布に合わせ市立図書館の郷土史コーナーで閲覧できるようになる。  市教委では、七月二十二日に高尾山古墳に関するシンポジウムを市民文化センターで開催する予定だが、このシンポジウム用に報告書の要約版も作成する。  報告書は七章で構成され、本文だけで二百ページを超える。巻末には、調査時の様子や出土品、遺構などの写真が約八十ページにわたって掲載されている。  【古代の地理】本文第一章では、沼津の古地形と高尾山古墳との関係について解説している。  かつて沼津市域一帯では、西部には海とつながった浮島沼が広がり、東部には「古狩野湾」と呼ばれる海が広がっていた。  その後、古狩野湾では、黄瀬川がもたらす土砂により黄瀬川扇状地が形成され、縄文時代の終わりごろ以降から陸地化していった。このため、縄文時代以前の人々は愛鷹山一帯に暮らし、多くの遺跡が愛鷹山麓から見つかっている。弥生時代以降には、黄瀬川扇状地にも人が住むようになり、当時の遺跡が存在する。  高尾山古墳は、古くから人々が暮らした愛鷹山一帯と、居住地として新たに発展していった黄瀬川扇状地とを結ぶ地点に位置している。また、古墳築造当時には浮島沼が残っていて、その東端は古墳の近くにあり、古墳付近まで、海から舟が入り込むことが可能だったと見られている。  【古墳の形状と出土品】二章から五章までは発掘内容の詳細報告。遺構の写真や実測データ、出土品の一覧などが記載されている。  古墳は全長六二・一七八㍍。二つの四角形がつながった前方後方墳と呼ばれる形式で、前方部は三〇・七六八㍍、後方部は三一・四一〇㍍。古墳を囲む幅八~九㍍の溝(周溝)も見つかっている。後方部から木製の棺が発見されている。  また、無数の土器のほかに、銅鏡一点、勾玉一点、鉄槍二点、鉄鏃(ぞく=やじり、矢の先端)三十二点、やりがんな(工異)一点が出土。銅鏡以下の品は棺の中に納められていた。  土器のうち、周溝の一画から出土した高杯(たかつき)は廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる型式で、西暦二三〇年代の物と見られている。  また棺の周辺からは、同年代ごろの型式と見られるパレススタイル壺が発見されている。  【出土土器】六章以降は、発掘調査結果について研究者による考察が続く。  出土土器に関しては、幅広い年代の土器が見つかっていることから、古墳築造後も長期間にわたって祭祀(宗教的儀式)が行われていたと推測されている。  また、土器は地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかっているが、畿内(奈良県)の物は見つかっていない。  昨年、清水町の恵ヶ後(えがうしろ)遺跡の発掘調査で大規模住居趾が発見されたことから、同遺跡と高尾山古墳との関連性が指摘されたが、同遺跡からは畿内系の土器が見つかっている。このため報告書は、高尾山古墳と同遺跡は「単純に関連付けられるものではない」との見方を示す。  【副葬品】銅鏡や鉄槍、鉄鏃は古墳に葬られた人の副葬品と見られている。  このうち、銅鏡は上方作系浮彫式獣帯鏡と呼ばれる型式で、「上」「竟」「宜」といった文字が入っていることが確認されているが、他所で見つかっている同種の鏡から推測すると、本来は「上方作竟 長宜子孫」という字句であったと見られる。  この種の鏡は中国山東省の遺跡からも見つかっており、その遺跡と同時期の遺跡からは「永康元年」と記された出土品が発見されている。永康元年は西暦一六七年で後漢王朝後期。このため、高尾山古墳の銅鏡も同時期の二世紀(西暦一〇一年~二〇〇年)後半に当時の中国で作られたものではないかという。  また、高尾山古墳から出土した銅鏡の特徴として割れていることが挙げられる。こうした鏡は「破砕鏡」と呼ばれ、宗教行事の一環として、わざと割られたと見られる。破砕鏡は、三世紀(西暦二〇一年~三〇〇年)後半以降に築かれた古墳からは姿を消しているという。  鉄槍は、その一つが弥生時代の形の特徴を持っており、弥生時代に作られ、その後も使われ続けた品である可能性が指摘されている。また、もともとは剣として作られたが、後に槍の穂先として転用された、との見方もある。槍の柄は木製だったため朽ちて、現存していない。  鉄鏃の一部は、その形状を分析すると、ホケノ山古墳(奈良県)や弘法山古墳(長野県)で出土した鉄鏃よりも後の時代の形状をしていることが判明している(ホケノ山古墳は西暦二五〇年の少し前ごろ、弘法山古墳は二五〇年以降に築かれたと考えられている)。  【築造年代】報告書では、高尾山古墳の築造年代について二つの見方を示している。  第一説は、周溝から発見された高杯の型式などから見て三世紀前半とするもの。  第二説は、鉄鏃の型式などから見て、第一説よりも後の時代だというもの。この場合、周溝の高杯は古墳築造以前に存在した集落のもので、古墳に直接関連するものではない、と見なされる。  第一説の場合、具体的には西暦二三〇年ごろと推定され、第二説では二五〇年ごろとなる。  邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする説がある箸墓古墳(奈良県)は二五〇年ごろの築造であるとされる。このため、二三〇年説の場合、高尾山古墳は、それよりも古いことになる。  二三〇年説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、いわゆる「魏志倭人伝」に登場する、邪馬台国に対抗した句奴(くな)国が東海地方にあった、と提唱し、今回の報告書の中でも高尾山古墳と、この東海地方の勢力との関係を強調している。  また赤塚氏は、気候変動や河川が運ぶ土砂などによって、当時は人間が利用可能な土地が広がっていったことを指摘。高尾山古墳に葬られた人物は、伊勢湾岸の先進地域から伝わった新しい文化や技術を利用して「スルガの地」で新たな土地を開発し、愛鷹山麓に暮らす「山の民」と浮島沼周辺に暮らす「浜の民」を統合した「偉大な英雄」であった、と推理する。  一方、二五〇年説に立つ纏向学研究センターの寺澤薫氏は、高尾山古墳の全長と各部の長さの比といったサイズバランスが、奈良の纏向(まきむく)古墳群の比と同じ点を指摘。高尾山古墳は、纏向古墳群を持つヤマト地方の勢力の影響を受けている、との見方をし、高尾山古墳の築造は、ヤマトを中心とする勢力が関東など東国に勢力を伸ばす動きの中の出来事、と見なしている。  【科学的分析】第七章では、出土品に対する自然科学的分析の結果が述べられている。  このうち、出土土器の産地に関する分析では、蛍光X線分析により、高杯には東海地方西部で作られたものと、それを模倣して静岡県東部で作られたものとが混在することが判明している。 (沼朝平成24年5月13日号)

