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2019年11月12日火曜日

興国寺城跡(沼津)で調査説明会  戦国末期の石垣確認


興国寺城跡(沼津)で調査説明会
 戦国末期の石垣確認
市教委「認識覆す可能性も」
 戦国武将・北条早雲の旗揚げの城として知られる沼津市根古屋の興国寺城跡について、同市教委は10日、2019年度に実施した発掘調査の現地説明会を行った。市民ら約200人が訪れ、歴史に思いをはせた。
 発掘調査は10月初旬から、本丸跡の中央部で実施。地下約1㍍の場所で石造りの階段や水路、石垣、土塀とみられる建造物の基礎などの遺構が見つかった。市教委によると、いずれも早雲没後の戦国末期に築かれたとみられる。興国寺城は従来、石垣を使わずに土塁などで防備を固めた東日本の城郭の特徴を反映していると考えられてきたが、今回の発見はこれまでの認識を覆す可能性があるという。
 現場からはクランク状の狭い通路「虎口(こぐち)」も確認され、市教委の調査担当者は「通路を曲がった先を見上げると、正面に天守台と伝わる建物跡が存在する。こうした構造から、権力者としての威厳を誇示する効果を狙ったのでは」と説明。今回の調査区画の北側には城主の居住エリアが存在したのではないかとの見解も示し、市民らは興味深そうに聞き入った。
(東部総局・薮崎拓也)
【静新令和1年11月12日(火)朝刊】



興国寺城本丸跡に石積みの遺構
 現地説明会に市民ら200
 国指定史跡、根古屋の興国寺城跡発掘調査で、今年度分の成果を市民に公開する現地説明会が10日に開かれ、市民ら200人が訪れた。説明は同日午前10時から正午までの間に4回行われ、市文化財センター副主任学芸員の木村聡さんが解説。今回の調査では城の出入り口に当たる虎口(こぐち)が確認され、立派な石積みを伴ったものであることが分かった。
 今後の調査結果に期待
 興国寺城は、これまで北条早雲旗揚げの城として知られ、東国の戦国時代の始まりとなる1400年代終末、今川家から同城を与えられた早雲が、ここを拠り所に韮山へ足利茶々丸を攻めて伊豆国を手中に収めると、さらに相模に進攻し、関東経営の足掛かりになった、早雲にとっては出世城。
 その後の同城は、今川から北条、武田、徳川、豊臣、再び徳川と勢力が移り変わり、最終的には徳川家臣の天野康景が1万石の大名として城主となるが、康景は天領(幕府の直轄地)との間のもめごとで家臣を守るために逐電し、同城は1607年に廃城となった。
 早雲旗揚げの城であることについては最
近、異説が唱えられているが、今回の調査で確認されたのは康景の時代の遺構。城は早雲の時代から康景の時代まで100年余を経ており、その間には城の状態も変わっていて、今回の遺構は同城にとって最晩年の形。
 同城は、いくつもの土塁に囲まれた「土の城」という見方がされてきて、石積みが見られるのは、伝天守台(天守台として伝えられ場所)の石垣など2カ所だけだったが、今回の調査で、重要な部分で石積みがされていたことが分かった。
 調査が行われたのは本丸の中心部。ここについては2005年度に調査が行われているが、当時は不明な点も多く、その後、周囲での調査が進んだことから、改めて遺構検討のため、調査区を設定した。
 前回調査では、石が多く出土し、方形に並んでいたことから、本丸中心部に造られた建物の跡だと考えられていた。ところが、今回、さらに堀り下げたところ、建物ではなく、石垣に囲まれた虎口であることが明らかになった。
 本丸への虎口は、かつての調査で今回の調査個所より、さらに南側で発見されているが、新たな虎口の発見で、本丸が中央辺りで二分割されていることが判明した。
 新発見の虎口は、南から入って進むと北側の石垣に当たり、ここを東側へ右折して、当時は砂利石が敷かれた場所を通り、石積みの階段を上って東に進み、次に東側の石垣に突き当たるので、今度は、これを左折して北へ抜けるという道筋だったと考えられている。
 木村さんは、虎口の北へ出る場所が本丸の中央だったのではないかと指摘。本丸の空間の一端が分かり、見せるための、いろいろな工夫がされていることに触れながら、新虎口が城の中でも相当立派なものであるとして、「立派な入り口の奥には、本丸の中でも、とりわけ重要な施設、殿様が暮らすような建物があったのではないかという推測もできる」などとして、今後の調査への期待をうかがわせた。
【沼朝2019(令和1)1113(水曜日)

