2011年4月8日金曜日

列島立て直しの視点に 山折哲雄

 列島立て直しの視点に 山折哲雄
 受容的風土への考察
 ふたたび、「日本列島」が怒り狂った。震源地はたしかに「東北」であるが、惨事のつめ痕は物心両面において日本列島の全体に及びつつある。わが国の3・11は、忘れがたい日付として歴史に刻まれることになるだろう。
 私がいま思いおこしているのが寺田寅彦と和辻哲郎の仕事である。なぜかといえば、2人は日本の独自の風土を、数千年という長い単位で考えていたからである。西欧と比較して日本の自然の特質を明らかにしようとした彼らの自然観は、その後の日本人に大きな影響を与えたと思われる。
 ▼天然の無常
 ところが、自然の猛威にたいする2人の考えには大きな相違がみとめられる。寺田寅彦は、1935(昭和10)年前後に「天災と国防」と「日本人の自然観」というエッセーを書いて、つぎのようなことをいっている。第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈の度を増す。第二、日本は西欧にくらべて地震、津波、台風による脅威の規模がはるかに大きい。第三、そのような経験のなかから、科学は自然にたいする反逆を断念し、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。そしてそこにこそ日本人の科学や学問の独自性があったといっている。
 さらに寅彦は、日本人の自然への随順、風土への適応という態度のなかに、仏教の無常観と通ずるものを見いだしていた。地震や風水による災害をくぐりぬけることで「天然の無常」という感覚がつくりあげられたのだとしている。
 このような寅彦の議論をみてから和辻哲郎の「風土」を読むと、どんな光景があらわれてくるだろうか。和辻が西欧の「牧場」的風土にたいして日本の「モンスーン」的風土を対比して、論じたことは知られている。和辻がこの部分を書いたのは寅彦のエッセーの数年前なので、寅彦は和辻の「風土」を読んだうえで論を立てたのかもしれない。ところが意外なことに、和辻は日本の風土的特徴を考察した際、台風的、モンスーン的風土については論じても、地震的性格については一言半句ふれてはいない。これは驚くべきことではないか。なぜなら23(大正12)年に起きたばかりの関東大震災の惨事を記憶していたはずだからである。
 和辻によると、日本の台風的風土の特徴は、第一に熱帯的、寒帯的(大雨と大雪)という二重性格を帯び、第二に季節的、突発的(感情の持久と激変)の二重性に規定されているという。そこから、モンスーン的、台風的風土における日本人の受容的、忍従的な生活態度が生みだされた。和辻のいう「しめやかな激情」「戦闘的な悟淡(てんたん)」といった逆説的な国民的性格を日本人がもつようになったのも、台風的風土の二重性に根本的な原因があるということになる。
 ▼慈悲の道徳
 つぎに私が興味をもつのは、和辻がその感情の二重性格をもとに、仏教における」煩悩即菩提(ぼだい)」(迷いはすなわち悟り)という逆説的な思想が日本人に及ぼした影響について論じている点である。これをさらに発展させて日本の家族の問題にも関係づけている。すなわち男女、夫婦、親子の関係のなかに利己心と犠牲という対立するテーマを見いだし、それを解決する規範として「慈悲の道徳」が形成されたことを指摘しているのである。
 このように、寅彦と和辻の見解の相違は明々白々といわなければならない。日本の風土を考察するにあたって、自然科学者、寺田寅彦は地震的契機を重視することで「無常観」という宗教的な根源感情に関心を寄せた。それにたいして、倫理学者の和辻哲郎は、台風的契機に着目することで「慈悲の道徳」という協同的な市民感覚の重要性に説き及んでいるということである。
 しかしながら、2人の考え方には、きわめて重要な共通の視点が内包されていたことにも注意をむけなければならない。すなわち西欧の科学が自然にたいして攻撃的、征服的であったのにたいして、日本の科学的認識はむしろ受容的、対症療法的であったということだ。深い亀裂が入ったこの日本列島をこれからどのように立て直し、復興していったらいいのか。寅彦と和辻の分析にも目を配りつつ、考えなくてはならない喫緊の課題である。(宗教学者)
(静新平成23年4月8日「現論」)

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