2012年4月11日水曜日

沼津・高尾山古墳


国内最古級説も 沼津・高尾山古墳
 市教委 調査報告書が完成

 沼津市東熊堂の高尾山古墳の発掘調査を行っていた沼津市教委は10日、市議会文教消防委員会で古墳の調査報告書の完成を報告した。前方後方墳の同古墳は、西暦230年ごろに成立したとの説があり、市教委は「古墳時代成立の過程を解き明かす鍵になる極めて重要な古墳」としている。
 同古墳は、市教委が2008年に発掘調査を開始し、09年には国内最古級の230年ごろに作られた高坏(たかつき)が見つかった。ただ、副葬品の鉄製の鏃(やじり)などがそこまで古くないため、同古墳が250年ごろにできたと唱える研究者もいる。
 国内の代表的な前方後方墳は、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳。成立年代は250年ごろとみられる。仮に高尾山古墳が230年ごろにできたとすると、東海地方でも独自に古墳文化が進行していたことになる。
 市教委の担当者は「今後さらに研究が進められていくと思うが、決着には時間がかかりそう」と話している。市教委は近く、希望者に調査報告書を販売する予定。また、5月上旬から市文化財センター(同市大諏訪)で高尾山古墳の出土品を展示する。7月下旬には同古墳にまつわるシンポジウムを市民文化センターで開く予定。
(静新平成24年4月11日朝刊)