2019年10月11日金曜日

興国寺城の変遷に時代的特徴


興国寺城の変遷に時代的特徴
早雲から江戸時代初頭まで
 北条早雲公顕彰五百年記念イベントの一環となる歴史講演会「興国寺城跡と続日本100名城」が5日、プラサヴェルデで開かれた。考古学関係者らが市内根古屋の興国寺城や県内の城について話した。
 早雲公顕彰500年記念イベント
 城郭専門の加藤理文さんが解説
 興国寺城を取り上げたのは、日本城郭協会理事の加藤理文さん。加藤さんは県埋蔵文化財調査研究所や県教委文化課を経て現在は中学校教諭。「考古学から見た興国寺城跡の歴史的意義」と題し、城の構造の変遷などについて話した。
 構造の変遷についての話では、城所有者の変遷に合わせて北条早雲(伊勢盛時)時代、今川時代、武田時代、徳川時代、中村・天野時代の5つの時代区分を設定し、それぞれの特徴を解説した。
 早雲時代の興国寺城については、早雲が同城の城主になっていたと仮定した上で、その場合の同城は「方形居館」という形態であったであろうとの見方を示した。
 方形居館は、上空から見たら四角形をしている敷地に建てられた屋敷で、城のような防御機能はない。
 加藤さんは、平地に居館が位置し、周囲の高地に見張り台のような施設があるイメージを示した。
 今川時代の同城の特徴としては、大改修によって軍事的防備を意識した城が誕生したと指摘した。
 ただ、大軍の襲来を想定した造りにはなっておらず、崖や沼などの自然の地形を、そのまま敵を防ぐ施設として活用し、足りない部分を堀や土塁(どるい=土の壁)で補うものであったという。
 この頃は、現在の同城跡の北端部分のみが城域となっていた。
 武田時代になると、城の拡張が進み、現在の城跡の北端だけでなく中央部も城域となった。この時代の大きな特徴は、武田氏が得意とした三日月堀の建設だという。
 三日月堀は敵の城内突入を防ぐために城門前に造られる堀で、堀の内側に沿って設置される土塁と合わせて丸馬出(まるうまだし)と呼ばれる防御施設を構成する。丸馬出は、城門に殺到する敵兵の動きを停滞させ、城内から弓や鉄砲で狙い撃ちにさせる機能があった。
 三日月堀や丸馬出は他の戦国大名も模倣するようになったが、興国寺城の三日月堀は、武田氏によって造られたことが判明している全国唯一のものだという。
 徳川氏は、丸馬出の技術を取り入れ、さらに大型化した。戦国時代末期になると、大名が動員する軍勢の規模が巨大化したため、これを迎え撃つために城の施設も巨大化したという。
 徳川時代の興国寺城は、城の北側に巨大な丸馬出が造られた。このほか、城兵の居住施設や倉庫などの大改築が行われた。
 豊臣秀吉による天下統一後から江戸時代初期に至る期間の中村・天野時代は、さらなる大改修が行われた。本丸や二ノ丸、三ノ丸の増強が行われ、外堀や外郭土塁が造られた。
 城跡にある「伝天守台」と呼ばれる場所の工事が行われたのも、この時期だったという。
 加藤さんは、伝天守台にあったであろう建物については、高層の天守閣ではなく平屋の建物だったとの考えを示した。
 当時、国内各地に築かれた城は、天守閣を建てずに天守閣の代わりとなる平屋の建物を建設するケースがあった。伊達政宗が築いた仙台城などの例があるという。天守閣の代用となる建物は、屋根に唐破風(からはふ)を付けるなど手の込んだ造りになっており、こうした建物は格式の高いものと見なされていた。そのため、天守閣と同様に城のシンボルになり得た。
 興国寺城も、こうした建物が天守閣の代わりに建てられていた可能性があるという。
 加藤さんは同城の構造の変遷のほかに、城の復元や活用についても提言し、見学者が城跡に来たことを実感できる仕掛けとして、外部との境界となる土塁や堀、城門の復元が重要であるとの考えを示した。
【沼朝令和11011日(金)号】

2019年9月16日月曜日

特別展示 興国城と激動の東駿河 ギャラリートーク




学芸員のギャラリートークを聴講下さい。バックの画像は悪までバックでトークとは合ってません。約40分ですが、お聴き下さい、興国寺城の説明を!

