市文化財に指定の植松家文書
戦国時代の相関模様浮き彫りに
市教委は二月、「獅子浜植松家戦国文書」を市指定有形文化財に指定した。
沼津一帯は、中部地方の静岡県内にありながら、関東一円の電力を供給する東京電力の管内になっていて、計画停電の影響を受けている。その沼津の地が、この地域的ねじれ現象を現代同様に経験した時代が過去にもあった。
それは戦国時代の後期。駿河国は戦国大名の今川氏や武田氏の支配を受けていたが、現在の沼津市の一部は、例外的に関東の北条氏が支配していた。
今回、市指定文化財となった古文書三十一通は、この時期の領地支配のあり方を後世に伝える貴重な史料となっている。この古文書は、大きく分けて二種類ある。一つは、今川氏側から出されたもの。もう一つは北条氏側から出されたもの。いずれも静浦の植松家に宛てられた。文書の内容は、植松家の領主権承認や税金免除の許可、戦の際の取り決めなど多岐にわたる。
植松家は駿河国駿東郡の口野五力村の領主だった。五力村とは、江浦、多比、獅子浜、尾高、田連。
三十一通の古文書は、西暦一五五〇年から一五八一年までの間に出されている。このうち、一五五〇年から六六年までの五通は今川氏側の武将、葛山氏元から出されたもの。
葛山氏元は、現在の裾野市を本拠とする国人領主で、今川氏の被官(部下)という立場にあった。一五六〇年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし今川氏の勢力が衰えると、甲斐国の武田信玄が駿河国に侵攻した(一五六八年)。この時、葛山氏元は今川氏側から武田氏側に鞍替えしている。
この時、関東の北条氏は今川氏支援を決め、駿河国の東部へ軍を派遣。狩野川、黄瀬川より東の地は北条氏によって占領された。
これにより、静浦一帯は北条氏の勢力圏内となり、植松家は北条氏の支配を受けることとなった。北条氏は、新たな領土を管理する担当者として北条氏光を任命。これ以後、葛山氏元が差出人となった文書は姿を消し、北条氏光による文書が登場するようになる。北条氏光は、北条氏の三代目当主、北条氏康の八男。相模国の小机城(横浜市港北区)の城主だったが、駿河国東部の支配を任された後は、戸倉城(清水町)の城将(城主代理)も兼任した。北条氏光による文書は一五八一年のものが最後。これは、武田氏が天目山の戦いで滅亡する前の年。武田氏が滅亡すると、駿河国は、西からやってきた徳川氏のものとなった。北条氏の五代目当主、北条氏直は、徳川家康の娘である督姫を妻に迎えて両氏は同盟関係となった。この時、北条氏は駿河国東部の支配地を徳川氏に譲り、北条氏と植松家との関係も終了した。
駿河国での任務を終えた北条氏光は、その後、足柄城(神奈川県南足柄市)の城将となり、一五九〇年、天下統一を目指す豊臣秀吉が北条氏を攻撃すると、足柄城で、その軍勢を迎え撃ったが、北条氏の降伏直後に死去している。
市教委の鈴木裕篤参事(取材当時)は、一連の文書の中でも特に興味深いものとして、一五七九年に北条氏光が出した文書を挙げる。
これは内浦の長浜城に着任した北条氏の水軍大将、梶原景宗に協力するよう植松家と静浦の住民に命じたもの。
当時、上杉謙信の死去により、越後国では跡継ぎを巡って「御館の乱」と呼ばれる内紛が起きていた。武田氏と北条氏は、この内紛に介入し、それぞれ異なる派閥を応援。このため、両氏の間は緊迫し、越後国から遠く離れた駿河国でも戦いが始まろうとしていた。
この頃、武田氏は現在の沼津市街に三枚橋城を築いていた。この城は、狩野川を経由して軍船が入れるようになっており、海軍基地のような役割を果たしていた。これに対抗するために北条氏が築いたのが長浜城で、この城も軍船の拠点となる城。梶原景宗は増援として北条の水軍を率いて長浜城に入り、両軍は駿河湾を挟んでにらみ合っていた。一五七九年の文書は、この緊張関係を示す史料となっている。
また、一連の文書の中には武田氏と北条氏が一時的に和解した時期に出された船手形が含まれている。これは、武田側の船の通行許可証で、この文書に押された印料と、武田船が持ってきた文書の印判を照合して船の身元を確認し、通行を認める仕組みになっている。
このほか、一五六三年に葛山氏元が出した文書には、イルカ漁をする際にイルカを取り逃がさないよう、漁民が協力して内浦に追い込んで漁をするよう命じる記述がある。これは、周辺一帯で行われたイルカ漁に関する最古の文書だという。
植松家戦国文書について鈴木参事は「駿河と伊豆の境の歴史を知るための重要な史料。こうした史料がまとまった形で個人宅に残っていたのは、本当に貴重。また、北条氏光のことを知るうえでも重要な史料となる」と話し、「植松家には文化財指定された文書以外にも、植松家の特権を幕府の代官が認めた江戸時代の手形も伝わっている。この特権は、戦国時代に与えられたものが江戸時代になっても続いていたと見られるが、周辺の他の家にはこうした特権が認められ続けた形跡はない。植松家と徳川家康との間に、何か特別な出来事やエピソードがあり、そのお陰で特権が認められ続けたのでは」と歴史への想像力をかき立てるような話も語った。
(沼朝平成23年4月3日号)
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