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2018年10月16日火曜日

仁徳陵初の協同発掘






大山(だいせん)古墳
 堺市にある日本最大の前方後円墳。来年の世界文化遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群の一つ。大正時代の測量に基づき、全長は486材とされているが、近年の調査で築造当初は少なくとも525㍍あったことが判明した。墳丘は3段構造で、3重の周濠(しゅうこう)と堤防に囲まれている。宮内庁は4世紀に在位した仁徳天皇の陵として管理するが、過去に出土した遺物の分析から5世紀中ごろの築造とする学説が有力で、実際には仁徳陵ではない可能性が高い。
【静新平成30年10月16日(火)朝刊】

2018年4月21日土曜日

千本遺蹟埋蔵文化財発掘調査現地説明会







砂地に重なる住居址や墨書土器
第二地区センター用地から出土
 第二地区センター建設に先立ち、市教委が予定地で実施した埋蔵文化財発掘調査で多数の遺構と遺物が出土した。調査は、同センター整備のため、既存の旧高齢者就業センターを活用し、これに増築する東側の約三五〇平方㍍で行われた。昨年六月に試掘した後、同年十二月から今年二月まで本調査が行われた。
 埋蔵文化財発掘調査で確認
 他で見られない特徴示す
 今回の建設予定地周辺では、千本プラザの建設に伴う調査(前回調査)が平成五年六月から九月まで約一、二〇〇平方㍍を対象に行われている。
 この時には三十七軒の住居趾や一基の掘立柱(ほったてばしら)建物の遺構が見つかっている。
 また、土器の表面に墨で文字などを記した墨書土器、ベルトのバックルに当たる銅製の帯金具など特殊なものが確認された。
 今回の調査では、確認された遺構のほとんどが住居趾で、重なる形で見つかった。
 その大半は、前回調査で出土したのと同時期の奈良から平安時代のもので、一部の住居祉には、かまど跡が確認された。
 また、遺物の大半は土器で、土師器(はじき)や高温焼成して作られる須恵器(すえき)が多く、このほか青銅製の小型の鏡、かんざし、鉄製の鏃(やじり)なども見つかった。
 鏃が見つかったのは、住居を廃棄する際には、かまども一緒に壊すが、かまどを壊した同じ場所に捨てていく風習によるものだという。
 そして、前回調査では出土しなかったものが今回は確認された。
 古墳時代前期(三世紀後半頃)の住居祉や
土師器で、同時代のものが出土することは予想していなかったことから発掘に当たった市文化財センター職員も驚いたという。
 見つかったのは特殊なものでは、壼などの土器を置く器台と言われるもの。壺などを載せ並べて置いたもので、日常生活で使用したものではなく、祭祀用などと考えられている。
 今回の調査では、古墳時代前期の住居址四軒、奈良から平安時代にかけての住居址十四軒と、土器や釣り針の先端部分と思われるもの、土錘(どすい)と呼ばれる土製の重りなどの遺物が収納ケースで約百箱分、見つかった。
 調査対象地は千本砂礫洲と呼ばれる地形の一部で、富士川から流れてきた砂が堆積し、約一万年前から現在の海岸線と重なる形で存在していた。そのため今回の調査では、遺構が崩れないよう注意しながら作業が進められた。
 このような軟弱地盤であるにもかかわらず住居址が多数出ることは普通の状況では考えにくく、また、前回調査に続き、通常の遺跡では確認されない墨書土器などの特殊な遺物も出土している点が特徴。
 市教委文化振興課文化財調査係の小崎晋主任学芸員は「三〇〇平方材程しか掘っていないのに、十八軒の住居址と百箱分の出土品が出てきたのは、ちょつと異様。『なんだ、こりやあ』という感じがする」と話す。
 住居址は重なって見つかっていることから「絶えず人がここにいて(家を)建て替えていることになる」とし、一時的に出来た集落ではないことを指摘する。
 調査報告書については今年度中に作成される予定だが、遺物量が多いため遅れる可能性もある。

