「明石海人と世界記憶遺産」岡野久代
ー「沼津ふるさとづくり塾」をめぐって
『文芸春秋』創刊九十周年記念「新百人一首・近現代短歌ベスト100」(本年新年号)に選歌された明石海人(本名・野田勝太郎、明治三十四年沼津生まれ)の歌は「この空にいかなる太陽のかがやかばわが眼にひらく花々ならむ」である。歌集『白描』の第二部に所収された歌であるが、現代では時代思潮もあって第二部の評価が高いことが分かる。
しかし筆者の『沼津史談』第六十四号(本年三月刊)の小論は、海人のふるさとである沼津に焦点をあてたので、ハンセン病患者としての自伝的な第一部の歌と長歌および詞書が中心となった。第一部には疾病歌とともに故郷を詠んだ歌が満載されているからである。小論といえども論文には論証が不可欠であるので、構想を練りながら、歌集『白描』に収録された短歌の初出を調査していくうちに、沼津に因むことばを挿んだ歌は『白描』の収録から外したことが判った。社会の偏見と差別から家族や友人を守るためである。その一首は機関誌『愛生』(昭和九年八月号)に発表された父の哀悼歌、
ふるさとの千本松原小松原松が下なる父がおくつき
である。沼津では「沼津に下れば千本松千本松原小松原」という歌詞の入った寝かせ歌の子守歌が江戸時代から歌い継がれてきた。また、「沼津千本松原」という祭り歌
は「千本松原小松原」という歌調から始まる。
次に故郷を秘すために『白描』所収から除けた望郷歌の傑作を紹介してみたい。『愛生』(昭和十年三月号)に発表された歌であるが、「駿河の海」を詠んだ、
うつつには見ずて果つらむふるさとの駿河の海をまさやかに見つ
である。脳裏に刻んだふるさとの海が悲槍感とともに美しい声調で詠われている。
沼津史談会が主催する「沼津ふるさとづくり塾」の第1回講座は、明石海人が国立療養所長島愛生園に終焉した命日の六月九日にあたった。厳粛な思いで臨んだ講演はすでに『沼津史談』の拙論の末尾に提言したが、歌集『白描』はユネスコ事業である世界記憶遺産に値することを強調して締め括った。その後まもなく嬉しいことに富士山が世界文化遺産に登録された。
一方、世界記憶遺産には「アンネの日記」「ヴェートーベンの交響曲九番の草稿」「べンゼンの癩病記録文書」などがあり、昨年は日本で初めて、「筑豊炭田の炭鉱画(山本作兵衛)」が登録されている。筆者の提案に対して受講者など、多くの人たちから賛同の声が寄せられている。明石海人の『白描』が世界記憶遺産に登録されるための具体的な行動が必要な時期ではないだろうか。
さて、「沼津ふるさとづくり塾」第3回として、七月二十日(土)の午後一時から市立図害館四階講座室で、「坂の上の雲」にも登場した井口省吾大将のドイツ留学時代を中心に、沼津史談会会員の弁護士、井口賢明氏が講演を行う。
安政二年、沼津に生まれた井口省吾は沼津兵学校附属小学校に学び、兵学校頭取を務めた西周の紹介で東京の同人社に進み、陸軍士官学校を経て陸軍大学校を卒業後はドイツに留学、日清・日露戦争に参謀として従軍した。凱旋して陸軍大学校校長を務めた後、大将に昇進したエリート将校である。
井口省吾の遺した資料は膨大であるが、中でも「年中重要記事」は陸大教官時代から晩年まで三十四年間の日記で、ドイツ留学時代の実態を知る貴重な文献である。
西周の親戚で、幼少時東京神田の西邸に寄宿していた森林太郎(森鴎外)がドイツ留学中、コッホの下で研究していたのもこの頃。森は、井口ともドイツでの接触はあり、帰国後も日清戦争の際は井口が主任参謀森が兵站軍医師長であったので交流があった。そのほか、恩師クレメンス・メッケルとの師弟関係や同時期の留学生との交友関係など、軍人として誇り高く生きた「人間・井口省吾」の実像が明らかにされることであろう。ヴェーゼル市公文書館所蔵の井口省吾のサイン帳には「温故知新」と記されている。
(沼津史談会会員、日本大学短大購師)
なお、七月二十日の「沼津ふるさとづくり塾」第3回講座は、事前申し込みがない方でも、当日受講は可能です。(資料代五百円が必要)
《沼朝平成25年7月13日(土)号投稿記事》
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