2012年1月25日水曜日

高尾山古墳保存の成否に節目


高尾山古墳保存の成否に節目
年度末に調査結果の報告書
 都市計画道路予定地上に位置
 希少な前方後方墳の先行き不透明
 東熊堂の高尾山穂見神社・熊野神社境内跡地で発見され、平成二十年に前方後方墳であることが判明した高尾山古墳(旧称・辻畑古墳)。東日本で最古級とされる同古墳の保存の成否を巡る動きが今年一つの節目を迎える。我が国最古との見方もあるだけに、保存を望む声は少なくないが、先行きは不透明だ。
 同古墳は、都市計画道路沼津南一色線の建設ルート上にある同神社が移転した際の跡地調査で見つかった。同神社境内については、以前から古墳の存在が指摘されていたが、発掘調査は、この時が初めて。
 試掘が十七年度に始まり、二十年度に本格調査が開始され、出土した土器の形状から、三世紀前半に築造されたと考えられている。三世紀前半は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の時代。
 学術的希少性だけでなく、全国的に報道され知名度もある同古墳だが、道路の建設予定地上にあることは変わりなく、古墳保存か道路建設続行かの判断が求められる。
 沼津南一色線は、国道二四六号と国道一号(江原交差点)を結ぶもので、市道路建設課によると、現在は古墳一帯の土地を含む新幹線以南から国道一号以北の区間は工事を停止している。
 工事続行の可否をめぐっては、二十一年に市議会で栗原裕康市長が、「広く市民の意見を聴いていきたい」と答弁。また、村上益男教育次長(当時)は、調査結果が出るのを待ち、その後のことを決めていくという方針を説明した。
 この調査結果が出るのが現年度末。市教委では現在、三月末に向けて報告害を作成している。
 市教委文化財センターによると、この報告書に対する学界の関心は高く、研究者から問い合わせが来ることもあるという。また、市教委では、市民の関心にこたえるため、出土品の公開や、関連講演会の開催を計画している。
 しかし、それ以外に報告書完成後の日程や意思決定の手順については未定となっている。市計画課によると、都市計画の変更は県が決定権を持ち、国の同意が必要だという。このため、現状では沼津市だけの判断ですべてを決めることはできない。
 高尾山古墳は今後どうなるか。
 関係者の一人は、他地域での遺跡保存問題を挙げ、住民による署名集めなどの保存要望活動が行政による判断へ影響を与える例が多い点を指摘する。
 また別の関係者は、都市計画道路が同古墳一帯を通ることが決まったのが昭和三十六年であることに触れ、市教委による調査がもっと早ければルート変更などに柔軟性が出たのでは、と残念がる。
 市道路建設課によると、沼津南一色線は工事予定地の取得を九九%終えている。仮に古墳保存のため同路線のルートが変更になった場合、建設費用の増加は確実となる。
 解説 高尾山古墳については「確実なところで東日本最古級」とされるが、前方後方墳という形状は珍しく、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(奈良県桜井市)より古いとの見方があり、「我が国最古級」の説もあるほど。
 一方、足高の沼津工業団地一画には、同団地敷地一帯の清水柳北遺跡から出土した上円下方墳が移築復元されている。
 こちらは古墳時代終末、八世紀初めの奈良時代のものと推定され、この形状も全国的に希少。
 沼津には、古墳時代の幕開けを飾った前方後方墳と、終焉を告げる時代の上円下方墳が揃っていることになるが、千八百年という、人知の及ぶところではない時を刻んだ最古級の古墳が今、消えてなくなるかもしれない瀬戸際を迎えている。
(沼朝平成24年1月25日号)