【沼朝平成30421()号】

2015年8月7日金曜日

木簡にみる古代地名

木簡にみる古代地名
沼津あれこれ塾で変遷たどる
 NPO法人海風47による郷土史連続講座「沼津あれこれ塾」の第3回講座が、このほど商工会議所会議室で開かれた。元市教委学芸員で日本考古学協会会員の瀬川裕市郎さんが「堅魚(カツオ)木簡からの情報カツオ製品づくりと沼津周辺の古代地名」と題して話した。
 内浦のカツオ、税で都へ
 納税者の住所など解読
 奈良時代、全国各地から特産品が税として平城京の都に運ばれていた。これらの品々には荷札として木簡(木札に字を書いたもの)が添えられていた。こうした木簡が平城京の跡地などから多く見つかっていて、それらには現在の沼津市南部一帯から運ばれたカツオの加工品に関するものも含まれている。
 かつて内浦周辺では、入り江の入口を網で封鎖してマグロやカツオなどを捕える「建ち切り網漁」が行われていた。捕えたカツオは、煮たり、火であぶったりして加工し、「荒堅魚」や「煎」という品目で都へと運ばれた。「煎」とは、カツオを煮た汁から作られる煮こごりのようなものだと考えられている。
 都への税の木簡には納税者の氏名や住所が記されていて、カツオ木簡には駿河国駿河郡宇良郷の「榎浦里」「菅浦里」、伊豆国田方郡棄妾郷の「瀬埼里」「御津里」「許保里」などの地名があったことが確認されている。
 瀬川さんは、これらの地名を現在のものと照合させた結果について、「榎浦」は江浦、「菅浦」は志下、「瀬埼」は大瀬、「御津」は三津、「許保(こほ)」は古宇(こう)に相当する、と説明。また、「田方郡棄妾「(きしょう)郷」については、現在の西浦地区には木負(きしょう)という地名があり、棄妾郷が木負の由来になっているとの説に言及する一方、当時の棄妾郷は現在の内浦地区と西浦地区を含む広い地域一帯の名称であることから、西浦の一部地域の地名である現在の木負と棄妾は一致しないとする説もあることを話した。
 そして、後者の説の場合、木負という地名は古代の行政単位である「保(ほ)」と関係していると話し、同じ西浦地区の古宇が、かつては「許保」であったことから、木負もかつては「○○保」という地名だったのではないかとする説を紹介し、同じ西浦の久料(くりょう)も同様であった可能性についても触れた。
 これらを踏まえた上で、かつて西浦の地には「きし保」や「くり保」と発音される地名があり、これらがなまって「きしょう」や「くりょう」となったのではないか、という仮説があることを述べた。
 木簡に残された記述から地名の変遷についての解説を終えた瀬川さんは、講座の最後に「地名は変わってしまうことが多い。現代でも区画整理などによって新たな地名が誕生しているが、地名が変わってしまうと、かつての地名は失われ、そこに込められていた意味も忘れられてしまう。これは古墳も同じことで、古墳は一度その場所から失われると、その存在までもが忘れ去られてしまう恐れがある」と指摘した。
 次回の講座は二十九日午後二時から同会場で。市教委学芸員が「沼津城と三枚橋城」をテーマに話す。
 参加費は資料代として五百円。
 申し込みは、田村寿男さん(電話〇九〇ー三三八九ー〇五六七)、または瀬川さん(電話〇九〇ー四七九三ー○七九七)。
【沼朝平成27年8月7日号】

2012年2月3日金曜日

鬼描いた土器


「鬼」描いた平安の土器 奈良・橿原の遺跡で見つかる
2012/02/02 20:55(イザ版ニュース)



 「鬼」の顔を墨で描いた平安時代後期(12世紀初め)の土器が奈良県橿原市の新堂遺跡で見つかり、市教委が2日、発表した。同時期の出土例は極めて珍しいといい、市教委は「鬼を土中に封じ込める祭祀(さいし)に使われた可能性もある」としている。3日は「節分」。
 市教委によると、鬼の顔は、割れた土器の底の部分に直径10センチほどの大きさで描かれていた。角はないが、「へ」の字口や上向きの牙、太い眉毛、丸い目などの特徴が表現されている。

 木枠の井戸の中に、鬼の顔が天を向く状態で土に埋もれていた。井戸を埋め戻す際、意図的に土器を割って鬼を描き、埋めたとみられる。

 市教委は「平安時代の末法思想の影響で、地下世界に住むと信じられていた鬼が地上に出るのを恐れ、封じ込める祭祀に使われたのではないか。鬼を払う国内最初期の儀式の可能性もある」としている。

 4日~3月31日、橿原市千塚資料館で展示される。

2011年5月14日土曜日

県文化財「長塚古墳」(沼津)


 県文化財「長塚古墳」(沼津)
 来年度以降 市が調査、復元


 沼津市は12日、県文化財に指定されている前方後円墳「長塚古墳」(同市東沢田)の最も主要な墳丘部1千平方㍍を取得した。地権者から寄付を受けた。一目で前方後円墳と分かる形状の美しさから同古墳の見学者は多く、市教委は活用に本腰を入れるため、来年度以降に調査、復元に着手する。
 長塚古墳は愛鷹山麓と周辺を支配した首長を埋葬した6世紀の造営とみられ、墳丘部は54㍍あり、全長は70㍍を超えると推定される。1950年代には県東部の前方後円墳.の中で早期の段階で埴輪(はにわ)の列が出土したほか、祭祀(さいし)跡も確認された。
 99年に県文化財に指定された。形状が分かりやすいため児童や生徒の見学者も多く、地元から活用の要望を受け、市教委が土地取得を進めていた。今回最も重要な主要部が提供され、未買収の土地は外周部分の約200平方㍍となった。市は全域を市有地にした上で、98年以来の発掘調査を行って古墳の規模など全体像をつかみ、史跡の整備計画を立てる。
 市内には3カ所の前方後円墳があり、松長の神明塚古墳、西沢田の子ノ神古墳の他の二つも、長塚古墳の近くに集中している。
(静新平成23年5月13日朝刊)