2017年1月14日土曜日

平成28年度歴民講座「徳川家康の沼津支配」

平成29年1月14日(土)
歴民講座
「徳川家康の沼津支配」

ー興国寺城将松平清宗を通じてー



当日配布資料





徳川家康の沼津支配を見る
 興国寺守った松平清宗を通じて
 市歴史民俗資料館(歴民)は先月、歴民講座を市立図書館四階の視聴覚ホールで開き、歴史学省の芝裕之氏が「徳川家康の沼津支配-興国寺城将松平清宗を通じてー」と題して話した。百四十七人が聴講した。
 三枚橋城と役割分担
 河東二郡の警備を担当か
 芝氏は徳川家康の家臣団に関する研究を行っている。昨年度の歴民講座でも講師を務め、戦国時代末期に三枚橋城代を務めた松井忠次について解説している。
 今回の講演は前回と対になるもので、松井忠次と同時期に興国寺城に駐在した松平清宗の生涯を明らかにするとともに、現在の沼津市域に存在する二つの城に配置された二人の武将の役割の違いについて話した。
 沼津の城東海道経由で関東地方への入り口となる沼津の地は、政治的軍事的に重要な拠点と見なされ、戦国大名による争奪の対象となった。当時、沼津を含む駿東郡は富士郡と合わせて「河東(かとう)二郡」と呼ばれて一つの地域と見なされていた。
 戦国時代後期に河東二郡を制圧した武田氏は、興国寺城を河東の行政中心地として定め、武田信玄の側近も務めた曽根昌世(そね・まさただ)を担当者に任命した。
 天正十年(一五八二)、武田氏が滅亡すると、河東二郡は徳川氏の支配下に入った。徳川家康は三枚橋城を行政の中心地とし、国境防備のベテランであった松井忠次を関東の北条氏への備えとして同城に配置した。
 松平清宗 この時、興国寺城に派遣されたのが松平清宗(一五三八~一六〇五)だった。
 清宗は竹谷(たけのや)松平家の出身で、同家は家康の実家である松平一族の分家筋に当たる。
 清宗は家康の部下として戦い続けて手柄を立てている。息子は家康から名前の一文字をもらい、家清」と名乗ることを許されたうえ、家康の異父妹を要とした。
 武田氏滅亡直後、河東二郡は、武田時代から興国寺城にいる曽根昌世と、新たに勢力を拡大した家康によって二分された。このため、曽根の興国寺城と、家康によって送り込まれた松井忠次の三枚橋城という二つの中心拠点が河東二郡に並立することになったが、曽根は間もなく亡命してしまったため、興国寺城が空くことになってしまった。この空き城に清宗が派遣されることになった。
 清宗の仕事 当時の清宗が発行した命令書など三通の書状が現在も残されている。それらによると、清宗は現在の原地区周辺に漂着した不審船の捜査を担当したことが分かっている。
 このことから、湾宗は興国寺城に駐留する武士達を指揮して河東二郡の警備を担当していたと考えられている。
 一方で、同時期に三枚橋城にいた松井忠次は、税金徴収などの行政事務を担当していたことを示す史料が残っているため、清宗は河東二郡を治める忠次を軍事面で補佐する役割を果たしていたと見られている。
 清宗の子孫 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、家康は東海地方から関東地方に移された。この時、清宗も武蔵国八幡山(埼玉県本庄市)に移り、一万石の領地を認められた。清宗は生前に当主を引退して息子の家清が後継となり、家清は関ヶ原の合戦後に三河国吉田(愛知県豊橋市)で三万石の大名となった。
 しかし、家清は五年前に死去した父に続いて慶長十五年(一六一〇)に四十五歳で急死。息子の忠清が後を継いだが、忠清も二年後に二十八歳で急死してしまった。これにより大名としての竹谷松平家は断絶してしまったが、忠清の弟の清昌が後に幕府旗本となり、旗本としての竹谷松平家は幕末まで続いたという。
【沼朝平成29年2月5日(日)号】