2011年4月28日木曜日

大和政権の中心施設か

奈良・纒向遣跡
 大和政権の中心施設か
 「女王卑弥呼の宮殿」そば




 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遣跡で27日までに、「女王卑弥呼(ひみこ)の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)のそばから別の大型建物跡の一部が見つかった。
 桜井市教育委員会によると、詳しい年代は特定できなかったが、現場からは3世紀後半から4世紀にかけての土器が多数見つかった。
 日本書紀には4世紀の大王(天皇)との説がある垂仁、景行が纒向に宮殿を置いたと記されている。市教委は「大和政権の中心施設だった可能性もあり、年代特定へ向けた調査を続ける」としている。
 見つかったのは、南北に並ぶ柱列で、東西1・2㍍、南北60㌢の柱穴3個。柱穴の間隔は4・5㍍と広く、間には床を支えるための束柱跡も2個確認された。
 柱穴の間隔や、束柱を持つ構造が2009年に約5㍍西で見つかり、卑弥呼の宮殿ともされる大型建物跡と似ており、同規模の建物だった可能性が高い。
 発掘はことし2~3月に行われ、現場は埋め戻されたため現地説明会はない。現場写真や出土土器は桜井市立埋蔵文化財センターで10月2日まで展示される。
 【重要な土地だった】
  兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)の話年代が特定されていないが、古く捉えれば4世紀だ。そうなると、垂仁、景行両天皇の宮殿という可能性もあるが、まだ判断材料に乏しい。ただ、纒向に3世紀から継続して大型建物が造られ、大和政権にとって重要な土地であったということははっきりした。今後も調査を続け、建物の性格を明らかにしてほしい。
(静新平成23年4月28日朝刊)

2011年2月25日金曜日

最古の人物埴輪


最古の人物埴輪 茅原大墓古墳
 4世紀末「盾持ち人」


 奈良県桜井市の帆立て貝形の前方後円墳・茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(4世紀末、国史跡)で、盾を持った最古の人物埴輪(はにわ)が見つかり、市教育委員会が24日、発表した。「盾持ち人」と呼ばれるタイプで、古墳を守護する役割があったとされる。口元は笑っているようにも見える。
 3世紀に誕生した初期の埴輪は円筒形で、人物埴輪は墓山古墳(5世紀前半、大阪府)などでの出土例が最古とされていた。「埴輪研究最大の謎」と言われる人物埴輪の起源が数十年さかのぼることになり、今後の研究に影響しそうだ。
 市教委によると、埴輪は壊れていて、数百点の破片で見つかった。復元できた大きさで幅50㌢、高さ67㌢。同じ古墳から見つかった別の埴輪の特徴から年代を特定した。
 円筒形の埴輪の上部を首のように細くし、前が編みがさのような形のかぶとをかぶった人物の顔を取り付けていた。口は半円状に開き、頬は赤く塗られ、顎には入れ墨のような縦線があった。鼻は取れていたが、黒ずんだ三角形の接着面が残っていた。笑顔には邪悪なものを威圧する意図があったという説もある。
 盾は埴輪の前面を平らに加工し、その両側に張り出す形で四角い板を付けて表現。きれいなひし形や三角形の模様をあしらっていた。
 古墳の前方部と後円部の境目付近の周濠(しゅうこう)跡から見つかった。3段築成の後円部の平らな場所に置いていたものが、落下したと考えられる。「盾持ち人」は胴体部分が盾のため、全身を表現した人物埴輪とは区別する場合もある。
 帆立て貝形の前方後円墳は、通常の前方後円墳の被葬者よりランクの低い首長らの墓とされ、大きな後円部に対し、前方部が短いのが特徴。
【メモ】 埴輪弥生時代後期後半に吉備を中心に分布していた特殊器台と呼ばれる土雛が起源。3撹紀後半に大和で誕生し、前方後円墳が造られなくなるころまで300年余りにわたって墳丘を飾るために作られ続けた。初期のものは円筒形で、家やニワトリ、盾や甲冑(かっちゅう〉などが作られるようになった後、馬や人物も登場する。日本書紀には、主人を亡くした従者が一緒に生き埋めにされる「殉死」の風習に垂仁天皇が心を痛め、殉死する従書の代わりとして埴輪(はにわ)が誕生したとあるが、信ぴょう性は低いとされる。
(静新平成23年2月25日朝刊)